第6話
見回りの方が手配してくださった馬車に揺られ、私はグラーフ家の屋敷へたどり着いた。
玄関の前で馬車が止まる。
降りようとした瞬間、足に鋭い痛みが走り、思わず息をのんだ。
見回りの方が慌てて手を差し出してくれる。
「ご無理なさらず」
その手を借りて、どうにか馬車を降りた。
玄関の扉が開くと、出迎えた使用人たちが一瞬だけ息をのんだのが分かった。
私の外套の裾には土がつき、靴も道を歩いたせいで汚れている。髪だって、朝に整えてもらった時のままではないはずだ。
「あ、あの……すみません。このような格好で……」
磨かれた床を見て、足が動かなくなる。
私がためらっていると、近くにいた侍女が慌てて駆け寄ってきた。
「エリナ様、どうぞこちらへ」
「でも、靴が……」
「そのようなことはお気になさらないでください」
侍女はきっぱりと言い、私の腕をそっと支えた。その手が温かくて、胸の奥が詰まる。
「お足元が痛むのではありませんか」
「少しだけです……」
「伯爵様にはお知らせしております。こちらへおかけくださいませ」
私はちらりと周囲を見た。
大事にしてしまった。
どうしよう。やはり、来るべきではなかったのかもしれない。
こんなことを周りに知られたら、グラーフ家にも迷惑がかかってしまう。
廊下の奥から、足早に近づいてくる靴音が聞こえた。
私は顔を上げる。
次の瞬間、玄関広間にアーネストが姿を現した。
「エリナ嬢」
「グラーフ伯爵……お騒がせしてすみません……」
「謝る必要はない」
いつもより低い声だった。
怒っているようにも聞こえたけれど、その目は私ではなく、私の足元へ向けられている。
「なぜ馬車を使わなかった」
「……慌てて、出たものですから……」
「慌てて出るようなことがあったのか」
私は何も言えなかった。
アーネストは一度だけ息を吐き、見回りの方へ視線を向けた。
「よく連れてきてくれた」
「当然のことをしたまででございます」
「後で詳しく聞く。今は下がっていい」
「はっ」
見回りの方が深く頭を下げる。
その間も、侍女が私の腕を支えてくれていたけれど、足の痛みは少しずつ強くなっていた。
「痛むのか」
「あ、いえ……少しだけです」
アーネストが近づき、私の前で足を止めた。
「奥へ運ぶ」
「え……」
次の瞬間、アーネストの腕が私の膝の裏へ回った。
体がふわりと浮く。
「グラーフ伯爵……!」
「黙っていろ」
アーネストは私を抱えたまま、侍女へ視線を向けた。
「部屋は」
「すでにご用意しております」
侍女がそう答えた時、廊下の奥から、今度は落ち着いた足音が近づいてきた。
グラーフ伯爵夫人だった。
夫人は私の姿を見ると、一瞬だけ目を見開き、すぐに表情を穏やかなものに戻した。
「グラーフ伯爵夫人、申し訳……」
「謝罪は後でよろしいわ」
夫人はそう言うと、使用人たちへ視線を向けた。
「温かいお茶を。それから湯と清潔な布を。足元を見られるよう、侍女を二人呼んでちょうだい。医師にも使いを出して」
使用人たちが一斉に動き出す。
私はアーネストの腕の中で、外套の端を握りしめた。
その時、ふと、どこかで知っている香りがした。
ああ、そうだ。
この香りを、私は知っている。
そう思った瞬間、体から力が抜けて、私はアーネストの胸元にもたれてしまう。
「エリナ嬢……」
「すみま、せん……」
「謝るな。……今は、何も話さなくていい」
私は返事をしようとしたのに、うまく声が出なかった。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
◆
案内された部屋は、以前にも通されたことのある小さな客間だった。
長椅子へ下ろされると、侍女たちが手早く膝掛けをかけ、靴の留め具を外してくれた。
「失礼いたします」
そう言って、侍女がそっと靴を脱がせる。
その瞬間、踵に触れた布の感触に、思わず肩が震えた。
「痛みますね」
侍女は、ぬるま湯を含ませた布で足元の汚れを拭ってくれた。清潔な布が踵に当てられ、上からそっと包まれる。
別の侍女が、温かい茶を運んできた。
「どうぞ。少しお飲みください」
差し出された茶杯を、両手で受け取る。
指先に、じんわりと温かさが広がった。
淡い花の香りがした。
その香りを吸い込んだ途端、視界がにじむ。
「あ……」
ぽろりと涙が落ちた。
茶杯の縁に、小さな雫が触れる。
慌てて顔を伏せたけれど、次の涙は止められなかった。
「すみません……」
「いいえ」
侍女は、布を差し出してくれた。
私は茶杯を小卓へ戻し、布を受け取る。
まただ。
どうして。
どうして、みんなこんなに優しくしてくださるのだろう。
その優しさが、痛みよりもずっと胸に沁みた。
扉の外で、声がした。
「入ってもいいか」
アーネストの声だった。
侍女たちが顔を見合わせる。
私は慌てて涙を拭おうとしたけれど、うまくいかなかった。
「……はい」
かすれた声で答える。
扉が開き、アーネストが入ってきた。
侍女は手を止め、頭を下げた。
「手当ては済んでおります。医師がお見えになりましたら、改めて診ていただけるよう支度をしております」
「分かった」
侍女たちは再び頭を下げ、部屋を出ていった。
アーネストはゆっくりと近づき、私の前で足を止めた。その視線が、布で包まれた足元から、私の顔へ移る。
私は慌てて顔を伏せた。
「顔を上げろ」
「……でも」
ひどい顔をしているはずだ。
泣いた跡も、乱れた髪も、赤くなった目元も、きっと隠せていない。
「構わない」
そう言われても、すぐには上げられなかった。
すると、アーネストが私の前に膝をついた。
目が合い、息が止まる。
アーネストの手が伸び、指先がそっと私の頬に触れた。
「痛くて泣いたのか」
「あ……い、いえ……そうじゃなく……」
「では、なぜ泣いた」
聞かれても、うまく言葉にできなかった。
「優しく、されたので……」
そう言うと、アーネストの指が止まった。
「……そうか」
彼の手が私の頬から離れ、指先がゆっくりと握られる。
「今……頭の中が、ごちゃごちゃしていて……うまく、言えなくて……」
「エリナ」
息が止まった。
名前。
思わず目を見開いた、その時。
アーネストの腕が、そっと私の背に回った。
その腕の中に入った瞬間、張りつめていたものが崩れた。
私は震える手で、縋るようにアーネストの上着を掴んだ。




