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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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11/18

あの日の記憶

すみません。

アレンのところが切りが悪かったので本編より先に書いちゃいました。

戦争など、遠い国の出来事だった。

新聞の片隅に載る数字に夜のニュース番組で映る、煙を上げるどこか知らない街。

それだけだった。

少なくとも、あの日までは。

夏の終わり。

潮風はまだ温かく、港には白い陽射しが満ちていた。

私はいつものように学校へ向かっていた。

石畳の坂道にパン屋から漂う焼き立ての匂い、港へ降りていく荷車の音。

それはいつも通りの平凡な朝になるはずだった......

遥か遠くから遠雷のような轟きが空に響いた。

私は足を止めた。

周囲の人々も、何事かと顔を上げていた。

はるかな蒼穹、そこに白い線が幾重にも刻まれていた。

飛行機雲。

幾筋もの白線が、互いに回り込み合い、複雑な輪を描いている。

まるで空に巨大な絵筆で模様を描いているようだった。

美しかった、恐ろしいほどに。

高高度を舞う戦闘機たち。

銀色の機影が太陽を反射し、瞬く。

追いつ追われつ。

急旋回に急上昇。

白線が絡み合い、ほどけ、また絡む。

私は見上げ続けていたいつまでも飽きることなく。

子供だった私は、それをまだ“戦争”として理解していなかった。

ただ、空の向こうで何か凄いものが起きている、その程度だった。

突然、背後の丘をかすめるように一機が低空で突き抜けた。

空気が震え窓ガラスが鳴った。

鋭い灰色のシルエット。

続いてもう一機。

追いつ追われつ。

二機は港の上空をかすめ、海側へ急上昇していく。

翼を傾け、光を散らしながら。

逃げる機体がふらついた。

次の瞬間、右翼から炎が噴き出し燃えながら揺れる機体。

機首を上げようとして、失速し、再び傾く。

私は息を呑んだ。

燃える飛行機は、そのまま湖へ突き出た岬の向こうへ堕ちていった。

遠くで鈍い爆発音が聞こえ黒煙が立ち昇る。

その瞬間だった。

空の色が変わった。

誰かが叫ぶ。

「……何だ、あれ」

水平線の彼方、海と空の境界から、黒い帯のようなものが現れていた。

最初、それは嵐雲に見えた。

それは、編隊だった。

無数の機影、幾百もの爆撃機。

重く巨大な翼が、空そのものを覆うように迫ってくる。

空が暗くなる。

胸の奥を押し潰すような低音。

爆撃機群は街の上空へ差しかかると、ゆっくりと腹を開いた。

その瞬間、世界が止まった気がした。

機体の下から、無数の黒い影が落ちてくる。

爆弾。

数え切れないほどの。

銀の線が空を裂く。

落下する影たちは、光を引きながら降り注いでいた。

誰かが悲鳴を上げ誰かが走り出す。

だが遅かった。

最初の一撃が街の中央へ突き刺さる。

白い閃光が光、世界から色が消えた。

次の瞬間、音が来た。

凄まじい衝撃により空気が爆ぜる。

大地そのものが殴りつけられたようだった。

鼓膜が裂けるような感覚。

私は何が起きたのか分からないまま、吹き飛ばせれその場へ倒れ込んだ。

視界が白く揺れる。

誰かが叫んでいるが聞こえない。

音が消えていた。

耳鳴りだけが頭蓋の奥で響いている。

その静寂の中で街が、崩れ始めた。

何度も続く轟音。

地面が裂け風が逆巻き建物が歪み、窓が砕け、石壁が弾け飛ぶ。

炎の熱で肌が焼ける。

空気が熱い。

呼吸を吸うたび肺が灼ける。

舗道の石が宙を舞う。

木片にガラス、鉄、瓦礫。

すべてが暴風に巻き上げられ、人間を殴りつける。

衝撃波が顔を打った。

通りの向こうで炎が立ち上る。

風に煽られ、炎が跳ねるように街を走る。

煙の中を、影が動く。

人々だ。

叫びながら、何かを抱え、転び、立ち上がる。

赤い光の中で、誰が誰かも分からない。

声だけが重なり合って、

人の叫びがひとつの波になる。

