まだ来るなよ
宣伝用で始めてXのアカウント作ってみました。
どうせ宣伝とか活動報告に書くことぐらいしか投稿しないだろうけどフォローしてくれると嬉しいです。
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最後のページは、ほとんど黒塗りされていた。
これまでの記録とは比べものにならないほど、徹底的に情報が隠されている。文章の大部分はもちろん、表の見出しや注釈、記録者の署名欄に至るまで、黒い線で塗り潰されていた。
紙面のあちこちに残された黒い帯は、単に機密事項を伏せるために引かれたものというより、そこに存在した情報そのものを抹消しようとした痕跡のように見えた。
行と行の間に残されたわずかな余白さえ、何かを読み取られることを警戒するかのように、不自然なほど細かく塗りつぶされている。
記録の作成日も、承認者の階級も、閲覧を許可された部署の名称も分からない。
この資料がいつ作成され、誰の命令によって保管され、どのような経緯でブレントの手元に渡ったのか。
そのすべてが、最後のページでは完全に閉ざされていた。
まるで、このページに何が書かれていたのか、誰にも知られてはならないとでも言うように。
ブレントは、ページの上から下まで視線を走らせた。
何か読み取れる部分はないかと探してみたものの、目に入るのは黒い帯ばかりだった。文字の輪郭すら残されていない箇所もあり、元の文章がどれほどの長さだったのかさえ推測できない。
それまでのページにも黒塗りは存在していた。
だが、そこには必ず、機体の性能や設計思想を示す記述がいくつか残されていた。断片的な情報を拾い集めれば、少なくとも何が開発され、どのような目的で運用されているのか、その輪郭だけは想像することができた。
しかし、このページにはそれすらなかった。
残された情報は、あまりにも少ない。
それにもかかわらず、ブレントは、このページこそが資料全体の中で最も重要な部分なのではないかと感じていた。
機体の性能を示す数値でも、操縦者との適合性に関する評価でもない。
それらすべての根底にある、計画そのものの正体。
これまで黒塗りにされてきた情報が、何を隠すためのものだったのか。
その答えが、この最後のページに記されていたのではないか。
だが、肝心の部分はすべて消されていた。
そんな中、僅かに残されていた文字が二つあった。
Λ計画。
そして、その下に記された開発番号。
――GRIM REAPER。
ブレントは、しばらくその文字を見つめていた。
視線が、何度も同じ箇所を行き来する。
最初に目にしたときは、単なる単語の羅列にしか見えなかった。だが、そこに記された文字を一つずつ読み直していくうちに、彼の中で何かが引っかかった。
Λ計画。
その下にあるGRIM REAPERという文字列は、ほかの記述とは異なり、一文字も黒塗りされていない。
まるで、そこだけは意図的に残されていたかのようだった。
「……グリム・リーパー?」
聞き慣れない名称だった。
少なくとも、彼がこれまで目にしてきた帝国軍の兵器開発計画に、このような名前はなかったはずだ。
軍に所属している以上、ブレントは数多くの兵器名称や開発計画の略称に触れてきた。正式な機種名とは別に、開発段階で使用されるコードネームが存在することも知っている。
新型機の情報を秘匿するため、計画の実態とは直接関係のない名称が与えられることもある。
場合によっては、計画に携わる人間だけが知る通称が使われることもあった。
そのため、名称が聞き慣れないというだけで、特別な意味があると判断することはできない。
だが、今回ばかりは、どうしても気になった。
単なる計画名なのか。
それとも、ただの開発コードなのか。
そもそも、開発者たちが何かを象徴するために付けた名前なのか。
ブレントには判断できなかった。
彼はページを傾け、文字の周囲に何か残されていないか確かめた。
