記録の向こう側
前回と似たようなものが続きます。
次のページに記されていたのは、カイ・ラグナーという一人の青年が、これまで歩んできた人生の記録だった。
それは、これまでブレントが目にしてきた軍籍資料や戦闘記録とは、明らかに性質の異なるものだった。そこに並んでいたのは、単なる経歴でもなければ、軍人としての能力を評価するための数値でもない。生まれてから現在に至るまで、彼の身に何が起こり、彼の周囲で誰が失われ、どのような出来事が彼の人生に影響を与えてきたのかを、年月に沿って淡々と記録したものだった。
だが、それは果たして、人生と呼べるものだったのだろうか。
ブレントは、最初の数行を読んだところで、無意識に眉間へ皺を寄せていた。
記録の書式そのものは、これまでの資料と大きく変わらなかった。日付があり、出来事の概要があり、関係者の名前が記され、その下には簡潔な説明が添えられている。特別な感情を挟む余地などない、軍の文書らしい無機質な形式だった。
しかし、その形式の中に並べられている出来事は、あまりにも重かった。
父親の死。
その一行を目にした瞬間、ブレントの指先が止まった。
最初に記されていたのは、やはりあの男のことだった。
帝国の鷲。
ブレントが誰よりも信頼し、数え切れないほどの任務を共に乗り越え、最後には帰らぬ空へ送り出してしまった親友。
その男の死が、カイの人生における最初の大きな転換点として記録されていた。
当然だった。
あの男の死は、ただ一人の人間が失われたというだけの出来事ではなかったのだから。
あの男は、ラグナー家の人間である以前に、帝国軍を象徴する存在だった。彼が空を飛ぶということには、単に一人の優秀な操縦士が戦場へ出るという以上の意味があった。彼の存在そのものが、多くの者にとって希望であり、誇りであり、どれほど困難な状況でも戦い続けるための支えになっていた。
そして、カイにとっては父親だった。
世界中の空に名を刻んだ英雄である前に、家へ帰れば息子の成長を喜び、何気ない日常を大切にする一人の父親だったはずだ。
ブレントは、そのことを誰よりもよく知っていた。
だからこそ、その一行が持つ意味を、簡単に受け流すことなどできなかった。
父親の死。
書類の上では、わずか数文字で済まされている。
だが、その短い言葉の背後には、数え切れないほどのものがあったはずだった。
帰ってくるはずだった父親が、二度と帰ってこなくなる。
いつかまた会えると思っていた相手に、もう会うことができなくなる。
それまで当たり前に存在していた日常が、ある日を境に、突然取り戻せないものへと変わってしまう。
そうした現実を、まだ幼かったカイは、どのように受け止めたのだろう。
ブレントには想像することしかできなかった。
いや、想像することさえ、簡単ではなかった。
彼自身も、あの男を失った。
帰還を信じて待ち続け、最後にはその望みが叶わなかったという経験をしている。
親友の声が二度と無線に戻ってこないことを知ったとき、自分の中にあった何かが確かに崩れたことも覚えている。
それでも、ブレントには軍務があった。
管制官として果たすべき役割があり、次の任務があり、支えなければならない操縦士たちがいた。悲しみを抱えたままでも、仕事を続けることができた。少なくとも、彼にはそうする場所が残されていた。
だが、カイはどうだったのだろう。
父親を失った少年の周囲には、どのような人間が残っていたのか。
誰が彼を支え、誰が彼のそばにいて、誰がその悲しみを受け止めたのか。
ブレントは、記録の続きを読んだ。
そして、その問いに対する答えが、少しずつ失われていくような感覚を覚えた。
父親の死に続いて記されていたのは、親族に関する記録だった。
一人目。
そして、二人目。
さらに、その後に続く名前。
ブレントは、最初のうちは、それらが何を意味しているのか理解できなかった。親族の名前が並び、その横に日付や短い説明が記されている。
帝国軍を象徴するラグナーたちが、次々と命を落としていた。
しかし、数行読み進めたところで、彼はようやく気づいた。
そこに並んでいるのは、家族の紹介ではなかった。
死亡記録だった。
