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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
十七章

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第6話

見回りの方が手配してくださった馬車に揺られ、私はグラーフ家の屋敷へたどり着いた。


玄関の前で馬車が止まる。


降りようとした瞬間、足に鋭い痛みが走り、思わず息をのんだ。


見回りの方が慌てて手を差し出してくれる。


「ご無理なさらず」


その手を借りて、どうにか馬車を降りた。


玄関の扉が開くと、出迎えた使用人たちが一瞬だけ息をのんだのが分かった。


私の外套の裾には土がつき、靴も道を歩いたせいで汚れている。髪だって、朝に整えてもらった時のままではないはずだ。


「あ、あの……すみません。このような格好で……」


磨かれた床を見て、足が動かなくなる。


私がためらっていると、近くにいた侍女が慌てて駆け寄ってきた。


「エリナ様、どうぞこちらへ」


「でも、靴が……」


「そのようなことはお気になさらないでください」


侍女はきっぱりと言い、私の腕をそっと支えた。その手が温かくて、胸の奥が詰まる。


「お足元が痛むのではありませんか」


「少しだけです……」


「伯爵様にはお知らせしております。こちらへおかけくださいませ」


私はちらりと周囲を見た。


大事にしてしまった。


どうしよう。やはり、来るべきではなかったのかもしれない。


こんなことを周りに知られたら、グラーフ家にも迷惑がかかってしまう。


廊下の奥から、足早に近づいてくる靴音が聞こえた。


私は顔を上げる。


次の瞬間、玄関広間にアーネストが姿を現した。


「エリナ嬢」


「グラーフ伯爵……お騒がせしてすみません……」


「謝る必要はない」


いつもより低い声だった。


怒っているようにも聞こえたけれど、その目は私ではなく、私の足元へ向けられている。


「なぜ馬車を使わなかった」


「……慌てて、出たものですから……」


「慌てて出るようなことがあったのか」


私は何も言えなかった。


アーネストは一度だけ息を吐き、見回りの方へ視線を向けた。


「よく連れてきてくれた」


「当然のことをしたまででございます」


「後で詳しく聞く。今は下がっていい」


「はっ」


見回りの方が深く頭を下げる。


その間も、侍女が私の腕を支えてくれていたけれど、足の痛みは少しずつ強くなっていた。


「痛むのか」


「あ、いえ……少しだけです」


アーネストが近づき、私の前で足を止めた。


「奥へ運ぶ」


「え……」


次の瞬間、アーネストの腕が私の膝の裏へ回った。


体がふわりと浮く。


「グラーフ伯爵……!」


「黙っていろ」


アーネストは私を抱えたまま、侍女へ視線を向けた。


「部屋は」


「すでにご用意しております」


侍女がそう答えた時、廊下の奥から、今度は落ち着いた足音が近づいてきた。


グラーフ伯爵夫人だった。


夫人は私の姿を見ると、一瞬だけ目を見開き、すぐに表情を穏やかなものに戻した。


「グラーフ伯爵夫人、申し訳……」


「謝罪は後でよろしいわ」


夫人はそう言うと、使用人たちへ視線を向けた。


「温かいお茶を。それから湯と清潔な布を。足元を見られるよう、侍女を二人呼んでちょうだい。医師にも使いを出して」


使用人たちが一斉に動き出す。


私はアーネストの腕の中で、外套の端を握りしめた。


その時、ふと、どこかで知っている香りがした。


ああ、そうだ。

この香りを、私は知っている。


そう思った瞬間、体から力が抜けて、私はアーネストの胸元にもたれてしまう。


「エリナ嬢……」


「すみま、せん……」


「謝るな。……今は、何も話さなくていい」


私は返事をしようとしたのに、うまく声が出なかった。


ただ、小さく頷くことしかできなかった。



案内された部屋は、以前にも通されたことのある小さな客間だった。


長椅子へ下ろされると、侍女たちが手早く膝掛けをかけ、靴の留め具を外してくれた。


「失礼いたします」


そう言って、侍女がそっと靴を脱がせる。


その瞬間、踵に触れた布の感触に、思わず肩が震えた。


「痛みますね」


侍女は、ぬるま湯を含ませた布で足元の汚れを拭ってくれた。清潔な布が踵に当てられ、上からそっと包まれる。


別の侍女が、温かい茶を運んできた。


「どうぞ。少しお飲みください」


差し出された茶杯を、両手で受け取る。


指先に、じんわりと温かさが広がった。


淡い花の香りがした。


その香りを吸い込んだ途端、視界がにじむ。


「あ……」


ぽろりと涙が落ちた。


茶杯の縁に、小さな雫が触れる。


慌てて顔を伏せたけれど、次の涙は止められなかった。


「すみません……」


「いいえ」


侍女は、布を差し出してくれた。


私は茶杯を小卓へ戻し、布を受け取る。


まただ。


どうして。

どうして、みんなこんなに優しくしてくださるのだろう。


その優しさが、痛みよりもずっと胸に沁みた。


扉の外で、声がした。


「入ってもいいか」


アーネストの声だった。


侍女たちが顔を見合わせる。


私は慌てて涙を拭おうとしたけれど、うまくいかなかった。


「……はい」


かすれた声で答える。


扉が開き、アーネストが入ってきた。


侍女は手を止め、頭を下げた。


「手当ては済んでおります。医師がお見えになりましたら、改めて診ていただけるよう支度をしております」


「分かった」


侍女たちは再び頭を下げ、部屋を出ていった。


アーネストはゆっくりと近づき、私の前で足を止めた。その視線が、布で包まれた足元から、私の顔へ移る。


私は慌てて顔を伏せた。


「顔を上げろ」


「……でも」


ひどい顔をしているはずだ。


泣いた跡も、乱れた髪も、赤くなった目元も、きっと隠せていない。


「構わない」


そう言われても、すぐには上げられなかった。


すると、アーネストが私の前に膝をついた。


目が合い、息が止まる。


アーネストの手が伸び、指先がそっと私の頬に触れた。


「痛くて泣いたのか」


「あ……い、いえ……そうじゃなく……」


「では、なぜ泣いた」


聞かれても、うまく言葉にできなかった。


「優しく、されたので……」


そう言うと、アーネストの指が止まった。


「……そうか」


彼の手が私の頬から離れ、指先がゆっくりと握られる。


「今……頭の中が、ごちゃごちゃしていて……うまく、言えなくて……」


「エリナ」


息が止まった。


名前。


思わず目を見開いた、その時。


アーネストの腕が、そっと私の背に回った。


その腕の中に入った瞬間、張りつめていたものが崩れた。


私は震える手で、縋るようにアーネストの上着を掴んだ。

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