逃れられぬ任務
ブレントが司令室へ向かって歩いていると、肌を刺すような威圧感が、廊下の奥からじわじわと押し寄せてきた。
それは、戦闘警報が鳴り響く直前の緊迫感とも、敵機の大編隊が接近していると報告された際の慌ただしさとも違っていた。
もっと静かで、もっと不気味な何かだった。
基地そのものが、普段とは異なる空気に包まれている。
ブレントは歩調を変えないまま、視線だけを左右へ巡らせた。
いつもなら、朝の基地には独特の喧騒が満ちている。
廊下を行き交う兵士たちの足音、当直明けの隊員が交わす短い挨拶、遠くの格納庫から響いてくる整備機材の駆動音。
それらが複雑に重なり合い、巨大な軍事組織が今日も動き続けていることを感じさせる。
ところが、今朝は違った。
廊下を歩く兵士たちは必要以上に口数が少なく、すれ違う際にも互いに目を合わせようとしない。壁際に設置された端末の前では、数人の将校が資料を手に何かを話し合っていたが、ブレントが近づいた途端、まるで示し合わせたかのように会話を打ち切った。
そのうちの一人は、手元の書類を慌てて閉じさえした。
ブレントは何も言わず、その横を通り過ぎた。
(……なんだ? 朝っぱらから、随分と妙な空気じゃねえか)
気にならないはずがなかった。
長年、軍隊という組織の中で生きてきたブレントには、言葉にされない異変を察知するだけの経験がある。戦闘が始まる前には、命令が届くより先に現場の空気が変わることがある。
上層部から重大な通達が下りたときには、情報を知らされた者と知らされていない者との間に、目に見えない隔たりが生まれる。
そして、何かを隠そうとする人間は、隠そうとする意識そのものによって、かえって不自然な振る舞いを見せるものだった。
今朝の基地には、そのすべてが当てはまっているように思えた。
もっとも、ブレントが知る限り、戦闘警報は発令されていない。
少なくとも、自分の管轄する管制系統に緊急出撃を要請する命令は届いておらず、各飛行隊にも通常の警戒態勢から逸脱した動きは見られなかった。
レーダー監視網に重大な異常が発生したという報告もなければ、敵航空戦力の大規模な接近を示す情報も入っていない。
それなのに、基地全体が何かに備えて息を潜めているようだった。
まるで、誰かが基地の上に見えない蓋を被せ、そこにいる全員の呼吸を少しずつ奪っているかのように。
こういう空気を生み出すものは、必ずしも敵の存在とは限らない。むしろ、軍隊においては味方の人間がもたらす緊張のほうが、厄介な場合さえある。
命令系統の上層部から突然の査察が入ったとき。
軍法会議に関わる重大な問題が発覚したとき。
あるいは、普段なら表に出ることのない組織が、何らかの目的を持って動き始めたとき。
ブレントの頭の中で、いくつもの可能性が浮かんでは消えていった。
しかし、どれも決定的な答えにはならない。
(まったく、朝から面倒なことになってやがる)
昨日の夜から、彼の周囲では妙なことばかりが続いていた。
基地司令から渡された、カイに関する機密資料。
異常なほど詳細な身体検査記録と飛行適性評価。
ところどころに施された、通常の軍事機密とは思えないほど広範囲な黒塗り。
そして、最後のページに記されていた二つの名称。
Λ計画。
GRIM REAPER。
それらの文字を思い出した途端、ブレントの胸の奥に、冷たいものが沈んでいった。
昨夜は資料を読み込むうちに机で眠り込んでしまったが、目を覚ました今も、あの計画名だけは頭から離れていなかった。
単なる次世代戦闘機の開発計画であるなら、わざわざあれほど多くの情報を隠す必要があるのだろうか。
操縦者の飛行特性との適合性を最優先とする。
資料に残されていた、その一文も気になっていた。
まるで、機体の性能を追求することよりも、特定の操縦者に合わせて機体そのものを造り上げることが、最初から計画の中心に据えられていたかのような記述だった。
そして、その操縦者として記されていたのは、ほかでもないカイ・ラグナーだった。
(まさか、あれが関係してるんじゃねえだろうな……)
