朝のコーラ
翌朝、ブレントは机に突っ伏すような格好で目を覚ました。
「……っつぅ、いてて……」
意識が戻った瞬間、首筋から肩にかけて鈍い痛みが走り、ブレントは顔をしかめながら上体を起こした。
凝り固まった筋肉が悲鳴を上げ、少し首を傾けただけでも、鈍い痛みが後頭部から背中にかけて広がっていく。
「なんだってんだ、まったく……」
ぼやきながら首を左右に回し、両手で肩を揉みほぐす。どうやら昨夜、カイの資料を読み返しているうちに、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。
窓の外から差し込む朝の光が、部屋の中を淡く照らしていた。
昨夜は確か、最後のページを読み終えたあとも、しばらく机に向かったままだったはずだ。
黒塗りだらけの資料を何度もめくり、僅かに残された文字から何かを読み取ろうとしたものの、結局は答えの出ない疑問ばかりが増えていった。
そのまま椅子の背もたれに身体を預け、ほんの少し目を閉じるつもりだった。
ところが、次に目を開けたときには、すでに朝になっていたというわけだ。
「椅子で一晩過ごすなんざ、やるもんじゃねぇ……」
腰を軽く叩きながら、ブレントは深いため息を吐いた。
身体の節々が重い。
首は痛むし、肩は凝っている。
おまけに、長時間眠ったはずなのに、頭の中には薄い霧がかかったような感覚が残っていた。
机の上には、昨夜から開きっぱなしになっている資料が置かれていた。
その隣には、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップがある。
液面はすっかり冷え切り、窓から差し込む朝日を受けて、薄い光を反射していた。
カップの縁には、昨夜飲んだときについた小さな跡が残っている。
ブレントはそれをしばらく眺めてから、心底うんざりしたように呟いた。
「最悪だな」
身体の調子も、頭の具合も、朝を迎えたという実感も、何もかもがいまひとつだった。
だが、何より厄介なのは、昨夜読んだ資料の内容が頭から離れてくれないことだった。
目を閉じれば、あの黒塗りだらけのページが浮かんでくる。
経歴、身体能力、飛行適性、過去の訓練記録、実戦における戦果。
そのどれもが、若い一人の戦闘機パイロットに関する資料としては異常なほど詳細に記録されていた。
それでいて、本当に知りたい部分だけは、徹底的に隠されている。
誰が、何のために、あれほど厳重に情報を封じているのか。
そして、カイという青年は、一体何を背負わされているのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも湧いてくる。
しかし、いくら頭を捻ったところで、資料に書かれていないことまで分かるはずもなかった。
ブレントは眉間を揉み、机の上の資料へ視線を落とした。
とりわけ、最後のページに残されていた二つの文字が、どうしても脳裏に焼き付いて離れない。
Λ計画。
GRIM REAPER。
前者は計画の名称なのだろう。後者は開発番号、あるいは計画に関連する何らかのコードネームか。
直訳すれば、死神。
戦闘機の開発計画に付けられた名称としては、いささか物騒すぎる。
もちろん、軍の兵器開発において、威圧的な名称や象徴的なコードネームが使われること自体は珍しくない。
敵に恐怖を与えるための宣伝的な意味合いもあれば、開発関係者の趣味や、単なる慣例から付けられる場合だってある。
それでも、あの資料の異様な厳重さと組み合わせて考えると、どうにも嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。
単なる新型戦闘機の開発計画なら、ここまで情報を隠す必要があるのだろうか。
そして、なぜその計画に、カイの名前が記されていたのか。
「……朝っぱらから考えることじゃねえな」
ブレントは頭を振り、開きっぱなしになっていた資料を閉じた。
紙の束が机に触れ、乾いた音を立てる。
その音を聞きながら、彼は資料を机の端へ押しやった。
今は、とにかく頭を切り替えたかった。
答えの出ない問題を考え続けたところで、朝食の代わりにもならなければ、身体の痛みが消えるわけでもない。
それなら、まずは顔を洗って、何か腹に入れて、いつもの調子を取り戻すべきだろう。
そう考えた矢先だった。
