表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十五章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

119/137

第6話

馬車の脇に控えていたグラーフ家の従者が、扉を開けた。


中は空だった。


当たり前だ。


今日の打ち合わせに同席するとは聞いていないし、あの方が乗っているはずがない。


そう分かっているのに、胸の奥が少しだけ沈んだ。


従者が丁寧に一礼する。


「エリナ様をお迎えに上がりました」


「ありがとうございます」


私は小さく礼をして、馬車へ乗り込んだ。


扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。窓の外で、リュークハルト家の門が遠ざかっていく。


「道、か……」


父の言葉が、ふとよみがえった。


父があそこまで口にするのは、珍しかった。私がグラーフ家へ足を運ぶことが増えたとして、それがリュークハルト家にどんな影響を及ぼすのだろう。


兄も、父も、そのあたりを気にしている。私には、まだよく分からなかった。


窓の外には、グラーフ伯爵領へ続く道が伸びていた。


まるで、自分がそこへ向かうことを、もう選んでしまっているように見える。


「……違う」


小さく首を横に振る。


今日は仕事だ。


茶房の店主と、菓子職人に会い、話し合うために向かっているだけ。


仕事のためだけではない、なんて。

そんなことを考えてはいけない。


そう思おうとしても、胸の奥は落ち着かなかった。


やがて馬車は、見慣れたグラーフ伯爵邸の門をくぐった。


「……え?」


思わず顔を上げる。


茶房へ直接向かうのではなかったのだろうか。


馬車は玄関前で止まった。扉が開き、従者が一礼する。


「少々お待ちください」


「は、はい……」


まさか、伯爵夫人にご挨拶をするのだろうか。


それなら先に言っていただければ、もう少し心の準備を――。


そう考えているうちに、玄関扉が開いた。


「えっ……」


出てきたのは、アーネストだった。


濃い色の上着に、上質な革手袋。外出用の装いだとすぐ分かった。


アーネストは馬車の前まで来ると、私を見た。


「待たせたか」


「い、いえ」


声が少し上ずった。


「茶房の店主と職人は、もう着いている」


「……アーネスト様も、ご同席くださるのですか」


「取り分と責任の話をするなら、俺がいない方が面倒だ」


「わざわざお時間を割いてくださり、申し訳ございません」


「必要だから行くまでだ」


アーネストは短く答えた。それから、私の手元の包みに視線を落とす。


「試作用か」


「はい。干し林檎と、干し木苺を少し」


「そうか」


それだけ言って、アーネストは馬車へ乗り込み、向かいの席へ腰を下ろした。


馬車の中が、急に狭くなった気がした。


馬車は、石畳の道を揺れながら進んだ。


向かいの席に座るアーネストは、窓の外へ視線を向けている。私は膝の上の包みを抱えたまま、どこを見ればいいのか分からなかった。


仕事の話をすればいい。

でも、他にも聞きたいことがある。


そう考えているのに、言葉は少しも出てこない。


その時、アーネストの視線が、ふと私の襟元で止まった。


「……その色」


「え?」


「茶房へ行くには、ちょうどいい」


「……そ、そうでしょうか」


「商人や小貴族の目がある場所では、そのくらいがいい」


胸の奥で、小さく息が抜けた。


よかった。

浮かれすぎたようには、見えなかったらしい。


そう思いかけた時、アーネストが少しだけ視線を外した。


「それに、君に合っている」


息が止まった。


「変ではない、という意味だ」


私は固まったまま、瞬きをした。


「いや」


アーネストは短く息を吐く。


「褒めた。今のは」


馬車の中が、しんと静まり返った。


車輪の音だけが、やけに大きく聞こえる。


「あ……ありがとうございます……」


私は小さく頭を下げた。


わざわざ、言い直してくれた。


どうしよう。

すごく、嬉しい。


……着てきてよかった。


頬が熱くなった。顔が緩みそうで、どうしても上げられない。


私は包みを抱え直し、視線を膝の上に落としたまま、じっとしていた。


そのまま馬車は、ゆっくりと進んでいった。



程なくして、馬車は大通りから少し奥へ入った。


グラーフ領の中心市から、荷揚げ場へ続く道を少し外れたあたり。昼間は商人や職人の出入りが多いが、市場ほど騒がしくはなく、裕福な商家の夫人や、小貴族の奥方が使う店が並ぶ区画だと、以前アーネストから聞いたことがある。


