第4話
私は、息を整える暇もないまま扉をくぐった。
客間には、父と兄がいた。
父は、来客用の濃紺の上着を着ている。食後のくつろいだ姿ではなく、客を迎えるための装いだった。
兄もまた、普段より硬い表情で、父の隣に腰を下ろしている。
そして、向かいの長椅子に、見知らぬ男性が腰かけていた。
年は、父よりは若いのだろうけれど、若い貴族たちのような華やかさはなかった。
広い額に、きっちりと撫でつけられた薄茶色の髪。目元には深い皺がある。
落ち着いた濃茶の上着に、上等そうな革靴。袖口や襟元の仕立てはよく、指には重そうな金の指輪が一つ光っていた。
身につけているものは確かに高価なのに、長く家に置かれた重い家具のような圧があった。
その隣には、年配の従者らしき男が控えていた。
「戻ったか、エリナ」
父は、いつもと変わらない声で言った。
「本日はご苦労だった。茶席は無事に終わったのか」
「……はい。滞りなく終えました」
「そうか。こちらは、ノルトハイム子爵だ」
子爵と聞いて、私は反射的に頭を下げた。
「次女のエリナでございます」
「お噂は伺っておりますよ」
ノルトハイム子爵は、にこりと微笑んだ。
「領地の乾燥果物を使った事業を進めておられるとか。今日も、ご自分の名で茶会を開かれたそうですね」
私は目を瞬かせた。
どうして、この方が。
私が父を見ると、父は何も不自然なことはないという顔をしていた。
「座りなさい。エリナ、お前にも関わる話だ」
私に関わる。
その言葉に、嫌な予感がした。
私は促されるまま、兄から少し離れた席へ腰を下ろした。
まさか、私の知らないところで、乾燥果物の取引を取りつけたのだろうか。それを理由に、収益を家へ入れろと言うつもりなのだろうか。
ノルトハイム子爵は、私を眺めるように見てから、ゆっくりと言葉を続けた。
「若いご令嬢が、華やかな遊びではなく、領地の産物に目を向けておられる。感心いたしました」
「……恐れ入ります」
「派手な暮らしを望まれる方では、少々こちらも困りますが、あなたのように堅実な方であれば、家を任せるにも安心できそうだ」
「……家?」
父が、そこで頷いた。
「子爵は、お前の落ち着いたところを評価してくださっている」
「我が家には、先妻の遺した子が二人おるのですが、まだ幼くてね。母親というより、家の中を落ち着かせてくれる方が必要なのです」
……何の話をしているのだろう。どうして今、この方の家の話を聞かされているのだろう。
兄が、口を開いた。
「ノルトハイム子爵家は、領地経営も堅実で、販路も持っている。乾燥果物の事業にとっても、悪い話ではない。嫁いだ後も関われる」
「……嫁いだ後?」
「そうだ。むしろ、子爵家の力を借りれば、今より広げられるだろう」
父が続けた。
「子爵は、持参金についても求めておられない」
私は、ぎょっとして父を見た。
ノルトハイム子爵は、私の戸惑う様子を眺めながら、目を細めている。
「もちろん、急にお話を進めては驚かれるでしょう。ですが、今日お目にかかって安心いたしました」
子爵の視線は、私の顔ではなく、服装や髪、手元を順に確かめるように動いていた。
「エリナ嬢であれば、先妻の遺した子らにも、よい影響がありましょう」
私は、膝の上で手を握った。
「それに……まだお若い。ノルトハイム家としても、将来のことを考えられるのはありがたい」
その言葉の意味を、深く考えたくなかった。
息が、喉の奥で止まる。
父は、何も言わない。
兄も、黙っている。
ノルトハイム子爵は満足そうに頷いた。
「リュークハルト男爵。私は、このお話を前向きに進めてよいと考えております」
「ありがたいお言葉です」
父が、頭を下げる。
「細かな条件については、また日を改めて詰めましょう」
私は会話を聞きながら、指先から血の気が引いていくのを感じていた。
私の話なのに。なぜ、私以外の人たちだけで進んでいくのだろう。
ノルトハイム子爵は、最後にようやく私へ目を向けた。
「エリナ嬢。すぐに慣れろとは申しません。ですが、家というものは、派手な夢よりも日々の務めで保たれるものです」
低く、よく通る声だった。
話し慣れているのだろう。そんなことを、ぼんやりと思った。
「あなたなら、それがお分かりになるでしょう」