ブレントは思考を打ち切るように、軽く息を吐いた。
まだ何も確かめていない段階で、勝手に結論を出すべきではない。
情報が不足している状況で憶測に頼るのは、管制官として最も避けるべき行為の一つだった。
それでも、経験からくる嫌な予感だけは、どうしても拭い去れなかった。
やがて、司令室へ続く廊下の角が見えてきた。
ブレントは何気ない様子を装いながら角を曲がり、そこで初めて足を緩めた。
前方に、見慣れない将校たちが立っていた。
全員が、黒を基調とした制服を着用している。
その胸元には、帝国情報局の紋章が刻まれていた。
ブレントは思わず目を細めた。
帝国情報局。
ノルヴァイン帝国の軍事機密と国家安全保障に深く関わり、通常の軍指揮系統とは異なる権限を持つ組織である。
その名を知らない軍人はいない。
しかし、その実態を詳しく知る者となれば、話は別だった。
情報局の人間は、必要がなければ表に出てこない。
まして、前線基地へ大人数で乗り込んでくるようなことは滅多にない。
彼らが動くときには、たいていの場合、通常の軍事作戦とは別の事情が絡んでいる。
それだけに、彼らの存在は厄介だった。
軍人としての階級や所属部隊が、そのまま通用するとは限らない。
現場の指揮官でさえ、彼らが持ち込んだ命令書一枚によって、予定していた作戦や人員配置を変更させられることがある。
そして何より、彼らは自分たちが何を調べ、何を目的としているのかを、必要最低限の人間にしか明かさない。
ブレントは、そんな連中が司令室の前に並んでいる光景を、しばらく黙って見つめた。
黒い制服の将校たちは、廊下の両側に一定の間隔を保って立っていた。
誰も談笑していない。
誰も落ち着きなく周囲を見回していない。
ただ、まっすぐ前を向き、任務に徹している。
その姿勢は、通常の警備要員が見せるものとは明らかに違っていた。
必要以上に威圧的な態度を取っているわけではない。
それでも、一人ひとりが周囲の状況を把握し、互いの動きを完全に理解していることが、遠目にも伝わってくる。
訓練によって徹底的に統制された人間たち。
それも、ただ命令に従うだけの兵士ではない。
自分たちが何を守るべきなのかを理解し、そのために必要な行動を、誰に指示されるまでもなく実行できる人間たちだった。
ブレントは、彼らの胸元にある紋章へ視線を落とした。
(……なんで情報局が、こんな前線基地にいやがる)
その疑問は、すぐに別の疑問へとつながった。
なぜ、これほどの人数が必要なのか。
なぜ、司令室の前を警備しているのか。
そして、なぜ基地の人間たちは、彼らの存在を知っているにもかかわらず、誰一人として事情を説明しようとしないのか。
答えは簡単だった。
この先で、何かが起きている。
しかも、その何かは、基地司令が独断で処理できるような問題ではないのだろう。
ブレントは視線を前へ戻し、再び歩き始めた。
胸の奥で、嫌な予感がゆっくりと膨らんでいく。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
自分は基地司令に呼び出されている。
そして、今朝の異変が何であれ、少なくともその理由を確かめる必要があった。
司令室の入口まで数歩というところで、壁際に立っていた情報局員の一人が、静かにこちらへ顔を向けた。
その視線が、ブレントの階級章を確認する。
「ご用件を伺います」
丁寧な口調だった。
だが、そこには親しみも、必要以上の敬意も感じられなかった。
あくまで職務上の確認。
それ以上でも、それ以下でもない。
ブレントは足を止め、相手の目を見た。
「ウェルロッド少佐だ。基地司令から呼び出しを受けている」
「少々お待ちください」
情報局員はそれだけ告げると、隣に立つ同僚へ視線を向けた。
短い目配せ。
それだけで意図が伝わったらしく、もう一人の局員が扉の横に設置された端末へ近づいた。
ブレントは、その一連の動作を黙って見ていた。
無駄がない。
確認に必要な言葉しか使わず、互いの動きを妨げることもない。しかも、彼らはブレントの階級を確認したあとも、決して警戒を緩めていなかった。