誰かの叫び声と、泣き声と、爆音が入り乱れる中を。光と炎が街を襲い、

建物が、まるで飴細工のように砕け散っていく。

私は、ただ立ち尽くしていた。

その中で、人々が走っていた。

「逃げろ――!」

「母さんっ!」

「こっちへ来い、早く!」

声の群れが、建物の崩壊音と混ざり、大地がうねっているようだった。

叫び、泣き、転び、掴み合い、人の流れが通りを埋め尽くす。

押し寄せる波のように、私はその中で押し潰されそうになった。

腕を引かれ、誰かに突き飛ばされ、足元には、誰かの靴が転がっていた。

その隣に、小さな手。

子どもが、母親のスカートの裾を掴んで泣いている。

だが次の瞬間、爆風がそれを攫った。

母子の姿が、炎と共に掻き消えた。

地面が揺れる。

建物が軋み、

瓦が降る。

壁が音を立てて裂け、

中から家具や光が吹き出す。

吹き上げられた土埃が太陽を覆い、

昼なのに夜のように暗い。

風が狂っている。

押し戻されるようにして倒れ、再び立ち上がる。

誰かがぶつかり、誰かが腕を掴む。

誰かが何かを叫ぶが、言葉は爆音に飲まれる。

息が詰まる。

熱風が皮膚を焼き、肺に灰が入り込む。

吐き出そうとしても、空気が無い。

私は再び吹き飛ばされ、石畳へ転がる。

息ができない。

肺が潰れたようだった。

何かを叫ぼうとしたが声は爆音に飲まれる。

また爆発。

また閃光。

教会の尖塔が崩れるのが見えた。

石塊が雨のように降り注ぐ。

鐘の音は途中で途切れた。

通りの向こうで炎が立ち上がる。

爆風に煽られた火柱が、生き物のように街を走り木造家屋へ燃え移る。

誰かが子供を抱えて走り転び再び立ち上がる。

別の誰かが瓦礫の下敷きになっている。

腕だけが見える。

炎が跳ね、人々の悲鳴が重なり合い、一つの巨大な波になる。

泣き声に怒号。

それをかき消すような爆音、建物が崩れる音。

何もかもが混ざり合っていた。

私は立ち上がろうとしたが脚が震えた。

怖かった。

何が起きているのか分からなかった。

ただ、街が燃えていく日常が壊れていく。

それだけが分かった。

熱風が皮膚を焼き、肺に灰が入り込む。

吐き出そうとしても、空気が無い。

「家へ……帰らなきゃ」

その言葉だけを頼りに、私は人を掻き分けた。

押し寄せる波のように人が逃げてくる。

肩がぶつかるたび、汗と煤が肌に貼りつく。

誰かが倒れ、私はその上を踏んで進む。

「助けて!」

「お願い、子どもが――!」

声が次々と上がるが、どの声も同じように遠く感じた。

「こっちだ! こっちに防空壕が――!」

その声も途中で途切れ、目の前で家が、まるごと崩れ落ちた。

爆風が通りを走り抜け、炎の帯が横切る。

屋根の瓦が剥がれ、燃えた梁が斜めに落ちてくる。

瓦礫の中から手が伸びる。

小さな子どもが泣き叫んでいる。

だが爆風が再び街を叩き、炎の柱が空を貫いた。

私は人を掻き分け、誰かの腕を振り払いながら進んだ。

耳の奥でずっと金属の響きが続いている。

通りの端では、燃料車が爆ぜ、炎の帯が川のように流れ出していた。

建物の壁が倒れ、逃げ遅れた人々を押し潰す。

瓦礫の山の間を、私は四つん這いで進んだ。

手のひらが焼けた鉄片に触れ、皮が剥ける。

それでも止まれない。

家へ――。

そこに妹がいる、母がいる、父がいる、家族がいる。

そう信じて、焼けた町を、私は掻き分けて進んだ。

道の途中、炎の中で、誰かがまだ立ち上がろうとしていた。

服が燃え、声が出ない。

その人が何かを差し出そうとしていたが、

次の瞬間、崩れた壁が覆いかぶさった

私は振り返らなかった。

振り返れば、きっと足が止まるから。

焼けた紙が雪のように降り注ぐ。

瓦礫の破片が足に刺さっても、構わず走った。

空が赤い。

空気が鳴っている。

耳の中で自分の鼓動すら聞こえない。

空を見上げると爆撃機群はなおも飛び続けていた。

悠然と、まるで地上など見えていないかのように。

そのさらに上の高高度では白い飛行機雲が何度も交差している。

戦闘機たちがまだ戦っている。

空では、美しい軌跡が描かれていた。

だが地上では、人が、街が燃えていた。