戦死。
戦死。
そして、また戦死。
ラグナーの姓を持つ英雄たちが、次々と記録の中から消えていた。
ブレントの指先が、書類の上で止まった。
「……なんだよ、これ」
声が、かすれた。
先ほどまでの動揺とは違うものが、胸の奥から湧き上がってくる。
彼は一度、記録の冒頭へ視線を戻した。
そこに記されている名前と、死亡日時を確認する。次の項目へ移り、再び名前を確認する。さらに、その下に続く記録を読み直した。
見間違いではなかった。
そこには、カイの親族が次々と失われていった経緯が、事務的な文章で記録されていた。
ある者は戦闘任務中に命を落とし、ある者は所属部隊の損失とともに戦死者として登録されていた。記録によっては、死亡が確認された日時と、正式な認定が行われた日時が異なっているものもあった。
それぞれの事情は違っていた。
少なくとも、書類に記された情報だけを見れば、すべてが同じ理由で起きた出来事ではないようだった。
しかし、結果は同じだった。
ラグナー家の人間たちが、一人、また一人と失われていた。
ブレントは、奥歯を強く噛み締めた。
「……ふざけやがって」
吐き捨てるような声が、静かな室内に落ちた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
戦場に対してなのか。
何もかもを数字と記録に置き換えていく軍という組織に対してなのか。
それとも、目の前の書類に並ぶ名前を、ただ読み進めることしかできない自分自身に対してなのか。
どれも違うようでいて、どれも間違ってはいない気がした。
ブレントは、次の行へ視線を移した。
そこにも、死亡に関する記録があった。
その下にも、さらに続いていた。
まるで、終わりがないかのようだった。
もちろん、ラグナー家が軍人を多く輩出してきた家系であることは知っていた。あの男だけが特別だったわけではない。代々にわたって空を飛び、帝国の防衛に携わり、戦場で名を残してきた一族だった。
軍人の家系であれば、戦争によって親族を失うこともある。
それ自体は、決して珍しいことではない。
だが、だからといって、次々と命を失っていくことが当然になるわけではなかった。
戦死者の名前を並べれば、失われたもののすべてが分かるわけではない。
そこには、名前の数だけ人生があったはずだった。
家族があり、友人があり、守りたいものがあり、それぞれが思い描いていた未来があったはずだった。
それらが、戦場で途切れていった。
そして、そのたびに、カイの周囲から人間がいなくなっていった。
ブレントは、ページの端を握り締めた。
紙が、小さく音を立てた。
力を込めすぎていることに気づき、慌てて指を緩める。それでも、指先の震えは止まらなかった。
「……お前、こんなところで何をしてたんだよ」
問いかけは、ほとんど独り言だった。
返事があるはずもない。
カイはここにいない。
彼がこの部屋にいたとしても、過去について何かを語ってくれるかどうかは分からなかった。これまでの様子を思い返せば、自分から進んで事情を説明するような人間には見えなかった。
あの青年は、何も語らなかった。
自分の過去についても、家族についても、これまでに何を失ってきたのかについても、何一つ口にしなかった。
必要な報告だけを行い、命令を受け、機体に乗り、空へ上がる。
そして、戦闘が終われば、何事もなかったかのように帰投する。
ブレントは、それを冷静で優秀な軍人の振る舞いだと考えていた。
感情を必要以上に表へ出さず、任務に集中し、状況に応じて最善の判断を下す。操縦士としては理想的な資質の一つだと、そう考えていた。
しかし、今になって思えば、あの沈黙は、本当にそれだけのものだったのだろうか。
自分の過去を語らないこと。
周囲の人間と必要以上に関わろうとしないこと。
危険な状況に置かれても、ほとんど動揺を見せないこと。
そして、自分自身の命が危険にさらされているときでさえ、平然としているように見えること。
それらは、単に冷静な性格だからという理由だけで説明できるのだろうか。
ブレントは、そこで考えるのをやめた。
まだ、何も分からない。
