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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十三章

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第5話

翌日、昼を少し過ぎた頃、私は木苺のジャムと干し木苺を包み、グラーフ伯爵家を訪れた。


案内された応接間には、春の柔らかな光が差し込んでいた。


窓辺の花器には、淡い桃色のチューリップと白い小花が飾られている。


ほどなくして、グラーフ伯爵夫人が入ってきた。


「いらっしゃい、エリナ嬢」


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


挨拶をすると、伯爵夫人はすぐに私の手元の包みへ目を留めた。


「それが、例の木苺ね」


「はい。まだ数は少ないのですが……干したものと、ジャムを持って参りました」


「まあ、楽しみだわ」


伯爵夫人が席につくと、私は包みを開いた。


小さな硝子壺に詰めた木苺のジャムと、布を敷いた小皿に並べた干し木苺。


その横には、薄く焼いたパンも添えてある。


「まずは、こちらをお試しください」


木の匙でジャムを少しだけ掬い、パンへのせて差し出す。


伯爵夫人はそれを受け取り、ひと口だけ口へ運んだ。


「……あら」


その目が、わずかに見開かれる。


「思っていたより、果実の味が濃いのね。それでいて、酸味は尖っていないわ」


「熟れの進んだものに、干したものも少し加えて煮ておりますので、果実の味が濃く残るのだと思います」


伯爵夫人はもうひと口味わってから、満足そうに頷いた。


「ええ、悪くないわ。木苺らしい香りも、きちんと残っているのね」


「干した方も、よろしければ」


今度は小皿を差し出すと、伯爵夫人は指先でひとつ摘んだ。


「まあ、ずいぶん小さいのね」


「干し上がると、かなり小さくなってしまいます。それに、取れる数も多くありませんので……」


「だからこそ、かえって目を引くのかもしれないわね」


そう言って、夫人は干し木苺を口へ運んだ。


しばらく味わってから、ふっと笑う。


「こちらは面白いわ」


「面白い……ですか?」


「ええ。たくさん食べるものではないけれど、少し添えるだけで印象が変わりそう。お茶の席にも、焼き菓子にも使えそうね」


「そうですか……」


「ええ。ただ――」


伯爵夫人は小皿を見下ろしたまま続けた。


「これを主にするには、やはり数が足りないわね」


「はい。でも、まだ出始めたばかりですから……時期が進めば、もう少しは取れると思います」


「そうでしょうね」


伯爵夫人は頷きながら、もう一度小皿へ目を落とした。


「でも、量が増えたとしても、これを主役にするのは少し違う気がするわ」


「……珍しいものだから、でしょうか?」


「ええ。だからこそ、少しでいいのよ。たくさん並べるより、ひとつふたつ添えた方が印象に残るわ」


私は小皿に並んだ木苺を見つめる。


あまりに少量しか用意できず、どう扱えばよいのか悩んでいた。


けれど、数が少ないからこそ、希少な品として価値を持たせることもできるのかもしれない。


「……分かりました」


伯爵夫人は満足そうに頷くと、紅茶へ手を伸ばした。


「そういえば、先日はハーゼルベルク子爵夫人のお茶会へいらしたそうね」


「は、はい」


急に話題が変わり、私はわずかに背筋を伸ばした。


「ルーカス様とは、よくお話しになったの?」


「はい……私が困らないように、何度も話題を振ってくださいました」


「まあ。お話し上手な方なのね」


「はい。とてもお優しい方で……」


そこまで言って、なぜか落ち着かない気持ちになった。


「あ、でも……アーネスト様も、いつも私に話しかけてくださいます」


「そうなの?」


「はい。実務者会では、私に必要な方をご紹介くださいましたし……仮面舞踏会でも、見つけて声をかけてくださって……」


口にしながら、思っていた以上にいくつもの出来事が浮かんでくることに気づく。


「……何かあるたびに、助言もしてくださいます」


伯爵夫人の目が、ゆっくりと細められた。


「うちの息子、口数が多い方ではないでしょう?」


「……そうなのですか?」


「ええ。必要のないことまで、自分から話すような子ではないわ」


その言い方に、胸の内がひくりと揺れた。


