第2話
馬車を降り、玄関へ向かう。
いつもと同じ石段のはずなのに、今日は足が妙に軽かった。
――俺は困らない。
また思い出してしまい、頬が熱くなる。
「お帰りなさいませ、エリナ様」
「た、ただいま戻りました」
侍女が、不思議そうに首を傾げた。
私は何でもない顔を作ってその横を通り過ぎると、足早に自室へ向かった。
扉を閉めた途端、寝台へ倒れ込む。
手近にあったクッションを抱き寄せ、ぎゅっと握りしめた。
「……言っちゃった……」
――私も、です……。
自分の声が、耳の奥によみがえる。
どうして、あんなことを言えたのだろう。
アーネストは何も言わなかった。
ただ、その目元がほんの少しだけ緩んでいた。
それを思い出した途端、私はクッションへ顔を埋めた。
「わ、わあ……」
声にならない声が漏れる。
しばらくそのまま耐えてから、そっと顔を上げた。
「か、勘違い……じゃないよね?」
伯爵家の当主が、未婚の令嬢と親しくしているように見られる。
それはきっと、世間体にも関わることだ。
彼だって、それを分かっている。
分かっていて、私を銀葉亭へ連れていった。
それどころか、そう見られても自分は困らないと言ったのだ。
「……特別扱い、されてる……?」
口にした瞬間、顔がさらに熱くなった。
私はもう一度、クッションへ顔を埋める。
そんなの。
そんなの、恋愛小説だったら――。
「だ、駄目。まだ決まったわけではないもの……」
自分に言い聞かせながら、ゆっくりと顔を上げる。
たまたま、言葉の選び方が紛らわしかっただけかもしれない。
仕事相手として信頼してくださっている、という意味かもしれない。
私は寝台の上に起き上がると、枕元に置いてあった恋愛小説を手に取った。
ぱらぱらと頁をめくると、ちょうど、男性が令嬢の前へ跪き、愛を告げている場面だった。
『あなたを愛している。どうか、私の妻になってほしい』
挿絵の男性は、花束を差し出しながら令嬢を見上げている。
私はしばらく頁を見つめたあと、小さく頷いた。
「うん。好きだなんて、言われていないもの」
やはり、違う。
あれは告白ではない。
少しだけ胸が静かになった。
私は本を閉じ、今度は別の小説を手に取った。
こちらは、なかなか気持ちを口にしない男性が出てくる物語だった。
適当に頁を開く。
『私が、誰にでもこのようなことをするとお思いですか』
男性はそれだけを告げ、令嬢の返事も待たずに立ち去っている。残された令嬢は、ようやく彼の想いに気づき、頬を赤らめていた。
「……え?」
私は頁へ顔を近づけた。
もう一度、最初から読み返す。
好きとは言っていない。
愛しているとも言っていない。
それなのに、令嬢は告白されたと受け取っている。
「こ、こういう場合もあるの……?」
胸が再び騒がしくなった。
私はさらに別の小説を開いた。
舞踏会で踊りながら、遠回しに愛を語る男性や、何も言わず、ただ令嬢を抱きしめる男性。別れ際に、たった一言だけ残して去る男性。
そして――。
――俺は困らない。
「ひゃっ……!」
私は本を放り出し、寝台の上を転がった。
違うかもしれない。
でも、違わないかもしれない。
さらに本を開き、似たような場面がないか探す。
見つからなければ、別の本を取り出す。
読み返してはクッションへ顔を埋め、また気になって本を開く。
その時、扉が叩かれた。
「エリナ、少しいい?」
「は、はい!」
慌てて起き上がった拍子に、膝の上の本が床へ落ちた。
開いた頁には、ちょうど男性が令嬢の前に跪く挿絵が描かれている。
扉を開けて入ってきた姉は、床の本と、抱きしめたままのクッションと、私の顔を順番に見た。
「……何をしていたの?」
「な、何も!」
「そう?」
姉はもう一度、床の本へ目を落とした。
「何もしなくて、本をばらまいていたの?」
「あ、新しく買った小説の読み比べを……」
「何を比べていたの?」
「……求婚にも、いろいろあるのだと思って……」
「ふうん」
姉の目が、わずかに細くなる。
私はクッションを抱いたまま、視線を逸らした。
しばらくの沈黙のあと、姉が尋ねる。
「誰かに言われたの?」
「え……」
「エリナ、グラーフ領へ行っていたわね。……アーネスト様に、何か言われたの?」
「な、何かって……」
「今の顔で、何もなかったとは言わせないわよ」
「う……」
私はクッションの端を握りしめた。
「……私が、グラーフ家と深く関わっているように見えるかもしれないと……」
「それで? アーネスト様は?」
「……困らない、って」
姉が黙った。
その沈黙に耐えきれず、私は慌てて続ける。
「でも、グラーフ家として困らないという意味かもしれないし……仕事を続けるうえでは、周囲にどう見られても構わないというだけかもしれなくて……」
姉はしばらく私を見つめていた。
「エリナ」
「はい……」
「あなたは、どう受け取ったの?」
私は答えられず、クッションへ顔を埋めた。
姉は呆れたように息を吐いたが、すぐには何も言わなかった。何かを考えるように視線を落とし、それから改めて私を見る。
「……それで、持参金はどうするつもりなの?」
「え?」
「相手は伯爵家よ。アーネスト様の言葉をそういう意味に受け取るなら、考えておかなければならないでしょう」
いきなり現実を突きつけられ、胃のあたりがきゅっと縮む。
「あなた、自分のために用意されていた分は、わたしの支度に回すと言ったわよね。自分の分は、自分で用意するとも。用意できるの?」
「これから、少しずつ……」
「簡単に言うけれど、持参金だけではないのよ。婚姻となれば、ほかにも色々とかかるわ」
私はクッションを手放した。
「支度も要るし、贈り物もある。向こうの家に合わせて、準備しなければならないものだって出てくるでしょう」
「そ、そうなの……?」
「そうよ。ドレスが一着あれば済む話ではないわ」
姉は眉を寄せた。
「あなた、自分の衣装箱を開けてみなさいな。夜会に出られるドレスが何着あるの? きちんとした靴は? 手袋は? 髪飾りは?」
「……」
「香り袋や化粧道具だって要るのよ。伯爵夫人になるなら、今のままというわけにはいかないでしょう」
私は息を呑んだ。
彼は、持参金は見ないと言っていた。けれど、私の嫁入り支度がどれほど乏しいかまでは、知らない。
「まあ、わたしは、あなたがアーネスト様に嫁いでくれたらありがたいけれど」
「お姉様が?」
「ええ。グラーフ家と縁が持てるのよ。オブライト家としても、悪い話ではないわ」
姉は小さく肩をすくめた。
「だから、せいぜい頑張りなさい」
それだけ言うと、姉はさっさと部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私はクッションを抱き直した。
……何を、どう頑張ればいいのだろう。