コン、コン。
静かな室内に、扉をノックする音が響いた。
「ウェルロッド少佐殿、すみません。少佐殿宛てにお荷物が届いています」
扉の向こうから聞こえてきたのは、若い兵士の声だった。
ブレントは資料から顔を上げ、壁に掛けられた時計へ目を向けた。
「荷物?」
思わず聞き返したものの、すぐに心当たりが浮かんだ。
昨日、必要な物資をまとめて注文しておいたのだ。
以前のミュールハルデ基地では、欲しい物を注文したところで、いつ届くか分かったものではなかった。
しかし、ここなら話は別だろうと考え、遠慮なく注文した覚えがある。
もっとも、自分が注文した品物の量を思い出した瞬間、ブレントの口元には自然と笑みが浮かんだ。
「あぁ、わかった。今、取りに行く」
椅子から立ち上がり、軽く伸びをする。
背中を反らすと、凝り固まった腰から小さな音が鳴った。
「……歳は取りたくねえもんだな」
誰に聞かせるでもなくぼやきながら、ブレントは扉へ向かった。
そして、ドアノブを回し、何気なく扉を開けた。
次の瞬間、彼は思わず足を止めた。
「……おぉ」
視界に飛び込んできた光景を前に、ブレントは間の抜けた声を漏らした。
部屋の前には、大量の段ボール箱が積み上げられていた。
大小さまざまな箱が、廊下の壁際に沿って何段にも重ねられている。
大きな箱の上に小さな箱が載せられ、さらにその脇にも別の箱が並べられていた。
まるで、誰かが廊下の一角に小さな補給倉庫を築き上げたかのような有様だった。
しかも、それで全部というわけではないらしい。
箱の隙間から見える廊下の向こう側にも、まだ荷物が続いている。
何人もの兵士が運搬を手伝ったのだろう。
通路の端には、荷物を載せてきたと思われる台車まで置かれていた。
ブレントはしばらく黙って箱の山を眺めていた。
そして、やがて満足げに頷いた。
ポテトチップス。
コーラ。
飴。
ガム。
どれも、昨日のうちに注文しておいたものだ。
しかも、単に数日分を買い足したという程度ではない。
しばらく補給の心配をせずに済むよう、まとめて大量に注文しておいたのである。
その結果が、この光景だった。
「いやぁ、こりゃ壮観だな」
思わず笑みがこぼれた。
目の前に積み上がった箱の数は、もはや一人分の買い物という範疇を大きく超えている。
事情を知らない人間が見れば、部隊の食料でも運び込まれたのかと勘違いしてもおかしくない。
実際、荷物を運んできた兵士も、ブレントと段ボールの山を交互に見比べながら、なんとも言えない表情を浮かべていた。
その顔には、困惑と戸惑い、そして、目の前の状況をどう理解すべきか分からないという気持ちが、隠しきれずに表れていた。
無理もない。
普通、一人の士官が受け取る荷物の量ではなかった。
「こちらで全部になります。確認をお願いします」
兵士は努めて平静な声を保ちながら、手元の伝票を差し出した。
「ああ、ご苦労さん。いやぁ、助かったよ」
ブレントは気軽に礼を言い、伝票へ目を通した。
注文した品目と数量に間違いがないかを確かめ、目の前の箱を一つ開けてみる。中には、きちんと緩衝材を詰められたコーラの箱が並んでいた。
別の箱には、ポテトチップスの袋がぎっしり詰め込まれている。
さらにその奥には、飴やガムが種類ごとにまとめられていた。
間違いない。
注文したものは、すべて揃っている。
ブレントは伝票を兵士へ返し、満足げに頷いた。
「よし。これだけあれば、しばらくは困らねえな」
その言葉を聞いた兵士の眉が、ほんの僅かに動いた。
しばらく。
彼はもう一度、廊下を占領している段ボールの山を見た。
それから、目の前に立つブレントを見た。
そして、何かを尋ねるべきかどうか迷ったように、口を開きかけた。
「……少佐殿」
「ん?」
「差し支えなければ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「おう、何だ?」
ブレントは箱を覗き込みながら、気楽に返事をした。
兵士は一瞬だけ言葉を選び、やがて意を決したように尋ねた。
「こちらは……すべて、少佐殿のお荷物でしょうか」
「そうだが?」
ブレントは何の疑問も抱いていない様子で答えた。
あまりにも即答だった。
兵士は一度、口を閉じた。
もう一度、箱の山を見た。
それから、ブレントの顔を見た。
「……そうですか」