紙面を照明に近づけ、黒塗りの境界を慎重に追っていく。
わずかに残された数字の断片が、黒い帯の端から覗いていた。数字の一部なのか、それとも別の記号なのかさえ分からない。
その周囲には、細い罫線のようなものも見える。
おそらく、元の資料には何らかの表が存在していたのだろう。
計画の正式名称、開発番号、承認記録、あるいは機体の運用に関する特記事項。
何が書かれていたのかは分からない。
ただ、黒塗りの配置から判断する限り、そこには単なる技術的な情報だけでなく、計画そのものの背景に関わる記述も含まれていたように思えた。
ブレントは、紙面の下部に視線を移した。
開発番号の下には、何か別の記述があったようにも見える。
黒い帯の幅は、ほかの部分よりも大きかった。
文章を一行だけ隠しているのではない。
複数の行にわたって、文字の存在そのものを消し去ろうとしているようだった。
意図的に隠された情報。
それも、ただ機密性が高いというだけでは説明のつかないほどの徹底ぶりだった。
ブレントは、資料を閉じることもできず、ただその文字を見つめ続けた。
「グリム・リーパー……死神、ね」
口にした途端、妙な寒気が背筋を走った。
死神。
戦場でその名を与えられるものは、決して珍しくない。
敵を数多く葬った兵士や、圧倒的な戦果を挙げた部隊が、畏怖を込めてそう呼ばれることはある。
敵の兵士たちが恐怖を紛らわせるために、正体の分からない敵機へ不吉な名前を付けることもある。
誰が最初に呼び始めたのか分からないまま、通り名だけが戦場に広がっていくこともあるだろう。
だが、この名称は違う気がした。
戦場で誰かが呼び始めた通り名ではない。
少なくとも、ブレントにはそう思えた。
最初から、そう名付けられていた。
まだ誰も、その機体が何を成し遂げるのか知らない頃から。
まだカイが戦場で黒い翼を広げるよりも前から。
まるで、その機体が何をもたらすのか、開発者たちは最初から理解していたかのように。
ブレントは、椅子の背もたれに身体を預けた。
背中が、硬い椅子の表面に沈み込む。
天井を見上げると、白い照明が視界の端でぼんやりと滲んだ。
いつの間にか、目の奥が重くなっていた。
長時間にわたって資料を読み続けたせいもあるだろう。昼間の戦闘で張り詰めていた神経が、ようやく緩み始めたのかもしれない。
だが、疲労が今になって一気に押し寄せてきたのは、それだけが理由ではなかった。
今日一日だけで、いったいどれほどのことを知ってしまったのだろう。
あの黒い戦闘機の異常な性能。
彼を取り巻く不自然な記録。
士官学校時代に起きた、あまりにも多くの死。
そして、何もかもを知りながら沈黙を守る上層部。
最後に残されたのは、死神という名だけだった。
肝心なことは、何一つ分からない。
機体がどのように開発されたのかも、誰が計画を主導したのかも、なぜカイが搭乗者に選ばれたのかも分からない。
それどころか、彼自身がどこまで事情を知らされているのかさえ分からなかった。
分からないことばかりなのに、知る前よりも確かなことが一つだけあった。
カイは、ただの若いパイロットではない。
少なくとも、上層部は彼をそう扱っていない。
その事実だけは、もう疑いようがなかった。
個人記録には、幼少期から続く詳細な観察結果が残されていた。
身体能力の検査。
飛行適性の評価。
極限状態における判断能力。
そして、通常の操縦者では考えられないほどの高い耐G性能。
それらが、単に優秀なパイロットを育成するための記録だったのなら、ここまで不自然な秘匿処理を施す必要があったのだろうか。
さらに、その記録の後に続いていたのが、F-15Λの資料だった。
特定の操縦者との適合性を最優先に設計された機体。
従来の戦闘機の常識を覆しかねない性能。
そして、最後のページに残された、Λ計画とGRIM REAPERという名称。
それらがすべて無関係だと考える方が、難しくなりつつあった。