目の前に爆弾が落ち道の向こうで閃いた。

次の瞬間、世界が傾く。

耳の奥で音が潰れ、視界が、ぐにゃりと歪んでいた。

頭の奥が揺れる。

耳鳴りが続き、音が遠い。

焼けた風が頬を撫でていく。

灰、それとも何かの粉。

白とも黒ともつかない細かな塵が、空から静かに降ってくる。

雪みたいだと、場違いなことを思った。

私はゆっくり目を開けた。

そして、理解できなかった、理解してくなかった。

目の前の道が、無くなっていた。

そこはさっきまで市場だった場所。

パン屋があり、花屋があり、魚売りの怒鳴り声が響いていた通り。

しかし、そこにはもう何もなかった。

そこに残ったのは瓦礫に煙、炎、崩れた石壁、潰れた荷車、ねじ曲がった鉄骨。

ここがどこだったかも分からない。

街そのものが、形を失っていた。

空気が熱い。

息を吸うたび肺が焼ける。

風に混じって流れてくる匂い。

焼けた油や鉄、煙、そして、血。

私は吐きそうになるが胃の中には何もなかった。

煙の向こうで、人影が動いていた。

蠢くように何かを探している者、誰かの名前を呼ぶ者、腕を伸ばしながら歩く者、うつろな目で、ただ前へ進む者。

皆、自分がどこにいるのか分かっていない顔をしていた。

崩れた建物の隙間から風が吹き抜ける。

まるで街そのものが呻いているみたいだった。

そこかしこで火が燻っている。

瓦礫を舐める赤い火。

時折、何かが崩れる音。

遠くで爆発音。

まだ爆撃の残響が聞こえていた。

空襲は終わったはずなのに、世界がまだ揺れている。

私はふらつきながら立ち上がった。

脚が震えていた。

制服の袖が破れている、手の甲から血が流れていたが痛みはほとんど感じなかった。

頭が理解を拒んでいた。

爆撃機は去っていたその空は灰色だった。

風は止み、灰が雪みたいに積もっていく。

私は歩き出した、灰を蹴りながら。

崩れた道を越えて、焼けた鉄骨を跨いで。

何度も足が滑る。

瓦礫に躓き転びそうになる。

その時だった。

靴の裏に、何か柔らかい感触があった。

私は反射的に足を引いた。

見ないようにした。

視線を逸らした。

見たら駄目だと思った。

何となく。

「母さん……」

声が掠れた、喉が焼けるように痛い。

「父さん……!」

叫んだが、自分の声が自分へ返ってこない。

灰が降り灰が雪のように積もっていた。

もう昼なのか夜なのか分からなかった。

空が燃えているのか、地面が燃えているのか。

世界全体が炎の中へ沈んでいるようだった。

焦げた匂いに焼けた鉄の味。

煙が口の中へ入る。

昨日まで花が咲いていた道、妹と歩いた帰り道、市場帰りの母がよく立ち止まった噴水。

全部、壊れていた。

窓ガラスは砕け、電柱は折れ、石畳は抉れ、瓦礫の間に教科書が転がっている。

焼け焦げたページが風でめくれる。

そこにはまだ薄っすらと文字が残っていた。

誰かの名前、誰かの落書き。

私はそれを見て、急に怖くなった。

全部、本当にあったものなんだと。

この街は本当に生きていたんだと。

なのにそれが、数分で消えた。

私は歩き続けた。ただ、家を目指して。

焦げた街を掻き分けながら。

その先に、家が見えた。

いや、「あった場所」が見えた。

壁は崩れ、屋根は沈み、 母が育てていた鉢植えが、黒い影になっていた。

そこにあったはずの扉は、半分、焼け落ちていた。

炭の匂いが濃く、息をするたびに肺が痛む 。

煙がまだ立ち上っている。

風が、焦げた匂いを運ぶ。

息をするたび、肺が痛む。

瓦礫の下から、 小さな鈴のような音が聞こえた。

風が吹くたび、 焦げた柱が軋み、倒れかけの梁が揺れて鳴る音だった。

天井は赤い光を透かしていた。

どこかで、まだ炎が小さく生きている。

「……母さん」

声を出すと、まるで誰かが応えたように、どこかで木材がぱきりと音を立てた。

私は息を整え、瓦礫の間に足を踏み入れる。

足先に触れるのは、焦げた木片、焼け焦げた家具の破片、無残に転がる日用品の残骸。

思わず視線を逸らしたくなる光景が、延々と続いた。

床は沈み、天井は赤い光を透かしている。

どこかで、まだ炎が息をしていた。