記録に記されているのは、あくまで出来事だ。
何が起きたのかは書かれていても、そのときカイが何を感じていたのかまでは分からない。悲しんでいたのか、怒っていたのか、それとも何も感じられないほど疲れ果てていたのか。
それを、書類だけで決めつけることはできなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
彼が歩んできた道は、ブレントが想像していたものとは、まるで違っていた。
ブレントは、改めてページの続きを読み始めた。
親族の死亡記録に続いていたのは、カイが所属していた士官学校に関する項目だった。
そこには、入学時の成績や訓練評価、各種試験の結果などが並んでいた。優秀な成績を収めていたことは、先ほどまでの資料からも明らかだった。訓練の記録には、同期生の中でも突出した能力を示していたことが記されている。
しかし、ブレントの目を引いたのは、成績の欄ではなかった。
卒業を目前に控えた時期の記録だった。
そこに記されていた内容を読み進めた瞬間、ブレントの表情が変わった。
同期生の死亡。
その文字が、何度も繰り返されていた。
ある記録では、訓練中の事故として処理されていた。
別の記録では、任務に関連する損失として扱われていた。
さらに別の記録には、死亡の経緯について詳細な説明がなく、必要最低限の情報だけが記載されていた。
ブレントは、最初の数件を読み終えたところで、ページをめくる手を止めた。
そして、改めて記録の発生日時を確認した。
次の項目へ目を移す。
そこにも、同じ時期の日付が記されていた。
さらに次の項目。
そのまた次の項目。
記録された日付は、卒業を目前に控えた短い期間へ、不自然なほど集中していた。
「……事故、だと?」
思わず、声が漏れた。
ブレントは、書類を机の上へ置き直し、日付を一つずつ確認した。
読み間違いではない。
異なる出来事として分類されているにもかかわらず、発生時期は驚くほど近かった。
偶然、複数の事故が重なった可能性はある。
軍事訓練には危険が伴う。特に、操縦士を育成する士官学校では、高度な飛行訓練や実戦を想定した訓練が行われるため、事故が発生する可能性を完全になくすことはできない。
しかし、それでも限度がある。
卒業を目前に控えた生徒たちが、これほど短い期間に相次いで命を落としている。
しかも、記録上では、それぞれの出来事が別々の事故や損失として処理されていた。
ブレントは、眉間に皺を寄せた。
なぜ、この時期に集中しているのか。
何が起きたのか。
そして、なぜこれほど詳細な記録が、一人の若い操縦士の個人資料にまとめられているのか。
疑問は、次から次へと浮かんできた。
彼は、記録の冒頭に戻り、死亡した同期生たちの名前を確認した。
その一人一人に、氏名と軍籍番号が付されている。
死亡日時と、記録上の死因。
それぞれの所属や、当時の状況を示す短い説明。
どれもが整然と並んでいた。
しかし、そこには、彼らがどのような人物だったのかを知るための情報が、ほとんど残されていなかった。
誰が優秀だったのか。
誰が仲間から信頼されていたのか。
誰が将来を期待されていたのか。
誰が、どのような夢を抱いていたのか。
そうした情報は、ほとんど記されていなかった。
ブレントは、ふと手を止めた。
自分は、何を探しているのだろう。
書類に記された情報だけを追っているはずなのに、いつの間にか、そこに書かれていないものまで探そうとしていた。
名前の横に並ぶ数字ではなく、その名前を持っていた人間の姿を。
死亡日時ではなく、その人間が最後に何を考えていたのかを。
記録上の死因ではなく、その死が残された者たちに何をもたらしたのかを。
だが、そんなものは、この資料には記されていなかった。
軍の記録に必要なのは、事実を整理し、管理し、後から確認できるようにすることだ。個々の人間が抱えていた感情や、失われた後に残された者たちが何を思ったのかまで、すべてを記録する必要はないのかもしれない。
それでも、ブレントには納得できなかった。
そこに記された人間たちは、単なる数字ではない。
彼らにも人生があった。