彼らにとってカイが何なのか。
優秀な操縦者なのか。
計画の中核を担う存在なのか。
それとも、機体の性能を最大限に引き出すために必要な、唯一の適合者なのか。
ブレントには分からなかった。
ただ、資料を読み進めるほどに、ある考えが頭から離れなくなっていた。
――あいつは、自分が何に乗せられているのか、本当に分かっているのか。
ブレントは、再び資料へ視線を落とした。
黒塗りのページに記されたGRIM REAPERという文字が、先ほどよりも不気味に見えた。
カイは命令に従う。
必要とあらば、どれほど危険な状況でも躊躇なく飛び込んでいく。
敵の大編隊に囲まれた味方がいれば、自分の危険を顧みずに救援へ向かう。
今日の戦闘が、その何よりの証拠だった。
ブレントは、あのときの通信を思い出した。
敵機の接近を知らせたとき、カイの声は落ち着いていた。
状況が悪化していく中でも、必要な情報を淡々と報告していた。
そして、味方部隊が包囲されていると知った瞬間、彼は進路を変えた。
ブレントが制止しても、カイは引き返さなかった。
あの判断が正しかったかどうかは、結果だけを見れば明らかだった。
カイは敵機をすべて撃墜し、包囲されていた味方を救い出した。
だが、管制官としてのブレントには、あの戦闘を単純な勝利として片づけることはできなかった。
あれほどの危険を冒す必要が、本当にあったのか。
別の部隊を救援に向かわせることはできなかったのか。
カイ自身が撃墜される可能性を、彼はどこまで真剣に考えていたのか。
何より、なぜ彼は、あれほど迷いなく自分の命を危険にさらすことができたのか。
優秀なパイロットであることと、自分の命を軽く扱うことは違う。
仲間を救うために危険を冒すことと、無謀な行動を当然のように選ぶことも違う。
ブレントは、その違いを知っていた。
長年にわたって数多くのパイロットを管制してきたからこそ、彼らの声に含まれるわずかな変化にも気づくことがあった。
緊張を押し殺している声。
恐怖を隠そうとしている声。
自分の限界を理解したうえで、なお前進しようとする声。
そして、自分が危険にさらされていることを、まるで重要ではないかのように扱う声。
今日のカイの声には、最後のものに近い響きがあった。
それが、ブレントには気がかりだった。
もし上層部が、カイのその性質を理解したうえで利用しているのだとしたら。
彼らは、どこまでカイに求めるつもりなのだろう。
どこまで戦わせるつもりなのだろう。
そして、最後には何を残すつもりなのだろう。
圧倒的な戦果を挙げること。
どれほど危険な任務であっても遂行すること。
味方のためなら、自分の命さえ惜しまないこと。
もし、それらすべてが上層部にとって都合のよい性質だったとしたら。
彼らは、カイの優しさや責任感を、兵器の性能と同じように利用することができる。
彼が何を守ろうとしているのか。
何を失いたくないと思っているのか。
どのような状況であれば、命令を無視してでも飛び込んでいくのか。
そうしたことまで把握しているのなら、彼を動かすために必要なのは、複雑な命令でも、厳しい強制でもな
い。
ただ、誰かを助けなければならない状況を作ればいい。
カイならば、きっと飛ぶ。
たとえ、それが自分自身を危険にさらすことになったとしても。
ブレントは、無意識に拳を握り締めていた。
指先に力がこもり、爪が掌に食い込む。
そんなことが、あっていいはずがなかった。
カイが誰かを助けようとすることは、彼自身の意思であるべきだ。
仲間を守ろうとすることも、危険な状況で前へ進むことも、彼が自分で考え、選び取った行動であるべきだった。
誰かがその性質を利用するために、彼の過去や能力を調べ上げ、特別な機体を用意し、戦場へ送り出しているのだとしたら。
それは、もはや単なる兵器開発ではない。
人間の意思を、戦争のために利用しようとしていることになる。
もちろん、ブレントには証拠がなかった。
