第6話
――今日は、市を見るだけ。
そう分かっているのに、私が選んだのは、持っている中でいちばん明るい色の服だった。
淡い黄色のワンピースは、以前、パン工房の夫人からいただいたものだ。
あの方はいつも明るい色を好んでいて、聞けば、ご主人の好みなのだという。
「……可愛い」
以前に袖を通した時よりも、今はきちんと身体に沿っている。
少し詰めてもらったおかげで、袖も裾もぴたりと収まっていた。
鏡の前で一度、全身を確かめる。
「……少し、浮かれすぎかしら」
けれど、ほかの服を思い浮かべても、どれも今日には合わない気がした。
「これくらいなら、大丈夫よね」
小さく言い聞かせ、ようやく鏡の前を離れる。
どこまでなら、気負わずにあの人と歩けるのだろう。
そんなことを考えながら部屋を出た。
階下へ向かう途中、廊下で兄と鉢合わせた。
兄は一瞬だけ足を止め、私の姿を眺める。
「……どこへ行くんだ」
「グラーフ伯爵領の市へ行ってまいります」
「市?」
兄はそう繰り返すと、私の服へもう一度目を向けた。
「ずいぶん、めかし込んでいるな」
「市場とはいっても、伯爵家の方に案内していただくので……」
「ふうん」
兄はそれ以上、何も言わなかった。
私は小さく会釈をし、その場を離れる。
玄関へ向かおうとしたところで、前方から執事が足早にやって来た。
「お嬢様」
「どうしたの?」
「グラーフ伯爵家より、馬車がお迎えに来ております」
「……え?」
思わず足が止まった。
迎え?
市へ向かう時間を知らせただけなのに。
私は裾を押さえ、急いで階段を下りた。
玄関を出ると、見慣れた紋章を掲げた馬車が止まっていた。
「……グラーフ伯爵家の馬車」
思わず小さく呟く。
御者は私に気づくと、すぐに扉の前へ回った。
「エリナ様」
「……ありがとうございます」
どうにかそれだけを返し、戸惑ったまま馬車へ足をかける。
「失礼いたします――」
言いながら中を見た瞬間、息が止まった。
「……え」
アーネストが、そこに座っていた。
濃紺の上着に、灰色の胴衣。
飾り気のない装いはいつもと変わらないけれど、今日は襟元が少しくつろげられていて、普段よりもくだけて見えた。
「遅い」
「……っ」
喉が詰まり、すぐには言葉が出てこない。
「ど、どうしてこちらに……」
「迎えに来ただけだ。祭りの日に一人で来させる方が面倒だからな」
「わざわざ、すみません……」
「礼を言われるほどのことでもない」
アーネストはそう言って、向かいの席を軽く示した。
「乗れ。出すぞ」
「……はい」
慌てて腰を下ろすと、馬車がゆるやかに動き始めた。
落ち着かないまま膝の上で指を重ねていると、アーネストがこちらを見る。
「その服、悪くないな」
「……え?」
「春の市に合っている」
「あ、ありがとうございます……」
――着てきて、よかった。
そう思った途端、頬が緩んだ。
その様子を見ていたのか、アーネストが口を開く。
「……そういう顔をするなら、迎えに来た甲斐はあったな」
「え……」
顔を上げた時には、アーネストは窓の外へ目を向けていた。
それきり、馬車の中にしばらく言葉はなかった。
車輪が石畳を打つ音だけが、規則正しく響いている。
それを聞いているだけでも胸が浮き立つようで、なかなか鼓動が静まらない。
私は気持ちを落ち着かせようと、窓の外へ目を向けた。
祭りへ向かう人の姿が、少しずつ増えている。
「今日は、品だけでなく、人の流れも見ておけ」
「は、はい……」
急に声をかけられ、一拍遅れて返事をした。
やがて、馬車がゆるやかに速度を落とす。
「着いたぞ」
窓の外には、春の市の入口へ続く通りが見えていた。
すでに多くの人が行き交い、露店の天幕や、色とりどりの布が目に入る。
馬車が止まったのは、賑わいの真ん中ではなく、少し奥まった馬車留めだった。
アーネストは先に立ち上がり、そのまま馬車を降りた。
私も続こうと、裾を整えながら出口へ身を寄せる。
その時、外から片手が差し出された。
「足元に気をつけろ」
「……あ」
アーネストは、何でもないことのように手を差し出している。
私は一瞬だけためらってから、そっと自分の手を重ねた。
次の瞬間、思っていたよりもしっかりと支えられ、そのまま地面へ導かれる。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言ったけれど、アーネストは手を離さなかった。
「中は混む。このまま行くぞ」
「……え?」
「はぐれる方が面倒だ」
そう言って、私の返事を待たずに歩き出す。
私は慌ててついていきながら、指先に伝わる熱ばかりを意識してしまう。
……こうして手を引かれるのは、前にもあったはずなのに。
あの時よりも、ずっと落ち着かない。
市へ入ると、春の色が一気に押し寄せてきた。
花苗を並べた屋台の前には若い娘たちが集まり、早咲きの切り花を挿した小瓶や、明るい色に染められた細いリボンが風に揺れている。
焼いた蜜菓子の甘い匂い。
束ねられた香草の青い香り。
布地を広げる音や、客を呼び込む声。
王都の洗練された華やかさとは違う、のびやかな明るさがあった。
「……すごい」
「ぼんやり見るな。人がどこで足を止めているか、よく見ておけ」
私ははっとして、慌てて周囲へ目を巡らせた。
言われて見回すと、足を止める人の先には、鮮やかな花や甘い香り、風に揺れる飾りがあった。
「これなら、そのまま食卓へ置けるわね」
若い夫人が、小さな花瓶を手に取った。
「この色は、春祭りの間だけなんです」
店の娘がそう告げると、連れの女性が笑う。
「では、今のうちですわね」
少し先では、焼き菓子の屋台の前で、ひとりの女性が首を傾げていた。
「甘すぎなければ、うちの人も食べるかしら」
「でしたら、木の実を使った方を。こちらは少し塩気がございます」
別の布屋の前では、若い娘たちが細いリボンを指先で揺らしている。
「可愛いけれど、何に使うの?」
「髪にも、籠にも。細いから、少し足すだけで春らしく見えるのよ」
皆、楽しそうだった。
そのやり取りを見ているうちに、つい頬が緩む。
普段使いの布や器を並べた店の前では、足を止める人は少ない。
けれど、春だけの色や飾りが添えられた品には、次々と手が伸びていた。
「何が見えた」
「……皆、季節を買っているのですね」
そう答えると、アーネストは小さく頷いた。
「物そのものだけじゃない。今しか買えない理由に金を払う」
「それなら……」
アーネストがこちらを見る。
「言ってみろ」
「普段使いの品でも、春の色や飾りを少し添えるだけで、手に取られ方が変わるのではないでしょうか」
アーネストは一瞬だけ黙った。
「……悪くない」
「本当ですか?」
「品そのものを変えずに、季節を売るつもりならな」
胸の内が、少しだけ跳ねる。
「はい……」
私は思わず前へ目を向けた。
すると、その先に――




