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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十五章

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第2話

今日は、姉リディアとの縁談が進んでいる方が、屋敷を訪れる日だった。


朝から屋敷の中は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。


玄関広間には新しい花が飾られ、応接室の卓には、普段はめったに出さない銀器が並べられている。

椅子の向きや、卓布の端。使用人の襟元や手袋まで、いつもより細かく準備されていた。


廊下を行き来する使用人たちの足音も、普段よりずっと控えめだった。


私は自室の鏡の前で、菫色のワンピースを見下ろした。襟元に細い白い刺繍が入っているだけの、飾りの少ない服だ。


「これでいいのかな……」


今日の主役に尋ねてみることにして、姉の部屋へ向かった。


扉の前で名を告げると、中からすぐに返事があった。


「入って」


部屋へ入ると、姉はすでに支度を終えかけていた。


淡い薔薇色のドレスは華やかすぎず、胸元の小さな真珠だけが上品に光っている。

髪は柔らかく巻かれ、片側だけを飾りピンで留めていた。


今日は、一段と輝いて見えた。


「どうしたの?」


姉は鏡越しに私を見た。


「あの……この格好で、失礼はないでしょうか」


姉は、私を上から下まで見た。少しの沈黙があったけれど、やがて小さく頷く。


「……悪くないわ」


「本当?」


「ええ。色も季節に合っているし」


そう言って、もう一度私の服を見る。


「あなたが目立ちすぎても困るけれど、みすぼらしく見えても困るの。それなら、ちょうどいいわ」


「よかった……」


私はほっと胸を撫で下ろした。


「あなたは長く居座らなくていいから」


姉は鏡の前で手袋をつけながら言った。


「顔を出して、挨拶をしたら下がる。それで十分よ」


「分かりました」


姉は鏡の中の自分を確認してから、ゆっくり立ち上がる。


「じゃあ、行きましょうか」


私は頷いて廊下へ出ると、ちょうど使用人がこちらへ向かってきた。


「お嬢様。先方の馬車が門をお入りになりました」


姉の表情が、すっと変わった。先ほどまでの姉ではなく、客を迎える令嬢の顔になっていた。


玄関広間へ向かうと、すでに父と兄が立っていた。


父は落ち着いた濃紺の上着をまとっていた。白いシャツも新しいものらしく、襟元まできちんと整えられている。


兄も今日は、いつもより濃い色の衣服を着ていた。見覚えのない上着だったから、今日のために仕立てたものかもしれない。


姉が父の隣へ進み、私は後ろに控える。


やがて扉が開き、先方が案内されてきた。


まず入ってきたのは、穏やかな顔立ちの壮年の男性だった。年の頃は、父より少し若いだろうか。深い灰色の上着をまとっている。布地の艶と仕立てのよさで、上等なものだと分かった。


その隣に、柔らかな雰囲気の夫人。そして少し後ろに、青年がいた。


青年は背が高く、姿勢もよかったが、どこか大切に育てられた人らしい柔らかさがあった。目元には、人のよさそうな笑みが浮かんでいる。


……この人が。


姉の縁談相手だと聞いて、どんな方なのだろうと思っていた。本人もご家族も、思っていたよりずっと落ち着いた様子だった。


「本日は、ようこそお越しくださいました」


父が先に挨拶をする。


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」


先頭の男性が、穏やかに返した。


形式通りの挨拶が交わされる。


そのあいだ、姉はいつもより控えめに微笑んでいた。夜会で見せる華やかな笑みではない。


やがて父が、私の方へ視線を向けた。


「こちらが次女のエリナです」


私は一歩前へ出て、礼をした。


「エリナ・フォン・リュークハルトでございます。本日はお越しいただき、ありがとうございます」


先方の夫人が微笑んだ。


「まあ。ご丁寧に」


青年も軽く頭を下げる。


「どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」


もう一度礼をする。


父の目が、わずかに動いた。

下がってよい、という合図だった。


私は一歩下がり、応接室へ向かう一行の邪魔にならないよう道を譲る。


姉が青年の隣を歩き、夫人がその様子を見ている。父と兄も、先方を応接室へ案内していく。


私は最後にもう一度だけ礼をしてから、廊下の端へ身を引いた。応接室の扉が閉まり、その瞬間、肩から力が抜けた。


私の役目は、ひとまずここまでだ。


私は閉じた応接室の扉を一度だけ見て、それから踵を返し、自室へ戻った。扉を閉めると、廊下の気配が少し遠くなる。


机の前に座り、書きかけの帳面を開いた。


「ちょうどよかった……」


部屋から出られないのなら、その分、菓子の件を考えられる。


アーネストに決めるべきだと言われたことを、一つずつ書き出していく。


「えっと……茶房側の負担、施設、職人、材料に……こちらの負担は……試作に使う乾物の量。売れた場合の取り分は――」


ペン先が、紙の上で止まった。


「私……」


グラーフ家と、どんどん関わりが強くなっている。

本当に、いいのだろうか。


――嫌なら、ここまで話を進めない。


あの言葉を思い出しただけで、胸の奥がまた熱くなる。


私と会うことが嫌ではない。そう捉えてもいいの?


「いいのよね……?」


事業とはいえ、仮にも未婚の令嬢と伯爵が何度も顔を合わせる。実務者会でも、すでにそういう関係なのではないかという目で見られていた。


それなのに。


彼は、何もはっきりとは言わない。


嫌ではない。

悪いとは思っていない。


それは、好意なのだろうか。それとも、ただ私の仕事を評価しているだけなのだろうか。


ペンを強く握りしめる。


「うう……」


まったく進まない。


私は、机の端に避けていた恋愛小説へ手を伸ばした。


今のうちに進めなければならないのに……。そう思いながらも、指は勝手にページをめくっている。


そこでは、騎士が令嬢の手を取り、迷うことなく囁いていた。


――あなたに会いたかった。

――誰よりも、あなたを想っている。

――どうか、私の妻になってほしい。


ここまで言われたら、どれほど分かりやすいだろう。


「これなら分かるのに……」


小さく呟いて、額を机に近づける。


現実では、こんなふうには言われない。


悪いとは思っていない。

続けられる形にする。


それは全部、優しい。

たぶん、とても大事にされている。


けれど、どこまでが仕事で、どこからが私なのか分からない。どうすれば、彼の心を知れるのだろう。


ぼんやりと帳面を見つめていると、扉が叩かれた。


私は慌てて顔を上げる。


「はい」


扉の向こうから、使用人の声がした。


「お嬢様。旦那様がお呼びです」

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― 新着の感想 ―
 今回の縁談の主役であるリディアさんを空気にしない様、飾り少なめなスミレ色の衣装を着て、同行するエリナさん。  簡潔な挨拶を済ませた後、茶房の方々との連携で行う事柄の整理をスラスラ行ってますが、アーネ…
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