資料に記された名称だけで、上層部の意図を断定することはできない。
GRIM REAPERという言葉も、開発者が何らかの理由で選んだコードネームにすぎない可能性はある。
Λ計画が、単に高性能な試作戦闘機を開発するための計画である可能性だって、完全には否定できない。
だが、これまでに見てきた記録の数々が、彼の疑念を消してはくれなかった。
むしろ、疑問は増えるばかりだった。
「……俺に、こんな俺にどうしろって言うんだよ」
誰に向けたものでもない言葉だった。
答えなど返ってこない。
上層部は何も説明しない。
資料は何も教えてくれない。
そして、当のカイ本人が何を知っているのかさえ、ブレントには分からなかった。
自分はただの管制官だ。
戦闘機を設計する技術者でもなければ、兵器開発計画の責任者でもない。
軍の上層部に対して、計画の詳細を明かせと要求できる立場でもなかった。
命令を受け、空を監視し、パイロットを導き、彼らを生きて帰す。
それが、彼の仕事だった。
だが、今のブレントには、その仕事さえ以前と同じようには思えなかった。
自分が管制する相手は、ただの若いパイロットではないのかもしれない。
彼が乗っている機体も、ただの新型戦闘機ではないのかもしれない。
それでも、ブレントにできることは限られていた。
上層部が隠している情報を、無理やり引き出すことはできない。
機体の設計思想を、今すぐ理解することもできない。
カイの過去を、すべて知ることもできない。
彼にできるのは、目の前にある記録を読み、分からないことを分からないままにせず、できる限り状況を理解しようとすることだけだった。
そして、実際にカイが飛ぶときには、管制官として彼を支えること。
それが、自分に残された役割なのだろうか。
窓の外からは、基地の夜を満たす低い機械音が聞こえていた。
遠くの格納庫では、整備員たちが明日の出撃に向けて作業を続けているのだろう。
工具の音が響き、機体の点検が行われ、必要な装備が確認されている。
この基地では、何も変わらず日常が続いている。
誰かが機体を整備し、誰かが飛行計画を立て、誰かが次の任務に備える。
夜勤の管制員は、翌日の作戦に備えて必要な情報を整理しているかもしれない。
整備員たちは、出撃する機体が問題なく飛べるよう、細かな点検を繰り返しているだろう。
兵士たちは、それぞれの持ち場で、自分に与えられた仕事を続けている。
彼らの多くは、F-15Λの本当の性能を知らない。
Λ計画という名称すら、聞いたことがない者もいるだろう。
GRIM REAPERという開発番号が存在することなど、想像もしていないに違いない。
彼らにとって、あの黒い戦闘機は、今日敵機を撃墜して帰投した特別な機体にすぎない。
そして、カイもまた、明日になれば何事もなかったかのように黒い戦闘機へ乗り込むのだ。
その姿を想像した瞬間、ブレントの脳裏に一人の男が浮かんだ。
長い付き合いだった。
危険な空域で何度も背中を預け合い、数え切れないほどの作戦を共にしてきた。
管制席から戦場を見渡すブレントにとって、彼は誰よりも信頼できるパイロットだった。
無茶をする男だった。
自分の腕を過信しているわけではない。
むしろ、自分に何ができて、何ができないのかを誰よりもよく理解していた。
それでも、自分が行かなければ誰かが死ぬと分かれば、迷わず飛び込んでいく。
危険な状況にある味方がいれば、自分の任務を一時的に後回しにしてでも救援へ向かおうとする。
仲間が帰還できなくなれば、最後までその位置を追い続ける。
そして、誰かを救うために自分が危険な場所へ向かうことを、特別なことだとは考えていなかった。
まるで、それが当たり前のことだとでも言うように。
ブレントは、そんな男を何度も管制してきた。
無線越しに怒鳴ったこともある。
命令に従えと、何度も繰り返したこともある。
無茶をするなと叱りつけ、帰投してから説教をしたこともあった。