自分は帝国空軍の少佐であり、この基地において一定の職務と権限を持っている。
それでも、目の前の人間たちは、彼を無条件に通すつもりはないらしい。
(やれやれ。俺はただ、呼ばれてきただけなんだがな)
胸中でぼやきながら、ブレントは待った。
扉の向こうからは、何の物音も聞こえてこなかった。
怒鳴り声も、会議の声も、書類をめくる音さえ聞こえない。
まるで、室内に誰もいないかのような静けさだった。
やがて、端末を操作していた情報局員が顔を上げた。
「確認が取れました。どうぞ、お入りください」
「……ああ、どうも」
ブレントが短く応じると、情報局員は扉のロックを解除した。
重厚な扉が、音もなく開いていく
その向こうに広がる光景を目にした瞬間、ブレントは思わず眉をひそめた。
室内には、すでに複数の人間が集まっていた。
まず目に入ったのは、部屋の中央付近に立つ若い将校だった。
カイ・ラグナー。
普段の彼は、黒い飛行服を身にまとい、必要最低限の言葉だけで周囲と意思疎通を図る。任務を終えても感情を大きく表に出すことはなく、戦果を誇ることも、無用な弁解をすることもない。
だが、今の彼は違っていた。
黒い飛行服ではなく、帝国軍の正式な軍服ではなくどちらかと言うと情報局の制服に似た物を着ていた。
襟元は整えられ、胸元の階級章も乱れなく収まっていた。背筋は真っすぐに伸び、両足は規定どおりの位置に置かれている。
その姿勢には、軍人としての規律が隅々まで行き渡っていた。
もっとも、ブレントが驚いたのは、その服装ではなかった。
カイの表情が、いつもとまったく変わっていなかったことだ。
これほど物々しい状況に置かれているにもかかわらず、彼の顔には緊張も困惑も浮かんでいない。
周囲に控える情報局員たちを前にしても、必要以上に身構える様子はなく、ただ静かにその場に立っている。
まるで、こうした状況そのものが、彼にとって特別なことではないかのように。
(……おいおい。なんでお前が、そんなところに立ってるんだ)
ブレントは胸中で呟いた。
しかし、カイのその表情からは何も読み取れない。
昨日の戦闘について事情聴取を受けているのか。
F-15Λに関する機密事項について、何らかの説明を求められているのか。
それとも、昨夜ブレントが読んだ資料に記されていた、あの不穏な計画に関係しているのか。
どれも可能性としては考えられた。
だが、どれも確証はない。
ブレントが思考を巡らせていると、カイがこちらに気づいた。
その視線が、ほんのわずかに動く。
目が合った。
しかし、カイは何も言わなかった。
驚いた様子も、助けを求めるような仕草も見せない。
ただ一瞬だけブレントを見て、それから再び正面へ視線を戻した。
その短いやり取りだけで、ブレントは彼が普段どおりの状態にあることを確認した。
少なくとも、目に見える範囲では。
だが、だからこそ不安が募った。
カイは、自分に何か問題があっても、それを周囲に伝えようとしないことがある。
自分が傷つくことを軽視し、任務に必要だと判断すれば、どれほど危険な状況であっても迷わず踏み込んでいく。
ブレントは、それを何度も見てきた。
だからこそ、カイの無表情を、そのまま平静の証拠として受け取ることはできなかった。
(……頼むから、面倒なことに巻き込まれてるんじゃねえだろうな)
心の中でそう呟きながら、ブレントは室内のさらに奥へ視線を移した。
そこに、一人の男が腰掛けていた。
黒いローブ。
装飾を抑えた衣服。
机の上に置かれた書類へ静かに目を落とし、まるでこの場に集まった人間たちの存在など、最初からすべて把握しているかのような落ち着き払った態度を見せている。
年齢や外見だけでは、彼がどのような人物なのかを判断することは難しかった。
ただ、その姿には、一般的な軍人とは明らかに異なる雰囲気があった。
軍服を着ているわけではない。
それでも、室内に控える情報局員たちは、彼の一挙手一投足に注意を払っている。
彼が顔を上げれば、周囲の視線が自然とそちらへ向く。
