あの戦争からおよそ二十年後...ある一人の少年のもう一つの話
---皇歴記一〇五〇二年十二月二十日
ノルヴァイン帝国東部――冬の港町レイゼンハーフェン。
灰色の海は夜霧に沈み、埠頭に並ぶ貨物クレーンの赤灯だけが、闇の中でゆっくりと瞬いていた。
潮風には鉄と油の臭いが混じる。
遠くで貨物列車の警笛が鳴った。
港湾区画の外れ。
石造りの古いバー《ノクターン》。
帝国統一以前から残っていると言われる店で、海軍兵や空軍兵、荷役夫、退役軍人たちが夜毎集う場所だった。
煤けた扉が開き、冷たい外気が店内へ流れ込む。
カウンター奥の老店主がちらりと視線を向けた。
入ってきたのは若い男が一人だけだった。
茶色い革ジャンに擦り切れたブーツ肩に掛けられているには古びた鞄。
年齢は三十代前半のように見える。
男は店内を見回し、窓際の席へ視線を止めた。
そこに、一人の男が座っていた。
黒い帝国空軍コート。
黒鉄色の生地に蒼銀の縁取り。
肩に刻まれた古い空軍章。
そして金髪。
歳は三十代後半にも、四十代前半にも見える。
だがそのブラットレッド色の瞳だけが妙に若かった。
窓の向こうの海を眺めながら、男は煙草を指先で弄んでいる。
若者はゆっくりと席へ近づいた。
「……初めまして」
「私はアレン・ヴァイスというです」
反応はない。
アレンは一瞬だけ息を飲み、続けた。
「あなたに、ある用事があって今日は呼び出させてもらいました」
男は煙草を咥え、火を点ける。
青白い煙がゆったりと揺れた。
「あなたには、あの戦争の話を聞きたい」
その瞬間、男の目がほんの僅かに細くなった。
「あの戦争で、“あの黒翼”の隣を飛んだ唯一の人物である――“白翼”と呼ばれたあなたに」
しばし沈黙。
バーの古いレコード機から、かすれたジャズだけが流れている。
やがて男は短く笑った。
「……久々にその呼ばれ方をしたよ」
低い声だった。
「アイツのことを知りたいなんて、今時物好きもいたもんだ」
白翼。
かつて帝国最強と謳われた二機編隊。
黒翼と白翼。
あの戦争で敵を世界を恐怖させ、味方に神話のように語られた存在。
アレンは男の隣の席へ座った。
「ブレンドのおっさんのところには行ったのか?」
男は灰皿へ灰を落としながら聞く。
「ブレンドさんのところには、もう行きました」
「あなたたちの話を、少し嬉しそうに……でも悲しそうに話してくれました」
男は鼻で笑った。
「フッ、ブレンドのおっさんのところに行ったなら、俺が話すことなんてないんじゃないか
他のヤツのところにも行ったのか?」
男はアレンを見る。
「例えば、ヴィムのクソ野郎のところとか」
「ええ、行かせてもらいました」
その瞬間、男の眉がわずかに動いた。
「……まだ、刑が執行されていなかったんだな」
低く漏れた声に対してアレンは慎重に尋ねた。
「あの人は、何者だったんですか」
男は煙草を咥え直す。
「聞いたことあるだろ」
吐き出された煙が天井へ昇る。
「帝国情報局の人間だ」
冷たい声だった。
「戦後、陛下に悪行がバレて死刑宣告された」
アレンは黙って聞いている。
男はグラスを傾け氷が小さく鳴る。
「……俺たちは、アイツの実験台だった」
その一言だけで空気が重くなった。
男は窓の外の港を見ていた。
外では雪が降り始めている。
バーの扉が開く。
酔った船員たちが笑いながら入ってきた。
店内に一瞬だけ賑やかな空気が流れ、また消える。
その時だった。
会計を済ませ、店を出ようとしていた老人がふと立ち止まる。
視線は男のコートへ向いていた。