それでも、あの男は変わらなかった。
危険な空域に味方が取り残されていれば、彼は飛んだ。
仲間が撃墜されそうになれば、助けに向かった。
自分の帰還が難しくなると分かっていても、最後まで諦めなかった。
たとえ、その先に自分の帰る場所がなくなるとしても。
そして最後まで、彼はその生き方を変えなかった。
ブレントは目を閉じた。
もう二度と聞くことのできない声が、記憶の奥から蘇る。
あのとき、自分は何を言ったのだったか。
無線の向こうで、彼の機体はすでに深刻な状況に陥っていた。
敵の攻撃を受け、帰投経路は塞がれ、救援に向かうための時間も残されていなかった。
ブレントは、管制席からあらゆる可能性を探した。
利用できる航空戦力を確認し、味方部隊の位置を把握し、少しでも彼を帰還させられる経路を探し続けた。
だが、どれだけ情報を集めても、状況を覆す方法は見つからなかった。
それでも、彼は諦めたくなかった。
帰ってこいと。
生きて帰れと。
何とかして引き止めようとした。
管制官として、必要な情報を伝えた。
友人として、戻ってくるように頼んだ。
それでも、あの男は最後まで自分のことよりも仲間を優先した。
ブレントは、あのときの通信を、今でもはっきりと覚えている。
雑音の混じる回線。
途切れかけた通信。
必死に呼びかける自分の声。
そして、すべてを理解したうえで、静かに返ってきた声。
『まだ、来るなよ』
ブレントの喉が詰まった。
あの声を、今でも覚えている。
いつもと変わらない調子だった。
まるで、明日になればまた一緒に酒を飲めるとでも言うような、気軽な声だった。
深刻な状況にあるはずなのに、彼は最後まで、ブレントを気遣うような言葉を選んでいた。
だからこそ、忘れられない。
あの男は、自分が戻れないことを分かっていたのかもしれない。
それでも、残される者に余計な言葉を与えなかった。
謝罪も、別れの言葉も、後悔を滲ませる言葉も残さなかった。
ただ、まだ来るなと。
お前は、そちらへ来るなと。
生きていろと。
ブレントは、ゆっくりと目を開けた。
目の前の景色が、しばらくぼやけて見えた。
彼は片手で顔を覆い、深く息を吐いた。
あの男がいなくなってから、長い時間が過ぎた。
戦争は続き、戦況は変わり、かつての仲間たちも、それぞれ別の場所へ散っていった。
ブレントは管制官として空に残った。
新しいパイロットを迎え、彼らの声を覚え、任務へ送り出し、帰還する姿を見届けてきた。
その中には、無事に帰ってきた者もいれば、二度と帰らなかった者もいた。
何度も別れを経験した。
そのたびに、失った者たちの名前を胸の奥へしまい込み、次の任務へ向かった。
そうするしかなかった。
空を飛ぶ者たちは、明日も飛ばなければならない。
そして、彼らを導く管制官もまた、明日になれば管制席に座らなければならない。
立ち止まっている時間はなかった。
それでも、あの男に対して何もできなかったという思いだけは、ずっと胸の奥に残り続けていた。
自分は生き残った。
あの男の最後の言葉に従い、空を飛び続け、何人ものパイロットを送り出し、何人もの帰還を管制席から見届けてきた。
だが、どれだけ年月を重ねても、あのときの記憶が消えることはなかった。
もし、あのとき別の判断をしていたら。
もし、もっと早く救援を要請できていたら。
もし、あと少しだけ時間があったなら。
そうした考えが、ふとした瞬間に蘇ることがあった。
答えが出ないことは分かっている。
あのとき、自分にできることは限られていた。
どれほど努力しても、結果を変えられなかった可能性は高い。
それでも、考えずにはいられなかった。
自分は、本当にあれ以上のことができなかったのだろうか。
その問いは、長い年月を経ても、完全に消えることはなかった。
そして今、その息子が、同じ空を飛んでいる。
しかも、自分の父親と同じように、他人の命を救うためなら自分の命を惜しまない男として。