結局、それ以上は何も尋ねなかった。
聞かない方がいいと判断したのだろう。
納得したというよりも、理解することそのものを諦めたような表情だった。
ブレントはそんな兵士の様子にも気づかず、手近な箱を両腕で抱え上げた。
「いやぁ、ありがとな。わざわざ運んでもらって悪かったな」
「い、いえ。これも任務ですので」
兵士は慌てて姿勢を正し、敬礼した。
「それでは、失礼いたします」
「おう、ご苦労さん」
ブレントが軽く手を振ると、兵士は再び敬礼し、廊下の向こうへと歩いていった。
その背中は、どこか釈然としないものを抱えているように見えた。
もっとも、本人にとっては、もう関わらない方が賢明な案件として処理されたのかもしれない。
ブレントは兵士の姿が見えなくなるまで見送ると、喉の奥で小さく笑った。
(まあ、普通はそうなるよな)
自分でも、少々買いすぎたという自覚はあった。
だが、だからといって後悔するつもりはない。
何しろ、これからしばらくは、この基地で過ごすことになるのだ。
任務が立て込めば、食事の時間さえまともに取れなくなることもある。
そんなとき、すぐに口へ運べるものが手元にあるかどうかは、案外重要だった。
少なくとも、ブレントにとってはそうだった。
それに、以前のミュールハルデ基地では、こんな買い物をしようと思っても簡単にはいかなかった。
彼は廊下に残された箱を眺めながら、かつての勤務地を思い返した。
帝国東方の赤道付近に位置する、辺境の基地。
周囲には乾燥した大地が広がり、季節によっては激しい砂嵐が吹き荒れる。
雨が降れば地面はたちまち泥濘と化し、基地の外へ出るだけでも一苦労だった。
冬でさえ容赦のない暑さが残る土地で、空調設備も十分とは言えず、食堂の料理はお世辞にも豪華とは呼べなかった。
何より厄介だったのは、補給の不安定さである。
前線から遠く離れているにもかかわらず、必要な物資が予定どおりに届くとは限らなかった。
輸送機の運航予定が変更されれば、それだけで到着が数日遅れることもある。
悪天候が重なれば、さらに先延ばしになることさえあった。
そこに辺境のゴミ捨て場というおまけ付きだったのだ。
基地の売店に並んでいるものといえば、保存の利く食料や最低限の日用品が中心だった。
菓子類など、入荷しただけでも幸運な部類に入る。
しかも、入荷したという情報が広まれば、あっという間に棚から姿を消してしまう。
欲しいものを見つけたときには、すでに誰かが買い占めていた、などということも珍しくなかった。
あの基地で生活するうちに、ブレントは欲しいものを見つけたら、手に入るときに確保しておくという習慣を身につけていた。
その習慣が、今になって遺憾なく発揮されているわけである。
「それに比べりゃ、ここは天国だな」
しみじみと呟き、ブレントは箱を抱え直した。
物資は豊富で、注文すれば大抵のものは届く。
基地の設備も整っており、少なくとも日常生活で不便を感じる場面は少なそうだった。
もちろん、軍隊である以上、何もかもが思いどおりになるわけではない。
任務の都合で生活が乱れることもあるだろうし、急な出撃や作戦変更によって、予定が大きく狂うことだってある。
だが、食料の調達にまで頭を悩ませる必要がないというだけで、気分は随分と違った。
「やっぱ、こうでなくちゃな」
鼻歌交じりに呟きながら、ブレントは最初の箱を室内へ運び込んだ。
扉の脇に置き、いったん部屋の中へ入る。
それから再び廊下へ戻り、次の箱を抱え上げた。
一つ。
また一つ。
箱を運び込むたびに、部屋の床が少しずつ段ボールに占領されていく。
大きな箱は両腕で抱え、比較的小さな箱は重ねて運ぶ。
さすがに一度ですべてを片付けることはできず、何度も廊下と部屋を往復する羽目になった。
「ったく、何でこんなに頼んだんだ、俺は……」
口ではそう言いながらも、声には不満よりも楽しげな響きがあった。
そもそも、注文したのは自分自身である。
誰かに無理やり買わされたわけでもなければ、数量を間違えたわけでもない。
必要になると考えたから注文したのであり、その判断を今さら悔やむつもりはなかった。
それに、こうして身体を動かしていると、昨夜から頭の中に居座っていた重苦しい考えも、ほんの少しだけ薄れていくような気がした。
カイ。
Λ計画。
GRIM REAPER。
考えなければならないことは山ほどある。
