第1話
アーネストがんがれ。
リュークハルト邸の客間は、重苦しい空気に包まれていた。
アーネストは勧められた椅子に腰を下ろしていたが、その表情は動かない。
向かいには、リュークハルト男爵と、その息子が座っている。
男爵は何度か口を開きかけては閉じ、落ち着かなげに指を組み替えていた。息子の方は父よりも表情を抑えていたが、その目にははっきりと警戒があった。
「グラーフ伯爵。娘がご迷惑をおかけし――」
「迷惑ではない」
男爵の言葉を、アーネストは遮った。
男爵は口元を引きつらせながら、取り繕うように頭を下げる。
「それは……ご厚情、痛み入ります。しかし、娘が勝手に家を出たのであれば、まずは当家で事情を聞くべきかと」
「事情なら、昨夜聞いている」
アーネストは淡々と言った。
「本人の知らぬ縁談相手を同席させた。そうだな」
男爵の顔がこわばった。
代わりに、兄が口を開く。
「妹は感情的になっておりました。初めての縁談話に戸惑っていただけです」
「戸惑っただけだと?」
アーネストの声が低くなった。
「エリナ嬢は、供もなく領境を越えた。その意味を、あなた方は分かっていない」
「その件につきましては、妹を保護していただいたことに深く感謝しております」
「感謝の話をしているのではない」
アーネストは言った。
「本人に知らせぬまま相手を同席させた。それを、通常の手順だとお考えか」
「グラーフ伯爵……お言葉ですが、当家のような立場では、婚姻は本人の気持ちだけで決められるものではありません」
兄の声は落ち着いていた。
「妹の意思を無視するつもりはございません。ただ、家として相手を見定め、話を進めることはございます」
「本人の意思を置き去りにしてもか」
「ノルトハイム子爵家は、妹を評価してくださっています。家としても、妹にとっても、悪い話ではないはずです」
男爵が、そこへ乗るように頷いた。
「そうです。子爵はエリナを悪く扱うおつもりではありません。家への支援も含め、決して悪いお話ではないのです」
男爵はそう言って、縋るようにアーネストを見た。
アーネストはしばらく黙っていた。
「……エリナ嬢を家の都合で動かすなら、あなた方はそれ以上のものを負っているのか」
兄も男爵も、すぐには答えなかった。
「……私も、嫡男として家の将来を考えております」
「考えた結果、負わせたのは妹か」
兄の口元が強張る。
男爵が、慌てて言葉を継いだ。
「私は親として、家長として、家を守る責任を――」
「その責任を果たすために、何をした」
「何を、とは……」
「負債に対して、あなたは何をした」
アーネストは、肘掛けに置いていた指先を握った。
「エリナ嬢に、随分と我慢を強いていると思ったことはないのか」
「……私は……家のためにできる限りのことをしてまいりました。領地のことも、借金のことも、簡単に片づくものではございません……エリナには苦労をかけたかもしれませんが、それも家族だからこそで――」
男爵の言葉は、言い訳の形を取りながら、少しずつ別のものへ変わっていった。
聞いているうちに、アーネストは深く息を吐いた。こめかみに手を当て、しばらく目を伏せる。
非を認める気はない。
論点をずらし、自分たちも苦しかったのだと言い、最後にはエリナの受け取り方の問題にする。
目の前でこれなら、エリナに対してはもっと容易く繰り返してきたのだろう。
……エリナは、こうやって押さえつけられてきたのか。
アーネストは手を下ろした。
「昨夜、私はエリナ嬢へ求婚した」
男爵の表情が固まった。
兄も、わずかに目を見開く。
「エリナ嬢は、その申し出を受け入れる意思を示してくれた」
「エリナが……?」
男爵は呆然と呟いた。
それから、慌てたように頭を下げる。
「いえ、その……恐れ多いことでございます。ですが、あの子にはあまりにも不相応なお話で……どうか、昨日のことは――」
「不相応だと」
男爵の肩が小さく跳ねる。
アーネストは、ゆっくりと男爵を見た。
「私が妻に望んだ女性を、あなたはそう評価するのか」
兄の目が細くなる。
「家を通さずに、妹へ直接求婚なさったということですか。グラーフ伯爵ともあろう方が」
