第2話
今日は、姉リディアとの縁談が進んでいる方が、屋敷を訪れる日だった。
朝から屋敷の中は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。
玄関広間には新しい花が飾られ、応接室の卓には、普段はめったに出さない銀器が並べられている。
椅子の向きや、卓布の端。使用人の襟元や手袋まで、いつもより細かく準備されていた。
廊下を行き来する使用人たちの足音も、普段よりずっと控えめだった。
私は自室の鏡の前で、菫色のワンピースを見下ろした。襟元に細い白い刺繍が入っているだけの、飾りの少ない服だ。
「これでいいのかな……」
今日の主役に尋ねてみることにして、姉の部屋へ向かった。
扉の前で名を告げると、中からすぐに返事があった。
「入って」
部屋へ入ると、姉はすでに支度を終えかけていた。
淡い薔薇色のドレスは華やかすぎず、胸元の小さな真珠だけが上品に光っている。
髪は柔らかく巻かれ、片側だけを飾りピンで留めていた。
今日は、一段と輝いて見えた。
「どうしたの?」
姉は鏡越しに私を見た。
「あの……この格好で、失礼はないでしょうか」
姉は、私を上から下まで見た。少しの沈黙があったけれど、やがて小さく頷く。
「……悪くないわ」
「本当?」
「ええ。色も季節に合っているし」
そう言って、もう一度私の服を見る。
「あなたが目立ちすぎても困るけれど、みすぼらしく見えても困るの。それなら、ちょうどいいわ」
「よかった……」
私はほっと胸を撫で下ろした。
「あなたは長く居座らなくていいから」
姉は鏡の前で手袋をつけながら言った。
「顔を出して、挨拶をしたら下がる。それで十分よ」
「分かりました」
姉は鏡の中の自分を確認してから、ゆっくり立ち上がる。
「じゃあ、行きましょうか」
私は頷いて廊下へ出ると、ちょうど使用人がこちらへ向かってきた。
「お嬢様。先方の馬車が門をお入りになりました」
姉の表情が、すっと変わった。先ほどまでの姉ではなく、客を迎える令嬢の顔になっていた。
玄関広間へ向かうと、すでに父と兄が立っていた。
父は落ち着いた濃紺の上着をまとっていた。白いシャツも新しいものらしく、襟元まできちんと整えられている。
兄も今日は、いつもより濃い色の衣服を着ていた。見覚えのない上着だったから、今日のために仕立てたものかもしれない。
姉が父の隣へ進み、私は後ろに控える。
やがて扉が開き、先方が案内されてきた。
まず入ってきたのは、穏やかな顔立ちの壮年の男性だった。年の頃は、父より少し若いだろうか。深い灰色の上着をまとっている。布地の艶と仕立てのよさで、上等なものだと分かった。
その隣に、柔らかな雰囲気の夫人。そして少し後ろに、青年がいた。
青年は背が高く、姿勢もよかったが、どこか大切に育てられた人らしい柔らかさがあった。目元には、人のよさそうな笑みが浮かんでいる。
……この人が。
姉の縁談相手だと聞いて、どんな方なのだろうと思っていた。本人もご家族も、思っていたよりずっと落ち着いた様子だった。
「本日は、ようこそお越しくださいました」
父が先に挨拶をする。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
先頭の男性が、穏やかに返した。
形式通りの挨拶が交わされる。
そのあいだ、姉はいつもより控えめに微笑んでいた。夜会で見せる華やかな笑みではない。
やがて父が、私の方へ視線を向けた。
「こちらが次女のエリナです」
私は一歩前へ出て、礼をした。
「エリナ・フォン・リュークハルトでございます。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
先方の夫人が微笑んだ。
「まあ。ご丁寧に」
青年も軽く頭を下げる。
「どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
もう一度礼をする。
父の目が、わずかに動いた。
下がってよい、という合図だった。
私は一歩下がり、応接室へ向かう一行の邪魔にならないよう道を譲る。
姉が青年の隣を歩き、夫人がその様子を見ている。父と兄も、先方を応接室へ案内していく。
私は最後にもう一度だけ礼をしてから、廊下の端へ身を引いた。応接室の扉が閉まり、その瞬間、肩から力が抜けた。
私の役目は、ひとまずここまでだ。
私は閉じた応接室の扉を一度だけ見て、それから踵を返し、自室へ戻った。扉を閉めると、廊下の気配が少し遠くなる。
机の前に座り、書きかけの帳面を開いた。
「ちょうどよかった……」
部屋から出られないのなら、その分、菓子の件を考えられる。
アーネストに決めるべきだと言われたことを、一つずつ書き出していく。
「えっと……茶房側の負担、施設、職人、材料に……こちらの負担は……試作に使う乾物の量。売れた場合の取り分は――」
ペン先が、紙の上で止まった。
「私……」
グラーフ家と、どんどん関わりが強くなっている。
本当に、いいのだろうか。
――嫌なら、ここまで話を進めない。
あの言葉を思い出しただけで、胸の奥がまた熱くなる。
私と会うことが嫌ではない。そう捉えてもいいの?
「いいのよね……?」
事業とはいえ、仮にも未婚の令嬢と伯爵が何度も顔を合わせる。実務者会でも、すでにそういう関係なのではないかという目で見られていた。
それなのに。
彼は、何もはっきりとは言わない。
嫌ではない。
悪いとは思っていない。
それは、好意なのだろうか。それとも、ただ私の仕事を評価しているだけなのだろうか。
ペンを強く握りしめる。
「うう……」
まったく進まない。
私は、机の端に避けていた恋愛小説へ手を伸ばした。
今のうちに進めなければならないのに……。そう思いながらも、指は勝手にページをめくっている。
そこでは、騎士が令嬢の手を取り、迷うことなく囁いていた。
――あなたに会いたかった。
――誰よりも、あなたを想っている。
――どうか、私の妻になってほしい。
ここまで言われたら、どれほど分かりやすいだろう。
「これなら分かるのに……」
小さく呟いて、額を机に近づける。
現実では、こんなふうには言われない。
悪いとは思っていない。
続けられる形にする。
それは全部、優しい。
たぶん、とても大事にされている。
けれど、どこまでが仕事で、どこからが私なのか分からない。どうすれば、彼の心を知れるのだろう。
ぼんやりと帳面を見つめていると、扉が叩かれた。
私は慌てて顔を上げる。
「はい」
扉の向こうから、使用人の声がした。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」