だが、資料を眺めているだけでは何も進まない。
今すぐ答えが見つかるわけでもないのなら、せめて目の前の仕事を片付けておく方が建設的だった。
そう自分に言い聞かせながら、ブレントは最後の箱を持ち上げた。
さすがに腕には疲労が溜まっていたが、これでようやく終わりだった。
箱を室内へ運び込み、床に置く。
どさり、と鈍い音が響いた。
「……よし、終わり」
ブレントは両手を腰に当て、満足げに息を吐いた。
それから、改めて室内を見渡した。
床の一角には、段ボール箱が山のように積み上がっている。
机の上には昨夜の資料。
その隣には、すっかり冷え切ったコーヒー。
椅子は昨夜から動かした形跡もなく、机の上には書類や筆記用具が散らばっていた。
なんとも締まりのない光景だった。
「……片付けるところから始めるべきだったかねえ」
もっとも、今さら後悔したところで始まらない。
ブレントは肩をすくめ、近くの箱を開けた。
中からコーラを一本取り出す。
いくら外が寒いといっても冷蔵庫に入れておいたわけではないため、キンキンに冷えているとは言い難い。
それでも、室内の温度を考えれば、十分に飲み頃だった。
彼は慣れた手つきで蓋を回した。
プシュッ。
炭酸の弾ける小気味よい音が、静かな部屋に響いた。
その音を聞いただけで、ブレントの表情が少し明るくなった。
瓶でも缶でもなく、手に馴染んだ容器を傾け、コーラを一口飲む。
甘さと炭酸の刺激が喉を通り抜け、ようやく身体の奥に朝が訪れたような感覚があった。
「……っはぁ。これだよ、これ」
思わず、満足げな声が漏れた。
たかがコーラ一本。
しかし、疲れた身体と寝不足の頭には、それだけでも十分にありがたかった。
ブレントはもう一口飲み、机の上に置かれたコーヒーへ目を向けた。
昨夜は、あれを飲みながら資料を読んでいたはずだった。
今となっては、完全に冷え切っている。
カップの中身はまだ残っていたが、わざわざ口をつける気にはならなかった。
彼は冷めたコーヒーと手元のコーラを見比べ、迷うことなく後者を選んだ。
「やっぱ、こっちだな」
誰に言うでもなく呟き、満足げに頷く。
続いて、ポテトチップスの袋を一つ開けた。
ぱりっ、と乾いた音が鳴る。
袋の中から数枚を取り出し、まとめて口へ放り込んだ。
塩気の効いた味と、軽い歯触りが広がる。
昨夜からまともに休んでいなかったせいか、いつも以上にうまく感じられた。
ブレントは椅子に腰を下ろし、コーラを片手に背もたれへ身体を預けた。
ようやく、一息つけた気がした。
窓の外では、基地が本格的に動き始めていた。
遠くから車両のエンジン音が聞こえ、廊下では兵士たちが行き交っている。
どこかの格納庫からは、金属を叩くような音が響いていた。
通信設備の点検を始めたのか、遠くのスピーカーから短い試験音が流れる。
いつもと変わらない軍事基地の朝。
そこでは、多くの人間がそれぞれの任務へ向けて動き始めていた。
ブレントも、本来ならばその中に加わっていなければならない時間だった。
しかし、今だけは少し違った。
目の前には十分すぎるほどの菓子があり、手元にはコーラがある。
身体はまだ痛むものの、少なくとも昨夜のように、資料の文字だけを追い続けているわけではなかった。
ブレントはポテトチップスをもう一枚つまみ、ゆっくりと噛み砕いた。
昨夜の資料については、まだ考えなければならないことが山ほどある。
カイのこと。
Λ計画のこと。
GRIM REAPERという不穏な名称のこと。
そして、あの資料をわざわざ自分に渡した基地司令の真意についても、確かめなければならない。
上層部が何を隠しているのか。
カイに何をさせようとしているのか。
あの黒い戦闘機が、単なる新型機という枠に収まる存在なのかどうか。
どれ一つとして、答えは出ていない。
それでも、今この瞬間くらいは、余計なことを考えずにいたかった。
ブレントはコーラを飲み干し、空になった容器を机の隅へ置いた。
「……さて、今日は何から片付けるかねぇ」
ポテトチップスをもう一枚つまみながら、机の上に視線を向ける。
昨夜の資料をもう一度読み返すべきか。
それとも、まずはカイの出撃予定を確認し、管制官として必要な情報を整理しておくべきか。
あるいは、新たに配属された基地の通信管制設備や人員配置について、改めて把握しておく必要もあるだろう。
