第1話
屋敷へ戻る馬車に揺られながら、私は茶房でのやりとりを何度も思い返していた。
『……また会いたいと思うことだ』
その言葉に、息が止まった。
『会えば気にかかる。会わなければ、次に会う理由を考える』
『……』
『そういうものがあれば、当人同士の意向と言っていい』
そこでようやく、アーネストは私を見た。
『……少なくとも、俺はそう考える』
――では、私は、あなたにとってそういう相手なのですか。
そう聞きたかった。
けれど、怖くて聞けなかった。
気にかけてもらえていることは、分かる。
会う口実も、見せたいものも、こうして与えられている。
けれど、それは私の立場を思ってのことかもしれない。
商いのため。
私が、家から離れるため。
私が、まだ知らないことを学ぶため。
「私は……」
小さく零しかけて、言葉が続かなかった。
窓の外へ目を向ける。
流れていく景色の向こうに、さっきまで見ていた春の色だけが、まだ残っている気がした。
あの人は、私と会いたいと思ってくれているのだろうか。
そう考えた瞬間、胸がひどく騒いで、私はそっと唇を噛んだ。
◆
屋敷へ戻る頃には、空はもう夕暮れの色へ傾きかけていた。
玄関を入って外套を預け、廊下を渡ろうとしたところで、向こうから姉が歩いてくるのが見えた。
「あら、お帰り。ずいぶん遅かったのね」
姉はそう言ったあと、私の顔を見て目を細めた。
「……何だか、今日はずいぶん考え込んでいるみたい」
「え……そうでしょうか」
「市はどうだったの?」
「……勉強になりました」
「そう、よかったじゃない」
姉はそれ以上、すぐには聞かなかった。
私は迷ったけれど、小さく息を吸う。
「……お姉様」
「なに?」
「婚約は……どうやって決まるものなのですか?」
姉は目を瞬かせた。
「……今さら、ずいぶん急ね。ルーカス様のこと?」
思わず息が止まる。
リディアはその反応を見ても急かさず、探るようにこちらを見る。
「それとも――」
そこで姉は、わざと一拍置いた。
「別の方のことかしら」
「そ……そういうわけでは……」
自分でも苦しいと思いながら、私は目を逸らした。
「ただ、進み方が分からなくて……お姉様は、どうやって決まっていったのですか?」
「そうね。先に分かるのは、たいてい本人の態度よ」
「態度? それだけで分かるものなのですか」
「ええ。何度も話しかけてくるとか、次も会いたがるとか。そういうところで、だいたい分かるわ」
私は思わず息を詰めた。
「そのあとで、家へ正式に話が来るの。私もそうだったわ」
「……もっと、きちんと言葉があって決まるものかと思っていました」
本で読んだ恋の話には、もっと分かりやすい言葉があった気がする。
けれど実際は、もっと淡々と進むものなのかもしれない。
そう思うと、納得する反面、少し拍子抜けもした。
リディアはふっと息をつく。
「あなた、本当にそういうところだけ素直よね」
「え……」
「言葉があることもあるでしょうけれど、それで全部決まるわけじゃないわ」
姉は淡々と続けた。
「先に周りが動いて、家が話をして、むしろ、きちんと言葉にする方が遅いこともあるの」
「……では、縁談を申し込まれるのを待っているしかないのですか?」
「待っているだけでは駄目よ」
「では……どうすれば……?」
「相手が前に出てきているなら、こちらも分かるように返さないと」
「どうやって……?」
「次も会いたいなら、そう見えるようにするの。話したり、笑いかけたり、断らない。そういうことで十分伝わるわ」
「……そんなことでいいのですか?」
思わずそう返すと、姉は小さく眉を上げた。
「そういうことを、誰にでも同じようにすると思う?」
「だって……」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
アーネストと交わしたやりとりが、いくつも浮かぶ。
忙しいのに、時間を作ってくれたこと。
顔を見て話したこと。
手を差し出してくれて、離さなかったこと。
リディアはそんな私を見て、わずかに息をついた。
「分かりやすく“はい”と言わなくても、嫌ではないことくらいは伝わるのよ」
……それって。
私の気持ちも、見えているということ……?
顔が熱くなる。
「今さら何を言っているの」
「え……」
「見えるわよ、そのくらい。むしろ、見えないと思っていたの?」
私は言葉を失った。
「あなたが思っているより、態度に出ているわよ」
「でも……」
私はスカートの裾をきゅっと握る。
「気づかれているなら……」
リディアは、その先を待たずに淡々と言った。
「それでも動かないなら、そこまでなのでしょう」
「そこまで……」
「好意があることと、それを形にする気があることは別よ」
「……そっか」
「余り深追いせず、次を考えた方がいいんじゃない」
姉はそう言って、そのまま廊下の向こうへ消えていった。
私はその場に立ち尽くしたまま、さっきの言葉を胸の内で繰り返していた。
――それでも動かないなら、そこまで。
そう言われたはずなのに、なぜかすぐには否定できなかった。
本当に、そうなのだろうか。
でも、それを認めてしまえば、今日の言葉も、差し出された手も、あの人の誠実さまで疑うことになる気がした。
それだけは、思いたくなかった。
その時、背後から控えめな声がした。
「お嬢様」
振り返ると、執事が一礼して立っていた。
「お手紙が届いております」
「……手紙?」
「ローデンベルク伯爵家より、お預かりしております」
「……ローデンベルク伯爵家?」
差し出された封書を受け取り、表を見る。
深緑の封蝋に、鹿と樫の葉の紋章。
名前にも、紋章にも、覚えはなかった。
……どなたなの?