カイと同じように、訓練を受け、仲間と競い合い、厳しい課程を乗り越えてきた人間たちだったはずだ。
卒業を目前に控えていたのなら、将来への期待もあっただろう。
どの部隊へ配属されるのか。
どのような機体に乗るのか。
どのような任務を任されるようになるのか。
卒業後の生活について、仲間同士で話をしていた者もいたかもしれない。
厳しい訓練の合間に冗談を言い合い、互いの失敗を笑い、時には本気で競い合いながら、それでも同じ目標に向かって進んでいたのかもしれない。
その時間が、卒業を目前にして途切れた。
彼らが思い描いていた未来は、実現する前に失われた。
そして、その事実は、書類の上では、わずか数行で処理されていた。
ブレントは、奥歯を噛み締めた。
「……ふざけるなよ」
先ほどと同じ言葉が、再び口から漏れた。
今度は、怒りの向け先が少しだけはっきりしていた。
死者たちの人生を、ただの数字として受け止めることなどできなかった。
彼らがどのような人物だったのか、ブレントは知らない。
名前を見ても、顔は浮かばない。
声も、性格も、何を好み、何を嫌っていたのかも分からない。
それでも、彼らが生きていたことだけは確かだった。
そして、その死が、カイの人生の一部として記録されている。
それが、どうしようもなく重かった。
ブレントは、ゆっくりとページをめくった。
次の項目には、士官学校で発生した出来事について、さらに詳しい情報が記載されていた。
訓練中の事故。
所属部隊の損失。
死亡者の確認。
生存者の記録。
そして、事件後に行われた調査に関する簡潔な記述。
その中には、通常の事故報告書であれば記載されているはずの情報が欠けている箇所もあった。調査を担当した機関の名称が明記されていないもの。判断の根拠が省略されているもの。処理の経緯が分からないまま、最終的な結果だけが記されているもの。
ブレントは、それらの記述を注意深く読み直した。
断片的な情報だけでは、何が起きたのかを正確に判断することはできない。
ただ、記録の残し方そのものに、違和感があった。
同じ出来事に関する記録であるはずなのに、ある項目では詳細な数字が並び、別の項目では必要な情報が抜け落ちている。事故として処理されたものの中には、原因について明確な結論が記されていないものもあった。
なぜなのか。
調査が不十分だったのか。
記録が別の資料へ分けられているのか。
それとも、意図的に情報が伏せられているのか。
ブレントには、判断する材料が足りなかった。
だが、先ほど見た黒塗りの項目が、どうしても頭から離れなかった。
この資料は、最初から最後まで、すべての情報を開示するために作られたものではない。
そう考えると、記録の不自然な部分にも、何らかの理由があるように思えてくる。
ブレントは、再び書類へ目を落とした。
ページの下部に、同期生の総数と、生存者数が記されていた。
それは、他の記録と同じく、ただの数字として印字されていた。
ブレントは、最初、その数字を何気なく読み流そうとした。
だが、次の瞬間、視線が止まった。
彼は、もう一度、数字を確認した。
それから、ゆっくりと記録の冒頭へ視線を戻した。
同期生の総数。
生存者数。
その二つを見比べる。
計算を間違えたのではないかと思い、頭の中で数字を確認し直した。
もう一度、書類を見た。
それでも、結果は変わらなかった。
生き残っている者は、全体の三分の一にも満たなかった。
それどころか両手で数えられるほどしかいなかった。
「……馬鹿な」
思わず、声が出た。
その言葉は、ほとんど息のように小さかった。
ブレントは、書類を持つ手に力を込めた。
士官学校の生徒たちだ。
卒業を目前に控えた、将来を期待された若い操縦士たちだったはずだ。
まだ本格的な実戦経験を積む前の者も多かっただろう。これから部隊へ配属され、実際の戦場で経験を積み、一人前の軍人として成長していくはずだった。
もちろん、軍人である以上、訓練中の事故や任務上の犠牲は避けられない。
どれほど慎重に訓練を行っても、危険を完全になくすことはできない。空を飛ぶ以上、わずかな判断の遅れや機体の異常が、重大な結果につながることもある。