AWACS管制官として任務に就く以上、基地の運用状況を正確に理解しておくことは欠かせない。
機材の性能だけでなく、各部署の担当者や連絡系統、緊急時の手順まで頭に入れておかなければ、いざというときに余計な遅れを生むことになる。
特に、これから自分が担当することになるパイロットについては、可能な限り詳しく把握しておきたかった。
カイ。
あの青年が操縦する黒い戦闘機は、ブレントがこれまで見てきた機体とは明らかに違っていた。
機体性能の異常さもそうだが、何より気になるのは、その機体とカイの組み合わせだった。
あの戦闘機は、カイ以外の人間にも同じように扱えるのだろうか。
それとも、あの青年でなければ本来の性能を発揮できないように設計されているのか。
もし後者なら、機体とパイロットの関係は、一般的な兵器と操縦者の関係とは根本から違ってくる。
そして、昨夜の資料に記されていた文言が、再び頭の中に浮かび上がった。
操縦者の飛行特性との適合性を最優先とする。
あの一文は、どう考えても普通ではない。
機体にパイロットを適応させるのではなく、パイロットに機体を適応させる。
しかも、その対象として名前が挙げられているのは、カイただ一人だった。
「……考えたって、今は分からねえか」
ブレントは小さく呟き、頭の中の考えをいったん振り払った。
必要な情報は、少しずつ集めていくしかない。
焦ったところで、黒塗りの資料が勝手に白くなるわけでもなければ、上層部が秘密を打ち明けてくれるわけでもない。
まずは自分にできることから始める。
それが、長年軍人として働いてきたブレントのやり方だった。
彼が次に何をするべきか考え始めた、そのときだった。
コン、コン。
再び、扉をノックする音が響いた。
ブレントはポテトチップスを片手に、扉の方へ顔を向けた。
「はいはい、今度は何だ?」
先ほど荷物を届けにきた兵士が、伝票か何かを忘れたのだろうか。
そんなことを考えながら声を掛けると、扉の向こうから返事があった。
「ウェルロッド少佐殿、司令室まで来るよう指示がされています」
聞こえてきたのは、先ほどとは別の兵士の声だった。
ブレントの手が止まった。
「……司令室?」
思わず聞き返す。
司令室という言葉を聞いた瞬間、頭の中で昨夜の出来事が鮮明に蘇った。
基地司令に呼び出され、カイに関する資料を渡されたこと。
資料の大半が黒塗りにされていたこと。
そして、最後のページに残されていた二つの文字。
Λ計画。
GRIM REAPER。
昨日、基地司令とはすでに話をしている。
しかも、あの資料を受け取ったのは、ほんの数時間前のことだった。
わざわざ翌朝になって再び呼び出すということは、何か追加の指示があるのだろうか。
それとも、昨夜渡された資料に関係する話なのか。
あるいは、単純に本日の任務についての打ち合わせかもしれない。
可能性はいくつも考えられたが、現時点で判断できる材料はなかった。
ブレントは口の中に残っていたポテトチップスを飲み込み、机の上にコーラを置いた。
「了解。すぐ行くと伝えてくれ」
「はっ。失礼します」
扉の向こうで短い返事があり、その後、兵士の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。
ブレントはしばらく、閉じられた扉を見つめていた。
先ほどまでの気楽な空気が、少しずつ消えていく。
司令室への呼び出し自体は、決して珍しいことではない。
任務に関する報告や、今後の予定についての打ち合わせなど、士官が基地司令に呼ばれる理由はいくらでもある。
だが、昨日の一件があった以上、どうしても嫌な予感を拭いきれなかった。
あの資料を渡されたときの、基地司令の表情。
内容を知れば後悔すると言わんばかりの、あの言葉。
そして、情報の大部分を黒塗りにしてまで隠されていた、カイの過去と機体の開発計画。
偶然が重なっただけだと片付けるには、あまりにも不自然だった。
「……ったく。朝っぱらから忙しいこった」
口ではそうぼやいたものの、先ほどまで浮かべていた気楽な笑みは、すでに消えていた。
ブレントは椅子から立ち上がり、制服の襟元を整えた。
寝起きのまま乱れていた髪を手で軽く直し、肩を回して身体の具合を確かめる。
首筋の痛みは、まだ残っていた。
それでも、仕事に支障が出るほどではない。