ブレントは、机の上に置かれた資料へ目を向けた。
最後のページには、死神という名が記されている。
その名前が何を意味しているのかは分からない。
開発者たちが何を考えてその名称を選んだのかも、知る由はない。
だが、少なくとも、その機体がカイのために設計された可能性は高い。
そして、その機体に乗るカイは、危険を顧みず味方を救おうとする人間だった。
それが、ブレントには何よりも気がかりだった。
カイは、父親と同じ道を歩もうとしているのかもしれない。
誰かを守るために飛び続け、危険な任務を引き受け、いつか自分の命を失うことになっても、最後まで誰かを救おうとする。
そんな未来を、ブレントは想像したくなかった。
あの男を失ったとき、自分は何もできなかった。
残された者として、生き続けることしかできなかった。
だが、今度は違う。
カイは、まだ生きている。
自分の声が届く場所にいる。
無線を通じて、彼の判断を支えることができる。
危険を知らせることもできる。
必要なら、無茶をするなと怒鳴りつけることもできる。
そして何より、彼が帰ってくるまで、呼び続けることができる。
それは、かつての親友に対してできなかったことを、今度こそやり直す機会なのかもしれなかった。
「……守れってか」
小さく呟き、ブレントは自嘲するように笑った。
今さら何を言っているのだろう。
あの男がいなくなってから、何年経ったと思っている。
自分は生き残った。
それだけでも、十分だったはずだ。
あの男の最後の言葉を守り、空を飛び続けてきた。
それなのに、今になって、その息子を守ることができるかもしれないと思っている。
ずいぶんと都合のいい話だ。
あの男が帰ってこなかったことは、変えられない。
失われた命も、取り戻すことはできない。
カイを守ったところで、過去の出来事がなかったことになるわけではない。
それでも。
それでも、今度こそ、自分にできることがあるはずだった。
ブレントは、ゆっくりと背筋を伸ばした。
先ほどまで胸の奥を占めていた疲労は、完全に消えたわけではない。
疑問も、不安も、何一つ解決していない。
Λ計画の正体は分からない。
GRIM REAPERという名称の意味も分からない。
上層部がカイをどのように扱おうとしているのかも分からない。
それでも、自分が何をすべきなのかだけは、少しずつ見え始めていた。
彼にできることは、計画の全貌を暴くことではない。
上層部の思惑を、すぐに変えることでもない。
F-15Λという機体の秘密を、一晩で解き明かすことでもない。
少なくとも、今の自分にできるのは、カイが飛ぶときに、その空を見届けることだった。
敵の動きを監視する。
必要な情報を伝える。
危険が迫れば警告する。
彼が無謀な行動を取ろうとすれば、全力で止める。
そして、帰投するまで呼び続ける。
それが、管制官としての自分にできることだった。
それが、かつての親友に対して、自分が果たせなかったことだった。
ならば、今度こそ。
今度こそ、自分にできることがあるはずだった。
ブレントは資料を閉じた。
乾いた音が、静かな部屋に響く。
表紙に記されたカイの名前を、最後にもう一度だけ見つめる。
その名前の下に隠されたものが何であろうと、機体にどれほどの秘密があろうと、上層部が何を企んでいようと。
カイは人間だ。
兵器ではない。
計画のために使い潰される部品でもない。
性能を測定され、適合性を評価され、必要なときに戦場へ投入されるだけの存在でもない。
彼には、彼自身の人生がある。
守りたいものがあり、失いたくないものがあり、誰かと交わした約束があるはずだった。
たとえ、そのすべてが記録に残されていなくても。
たとえ、上層部が彼の能力だけを見ているのだとしても。
ブレントだけは、彼を一人の人間として見なければならない。
あの男が命を懸けて残した、たった一人の息子なのだから。
「……いいぜ、やってやるよ」
ブレントは静かに立ち上がった。
