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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
十七章

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第5話

あの後、私は思わず家を飛び出してしまった。


あのまま客間にいたくなかった。


「はあ……」


息を吐くと、胸の奥が痛んだ。


屋敷を出た時には、まだ空に明るさが残っていたが、日は傾き始めていて、道の端に伸びた影が長い。


茶会用の若葉色のワンピースの上から、薄い外套だけを羽織っている。


こんな格好で歩く道ではない。分かっているのに、足は止まらなかった。


馬車なら、グラーフ家の屋敷まではそれほどかからない。


歩けば、どれほどかかるだろう。一刻以上は、かかるかもしれない。


それでも、他に行く場所が思いつかなかった。


急に押しかけたら、迷惑だろう。こんな、家出同然の形で向かうなんて。


彼とも、今日会う約束をしていたわけではない。


――一人で抱えるな。


あの声がよみがえった。


「……うん」


小さく頷いた。


「頑張って歩けば、暮れるまでには……」


そう言いかけて、足元が小さく石に引っかかった。


慌てて踏みとどまる。踵が少し擦れて、足の裏にもじんじんと痛みが広がっていた。


「……まだ、歩ける」


私は外套の前を握りしめ、ただ歩き続けた。


頭の中には、いくつもの場面が浮かんでは消えた。


茶会でのこと。ヴィオラ様の言葉。ノルトハイム子爵の視線。父の声。兄の顔。姉の伏せた目。


それなのに、前を向いて歩いているうちに、それらは少しずつ形を失っていった。


考えようとしても、うまく考えられない。


その時、昔のことを思い出した。


帰るのが遅くなった日に、母に手を引かれて、夕焼けの中を歩いたことがある。


繋いだ母の手は、温かかった。


そう思った瞬間、涙がこぼれた。


――お母様。


私は、できる限りのことはしてきました。領地のことも、借金のことも、家のことも。


でも、ごめんなさい。

私には無理です。


気づけば、リュークハルト領の端まで来ていた。


不思議なほど胸に込み上げるものはなかった。


名残惜しさも、迷いも、怒りさえも。

ただ、通り過ぎるだけだった。


今あるのは、彼に会いたいという思いだけだった。



銀葉亭の店主がグラーフ伯爵家の本邸を訪れたのは、夕刻に差しかかる頃だった。


アーネストは応接室で、母と向かい合って座っていた。


母は、店主の話を聞き終えると、満足そうに目を細める。


「まあ。よかったわ。初めての席としては十分だったのでしょう」


「はい。エリナ様は、終始よくお務めでございました」


その言葉に、アーネストの表情がわずかに緩む。


母はそれに気づいたようだったが、すぐには触れなかった。


「ヴィオラ嬢は、何か話されていたのかしら?」


店主は少し言葉を選んだ。


「茶席では、ヴィオラ様から厳しいお言葉もございました。ですが、エリナ様は落ち着いてお返しになり、その後の席も乱れずに進みました」


アーネストが顔を上げる。


「茶席では、ということは、他にも何かあったのか」


「茶会の後、ヴィオラ様が戻ってこられまして……その際、エリナ様と廊下で少しお話をされておりました」


「内容は」


「離れておりましたので、詳しくは聞き取れませんでした。ただ……穏やかな世間話、というご様子ではございませんでした」


母が、わずかに眉を上げる。


「それで、どうなったの?」


「内容までは分かりかねます。ですが、エリナ様は最後まで礼を失わず、ヴィオラ様がそれ以上踏み込めないよう、きちんとお返しになっていたように見えました」


「……ヴィオラ嬢を黙らせたのか」


「はい。ただ、お帰り際に、ひと言だけ残していかれました」


「何と」


「次のお席では、さらにエリナ様らしさが見られるとよろしいですわね、と」


母は、少しだけ目を丸くした。


「あら」


アーネストは、ふっと息を漏らした。


母は口元に笑みを浮かべた。


「ヴィオラ嬢に、そこまで言わせたのね。……あなた、嬉しそうね」


「普通だ」


「そうかしら。顔が少し緩んでいるわ」


アーネストは答えず、茶器へ視線を落とした。


母は楽しげに目を細めたが、それ以上からかうことはしなかった。


「報告は分かりました。ご苦労さま」


店主は深く一礼し、応接室を出ていった。


扉が閉まる。その音を聞いてから、母は閉じた扇を膝の上に置いた。


「少し、意地悪だったかしらね」


「ヴィオラ嬢を呼んだことか」


「ええ。でも、よい経験だったでしょう。あの場なら、痛みは小さく済むもの」


「痛みがある前提か」


「伯爵家に入れば、傷つけようとする方は必ず出てくるわ」


その言葉に、アーネストは黙った。


「あなた、そのために今の今まで待っていたのでしょう? エリナ嬢が値踏みされても、簡単には折れないだけの足場ができるまで」


「……」


「今日、エリナさんは逃げなかった。リディア嬢の妹ではなく、エリナ・リュークハルトとして見られるだけの土台はできたわ」


アーネストは、黙ったまま指先を組む。


「……十分だと?」


「ええ。少なくとも、あなたが何もしない理由にはできないくらい、十分すぎるわ」


母は茶器を手に取り、ゆっくりと口元へ運んだ。


「エリナ嬢は、今日の席を無事に終わらせた。なら次は、あなたの番ね」


「……そのつもりだ」


「そう……もしかして、エリナ嬢の方から想いを告げてもらえるのを待っていたのでは――」


「違う」


母が笑った時だった。


扉の外で、いつもより慌ただしい足音がした。


本邸の使用人が、廊下で音を立てて歩くことは滅多にない。


すぐに扉が叩かれる。


「失礼いたします」


入ってきたのは、執事だった。


いつもなら乱れのない足取りで入ってくる男が、今日はわずかに息を乱している。


「何事なの?」


「リュークハルト男爵家のエリナ様が、徒歩で領内に入られたところを、領民が見つけたとのことでございます」


母が、持っていた茶器を置いた。


「徒歩で?」


「はい。供の方もなく、お一人で」


アーネストは立ち上がった。


「どこで見つけた」


「領境を越えて少し進まれたあたりでございます。近くにいた領民が気づき、見回りの者を呼び、こちらまでお連れしたとのことです」


母の顔色が変わった。


「お怪我は」


「目立ったお怪我はございません。ただ……お顔の色が、あまりよろしくありません」


アーネストは、もう扉へ向かっていた。


「どこにいる」


「玄関広間に」


母も立ち上がった。


アーネストは扉を開け、足早に廊下へ出た。

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