台所の方へ歩いた。

鍋が転がっている。

焦げたパンの匂い。

朝、妹が焼こうとしていたパンだ。

それを思い出した瞬間、視界が滲んだ。

私は膝をつき、焼けた木片をかき分けた。

最初に見つけたのは、母の髪飾りだった。

焦げてはいたが、金の細工はかろうじて形を残していた。

それを拾い上げた手が震える。

少し離れた場所で、父が使っていた懐中時計が、割れたガラスの中で止まっていた。

時間は、爆撃の瞬間を指したまま動かない。

煙の奥に、人影があった。

「……父さん?」

近づいて見てみたが、違った。

壁際に崩れ落ちた父の姿――いや、父の姿の名残。

もはや顔は分からず、形だけが残されていた。 それでも、そこに確かに「父がいた」と、心が理解してしまった瞬間、胸の奥が裂けたように痛んだ。

喉が詰まり、吐き気が込み上げる。

父の存在の枯れた輪郭だけが、私の前に残っている。

言葉が、思考が、体のあらゆる反応が停止するようだった。

父を呼ぶ声は喉に残り、出ることはなかった。

声が出ない。

喉の奥で何かがつかえて、息が詰まる。

目の前が揺れ、世界がにじんで見えた。

吐き気が込み上げる。

さらにその先、私は母を見つけた。

倒れた横たわり方は穏やかで、幼い頃に見た寝顔の面影を思い出させる。

焦げた痕があちこちにあり、衣服は焼け焦げていたが、顔の輪郭はまだ読み取れた。

優しかった目元、髪の流れ、頬の線、唇の形、眠るときにいつも浮かんでいた小さな皺――その断片が、まるで記憶のスクリーンをちらつかせる。

私は近づき、恐る恐る手を伸ばした。

指先が触れたのは、乾いた温度と、かすかな焦げの感触だった。

その感触が、現実を突きつける。

母が、もうこちらを向いてはくれないと

しかし、それはもう叶わないという事実が、冷たく胸に落ちた。

生きていた時の姿が脳裏に重なる。

「アレン、気をつけて行くのよ」と言ったあの朝の声。

夕食の支度でふいに笑った声、私を叱るときの柔らかい強さ、雨の日に鉢植えの土をさわる手つき。

それらが一挙に押し寄せ、そして崩れ落ちる。

現実は無慈悲で、記憶は鮮やかなほどに痛い。

指先でそっと触れる。

その冷たさに、ようやく現実が牙を剥いた。

心臓が掴まれたように苦しい。

「違う」と言いながら、声が震え、涙が落ちた。

母の手元には、小さなエプロンの端が引っかかっていた。

その布地の縫い目を指でなぞると、かつての生活の匂いが一瞬だけ立ちのぼるような錯覚に囚われた。

錯覚はすぐに破れて、焦げた匂いが満ちる。

視界が歪む。怒りが膨れ上がる前に、深い、息の詰まる悲しみが先に波のように押し寄せた。

母の顔を確認した瞬間もう母はいないことを突きつけられた

そして、 さらに奥の倒れた食卓の下に――小さな腕が見えた。

焼け焦げて、真っ黒な幼い腕、それは妹の、ものだった。

その掌は、ハンカチを握りしめていた。

それでもまだ、手には布の切れ端を握っていた。

それは、私が前夜、妹に渡したハンカチだった。

その光景が、私の世界を引き裂いた。

幼さの端正さが、そのまま残酷な対比となって胸に刺さる。

妹のしぐさ、笑い声、眠るときに寝返りを打つ手の形――それらが一瞬で遠ざかる。

「お兄ちゃん、いってらっしゃい」

――あの時の笑顔が、頭の中で弾けた。

声が震える。地面が歪む。

私はその場に膝をつき、 灰の中に両手を突っ込んだ。

冷たい。

熱いはずの灰が、もう冷たい。

息ができない。 

声にならない叫びが喉の奥で砕けた。

その場に座り込み、 震える指先で、その手を覆った。温度はもうなかった。

妹の腕を抱き寄せた。

皮膚が崩れ、指が、骨が、砂のようにこぼれた。

それでもはなせなかった

灰の中で、私は泣き叫んだ。

声が掠れ、喉が裂け、それでも叫び続けた。

父を、母を、妹を呼んだ。

けれど、返ってくるのは、灰が崩れる音だけ。

その音が、まるで「もういない」と告げているようで、私は心の底から、世界を憎んだ。

炎がまだ、どこかでくすぶっている。

それが、私の胸の奥の怒りのようだった。

燃え尽きていく家の中で、私は声が出なくなるまで、灰の中で泣き叫んだ。

空を裂く音。