彼が書類を置けば、その小さな音さえも室内にいる全員が意識しているようだった。
命令を大声で叫ぶ必要もなければ、威圧的な態度を取る必要もない。
そこにいるだけで、周囲の人間が彼を中心として動いている。
ブレントは、その光景を見た瞬間に理解した。
この男が、ここにいる情報局員たちの中心人物なのだ。
そして、おそらくは、基地司令よりも強い影響力を持っている。
室内には暖房が入っているはずだった。
壁際の空調設備は正常に動作しており、天井近くの通風口からは温められた空気が静かに流れている。
それなのに、ブレントには、この部屋だけが異様に寒く感じられた。
肌にまとわりつくような緊張感。
誰も余計な言葉を発しようとせず、わずかな衣擦れや椅子の軋みさえも、妙に大きく耳へ届いてくる。
室内の端には基地司令が立っていた。
今の彼は、どこか落ち着かない様子を見せていた。
背筋こそ伸ばしているものの、両手の位置は不自然なほど整えられ、視線も必要以上に黒いローブの男へ向けられている。
まるで、自分の基地であるにもかかわらず、ここでの立場を慎重に確認しなければならないかのようだった
その様子を見て、ブレントの胸中に、さらに強い疑念が生まれた。
(基地司令まで、あんな調子かよ……)
情報局の人間が来ること自体は、決して前例のない話ではない。
だが、基地司令がこれほどまでに気を遣っているとなれば、単なる査察や通常の情報交換では済まない可能性が高い。
しかも、そこにカイがいる。
昨夜、自分が読み込んでいた機密資料の内容が、嫌でも脳裏に浮かんできた。
Λ計画。
GRIM REAPER。
カイ・ラグナー。
そして、あの黒い戦闘機。
ブレントは、無意識のうちに拳を握りかけた。
(まさか、本当に関係してやがるのか……?)
まだ決まったわけではない。
ただ、状況を並べて考えれば考えるほど、無関係だと考えるほうが難しくなっていく。
なぜ情報局が、この基地に来たのか。
なぜカイが呼び出されているのか。
なぜ基地全体が、朝から妙な緊張に包まれているのか。
そして、なぜ自分まで呼び出されたのか。
それらの疑問が、一本の線でつながり始めていた。
だが、その線がどこへ続いているのかは、まだ見えない。
ブレントが立ったまま室内を見回していると、黒いローブの男の傍らにいた情報局員が、静かに歩み寄ってきた。
「閣下、ウェルロッド少佐殿が到着なさいました」
その声は、静かな室内によく通った。
黒いローブの男は、手元の書類からゆっくりと顔を上げた。
そして、ブレントを見た。
その瞬間、ブレントは自分の背筋に、冷たいものが走るのを感じた。
男の眼差しは、決して露骨に敵意を示すものではなかった。
怒りもなければ、侮蔑もない。
むしろ、驚くほど穏やかだった。
だが、その穏やかさが、かえって不気味だった。
相手の反応を探るような視線ではない。
初対面の人間を値踏みするような視線でもない。
まるで、ブレントという人間について、すでに必要な情報をすべて把握しているかのような目だった。
「ようやく、揃いましたね」
男はそう言って、手元の書類を机の上へ置いた。
声は低く、落ち着いていた。
それでいて、言葉の一つひとつに無駄がない。
ブレントはその声を聞きながら、相手の顔を注意深く観察した。
見覚えはない。
少なくとも、直接顔を合わせた記憶はなかった。
しかし、相手がどのような立場の人間なのかについては、すでにある程度の見当がついていた。
帝国情報局の局員たちが、これほどまでに規律正しく振る舞っている。
基地司令でさえ、相手の出方を窺っている。
その中心にいる人物が、単なる一将校であるはずがなかった。
男は椅子から立ち上がることなく、ブレントとカイを順番に見た。
その視線は、二人を一人の人間として見定めているというよりも、必要な人物が予定どおり揃ったことを確認しているようだった。
そこには、再会を喜ぶ感情も、初対面の相手に対する好奇心も見られない。
ただ、予定された手順の一つが、滞りなく進んだことを確かめるような冷静さだけがあった。
