第4話
――きゅ。
小さな音だった。
……しまった。
ここに来る前、あまり食べていなかったから。
一瞬、
会話が止まる。
うう……恥ずかしい。
私は思わず、顔を伏せた。
「……もう、こんな時間か」
誰に向けたでもない声が落ちる。
「一旦、休憩にするか」
それを合図にしたように、
人の輪が、自然にほどけていった。
杯を置く者。
食事の方へ向かう者。
別の話し相手を探す者。
私は、その場に残った。
――また、一人になっちゃった。
兄の姿を探したが、
近くにはいない。
姉も、見当たらなかった。
……あれ。
さっきまで、
視界の端にはいたはずなのに。
胸の奥が、少しざわつく。
けれど――
空腹の方が、勝った。
私は、近くに設えられた卓へと向かった。
夜会のように、
華やかな料理が並んでいるわけではない。
だが、温かい皿と、
取り分けやすい料理が、整然と並んでいる。
皿に料理を取り、
口へ運ぶ。
「……おいしい」
思わず、息が漏れた。
食べる手が、止まらない。
こんなおいしい料理を食べたの、
久しぶりかもしれない。
「あ、デザートもある」
ほかの卓へ視線を移した――そのとき。
少し離れた場所に、
見覚えのある背中があった。
……さっき、
私を中へ通してくれた人だ。
そういえば――
結局、何も知らないままだ。
私は、少しだけ迷ってから、
その背中へ歩み寄った。
「……あの」
声をかけると、
男が振り返る。
一瞬、言葉に詰まる。
「失礼ですが……
アーネスト様は、どなたなのでしょうか」
ドキドキしながら、返事を待つ。
男は、私の方に向き直った。
「アーネスト・グラーフです。
この会の取りまとめをしています」
一瞬、言葉を失った。
……え。
この人が?
「失礼ですが……
どちらでお会いしましたでしょうか」
自分でも、少し間の抜けた問いだと思った。
「前の夜会です。
倉庫の話をしていた場にいました」
「……そうなのですね……」
覚えていない。
それに気づいて、胸の奥が、ひくりとする。
「構いません。
あの場では、顔を覚える必要はありませんから」
「ありがとうございます……」
はっとして、私は頭を下げた。
「ご招待くださり、ありがとうございます。
それに……ドレスまで用意してくださって……」
アーネストは、わずかに眉を動かすだけで、淡々と返した。
「招待側としての手配です。あなたが余計な負担を背負うのは無駄でしょう」
目を瞬いた。
……そういうものなの?
住む世界が、違う気がした。
少し、間を置いてから、私は続けた。
「あの……
どうして、私を招待してくださったのですか」
「理由は、今ここで話すことではありません」
えっ――。
「今日の会に来ても、
場を乱さずにいられるかどうか。
それを、確認したかっただけです」
「……はぁ……」
思わず、息が抜けた。
そのときだった。
「グラーフ伯爵」
静かな声が、横から差し込む。
気づけば、
姉がすっと、私の隣に立っていた。
背筋を伸ばし、
社交用の微笑を浮かべている。
「この度は、ご招待くださりありがとうございます」
アーネストは、
わずかに視線を姉へ移す。
「こちらこそ。
本日はお越しいただき、ありがとうございました」
それだけ言って、
軽く会釈をする。
アーネストはそのまま踵を返し、
人の流れの中へと戻っていった。
取り残されたのは、
私と姉だけだった。
一瞬、
姉がこちらを見た。
――けれど、
何も言わない。
すぐに視線を逸らし、
別の方向へと歩き出す。
私は、その背中を、
ただ見送った。
◆
一人になった私は、
再び、さっきと同じ卓へ戻った。
皿に残っていた料理を、
口へ運ぶ。
もう冷めているかと思ったそれは、
まだ、温かい。
「……おいしい」
さっきまでのざわめきが嘘みたいに、
頭の中は静かだった。
「エリナ」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
兄と姉が、
少し離れたところに立っていた。
「帰るぞ」
「……えっ」
思わず、声が出た。
「もう、ですか……?」
姉は視線を逸らしたまま、
何も言わない。
兄は答えず、
そのまま踵を返す。
「ほら」
急かすような一言で、
もう選択肢は残っていなかった。
私は、皿を置く。
まだ残っている料理を、
一瞬だけ見てから。
「……はい」
そう答えて、後をついていった。
受付を無言で通り、
屋敷を出る。
馬車が走り出してからも、
兄はしばらく黙っていたが、
「……なんか、分かりにくい会だったな」
ぽつりと、そう言った。
「不親切じゃないか?
説明もろくになくて」
姉が、向かいの席で小さく頷く。
「ええ……そうね」
「ああいうの、
完全に内輪向けだろ。
初参加に優しくない」
「……そうかもしれないわね」
「説明が足りないんだよ。
何をどうしろっていうのか、
さっぱりだった」
兄は、吐き出すように言って、
それきり黙った。
馬車の中に、
また沈黙が落ちる。
私は、膝の上で指を組んだ。
……楽しかった。
確かに、
あの場で話していた時間は、
楽しかったのだ。
けれど、
それを口にする場所は、
もう、どこにもなかった。
私は、揺れる車内の音を、
ただ聞いていた。