だが、それでも。
卒業を目前に控えた同期生のうち、三分の一にも満たない人数しか生き残っていないというのは、あまりにも異常だった。
しかも、これは単に長い年月をかけて積み重なった損失ではなかった。
記録の日付は、卒業を目前に控えた短い期間へ集中していた。
何かが起きた。
それだけは、疑いようがなかった。
だが、何が起きたのか。
この資料だけでは、すべてを理解することはできなかった。
ブレントは、同期生たちの生存者一覧へ視線を移した。
そこには、名前が並んでいた。
一人ずつ、丁寧に記録されている。
氏名。
軍籍番号。
現在の所属、あるいは記録上の状況。
その名前の一つ一つを、ブレントはゆっくりと追っていった。
知っている名前はなかった。
当然だった。
彼らはカイと同じ士官学校で学んでいた若者たちであり、ブレントが直接会ったことのある人間ではない。記録に名前が残されていても、それだけで彼らの顔が浮かぶはずもなかった。
それでも、名前を見ているうちに、彼らがどのような人間だったのかを想像してしまった。
誰かを笑わせるのが得意な者がいたのだろう。
訓練ではいつも上位を争い、誰よりも早く卒業の日を迎えることを目標にしていた者もいたかもしれない。
周囲から頼りにされ、困っている仲間を放っておけないような人間もいたはずだった。
逆に、負けず嫌いで、何かにつけてカイに勝負を挑んでいた者もいたのかもしれない。
操縦技術では敵わなくても、別の分野では誰にも負けないと胸を張っていた者がいた可能性もある。
彼らは、ただ同じ教室に座っていた人間たちではない。
同じ訓練を受け、同じ空を目指し、同じ卒業の日へ向かって歩いていた仲間だったはずだ。
時には競い合い、時には互いを助け、時にはくだらないことで言い争いながら、それでも同じ場所で時間を過ごしてきたのだろう。
卒業を迎えれば、それぞれ別の部隊へ配属される。
同じ場所で訓練を受ける機会は減るかもしれない。
それでも、いつか前線で再会することもあっただろう。
同じ作戦に参加し、互いの機体を見つけて、無線越しに声を掛け合うこともあったかもしれない。
そんな未来が、彼らにもあったはずだった。
しかし、記録に残されているのは、その未来ではなかった。
死亡した者たちの名前。
生き残った者たちの名前。
そして、卒業を目前にして起きた出来事の記録だけだった。
ブレントは、ゆっくりと息を吐いた。
「……こんなことが、あってたまるかよ」
声に、怒りと困惑が混ざっていた。
何があったのか、正確なことはまだ分からない。
だが、これほどの人数が失われたという事実を、単なる事故や不運という言葉だけで片づけることはできなかった。
彼は、再び生存者の一覧を見つめた。
名前の数を数える必要はなかった。
書類には、すでに人数が記されている。
それでも、彼は一人ずつ目で追った。
ここに名前がある者たちは、生き残ったのだ。
だが、生き残ったからといって、何も失わなかったわけではない。
仲間を失った者もいるだろう。
自分だけが生き残ったことに、複雑な思いを抱えている者もいるかもしれない。
何が起きたのかを理解できないまま、ただ次の任務へ向かわなければならなかった者もいるだろう。
軍人である以上、任務を続けることは求められる。
しかし、人間の心まで、命令一つで切り替えられるわけではない。
失ったものが消えるわけでもない。
過去がなかったことになるわけでもない。
ブレント自身が、それを知っていた。
親友を失った後も、彼は管制席に座り続けてきた。
仕事を続け、操縦士たちを送り出し、帰還する者たちを迎え、次の任務に備えてきた。
それでも、あの男のことを忘れた日はなかった。
何気ない言葉を思い出すことがあった。
以前なら当たり前のように交わしていたやり取りを、ふとした瞬間に思い出すこともあった。
そして、そのたびに、もう二度と同じ時間が戻ってこないことを思い知らされた。
カイは、どうだったのだろう。
父親を失った後、彼は何を思ったのだろう。
親族を失うたびに、何を感じていたのだろう。
同期生たちが次々と命を落としていく中で、彼は何を考え、何を抱えていたのだろう。