「どうぞ、お掛けください。ラグナー中尉、ウェルロッド少佐」
男は卓上の椅子を指し示した。
カイは何も言わずに椅子へ向かった。
ブレントも一瞬だけ男の顔を見たあと、軽く頭を下げた。
「失礼します」
二人は指定された席に腰を下ろした。
椅子の脚が床を擦る音が、静かな室内に響いた。
その音が消えると、再び沈黙が戻ってきた。
正面には黒いローブの男。
隣には、相変わらず表情を変えないカイ。
周囲には、壁際に控える情報局員たち。
そして、部屋の端には基地司令が立っている。
ブレントは背筋を伸ばし、膝の上で両手を組んだ。
軍人として、上官や高位の人物と面会する機会は少なくない。
作戦会議に出席したこともあれば、戦果報告のために上層部へ呼び出されたこともある。
前線の管制官という立場上、航空作戦に関する報告や戦闘評価を求められることも珍しくなかった。
しかし、今の状況は、それらとは根本的に異なっていた。
何の説明もない。
何の資料も渡されていない。
こちらが何を求められているのかさえ、まだ明かされていない。
それにもかかわらず、情報局の人間たちは、すでに必要な手順をすべて把握しているようだった。
ブレントは正面の男を見据えた。
「それで、自分たちをわざわざ呼び出した理由を伺っても?」
問いかける声は、いつもどおりの調子を保っていた。
しかし、その内側では、警戒心が静かに高まっていた。
単刀直入に聞くのが一番だ。
相手が何を隠しているにせよ、こちらから余計な情報を与える必要はない。
まずは目的を聞き出し、相手がどこまで話すつもりなのかを見極める。
管制官として、ブレントはそうした駆け引きに慣れていた。
無線の向こうにいる操縦者の声から、焦りや疲労を読み取る。
敵味方の通信が入り乱れる状況でも、必要な情報だけを拾い上げ、状況を組み立てる。
言葉の表面だけではなく、何が語られていないのかにも注意を払う。
今、この場で求められているのも、結局は同じことだった。
男はすぐには答えなかった。
机の上に置かれた書類を一枚手に取り、視線を落とす。
紙面を確認する時間は、ほんの数秒だった。
だが、ブレントには、その沈黙がひどく長く感じられた。
男は書類の内容を本当に確認しているのだろうか。
それとも、こちらの反応を観察するために、あえて時間を置いているのだろうか。
どちらとも判断できなかった。
やがて、男は書類を机の上へ戻した。
「単刀直入に申し上げましょう」
落ち着いた声が、室内に響いた。
「カイ・ラグナー中尉。貴官には、今後の任務に関して、いくつか確認しておきたいことがあります」
その言葉を受けても、カイの表情は変わらなかった。
「承知しました」
返答は簡潔だった。
余計な質問も、理由を尋ねる言葉もない。
ただ、命令を受けた軍人として、必要な返事を返しただけだった。
ブレントは隣に座るカイを横目で見た。
(お前、もう少し何か思うところはねえのかよ……)
もちろん、カイが何も考えていないはずはない。
ただ、彼は自分の内側にあるものを、他人へ簡単に見せる人間ではなかった。
特に、相手が自分の行動を監視し、評価しようとしていると判断した場合には、必要以上の情報を与えようとしない。
その慎重さ自体は、軍人として間違っていない。
しかし、ブレントにとっては、それが時折、危うく見えることがあった。
カイは、自分の身に何が起きても、まずは状況を受け入れようとする。
理不尽な命令であっても、任務に必要だと判断すれば、黙って従ってしまうことがある。
そして、その結果として自分がどれほど危険な場所へ送り込まれるのかについては、驚くほど無頓着だった。
ブレントは、その性格をよく知っていた。
だからこそ、今この場でカイが何も尋ねないことが、妙に気に掛かった。
黒いローブの男は、今度はブレントへ視線を移した。
「そして、ウェルロッド少佐」
「はい」
「貴官にも、同席していただく必要があります」
ブレントは片方の眉をわずかに上げた。
「……俺にも?」
「ええ。貴官はラグナー中尉の管制官ですから」
その説明だけなら、不自然な話ではなかった。