上空を旋回する黒い機影。

私は、空を見上げたまま、膝をついた。

記憶が、灰にまみれて形を失っていく中で、

あの印だけが、鮮烈に焼き付いた。

尾翼に刻まれていた――『八芒星』。

赤黒いの塗装。

それが、妹を奪った印。

私は拳を握りしめた。

灰まみれの手の中に、

妹のハンカチがあった。

それはもう、灰と血に染まっていた。

私はあの機体を―― けっして、忘れない。

そう心に誓った。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「……ここまでにしよう」

気づけば、男の手がアレンの肩に置かれていた。

その手は静かで、強かった。

アレンは顔を上げた視界がまだ滲んでいる。

気づかないうちに、爪が掌へ食い込むほど拳を握っていた。

男はそれを見て、小さく眉を寄せた。

「すまなかった、アレン。こちらの配慮が足らなかった」

バーの照明が、琥珀色に揺れている。

周囲では誰かがグラスを置く音がした。

遠くで古いジャズが流れている。

なのに、アレンにはまだ焼け跡の匂いが残っていた。

「君の顔色が悪い。今日は終わりにしよう」

アレンは息を整える。

喉が焼けるように痛かった。

それでも、ゆっくり首を振る。

「いえ……」

声が掠れていたが今度は、ちゃんと出た。

「これは、私も話さないといけないことだったので」

赤い瞳だけが静かにアレンを見ていた。

「あの日のことを話さないと……」

アレンは灰色になったハンカチへ視線を落とす。

何度洗っても消えなかった黒い染み。

「私が、あなたたちを追う理由を……伝えるために」

しばらく沈黙が落ちた。

バーの空気だけがゆっくり流れていく。

男はやがて、小さく息を吐いた。

「……そうか」

それだけだったが、その短い言葉には妙な重みがあった。

それは、理解とも、後悔とも、諦めともつかない響き。

男は席を立つ。

黒い帝国空軍のコートが微かに揺れた。

懐から紙片を取り出し、テーブルへ置く。

「また明日、ここに書いてある場所へ来てくれ」

アレンは紙を見る。

住所は帝都の外縁区。

そして、その地名を見た瞬間、僅かに目を見開いた。

集団墓地。

戦没者墓苑。

男は静かに続ける。

「今日はもう休め」

「ですが――」

「休め」

今度は少しだけ強い口調だった。

命令ではないが逆らわせない響きがあった。

男はテーブルへ紙幣を置く。

アレンは慌てて顔を上げた。

「え、そんな……」

「いいんだ」

男は背を向けたまま言う。

「すまなかったな」

その声音は、どこか疲れていた。

何十年も昔の亡霊を掘り返した男の声だった。

店の扉へ向かうその背中を、アレンは見つめる。

白翼それはかつて黒翼と並び飛んだ男。

戦場の英雄。

だが今の彼は、ただ酷く疲れた軍人に見えた。

扉へ手をかけたところで、男はふと立ち止まる。

振り返らないまま言った。

「……俺からアイツに連絡を取ってみる」

アレンの心臓が跳ねる。

「アイツ……」

「まぁ、もう数年連絡を取ってなかったからな」

男は苦く笑ったようだった。

「いつ来るかは分からん」

バーの外から、港の汽笛が微かに聞こえる。

「数週間かもしれない。数ヶ月かもしれない」

少し間を置いて。

男は静かに続けた。

「……もっとかかるかもしれないそもそも帰ってこないかもしれないけどな」

アレンは言葉を失う。

黒翼。カイ・ラグナー。

英雄。

そして――男は最後に一度だけ肩越しに振り返った。

赤い瞳が、薄暗い店内で微かに光る。

「あいつは昔から、空以外じゃ捕まらない男だった」

そう言って、男は店を出た。

扉が閉まる。

冷たい夜風が一瞬だけ店内へ流れ込んだ。

アレンは一人、席に残される。

テーブルの上の紙に書かれた集団墓地の住所。

灰色のハンカチ。

窓の外には、帝都の夜景が広がっていた。

遠く。

漆黒の空のどこかにまだ飛び続けている亡霊がいる気がした。

次こそは必ずカイが出てくるようにします。

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