椅子が床を擦り、小さな音を立てる。
疲れ切った身体には、まだ重さが残っていた。
それでも、先ほどまでのように、何をすればいいのか分からず立ち尽くす気持ちはなかった。
窓の外では、夜の滑走路が冷たい光に照らされていた。
その先にある格納庫のどこかで、黒い戦闘機が眠っている。
漆黒の機体。
F-15Λ。
そして、その機体に乗る青年は、まだ自分がどれほど危うい場所に立たされているのか、十分には理解していないのかもしれない。
あるいは、すべてを理解したうえで、何も言わずに受け入れているのかもしれない。
どちらなのかは、まだ分からない。
だが、少なくとも、明日からのブレントには確かめる機会がある。
カイが飛ぶときには、自分が管制席にいる。
彼の声を聞き、状況を把握し、必要な情報を伝える。
無茶をすれば怒鳴りつける。
命令を無視すれば文句を言う。
どれほど優れた機体に乗っていようと、どれほど圧倒的な戦果を挙げようと、危険な行動を取れば遠慮なく叱る。
そして、帰ってこなければ、何度でも呼び続ける。
応答があるまで呼ぶ。
位置が確認できるまで探す。
帰投の報告を聞くまで、決して諦めない。
それが、管制官としての責任だった。
同時に、それはブレント自身が決めたことでもあった。
あの男にしてやれなかったことを、今度はその息子にする。
あのとき、通信の向こうで聞いた最後の言葉を、今度は自分の行動で返す。
まだ来るなと告げられた自分は、これからも空に残る。
そして、誰かが同じ場所へ来てしまわないように、できる限りのことをする。
それが、かつての親友に対して自分が果たせる、最後の義理なのだろう。
ブレントは、閉じた資料を机の引き出しへしまった。
中には、ほかの書類も収められていた。
任務に関する報告書、配属に関する通知、明日の飛行計画。
どれも軍人として扱うべき、ありふれた書類だった。
だが、その中に一つだけ、これまでとはまったく異なる意味を持つ資料が加わった。
カイ・ラグナーの記録。
F-15Λの性能資料。
そして、Λ計画とGRIM REAPERという名称。
ブレントは引き出しを押し込み、鍵を掛けた。
鍵が回る小さな音が、静かな部屋に響いた。
その音を聞きながら、彼はしばらく引き出しを見つめていた。
資料の内容を、今すぐ誰かに話すつもりはなかった。
何をどこまで報告すべきなのか、まだ判断できない。
この資料を誰が保管していたのかも、どこまでが正式な機密事項なのかも分からない。
不用意に動けば、かえってカイの立場を危うくする可能性もある。
だから、今は何も言わない。
ただ、目を背けることもしない。
分からないことは、これから少しずつ確かめていけばいい。
カイと接する中で、彼が何を知っているのかを見極める。
機体の運用を通じて、どのような制約があるのかを把握する。
必要な情報を集め、管制官としてできる限りの備えを整える。
それなら、自分にもできる。
ブレントは窓の外へ目を向けた。
夜の滑走路は、静かだった。
遠くの誘導路に沿って並ぶ照明が、冷たい光を地面へ落としている。
その向こうには、明日もまた飛び立つ戦闘機が並んでいるのだろう。
そして、その中には、あの黒い機体もある。
GRIM REAPER。
死神。
その名が何を意味するのか、ブレントにはまだ分からない。
だが、あの機体がどれほど異質な存在であろうと、そこに乗る人間までが死神になる必要はない。
カイが何を背負わされているのか。
何を知らされていないのか。
何を望み、何を守ろうとしているのか。
それを知ることができるのは、これから彼の声を聞き続ける自分なのかもしれなかった。
ブレントは、誰もいない部屋で静かに口を開いた。
「今度はちゃんと守ってやるよ」
その声には、もう迷いはなかった。
「お前の忘れ形見を」
〜お願い〜
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