第3話
その夜、グラーフ邸の家族用の小食堂には、久しぶりに三人が揃っていた。
食事が一段落し、食後酒と果物が卓に残る頃、母が楽しそうにアーネストを見た。
「アーネスト。今日は何かいいことでもあったの?」
「別に」
「本当に?」
「銀葉亭との話が進んだだけだ」
向かいに座っていた父が、そこで顔を上げた。
「銀葉亭? 中心市にある茶房か?」
「ええ。エリナ嬢の品を銀葉亭で菓子にできないかと、以前少し話したでしょう」
「ああ。あの干し果物の令嬢か」
父は頷いた。
「銀葉亭は乗り気なのか?」
「試作品はできた。職人も、商品にはなると言っている」
「なら、商いになりそうなのか」
「まだ分からない。本人が、客の反応を見てから決めたいと言っている」
母の眉が、わずかに上がった。
「エリナ嬢が?」
「ああ。自分で茶会を開くつもりらしい」
「あら。そんなことまで言うようになったのね」
「初めてのことだ。席次や招待客については、母上が見てやってくれ」
「もちろん、そのつもりだけれど」
母はそこで言葉を切り、じっとアーネストを見た。
「……それだけ?」
「それ以外に何がある」
「その割には、ずいぶん嬉しそうね」
父が不思議そうに母を見た。
「そうか? いつもと変わらんように見えるが」
「あなたには、そう見えるのね」
「違うのか?」
母は答えず、もう一度アーネストを見た。
「アーネスト。エリナ嬢と、ほかに何か話したでしょう」
手にしていた杯が、わずかに止まる。
母はそれを見逃さなかった。
「あら」
「何もない」
「今の間で、何もないは無理よ」
父が、今度はアーネストを見た。
「仕事以外の話か?」
「大した話ではない」
「では、何を話したの?」
アーネストは杯を置いた。
「……グラーフ家に出入りしていれば、俺に囲われているように見られるかもしれないと、彼女が言った」
「あの子、気づいたのね。で?」
父は黙って続きを待っている。
「俺は、困らないと答えた」
「それで?」
母が身を乗り出す。
「彼女も、困らないと言った」
しばらく、誰も口を開かなかった。
父が、ゆっくりとアーネストを見る。
「……それは、婚姻の話ではないのか?」
「まだそこまでの話はしていない」
「まだ?」
父の眉が寄る。
母が小さく笑った。
「まあ、こちらとしては、ほとんど婚姻の同意のようなものじゃない。……ああ、長かったわ」
アーネストは答えず、杯へ手を伸ばした。
父は少し考えるように黙り、それから真顔で言った。
「やっと孫の顔が見られるのか」
「あなた、気が早すぎますよ」
母は笑ったあと、少し考えるように目を伏せた。
卓に残っていたチーズを小さく切り、干し林檎をひと切れ重ねる。
「それにしても、ヴィオラ嬢にはお断りしないといけないわね」
「そうだな」
「ずいぶん長く引っ張ったものね」
「必要だった」
「ええ。あなたの見立ては間違っていなかったと思うわ」
母は干し林檎を乗せたチーズを口へ運び、ゆっくりと飲み込んだ。
「けれど、素直に受け入れてくださるかしら」
父が首を傾げる。
「断れば済む話ではないのか。こちらから正式に申し入れたわけでもないのだろう?」
「そう簡単な方なら、アーネストもここまで話を残してはいないでしょう」
「そうなのか?」
「あなたは、ヴィオラ嬢をご存じないもの」
「知っているぞ。いつも愛想よく挨拶してくれるお嬢さんだろう」
母は小さく息を吐き、改めてアーネストを見た。
「今度は、曖昧な言い方をしては駄目よ」
「分かっている」
「エリナ嬢へ矛先が向くようなことも、避けなければね」
アーネストは答えず、杯へ手を伸ばした。
母はしばらくこちらを見ていたが、やがて小さく息をついた。
「ところで、エリナ嬢は、茶会にどなたを招くか決めているようだった?」
「茶会を開くと言い出したところで、話は終わった」
「ちょうどいいわね」
「何がだ」
アーネストが母へ視線を向けると、母は微笑みながら杯を軽く掲げた。
◆
私は衣装箱を開けていった。
見れば見るほど、胸の奥が冷えていく。
昼間に着る服なら、いくつかある。
パン工房の奥様からいただいたものも、普段着るには十分だった。
夜会に出られそうな服は、彼から贈られた数着のドレスと、姉のドレスを仕立て直したものくらいしかない。
靴も手袋も、揃いできちんと残っているものは少なかった。
髪飾りも、小さな飾り布や古いリボンばかりで、正式な場に出せそうなものはほとんどない。
これまで夜会に出る時は、足りないものを姉に借りていた。自分のものがどれほど少ないのか、きちんと見たことがなかったのだ。
宝石箱を開けても、中にあるのは小さなものがいくつかだけだった。
それも、母の形見として大切に残されたものというより、家の中で余っていたものに近い。
目の端に鏡台が入る。
引き出しに入っている香油や白粉は、使いかけのものや、姉から下がってきたものがほとんどだ。
「……どうしよう」
私はそっと引き出しを閉め、その場で動けなくなった。
「私、何も持っていない……」
口にすると、急に心細くなった。
そもそも彼から求婚されたわけでもない。
囲われているように見られても困らないと言われただけだ。
こんなことを今から心配して、何になるのだろう。
「……いや、でも、駄目よね。これは」
相手が彼でなくても、いつか誰かのもとへ嫁ぐことになれば、支度は必要になる。
持参金の額ばかりを考えていた。
そのほかに何が必要なのか、私は何ひとつ知らなかった。
「……なんとかしないと」
私は帳面と羽根ペンをつかみ、立ち上がった。
廊下へ出ると、夜ももう遅い。
私はまだ灯りの残る侍女部屋へ足を向けた。
戸を叩くと、年長の侍女が不思議そうに振り向いた。
「エリナ様?」
その侍女は、母が亡くなる前後に屋敷へ入った人だった。
支度をすべて知っているわけではない。
それでも、今の私よりはずっと分かっているはずだった。
「夜分にごめんなさい」
声が少しだけこわばる。
「……婚姻の支度には、何が要るのか教えてほしいの」
「婚姻の支度、でございますか」
「ええ。服や靴や、贈り物や……そういうものを、どのくらい用意するものなのか……」
言いながら、自分の言葉の重さにくらくらしそうになる。
侍女はすぐには答えなかった。
私の顔を見て、それから手元の帳面と羽根ペンへ視線を落とす。
「……どなたかとのお話が、決まったのでございますか?」
「ち、違うの。まだ、そういうことではなくて……」
思わず声が裏返った。
「ただ、私、自分の持参金は自分で用意すると決めたの……だから、ほかに何が必要なのかも、今のうちに知っておきたくて……」
「そうでございましたか」
侍女がどこまで納得したのかは分からなかったが、やがて表情を改めた。
「わたくしに分かる範囲でよろしければ」
「お願い」
私は小さく頷いて、帳面を開いた。