正確には、その肩口に付いている古びた部隊章。
黒い翼と白い翼が交差し銀のリボンに結ばれた《レイヴン》のエンブレム。
老人の目が見開かれた。
「なぁ……アンタ」
「なんだよ」
男は鬱陶しそうに顔を向けた。
「アンタは、レイヴンの者かい?」
店内が静かになった。
男は少しだけ目を細めた。
「……そうだが。どうした爺さん」
老人は数秒言葉を失っていた、やがて震える声で言う。
「あの戦争でよ……俺も、兄貴も、息子も世話になったんでな」
「そうかよ」
老人は帽子を握り締めた。
「あの地獄みてぇな戦場で、生き残れたのはアンタたちのおかげさ」
店内の空気が変わり船員たちも、店主も、黙って聞いていた。
老人の目には涙が浮かんでいた。
「あの地獄で……アンタたちは希望の光だった」
男は困ったように鼻を掻く。
「アンタは……どっちの翼だい?」
しばし沈黙の後やがて男は短く答えた。
「俺は白翼のほうだ」
老人は深く頷いた。
「……そうかい」
「なら、黒翼の英雄殿のほうにも、よく伝えてくれ」
男のブラットレッド瞳が僅かに揺れる。
「ありがとう、ってな」
男は視線を逸らした。
「……やっぱ俺には、こんなこと合わねぇ」
老人は小さく笑い、そのまま店を出ていき扉が閉まり、ベルが鳴った。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて男がグラスを置く。
「……で、お前は何なんだ」
ブラットレッドの瞳がアレンを真っ直ぐ見つめた。
「記者か、研究者か」
煙草の火が揺れる。
「それとも、ただの物好きか」
アレンはすぐには答えなかった。
男は肩を竦めた。
「安心しろ。突き返したりしないさ」
「それにお前、どうせ突き返してもまた来るだろ」
アレンは少し驚いたような顔をした。
「分かるんだよ」
視線がまた窓の外へ向く。
雪はさらに強くなっていた。
「俺は、お前と似てる連中を知ってる」
男の瞳は、どこか遠い昔を見ていた。
「俺の同期たちだよ」
店の奥でグラスを磨いていた店主が、静かに手を止める。
「俺達を調べてるなら知ってるはずだ」
男はグラスの氷を揺らした。
「帝国空軍第119士官学校――第203期生」
その言葉に、アレンの表情が変わる。
第203期。
“黄金世代”。
黒翼と白翼を生み出した伝説の期。
戦後の帝国空軍史で、今なお神話のように語られる存在。
男は乾いた笑みを浮かべた。
「残ってるのは……俺を含めて数人しかいないけどな」
その言葉のあと。
バーには波の音だけが残った。
窓の外の冬の港には雪が降り続いていた。
男はアレンの持つ分厚い手帳へ目を向けた。
革表紙は擦り切れ、角は潰れ、何度も開閉された痕跡が残っている。
紙束は膨れ上がり、ところどころ色違いの付箋や紙片が飛び出していた。
男は煙草を指先で回しながら鼻で笑う。
「……ずいぶんと調べたんだな」
アレンは静かに頷いた。
「開戦前から終戦までの……五年分です」
戦闘記録。
部隊移動。
公開資料。
新聞記事。
証言記録。
軍用写真。
撃墜記録。
死亡者名簿。
ページには何度も書き直された跡がある。
インクが滲み、紙が削れ、破れた部分を貼り直した箇所まであった。
男はそれを眺めながら呟く。
「帝国中央図書館、戦史編纂局、退役軍人会……」
「……あの戦争に参戦した国の公開記録も可能な限り調べました」
男の眉がわずかに上がる。
「世界中を回って、関係者にも会いました」
窓の外では雪が埠頭へ降り続いていた。
港湾灯が白い霧の向こうで滲んでいる。
男は呆れたように笑う。