戦闘機の操縦者に関する任務上の確認を行うのであれば、日常的にその操縦者を管制している者が同席するのは合理的だ。
特に、カイのような特殊な機体を運用する操縦者であれば、管制官が把握している飛行特性や交戦時の判断、通信記録などが重要な資料になる可能性もある。
だが、ブレントは昨夜、機密資料を読んでいた。
カイの記録には、通常の軍人に対する評価とは思えないほど詳細な情報が並んでいた。
身体能力、反射速度、空間認識能力、飛行適性。
さらに、過去の経歴には不自然な空白があり、機体の開発記録には、操縦者との適合性を最優先するという記述が残されていた。
そして、最後のページには、Λ計画とGRIM REAPERという名称が記されていた。
それらを踏まえれば、今回の呼び出しが、単なる任務確認であるとは思えなかった。
「確認、ねぇ……」
ブレントは椅子の背もたれに身体を預け、正面の男を見返した。
「随分と物々しい確認みたいですが、一体何を聞かれるんです?」
言葉遣いこそ砕けていたが、その視線には明確な警戒があった。
相手がどれほど高位の人物であろうと、事情を知らされないまま、すべてを受け入れるつもりはなかった。
自分はカイの管制官だ。
彼の飛行を支え、状況を把握し、必要であれば危険を知らせることが職務である。
その職務に関わる問題であれば、知るべき情報は知っておかなければならない。
まして、カイの身に何かが起きる可能性があるのなら、なおさらだった。
男は、ブレントの問いを受けても表情を大きく変えなかった。
ただ、その口元が、ほんのわずかに動いた。
それを笑みと呼ぶには、あまりにも冷たい表情だった。
「ご心配なく」
男は静かに言った。
「貴官らにとっても、決して無関係な話ではありません」
その言葉が、ブレントの胸の奥へ重く落ちた。
無関係ではない。
わざわざそう言ったということは、少なくとも、今回の件がカイ一人の問題ではないことを意味している。
では、自分には何が関係しているのか。
管制官としての職務か。
F-15Λの運用に関する問題か。
それとも、昨夜読んだ資料に記されていた、あの計画そのものなのか。
ブレントは、相手の表情から答えを読み取ろうとした。
しかし、黒いローブの男は、すでに次の言葉を口にすることなく、机上の書類へ視線を落としていた。
まるで、必要な説明はまだ先にあるとでも言うように。
(……やっぱり、あの資料に関係してやがる)
ブレントの中で、嫌な予感が確信に変わり始めていた。
昨夜、自分が目にしたもの。
黒塗りにされた記録の数々。
通常の戦闘機開発とは思えない、異常なほど詳細な操縦者の評価。
そして、最後のページに記されていた計画名。
一つひとつは、まだ疑問の域を出ない。
しかし、それらが今朝の状況と結び付いたとき、単なる偶然だと片付けることは難しかった。
ブレントは、隣に座るカイの横顔を見た。
彼は相変わらず、何も語らなかった。
背筋を伸ばし、正面を見据え、次の指示を待っている。
その姿は、いつもと変わらない。
だが、ブレントには、その姿が妙に危うく見えた。
まるで、自分に何が起きようとしているのかを知らされないまま、また一つ、新しい戦場へ送り出されようとしているかのようだった。
空の上なら、少なくとも状況を把握するための手段がある。
レーダーがある。
無線がある。
敵機の位置を示す情報があり、味方の報告があり、刻一刻と変化する戦場の中で、自分が何をすべきかを判断するための材料がある。
しかし、今この部屋には、それらが何一つなかった。
目の前にいるのは、帝国情報局の副長と思しき男。
周囲を固めるのは、命令の内容すら明かそうとしない情報局員たち。
そして、その中心に座らされているのは、カイ・ラグナーという一人の若い操縦者だった。
ブレントは、膝の上で組んでいた手にわずかに力を込めた。
彼はカイの管制官だ。
それは、単に無線越しに指示を送り、機体の位置を把握するだけの役目ではない。
危険が迫れば警告を送り、無謀な行動を取れば止め、帰投するべきと判断すれば、どれほど本人が不満を抱こうとも必要な指示を出す。
