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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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9/15

開戦準備

オルビタス海。

「世界の心臓」と呼ばれるその海は、今やその鼓動を狂わせていた。

水平線の彼方まで広がる灰色の海。

そこを行き交うはずだった商船、旅客船、輸送船―それらは今、進路も定まらぬまま漂っていた。

上空では白い航跡がいくつも乱れ、空の秩序すら崩れている。

機内に鳴り響く警告音。

「落ち着いてください! 現在、航路を調整中です!」

客室乗務員の声が震えている。

それでも必死に平静を装っていた。

だが乗客たちはそれを感じ取っていた。

異常を。

逃れられない何かを。

「どうなってるんだ!」

「さっきの放送は何だよ、戦争って――」

怒号とざわめきが機内を満たす。

子どもが泣く。

母親が抱き寄せる。

老人はただ窓の外を見つめている。

そこには、見慣れない光景があった。

黒い点、いや、違う。

それは高速で接近してくる影だった。

「機長! 未確認機接近!」

操縦室で声が上がる。

レーダーに映る複数の光点。

編隊。

統制された動き。

そして――あまりにも速い。

「IFFは!?」

「……帝国軍の識別信号です!」

その直後、通信が割り込む。

『こちらは帝国軍航空隊。貴機は現在、戦闘予測空域に侵入している』

低く、冷静な声その裏にある圧力は、誰もが感じ取れた。

『当該空域はまもなく戦闘空域へ移行する』

機内のスピーカーにも流れる。

乗客たちの顔色が変わる。

『繰り返す。当該区域はまもなく戦闘空域へ移行する』

誰かが叫ぶ。

「戦闘ってなんだよ……!」

「どうなってんだよ!」

「クソ、クソ......死にたくねぇ...死にたくねぇよぉ...」

機内は大混乱になった。

しかし

『国際法に基づき、貴機を護送する』

その言葉に、一筋の希望が差し込んだ。

『我々の指示に従え。進路を変更しろ』

操縦士が震える手で応答する。

「こ、こちら民間旅客機エリオス237便……指示を受信した……」

『新たな航路データを送信する。目的地はノルディア大陸北部港湾』

北方大陸ノルディア。それは氷と嵐の大陸。

だが今は、そこが唯一の安全圏だった。

「了解……進路変更する」

機体がゆっくりと旋回する。

その瞬間、窓の外を、影が横切った。

鋭いシルエットの黒鉄の機体。蒼い光を帯びたエンジン。帝国空軍の戦闘機。

それはまるで――空そのものを支配する存在だった。

乗客の一人が呟く。

「……守られてるのか……?」


別の誰かが否定するように言う。


「違う……追い出されてるんだ……戦場から……」

どちらも正しかった。

同時に―――海上。

巨大な客船が、ゆっくりと進路を変える。

その周囲を囲む灰色の艦影。

帝国海軍艦隊。

主砲は沈黙している。

ミサイルハッチも閉じられたままだが、その威圧感は圧倒的だった。

「こちら帝国海軍。貴船は護送対象だ。速度を維持しろ」

拡声器越しの声が海に響く。

甲板に出ていた乗客たちが凍りつく。

「軍艦だ……」

「こんな数……」

水平線の先まで続く艦隊。

そこにあるのは絶対的な統制。

その中の、一隻の駆逐艦艦橋で若い士官が双眼鏡を下ろす。

「民間船、進路変更完了しました」

隣に立つ上官が短く頷く。

「よし」

そして、低く言う。

「絶対に一人も死なせるな」

「……はっ」

それは命令だった。

そして――皇帝の意思だった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ノルディア大陸北方空域。

雲は低く、氷の大地が白く広がっている。

『予定地域への到達を確認した。すぐに近くの空港へ着陸なされよ』

無線に響く帝国軍の声は、最後まで揺るがなかった。

操縦席で機長が息を吐きようやく、肩の力が抜ける。

「……こちらエリオス237便。助かった……ありがとう」

「あなたたちに蒼穹の女神アステリアの御加護があらんことを」

それは本心だった。

機体の横を、帝国戦闘機が滑るように通り過ぎる。

翼がわずかに振られるそれは言葉なき敬礼。

そして――機体は鋭く機首を上げ、宙返り。

蒼銀の軌跡を空に刻み、そのまま反転していく。

戦場へ。

―――

機内の誰もがすぐには声を出せなかった。

やがて、一人の女性が小さく呟く。

「……私たち.....生きてる……?」

隣の席の男が答える。

「ああ……生きてる……」

それをきっかけに、張り詰めていた空気が崩れる。

泣き出す子どもにそれを抱きしめる母親。

「よかった……本当に……」

後方では、老人が帽子を取り、胸に抱いた。

「……あれが、帝国か」

誰かが言う。

「敵なんだろ……?」

だが、すぐに返される。

「さっきの連中が……か?」

誰も答えないずにただ、窓の外を見つめる。

遠ざかっていく戦闘機の影を。

―――

海上では巨大な客船が、ゆっくりと進路を変える。

「ここから先は安全圏だ。直ちに最寄りの港へ向かえ」

拡声器越しの声。

船長がブリッジで応答する。

「……了解した。すまない、助かった」

一瞬言葉を探し、そして続ける。

「君たちに海の御加護があらんことを」

その直後。

低く、重い汽笛が鳴り響く。

帝国艦隊の答えだった。

―――

甲板。

乗客たちが、去っていく艦隊を見つめている。

「助けてくれたんだよな……?」

「……そうだな」

隣に立つ老人が答える。

「でも……あのまま進んでたら、どうなってた?」

誰も口にしなかった未来が、そこにあった。

「……」

そして全員が理解する。

今、自分たちは“死”から逃れたのだと。

子どもが手を振る。

遠ざかる軍艦へ。

それに応える者はいない。

もう彼らは振り返らない。

進む先が、決まっているからだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

編隊が再び速度を上げる。

「護送任務完了」

パイロットが淡々と報告する。

『こちら総合作戦本部。護送の任、ご苦労』

『お前たちはこれより戦闘区域へと向かえ』

声が変わった冷たい、戦争の声に。

『既に先遣した部隊が交戦状態に入っている』

HUDに新たなデータが流れ込む。

敵機識別信号。

戦域マップ。

交戦許可。

「了解」

『さっきの連中……助かったな』

「ああ」

余計な言葉はない。

『じゃあ――次は俺たちの番だ』

静かな決意。

編隊が一斉に加速する。

雲を突き抜ける。

その先にあるのは――炎と血と鉄の空。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

一方、ノルディアの空港にエリオス237便が滑走路に降り立つ。

着陸したその瞬間。

機内に拍手が広がった。

自然に、誰かが始めたわけでもなくただただ、生き延びたことへの実感。

その中で、一人の少年が窓の外を見ていた。

もう、戦闘機の姿は見えない。

遠くの空の向こうへと消えていった。

「……かっこいい」

母親が少し驚いた顔で見る。

「怖くなかったの?」

少年は首を振った。

「怖かったよ」

そして、少しだけ笑う。


「でも――守ってくれた」

その言葉は、誰に向けたものでもない。

ただ、空へ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

同じ頃。

海でも、港へと向かう船の上で、乗客たちは振り返る。

遠くにかすかに見える水平線。

その向こうで――黒い煙が立ち上がり始めていた。

戦争が、始まった証。

誰かが呟く。

「……あの人たち、戻っていったんだよな」

答えはないがただ一つ、確かなこと。

彼らは“守る側”から、“戦う側”へ戻った。

そしてその境界線は、あまりにも薄い。

空も海も同じ場所にあるのだから。

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