「だから今、家同士の話をしている」
アーネストは兄を見た。
「グラーフ伯爵家として、エリナ・フォン・リュークハルト嬢との婚姻を正式に申し入れる」
男爵は口を開いたまま、すぐには返事ができなかった。
兄は、アーネストから視線を逸らさなかった。
◆
靴職人に足を測られている間、私はただ、ぽかんとしていた。
「どこが痛みますか?」
「え、ええと……つま先と、踵のあたりが……」
「承知いたしました」
靴職人は、包帯に触れないよう慎重に、足の幅や甲の高さを測っていく。
その横では、仕立て屋が持ってきた服や布を、グラーフ伯爵夫人と侍女たちが次々と広げていた。
「こちらはどうかしら」
「少し色が強いかもしれません。エリナ様には、もう少し柔らかいお色が合うかと」
「では、こちらの淡い青は?」
「あら、いいわね。昨日の若葉色も似合っていたけれど、青も悪くないわ」
「リボンを若葉色にいたしましょうか」
「それも素敵ね」
私の前で、どんどん話が進んでいく。
「こ、これは……」
「明日以降に着るものよ。今あるものを少し直せば、すぐに着られるわ」
その間にも、侍女の一人が小ぶりな帽子を持ってきた。
「奥様、こちらはいかがでしょう」
それは、浅めのつばに細いリボンが巻かれた、上品な帽子だった。片側には小さな布花が添えられている。
以前読んだ小説の挿絵に、こんな帽子をかぶった令嬢がいた気がする。
「あら、素敵ね。顔まわりが明るく見えるわ」
「飾りのリボンを変えれば、先ほどのお衣装にも合いそうです」
「そうね。エリナさん、少し合わせてみましょうか」
「ぼ、帽子まで……?」
「外に出るなら、帽子も手袋も必要よ」
帽子も、手袋も、私が自分のために選んだことはほとんどない。
必要な時は、家にあるものを借りるか、姉が使わなくなったものを直してもらうくらいだった。
伯爵家では、こうして最初から揃えるものなのだろうか。
そう思うと、少しだけ肩がすくんだ。
仕立て屋はさらに、夜着を数枚、侍女へ渡した。
「こちらなど、いかがでしょう。まだ仕上げ前のものもございますが、寸法の近いものを選んでいただければ、細かな直しだけでお使いいただけます」
「まあ、助かるわ」
グラーフ伯爵夫人が、そのうちの一枚を広げる。
首元と袖口に、白い糸で小さな花の刺繍が入っている、淡い薄桃色の夜着だった。
「……わあ……」
思わず、ため息のような声が漏れた。
夫人がこちらを見て、目を細める。
「気に入った?」
「い、いえ、その……とても、可愛らしいと思って……」
以前、王都で店先を眺めた時に、可愛いと思った夜着に少し似ていた。
触れてみると、布は柔らかく、指先を滑らせるとさらりとしている。
姉のお下がりも、上質なものではあったが、何度も洗われ、何度も直された布は、どこか馴染んでいた。
「では、それにしましょう」
侍女たちも微笑みながら頷いた。
「肌着も、寸法を見て揃えましょう」
仕立て屋がそう言った。
私は瞬きをした。
「肌着に……寸法を測るのですか?」
グラーフ伯爵夫人が、ゆっくりとこちらを見る。
侍女たちも顔を見合わせた。
「え……?」
その沈黙で、私は少し不安になる。
夫人が、扇を持つ手を止めた。
「今まで夜着は、どうしていたの?」
「ええと……姉のものを、丈だけ合わせてもらって……」
言いながら、慌てて付け足す。
「も、もちろん、そのままではなく、私に合うように直していただいたものです……」
声が、だんだん小さくなった。
グラーフ伯爵夫人は、少しの間だけ黙っていた。それ以上は何も尋ねず、ただ、ふっと表情を和らげる。
「では、肌着は柔らかいリネンを中心に、寸法の近いものを直して。改めて仕立てるものは、無理のない範囲で採寸しましょう」
「かしこまりました」
仕立て屋と侍女たちが、すぐに動き出す。
私はまだぼんやりしたまま、その様子を見ていた。
そうよね。伯爵家では、きっとお下がりを直して使うようなことはしないのだ。
恥ずかしくなって、私は膝の上で手を握った。
それでも、用意された薄桃色の夜着を見ると、胸の奥がほんの少しだけ弾んだ。