机の上に視線を向けると、昨夜の資料が目に入った。
閉じられた表紙の下には、今なお答えの見えない情報が眠っている。
ブレントはしばらくその資料を見つめていた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
資料を手に取り、必要以上に音を立てないようにしながら、机の引き出しを開ける。
中へ収めると、引き出しを閉じ、鍵を回した。
カチリ、と小さな音が鳴る。
念のため、鍵が掛かっていることを確かめてから、ブレントは鍵を制服のポケットへしまった。
これで、少なくとも自分の目の届かないところで、誰かに勝手に読まれる心配はない。
もっとも、あの資料を用意した側が本気で隠そうとしている情報を、自分一人で守りきれるとは思っていなかった。
それでも、預かった以上は、無用な扱いをするつもりはない。
ブレントは机の上を一瞥し、食べかけのポテトチップスの袋を見た。
「……帰ってきたら、続きだな」
袋の口を軽く折り、箱の上へ置く。
その言葉は、資料の続きを読むという意味でもあり、カイという青年について、もう少し調べるという意味でもあった。
昨夜、彼は一つのことを決めた。
カイを単なる兵器の操縦者として扱うつもりはない。
どれほど優れた機体を与えられようと、どれほど大きな戦果を期待されようと、カイは一人の人間だ。
そして、あの青年は、自分がかつて救えなかった友人の息子でもある。
だからこそ、ブレントは自分にできることをするつもりだった。
上層部が何を考えていようと、Λ計画が何を意味していようと、少なくとも自分が管制席にいる間は、カイを一人きりで空へ送り出すつもりはない。
危険な兆候があれば警告する。
無茶な飛行をすれば怒鳴りつける。
帰投が遅れれば何度でも呼びかける。
そして、もし帰ってこなければ、最後の瞬間まで呼び続ける。
それが、今の自分にできることだった。
ブレントは小さく息を吐き、部屋の扉に向かった。
基地司令が何を話すつもりなのかは分からない。
昨日の資料に関係する話かもしれないし、まったく別の任務についてかもしれない。
だが、どちらにしても、呼び出された以上は確かめる必要がある。
情報が足りないのなら、自分の目で見て、耳で聞くしかない。
そう考えながら、ブレントはドアノブに手を掛けた。
扉を開けると、朝の冷たい空気が廊下から流れ込んできた。
廊下には、すでに何人もの兵士が行き交っていた。
それぞれが書類を抱え、通信機を手にし、あるいは同僚と短い言葉を交わしながら、忙しそうに自分の持ち場へ向かっている。
基地は、いつもどおりの朝を迎えていた。
その日もまた、誰かが空へ上がり、誰かが地上からそれを支え、誰かが命令を下すのだろう。
そして、その中には、カイの姿もあるはずだった。
ブレントは一瞬だけ、自分の部屋を振り返った。
積み上がった段ボール箱。
机の上に置かれた食べかけのポテトチップス。
そして、鍵の掛かった引き出しの中にしまわれた、黒塗りだらけの資料。
ほんの数分前まで、そこは自分だけの場所だった。
だが、今はもう、考え込んでいる時間ではない。
「さて……行くか」
小さく呟き、ブレントは扉を閉めた。
鍵を確かめてから廊下へ向き直り、司令室のある方向へ歩き始める。
足取りは、いつもと変わらなかった。
しかし、その胸の内には、昨夜から消えることのない疑念が残っていた。
Λ計画。
GRIM REAPER。
あの二つの文字が何を意味するのか。
基地司令は何を知っていて、何を隠しているのか。
そして、カイは、自分自身の知らないところで、一体どこまで軍に利用されようとしているのか。
今朝の呼び出しが、その答えにつながるものなのかどうかは分からない。
それでも、確かめずにいるわけにはいかなかった。
これから何を告げられることになろうと、まずは冷静に話を聞く。
必要ならば質問し、分からないことは確認する。
そして、どれほど不都合な事実を突きつけられたとしても、自分が決めたことだけは変えない。
カイを、ただの兵器として扱わせない。
あの青年が空へ上がる限り、自分は管制席から目を離さない。
それが、かつて友人を救えなかった自分にできる、せめてもの償いだった。
〜お願い〜
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