伯爵夫人は何でもないことのように、紅茶をひと口飲む。


「でも、気になることには案外口を出すのよ」


「……あの」


「なあに?」


「いえ……」


「そんなに困った顔をなさらなくても大丈夫よ」


伯爵夫人は楽しげに笑った。


「少なくとも、あなたには話しておきたいことが、いろいろあるのでしょうね」


その瞬間、扉の向こうで足音が止まった。


「噂をすれば、かしら」


続いて、ノックの音が響く。


「母上」


聞き慣れた低い声に、胸が跳ねた。


「入りなさいな」


扉が開き、アーネストは部屋へ入るなり、卓の上へ目を向けた。


それから、私を見る。


「……もう試したのか」


「ええ。ちょうど今、感想をお伝えしていたところよ」


「そうか」


私は思わず顔を伏せた。


頬が熱い。


伯爵夫人の言葉が、まだ耳の奥に残っている。


「……顔を上げろ」


「……っ」


「今は、品の話をしている」


「……はい」


そっと顔を上げると、アーネストは私を見たまま一拍置いた。


それから、ようやく卓上の瓶へ目を移す。


木の匙で少しだけ掬い、木苺のジャムを口へ運んだ。


「……悪くない」


短くそう言ってから、アーネストは干し木苺をひとつ摘んだ。


口に運び、味を確かめるようにしばらく黙る。


「先に試すなら、厨房か菓子工房だ」


「……ですが、数が少ないので、今のままではお約束しにくくて……」


「最初から店先へ並べる話ではない」


「でしたら……王都のパン工房か、商会に少量だけお願いするか……」


けれど、この量で試してもらえるだろうか。


どこへ持ち込むべきか考えていると、アーネストが口を開いた。


「うちで試せばいい」


「え……」


「厨房と菓子工房へ少しずつ回して、使い方ごとの反応を見る」


「ええ。まずはこちらで試してみればよろしいわ」


伯爵夫人も頷いた。


アーネストは私へ目を戻す。


「合う使い方が分かれば、その後で売り方を考えればいい」


「あ……ありがとうございます」


私は深く頭を下げた。


「そういえば、もうすぐ祭りだったわね」


伯爵夫人の不意の一言に、胸がどきりと跳ねる。


「市も立つし、春の品を見るにはちょうどいい頃よ。エリナ嬢もいらっしゃるのかしら?」


私はそっとアーネストを見た。


彼はこちらを見ず、卓上の小皿へ目を落としたまま、何でもないことのような顔をしている。


「……はい。よろしければ、行ってみたいと思っています」


「そうしなさい。春の市は、見るものが多くて楽しいわよ」


伯爵夫人はにこりと笑ったまま、アーネストへ顔を向けた。


「あなた、きちんと案内して差し上げなさい」


「分かっている」


「あら。ずいぶん素直なのね」


アーネストは答えず、干し木苺をもうひとつ摘んだ。


伯爵夫人は楽しそうに紅茶を口へ運ぶ。


私は再び落ち着かなくなり、そっと目を伏せた。



エリナが帰ったあと、応接間には木苺の甘い香りがほのかに残っていた。


伯爵夫人はカップへ指先を添えたまま、向かいに立つ息子を見上げる。


「もしかして、もう先にお誘いしていたの?」


アーネストは答えず、小皿の干し木苺へ目を落とした。


「市を見せる必要があっただけだ」


「必要、ねえ」


「事実だ」


「ええ、そうなのでしょうね」


伯爵夫人は小さく笑った。


「まあ、ほかにも理由はありそうだけれど」


アーネストはそれ以上言い返さず、卓上の瓶へ手を伸ばした。


けれど、蓋へ触れた指がふと止まる。


伯爵夫人の視線に気づいたのか、何でもなかったように手を引いた。

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― 新着の感想 ―
読み返しているとアーネストさん、「あなた」「きみ」「おまえ」って呼び方が変わってますが、わりと初期からおまえ呼びしてましたねー。 丁寧な口調もすぐ抜けて、エリナさんがすでに自分のモノのようでもあり、部…
甘酸っぱい木苺が、じれったい2人の関係性を象徴しているように感じました。 お節介な訳でもなく、我関せずな訳でもなく、絶妙なタイミングと力加減で背中を押してくれる・・・伯爵夫人は理想的なお母様ですね。 …
 辛酸な記憶になるでもなく、ほろ苦い思い出になるでもなく、着々と進む木苺の試作品に関する話……今のところ、好評ですし、市への進出も話題に出ましたが、どうなるでしょうかね。
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