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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十三章

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第8話

「グラーフ伯爵は……その、他の方にも、こんなふうに案内されるのですか?」


言ってから、すぐに違うと思った。


迎えだけなら、きっとするのだろう。


伯爵家の人間として、客人を市へ連れていくことくらい、珍しいことではない。


私が聞きたかったのは、そういうことではなかった。


「あ、いえ……」


慌てて言い直そうとしたけれど、言葉がうまく続かない。


アーネストはすぐには答えなかった。


「……お前には、そう見えるのか」


「え……」


「誰にでも迎えを出して、こうして歩いているように」


「い、いえ……そういうわけでは……」


アーネストは小さく息をついた。


「なら、今はそれで十分だ」


今は?


どういう意味ですか。


そう返したかったのに、口が開かなかった。


私はただ、戸惑ったまま立ち尽くす。


アーネストはそれ以上何も言わず、通りの先へ目をやった。


「……人が増えてきたな」


「そ、そうですね……」


「この先は落ち着いて見にくい。あそこへ入るぞ」


そう言って、彼は通り沿いの茶房を示した。


「グラーフ伯爵。あの、お時間は大丈夫なのですか?」


「問題ない」


アーネストはそう言って、こちらを見る。


「今日は、そのために空けた」


「……ありがとうございます」


顔が熱くなるのを感じて、私はそっと目を伏せた。


アーネストに促されるまま、茶房の方へ足を向ける。



通り沿いの茶房は、白い壁に深緑の庇を下ろした、こぢんまりとした店だった。


入口には若葉を編んだ飾りが掛けられ、窓辺には丸い硝子瓶に挿した黄色の花が並んでいる。


祭りの最中だというのに、そこだけ外の賑わいより一段静かな空気をまとっていた。


扉をくぐると、焼いた小麦と木の実の香ばしい匂いが、茶葉を煮出す湯気に混じってやわらかく鼻をくすぐる。


木の卓がいくつか並び、壁際にも黄色の花が飾られていた。


窓辺の席からは、市を行き交う人影がよく見える。


席に着くと、店の女がすぐに水差しと木の杯を置いて一礼した。


「本日は、若葉を混ぜたお茶と、木の実入りの薄焼き菓子がございます」


アーネストは窓の外をひと目見てから、短く言った。


「茶を二つ。菓子もつけろ」


そのやり取りを聞きながら、私はそっと口を開く。


「……こちらへは、よく来られるのですか?」


「たまにだ」


それだけ言って、アーネストはまた窓の外へ顔を向けた。


「市の日は、ここが見やすい」


その言葉が落ちてほどなく、店の女が茶器を載せた盆を運んできた。


淡い緑を帯びた茶と、木の実を練り込んだ薄焼き菓子。


それから小皿には、干し果実が少しだけ添えられている。


「どうぞ、ごゆっくり」


女が下がると、卓の上に湯気と香ばしい匂いがふわりと広がった。


「いただきます」


焼き菓子をひと口かじる。


薄い生地はさくりと軽く、噛むほどに炒った木の実の香りが広がった。


甘さは控えめで、後からほんのり塩気が残る。


飲み込んだあと、自然と茶杯を取っていた。


「……お茶が欲しくなりますね」


思わずそう漏らしながら、私は若葉の茶を口に含む。


青い香りが、焼き菓子の香ばしさをすっと流していった。


小皿の干し果実へ目を向ける。


「あ……お茶に合う……」


干し果実は、ほんのわずかしか添えられていない。


けれど、こうして茶や菓子と一緒に出されるのなら、少量でもきちんと役目がある。


茶房へ出す、というのも悪くないのかもしれない。


そう考えていると、不意に向かいから声が落ちた。


「もう売り先を考えているのか」


「……え」


顔を上げると、アーネストは茶杯を手にしたままこちらを見ていた。


「顔に出ている」


「そ、そんなにですか?」


「分かりやすい」


「少し、思っただけです」


私は誤魔化すように、窓の外を見た。


通りを行き交う人々の姿が、硝子越しに流れていく。