生き残った者たちの一覧に、自分の名前が記されていることを、彼はどのように受け止めていたのだろう。
ブレントは、資料から目を離した。
しばらくの間、何も考えることができなかった。
窓の外から、遠く人の声が聞こえた。
誰かが何かを指示しているらしい。続いて、車両が走り出す音が聞こえ、少し遅れて、格納庫の方から金属を打ち合わせるような音が響いてきた。
基地は、いつもどおり動いている。
誰もが、自分の任務をこなしている。
誰もが、次の出撃に備えている。
その当たり前の日常が、今のブレントには、ひどく遠いものに感じられた。
彼は、ゆっくりと天井を見上げた。
白い天井には、何の変化もない。
見慣れた照明器具が取り付けられ、壁際には空調設備が設置されている。窓から差し込む光も、先ほどと変わらず机の上を照らしていた。
この部屋は、何も変わっていない。
だが、自分はもう、先ほどまでと同じ気持ちでこの資料を読むことができなくなっていた。
父親を失った少年。
親族を失った少年。
そして、卒業を目前にして、多くの同期生たちを失った青年。
そのすべてが、一人の人間の人生として記録されている。
ブレントは、目を閉じた。
胸の奥に、重いものが沈んでいく。
それは、単なる悲しみではなかった。
怒りとも、恐怖とも、同情とも違う。
自分の知らなかった現実を、少しずつ突きつけられている感覚だった。
彼が知っていたカイは、冷静で、口数が少なく、操縦技術に優れた若い軍人だった。
危険な状況でも判断を誤らず、敵を前にしても臆することなく、必要な行動を淡々と実行する操縦士。
それが、ブレントの知っていたカイ・ラグナーだった。
だが、その姿の背後には、自分が知らない時間があった。
自分が知らない喪失があった。
自分が知らないまま、彼が一人で乗り越えてきたかもしれない出来事が、いくつも積み重なっていた。
もちろん、資料に書かれていることだけで、カイの内面を理解したつもりになることはできない。
父親を失ったからといって、必ずしも同じ考え方をするわけではない。
親族を失ったからといって、その後の人生がすべて悲しみに支配されるとは限らない。
同期生たちを失ったことが、彼の操縦や判断にどのような影響を与えているのかも、今のブレントには分からなかった。
人間の心は、書類に記された出来事だけで説明できるほど単純ではない。
それでも、何も知らないままでいることは、もうできなかった。
ブレントは、ゆっくりと目を開けた。
そして、机の上に広がる資料へ視線を戻した。
まだ、先がある。
これまでに読んだ記録だけでも、十分すぎるほど重かった。
それでも、この資料は終わっていない。
カイの人生は、士官学校での出来事だけで終わるわけではない。彼は、その後も軍人として生き続け、訓練を受け、任務に就き、戦場へ向かうようになった。
そして今、ブレントの目の前で、黒い戦闘機を駆り、五十機以上の敵を撃墜する操縦士になっていた。
そこへ至るまでに、何があったのか。
何を経験し、何を身につけ、何を失いながら、彼は現在の姿へと変わっていったのか。
まだ、知るべきことが残されている。
ブレントは、書類の端をそっと押さえた。
「……」
言葉は出なかった。
先ほどまでのように、怒りに任せて何かを吐き捨てることもできなかった。
ただ、彼はページを見つめていた。
そこに並んでいる名前を。
記録された日付を。
そして、数字の中に押し込められた、失われた人々の人生を。
しばらくして、ブレントは小さく息を吐いた。
「……カイ」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が再び痛んだ。
今まで、彼はカイを一人の操縦士として見ていた。
管制官として、彼の機体を管理し、戦況を伝え、危険を知らせ、可能な限り無事に帰還させる。それが自分の役割だった。
しかし、これからは違う。
少なくとも、何も知らなかった頃と同じ目では、彼を見ることができない。
あの青年は、ただ優秀な操縦士というだけではなかった。
そのことを、ブレントは認めざるを得なかった。
だが、だからといって、彼のすべてを理解したわけではない。