私は、返事ができなかった。
◆
ノルトハイム子爵は、父と兄に改めて礼を述べ、従者を伴って客間を出ていった。
子爵家の者を玄関まで見送るため、父と兄もそれに続く。
扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
客間に一人残されて、私は膝の上で握っていた手を、ゆっくりとほどいた。
先ほどまで聞いていた言葉が、頭の中でばらばらに散らばっている。
ノルトハイム子爵、持参金はいらない、嫁いだ後、先妻の子、将来のこと、乾燥果物の事業。
どれも私に関わる言葉のはずなのに、まるで他人の話のようにばらばらで、うまく繋がらなかった。
いや。繋げたくないのかもしれない。
しばらくして扉が開き、父と兄が客間へ戻ってきた。
私は顔を上げた。
「……どういうことですか」
父が、こちらを見る。
「何がだ」
「今の話です。私の縁談を……何故、決めているのですか」
「決めたわけではない」
「ですが、子爵は前向きに進めるとおっしゃっていました。お父様も、お兄様も、条件を詰めると……」
「だから、話を進める価値があると言っている」
父は、椅子へ戻りながら言った。
「家にとって、有益な話だ」
「……勝手に決めないでください」
自分の声が、少し震えた。
「この話はお父様にとって都合がいいだけでしょう?」
父は、眉を上げた。
「都合がいい? 家にとって悪くない話なら、お前にとっても悪い話ではないだろう」
兄が、父の横で小さく息を吐く。
「エリナ。感情で話すな」
「お兄様……縁談ですよ? 知らないままに進められて……感情的になるなんて、当たり前ではありませんか」
「ノルトハイム子爵は、お前が嫁いだ後も乾燥果物の事業に関わっていいと言ってくださっているんだぞ。何の問題がある」
「子爵に頼らなくても、販路は自分で広げます……そもそも、縁談は自分で見つけると言ったではありませんか」
「そんなことを言って、正式に申し入れのあった相手がいるのか」
「それは……」
「ないのだろう。ならば、家として話のある縁談を検討するのは当然だ」
父が口を開いた。
「お前の事業が安定し、ノルトハイム子爵家との縁ができれば、リディアの話にもよい影響がある」
「お姉様の……?」
「そうだ。お前一人の話ではない」
「……私の都合は、考えてくださらないのですか?」
「自分だけの気持ちで判断できる立場ではない」
その時、扉の外で、かすかな足音がした。
振り向くと、姉が入口に立っていた。
「リディア。今はエリナと話している」
「ええ。分かっているわ」
姉は部屋へ入り、私の方を見た。
「……お姉様も、知っていたのですか」
「詳しくは知らなかったわ」
姉は、眉を下げた。
「でも、お父様がそういう話を探していることは、なんとなく分かっていた」
「どうして……教えてくださらなかったのですか」
「教えたら、あなたはどうするつもりだったの?」
「お姉様にお話ししたではありませんか……私はグラーフ伯爵と――」
「アーネスト様から、正式なお話があったわけではないのでしょう?」
言葉が詰まった。
「なら、お父様を止める理由にはならないわ」
「でも……」
「わたしだって、自分の縁談で手一杯なの。あなたのために、お父様やレオンと揉める余裕なんてないわ」
「……」
私は目を伏せた。
姉の言うことは、間違っていないのかもしれない。
父にも、兄にも、姉にも、それぞれの都合がある。
家には、家の都合がある。
なら。私の都合は、どこへ行くのだろう。
私はそっと、家族の顔を見た。
父は、私がなぜ分からないのか分からない、という顔をしていた。兄は、感情で話すなと言いたげに眉を寄せている。姉は、困ったように目を伏せていた。
ああ。ここには、誰もいない。
私のことを、私の側から考えてくれる人は、誰もいない。
胸の奥で、何かが静かに切れた。
「私は、ノルトハイム子爵とは結婚いたしません」
「エリナ、何を意地に――」
「お父様も、お兄様も、お姉様も、皆、ご自分の都合で私を動かそうとなさるのですね」
「お前のためにもと言っているだろう」
「なら、私もそうします。もう、あなたがたの言葉を聞くつもりはありません」
声が、はっきり出た。
「家にとって……都合のいい私を、辞めます」