目で追っているはずなのに、頭の中では別のことを考えていた。


「……以前、グラーフ伯爵に視察へ連れて行っていただいた時と比べて」


口にしてから、迷いが生まれる。


それでも、聞いてみたかった。


「私は、成長できたでしょうか」


アーネストは、すぐには答えなかった。


茶杯を置き、窓の外へ一度だけ目を向ける。


それから、私を見た。


「……少し、ではない」


思わず瞬きをする。


「前に連れて行った時のお前は、周りの顔色を窺って、俺の言葉を追うだけで精いっぱいだった」


胸の内が、静かに揺れた。


「今は、自分で見て、自分の考えを口にしている」


「……」


「こうして向かい合って、商いの話もできている。それを成長と言わずに、何と言う」


言葉が、すぐには出てこなかった。


褒められたのだと分かった瞬間、胸がじんわりと熱くなる。


「よかった……」


どうにかそう言うと、アーネストはわずかに顔を逸らした。


「俺に確かめるまでもない。お前自身が、一番分かっているはずだ」


いつもなら淡々と聞こえる言葉が、その時だけはどこかぶっきらぼうだった。


……照れているのだろうか。


そんなはずはないと、胸の内で小さく笑いながら、私は茶を飲んだ。


若葉の香りが、熱くなった気持ちを少しだけ落ち着かせてくれる。


しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。


それから、アーネストが何でもないことのように口を開く。


「……その後、ハーゼルベルク家からは何かあったのか」


「ハーゼルベルク家……あ、お礼状が届いただけです」


「そうか」


そこで、会話が途切れる。


ルーカスは、確かにまた会いたいと言ってくださった。


けれど、次にいつ、とはまだ決まっていない。


「あの……」


沈黙に耐えきれず、私はそっと口を開いた。


「……こういう話は、普通どう進むものなのですか」


「こういう話?」


「その……相手が悪く思っていなかったとしても、家同士で決まるのか、当人同士で何かあるのか……よく、知らなくて……」


アーネストは茶杯を卓へ戻した。


「婚約は、家が認めなければ成立しない。条件も、釣り合いも、後ろにいる家ごと見るからな」


「……では、当人同士で何か決めても……」


「約束はできる。だが、それを本当に通せるかは別だ」


その言葉に、私は小さく息を呑んだ。


「ただ、家の意向だけで無理に進めても、当人が首を縦に振らなければ揉める」


「も、揉めるのですか?」


「そういう場合もある。当人同士の意向が固ければ、家も無視はしにくい」


「……家が駄目と言えば、終わるのかと思っていました」


「必ずしも、そうとは限らない」


「そうですか……」


小さく答えてから、私は茶器へ目を落とした。


――その、当人同士の意向とは、何なのだろう。


また会いたいと誘われること。


贈り物をされること。


好きだと、言われること。


それとも――こうして、迎えに来てくれること。


私は茶器の縁をそっとなぞった。


……この人は、私のことをどう思っているのだろう。


――あなたには話しておきたいことが、いろいろあるのでしょうね。


――励ますだけで、そこまで言いますかね、普通。


伯爵夫人とカイルの言葉が、胸の内で重なった。


「まだ、何か聞きたいことがあるのか」


アーネストの声に、私は顔を上げる。


「あの……」


気づけば、声がこぼれていた。


アーネストがこちらを見る。


「……当人同士、というのは……何があれば、そう言えるものなのですか」

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― 新着の感想 ―
・・・どんだけ朴念仁なのよ、アーネスト。(もう呼び捨てでいいや) ここで気の利いた一言も出て来ないところが、らしいっちゃらしいですけど。 そしてエリナ嬢、無自覚の高破壊力どストレート発言第二弾いったね…
 浮気性な遊び人や八方美人には見えなくて、良かったですね、アーネストさん。  エリナさんはエリナさんで成長を認められてる様ですが、今日は普段以上に恋愛方面へ、自分なりに攻めようとしてる様で……どうなる…
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