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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十三章

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第7話

焼き菓子の屋台があった。


菓子を並べた籠の脇に、若葉と小さな花がひと枝添えられている。


「わぁ、かわいい」


若い娘がそう言って足を止めると、隣の男が笑った。


「さっき買ったばかりじゃないか」


「いいじゃない。せっかく来たのよ」


「じゃあ、ひとつ買っていこうか」


娘が嬉しそうに頷く。


その様子を見た別の夫婦も、つられるように屋台へ寄っていった。


包みを手にして、嬉しそうに男へ寄り添って歩いていく二人の姿に、私はつい目を留めた。


……やっぱり、恋人同士なのかしら。


「祭りの市は、ああいう買い方も多い」


隣から、アーネストの声が落ちる。


「そうですか……」


私はもう一度、屋台の方を見た。


「いいですね。祭りがあると、皆の楽しみになりますし」


「祭りは、買う理由を増やすからな」


「確かに……ついつい買い物をしたくなりますものね」


「ああ。普段なら見送るものでも、その日だけは手が伸びる」


「分かります」


思わず、くすっと笑う。


それから、ふと思った。


うちの領にも、祭りの日になれば普段より人は集まる。


定期市も少し賑わうし、行商人の姿が増えることもある。


ただ、行き交う顔ぶれのほとんどは領民だ。


顔なじみが多く、買われていくのも、日々の暮らしに要るものが中心になる。


それに比べると、グラーフ伯爵領の春の市は違っていた。


近隣の村や町から来たらしい人々に、荷車を引いた行商人、祭り見物らしい家族連れまで交じっている。


……そもそも、領地の規模が違うのだから、同じようにはいかないのだけれど。


「違って見えるか」


不意にそう言われて、私ははっと顔を上げた。


「お前の領と」


「……はい」


「祭りそのものを真似る必要はない。人が何に関心を持っているかを見ろ」


私は、もう一度、市の方へ目を向けた。


規模を真似することはできない。けれど、この空気作りなら、少しは取り入れられるかもしれない。


ただ品を並べるだけではなく、季節の色を添える。


普段の市ではなく、その日だけの楽しみだと分かるようにする。


もしかしたら、名前を変えるだけでも違うのではないだろうか。


定期市ではなく、春の市にして、収穫祭だけではなく、林檎の市とか……。


「他に見たいものはあるか」


「え……」


顔を上げると、アーネストは前を見たまま続ける。


「せっかく来たんだ。気になるものがあるなら、今のうちに見ておけ」


「は、はい……じゃあ……さっきのお菓子のお店を、近くで見てもいいですか?」


アーネストは一度だけ頷いた。


「なら、行くぞ」


アーネストに連れられて近づいてみると、その屋台は祭りの日だけの仮設ではなく、町で店を構える菓子屋が表へ出しているものらしかった。


「わぁ……」


淡い桃色の布を掛けた板台の上には、普段から出しているのだろう素朴な焼き菓子に混じって、今日は祭り向けに見映えを整えた品が手前へ並べられている。


蜂蜜で照りを出した小さな焼き菓子。


木の実をまぶした丸い菓子。


乾かした林檎を練り込んだ薄焼き。


その中に、花の色を移した砂糖をひとつまみだけかけた、明るい菓子が混じっていた。


奥には、普段売りの大きめの菓子や、持ち帰り用の包み菓子が控えている。


客の手が先に伸びるのは、やはり手前の、季節の色を足したものばかりだった。


「どれも美味しそう……」


見ていて飽きない。


無意識に顎へ手を当てる。


こうして祭りの日に表へ出せるのは、普段から店を続けていけるだけの町があるからだ。


……うちの領では、まだそこまで回らない。


たったひとつの菓子屋でも、領地の違いが見えてしまう。


「……見ているだけでは分からん」


不意に、隣から低い声が落ちる。


顔を上げると、アーネストは店先の菓子へ視線を向けたままだった。


「試してみろ」


「試す?」


「客が何に金を払うかを見るなら、自分でも口にしておけ」


「は、はい……」


私は並んだ菓子をもう一度見渡した。


素朴な焼き菓子も気になったけれど、今日ここで人の目を引いていたのは、やはり春の色を足したものだった。


「……では、これを」


指さしたのは、花の色を移した砂糖をひとすじだけかけた、小さな焼き菓子だった。


店の女がにこやかに頷く。


「ありがとうございます。おひとつでよろしいですか?」


「はい」


そう答えて、私は慌てて財布へ手を伸ばした。


けれど、その前に隣から貨幣が置かれる。


顔を上げると、アーネストは店先を見たまま、そっけなく言った。


「今日は私が連れてきた」


「で、でも……」


「口にしておけと言ったのは私だ」


店の女は一瞬だけ姿勢を正し、それから丁寧に菓子を包みに載せた。


「ありがとうございます」


差し出された小さな包みを受け取り、私は思わずアーネストをちらりと見た。


食べてしまっていいのだろうかと迷っていると、低い声が落ちる。


「遠慮するな」


「……はい」


包みをそっと開き、ひとくちだけ口に運ぶ。


さく、と軽い音がして、そのあとに蜂蜜のやわらかな甘みが広がった。


花の色を移した砂糖はほんの少しだけで、甘さはくどくない。


「……おいしい」


思わず、頬が緩む。


「そうか」


アーネストは短く答えただけだったが、その声が少しだけ柔らかく聞こえた気がした。


行き交う人影の向こうに、さっきの二人連れが小さく見えた。


包みを手にしたまま、肩を寄せるように歩いている。


……私たちも、あんなふうに見えたりするのかしら。


そう思った瞬間、胸の奥がまた落ち着かなくなった。


「……何を見ている」


「い、いえ……色々な方がいらっしゃるなと思って……」


ふと、アーネストの視線が私の顔のあたりで止まった。


「……口元」


「え?」


「ついている」


「えっ、ええっ」


慌てて指で払おうとしたけれど、どこなのか分からない。


アーネストは小さく息をつくと、懐から白いハンカチを取り出した。


「動くな」


「は、はい」


白い布が、唇の端をそっと拭う。


ほんの一瞬のことだったのに、息が止まりそうになった。


「……取れた」


「あ、ありがとうございます……」


「子どもではないのだから、落ち着いて食べろ」


そう言って、アーネストは布を畳んだ。


私は顔が熱くなるのを感じる。


こんなこと。


こんなこと、まるで本当に――。


そこまで考えて、慌てて言葉を飲み込んだ。


でも、もう気づかないふりはできなかった。


「……あの、少し聞いても、いいですか?」


「何だ」


聞くのは怖い。


それでも、聞かなければ、私はまた勝手に期待して、勝手に不安になるだけだ。


私は小さく息を吸った。


「グラーフ伯爵は……その、他の方にも、こんなふうに案内されるのですか?」

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― 新着の感想 ―
おおっ! 次回がしょぼん……ではありませんように!
なんと、エリナ嬢がどストレートに真正面から行った! アーネストさんってば、女性から言わせるなんて、なにやってんですか。 もぉ〜ここではっきり意思表示しなかったら、男じゃないからね?!
 少し肩の力を抜いての話が出来つつある様子のアーネストさんとエリナさん。  それでも、空気感や雰囲気を楽しみつつ、祭りを行うと仮定したうえでの色彩や名称などを思案する辺り、追求意欲が萎えませんね。 …
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