窓の外の景色も、少しずつ落ち着いたものに変わっていく。人通りはあるが、市の中心ほど声は大きくない。


石畳の道沿いには、仕立て屋、紙と封蝋を扱う書肆、小さな香油の店が並んでいた。


馬車が止まったのは、その一角にある二階建ての店の前だった。


淡い蜂蜜色の石壁に、深い緑の扉。入口の両脇には、白い花を植えた鉢が置かれている。


大きな窓の向こうには、淡い色の卓布が掛けられた丸卓がいくつか見えた。


……かわいいお店。


扉の上には、小さな木の看板が掛かっている。


――茶房《銀葉亭》。


そう読んだところで、馬車の扉が外から開かれた。


先に降りたアーネストが、こちらへ手を差し出す。


「足元に気をつけろ」


その手を借りて、私は馬車を降りた。


店の扉は、すでに内側から開いていた。


出迎えに立っていたのは、五十前後の細身の男性だった。髪をきちんと撫でつけ、濃い茶色の上着を着ている。


男性はアーネストを見るなり、深く頭を下げた。


「グラーフ伯爵。本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」


声は落ち着いていたが、その背筋は必要以上にまっすぐで、指先までピンと伸びていた。


領主を迎える緊張、なのだろう。


店主の視線は、一瞬だけアーネストと私の間を行き来した。


……今、何を見られたの。


「エリナ嬢。店主のマルコだ」


「エリナ・リュークハルトでございます。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


店主はすぐに私へ向き直り、もう一度、深く頭を下げた。


「銀葉亭の店主、マルコ・ベルニでございます。エリナ様にも、お越しいただき光栄です」


そんなに背を曲げなくても、と思ってしまう。


領主の前だからなのか。領主の紹介だからなのか。それとも、彼の性格なのかは分からなかった。


「奥の席をご用意しております。職人も、すでに厨房でお待ちしております」


店主が、店の奥へ手を向ける。


「行くぞ」


「はい」


アーネストに促され、私は店内へ足を踏み入れた。


ふわりと、温かな香りがした。


焼き菓子の甘い匂い。

それから、乾いた茶葉の香り。


店内は程よい広さだった。卓と卓の間には十分な間があり、隣の会話がそのまま聞こえるほど近くはない。


壁には淡い草花の図案が掛けられ、壁際の飾り棚には白い茶器が並んでいる。それは客へ見せるためというより、実際に使われているものらしい。


「本日は通常の営業を少し遅らせております。奥の席でしたら、落ち着いてお話しいただけるかと」


「店は止めていないな」


「はい。常連のお客様には、午後からの開店とお伝えしております」


「それでいい」


その短いやり取りに、私は少しだけ息を吐いた。


奥へ進むと、客席から少し離れた小さな部屋へ通された。


丸卓には白い布が掛けられ、茶器と数枚の空皿が並べられている。隣の扉の向こうからは、かすかに厨房の熱気と、焼けた小麦の香りが流れてきた。


店主が扉の前で足を止める。


「職人を呼んでまいります」


そう言って一礼し、奥へ下がった。


私は手元の包みを卓の上へそっと置いた。


「……店主さん、ずいぶん緊張されていましたね」


「そうだな」


「グラーフ伯爵がいらしているから、でしょうか」


「それもある」


「それも……?」


「母上からの紹介で、俺が同席する。店主からすれば、ただの試作では済まない」


……確かに、店主の立場からすれば身の縮む思いだろう。


「……申し訳ありません。気を遣わせてしまって……」


「謝ることではない」


「ですが……」


「母上も言っただろう。店にも利がある話だ」


アーネストは、卓の上の空皿へ視線を落とした。


「恐縮するな。見るべきところが鈍る」


その言い方は少し厳しかったが、突き放された感じはしなかった。


私は小さく息を吸い、頷いた。


「……はい」


その時、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


店主が戻ってきた。

その後ろに、一人の男性が立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 馬車の中が空席だと知り、少しの間気持ちが沈んだり、途中から同行した想い人から選んだ服の色を褒められて、はしゃぎこそしないものの喜んだり、微笑ましいですねえ。  馬車を扱ってる人は、茶房訪問がメインだ…
私も馬車期待しました、エリナと一緒にがっかりw いつもアーネスト視線そらしてるなぁ…。エリナもよく下向いてるし。視線が合わない( ;∀;) アーネスト、余裕と見せかけて…直視できない、だと面白い…(い…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