「お前、とんでもない暇人だな」
アレンも少しだけ笑った。
「妻も手伝ってくれたので」
その言葉に男はちらりと目を向ける。
「私と妻の目的は同じなんです」
男は煙草を灰皿へ押し付け、新しい一本を取り出した。
「目的?」
アレンは手帳をゆっくり開く。
そこには古びた新聞記事の切り抜きが貼られていた。
“黒翼の悪魔、大五艦隊を壊滅に追い込む”
“黒翼の死神”
“黒翼の英雄”
国ごとに見出しが違う。
ある国では悪魔。
ある国では英雄。
アレンは静かに言った。
「皆、言うことが違うんです」
男は煙を吐き出す。
「ある人は悪魔とも死神とも言う」
アレンはページをめくる。
焼け焦げた飛行場に撃墜された機体、避難民、敬礼する兵士。
「またある人は、英雄と呼んだ」
男はグラスを傾け再び氷が静かに鳴る。
「そりゃそうだ」
「あいつは場所が違えば、死神にも悪魔にも英雄にもなった」
男は窓の外を見たそこに映るのは雪の降る中、港に停泊する貨物船のシルエット。
「……俺にとっては親友だった」
アレンは顔を上げる。
男のブラットレッドの瞳は、もう港を見ていなかった。
彼は遠い昔を見ている。
「俺達は、ある日から狂っちまったんだ」
店内の空気が少し変わる。
カウンター奥の店主も黙ってグラスを磨いている。
「士官学校卒業前の、あの日だ」
「謎の無人機によって、俺の同期たちの三分の二が死んだ」
アレンの指が止まる。
「生き残ったヤツは精神病棟行きか、二度と空を飛べない中央軍送り」
男は笑った。
乾いた笑いだった。
「……地獄だったよ」
煙草の火が赤く灯る。
「毎日、誰かが消えていった」
「昨日まで笑ってたヤツが、次の日には壊れてた」
アレンは静かに聞いていた。
「俺とアイツは……情報局に力を求めて行った」
その瞬間、アレンの背筋がわずかに強張る。
情報局。
ヴィム。
あの男の顔が脳裏を過った。
死刑囚の独房。
濁った目。
震える指。
『君は、英雄譚が好きかい?』
あの不思議と人を惑わせるような声。
男はアレンの変化に気付いたようだった。
「……アイツの名前は知ってるのか?」
アレンはゆっくり首を横に振る。
「いいえ。“黒翼”としか……」
「アイツの名前は――カイ・ラグナー」
その名が落ちた瞬間、この場の空気が変わった。
アレンの目が見開かれる。
「そう。“あの”ラグナーだ」
ラグナー。
その名は、この世界では特別な意味を持つ。
誰よりも速く。
誰よりも高く。
誰よりも強く。
そして誰よりも仲間思いだった。
空の開拓者。
空へ歴史を刻み続けた血族。
“人類の翼を与えた者たち”。
ノルヴァイン帝国の英雄の一族。
アレンは小さく息を吐いた。
「……やはり、そうでしたか」
男は片眉を上げる。
「なんだ。気付いてたのか」
アレンは苦笑する。
「少しの勘と……ブレンドさんとヴィムさんの話で」
男は椅子へ深くもたれた。
「まぁ、なんだ」
「俺だけ話すのは不公平だ」
ブラットレッド瞳がアレンを見る。
「お前から話してくれ」
アレンは黙った。
指先が手帳の端を撫でる。
バーの薄暗い照明がページへ落ちた。
そこに、一枚の古い写真が挟まれている。
港町に小さな家。
海を背に笑う家族。
若い母親。
無精髭の父親。
幼い妹。
そして、まだ少年だった頃のアレン。
写真の端は焼け焦げていた。
アレンは写真を見つめたまま、小さく呟いた。
「私は...あの日まで......」
次こそはカイが出てくる予定です。
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