そして、彼が空へ上がる限り、その命を預かる立場にある。
少なくとも、ブレントはそう考えていた。
だからこそ、相手が帝国情報局であろうと、簡単に引き下がるつもりはなかった。
カイを兵器として扱うのなら。
彼の命を、計画の一部としてしか見ないのなら。
そのときは、たとえ相手が誰であろうと、黙って従うわけにはいかない。
ブレントは正面の男から視線を逸らさなかった。
「……それで、閣下」
静かな声で、もう一度問いかける。
「俺たちに確認したいことというのは、具体的には何なんです?」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しが、再びブレントを捉える。
「順を追って説明しましょう」
そう言って、男は机上の書類を一つにまとめた。
「まずは、ラグナー中尉の直近の任務についてです。貴官らには、昨日の交戦記録を踏まえ、いくつか質問に答えていただきます」
ブレントは黙って聞いていた。
「その後、今後の運用に関する通達を行います。内容によっては、貴官らの任務環境にも変更が生じるでしょう」
「運用に関する通達、ですか」
「ええ」
男は短く頷いた。
「とりわけ、ラグナー中尉の搭乗機については、今後の取り扱いを明確にしておく必要があります」
その一言で、ブレントの警戒心が一段と強まった。
やはり、そこへ行き着くのか。
カイの任務。
F-15Λの運用。
そして、その機体をめぐる一連の問題。
昨夜、資料を読んだときから感じていた疑念が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
しかし、まだ肝心なことは何一つ説明されていない。
Λ計画とは何なのか。
GRIM REAPERとは何を意味するのか。
なぜ、カイの記録はあれほど詳細に管理されているのか。
そして、なぜ帝国情報局の副長自らが、この前線基地まで足を運ぶ必要があったのか。
ブレントは、それらの疑問を一つずつ胸の内へ押し込めた。
焦って質問を重ねても、相手の思うとおりに話を進められるだけかもしれない。
まずは聞く。
何を説明するつもりなのか。
どこまで情報を開示するのか。
そして、何を隠そうとしているのか。
それを見極めてからでも、遅くはない。
隣では、カイが微動だにせず座っていた。
その横顔を見つめながら、ブレントは心の中で静かに呟いた。
(……今度こそ、ちゃんと見ててやるからな)
それは、誰に聞かせるつもりもない言葉だった。
カイにも、目の前の男にも、周囲に控える情報局員たちにも。
ただ、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
今度は、何も知らされないまま見送るつもりはない。
今度は、何が起きているのかも分からないまま、手遅れになるつもりもない。
カイがどれほど優れた操縦者であろうと、どれほど異常な機体に乗っていようと、彼は一人の人間だ。
それだけは、誰にも変えさせるつもりがなかった。
ブレントは、正面の男を見据えたまま、次の言葉を待った。
室内には、再び沈黙が降りていた。
その沈黙の中で、壁際に控える情報局員たちが、まるで合図を待つかのように姿勢を正す。
基地司令は、部屋の端で一言も発しなかった。
そして、黒いローブをまとった男だけが、すべてを知っているかのような落ち着いた態度で、机上の書類へ手を伸ばした。
これから何が語られるのか。
その内容が、カイの今後をどこまで変えるのか。
ブレントには、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、今朝の呼び出しが、単なる任務説明などでは終わらないということだった。
そして、彼が昨夜目にした二つの計画名が、これから始まる話の中心にあるのではないかという疑念だけが、胸の奥で消えることなく燃え続けていた。
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