過去を知ることと、人間を理解することは違う。
どれほど詳細な資料を読んでも、本人が何を考えているのかを知ることはできない。
どれほど多くの記録が残されていても、記録されていない感情まで読み取れるわけではない。
それでも、知ることには意味があるはずだった。
少なくとも、彼が何も語らないからといって、何も抱えていないのだと決めつけることは、もうできない。
ブレントは、先ほど目にした生存者の一覧を思い出した。
あの中に、カイと親しくしていた人間がいたのだろうか。
訓練の合間に冗談を言い合い、互いの技量を競い、いつか同じ部隊で飛ぼうと話していた仲間がいたのだろうか。
彼が信頼していた相手がいたのかもしれない。
誰よりも負けたくないと思っていた相手がいたのかもしれない。
あるいは、カイにとって、言葉にしなくても分かり合える存在がいたのかもしれない。
だが、そのような相手がいたとしても、今はもう、同じ場所に立っているとは限らない。
卒業を目前にして、同期生たちは次々と失われた。
生き残った者たちは、残された者として、それぞれの道を進むことになった。
その中で、カイは何を選んだのだろう。
何を胸に抱き、何を捨て、どのような思いで再び空へ上がったのだろう。
ブレントは、答えを求めるように書類を見つめた。
しかし、そこに記されているのは、相変わらず無機質な文章だけだった。
感情を示す言葉は、ほとんどない。
悲しみも、怒りも、後悔も、喪失も。
それらはすべて、記録の外側に置き去りにされているようだった。
ブレントは、唇を強く結んだ。
軍は、出来事を記録している。
誰が死に、いつ死に、どのような理由で死亡したと認定されたのか。
誰が生き残り、どのような処遇を受け、どの部隊へ配属されたのか。
それらは、軍を運営するうえで必要な情報なのだろう。
だが、記録された数字の背後にあるものを、誰が見ているのだろうか。
失われた人間の名前を読み、そこにあった人生を想像する者は、どれほどいるのだろうか。
そして、残された者が何を抱えているのかを、本当に理解しようとする者はいるのだろうか。
ブレントには、分からなかった。
ただ、この資料を作成した者たちが、カイの人生を単なる偶然の積み重ねとして扱っているようには思えなかった。
あまりにも多くの情報が集められている。
あまりにも細かな部分まで記録されている。
そして、重要な部分ほど、何かを隠すように処理されている。
この資料を作った者たちは、何を知ろうとしていたのか。
何を確認しようとしていたのか。
そして、何のために、これほど長い年月をかけて一人の青年の記録を集め続けていたのか。
疑問は、さらに深まっていった。
ブレントは、ふと、司令官の言葉を思い出した。
『私はこれを読んだことを後悔しているよ』
あの男は、どこまで知っていたのだろう。
カイがどのような人生を歩んできたのか。
士官学校で何が起きたのか。
そして、この資料に記された情報のうち、どこまでが事実として確認され、どこからが不明なまま残されているのか。
司令官は、それらをすべて知っていたのだろうか。
それとも、彼もまた、限られた情報しか知らされていなかったのだろうか。
ブレントには判断できなかった。
ただ、司令官の表情は覚えていた。
あのとき、老人は決して軽い気持ちで資料を渡したわけではなかった。
あれは、単なる機密文書の取り扱いに関する注意ではなかった。
読み終えた後に何を知ってしまうのか、そして、それを知った自分がどう変わるのか。
そのことを、司令官は理解していたのかもしれない。
ブレントは、もう一度、資料へ視線を落とした。
まだ、先がある。
まだ、知らないことが残されている。
そして、その先に何が記されているのかは、まだ分からない。
彼は、深く息を吸い込んだ。
空気は、先ほどよりも冷たく感じられた。
ゆっくりと吐き出し、背筋を伸ばす。
机の上に置かれたファイルは、相変わらず重かった。
紙の束そのものが重いわけではない。
そこに記された事実が、あまりにも多くのものを含んでいるからだった。
ブレントは、指先で次のページをつまんだ。
そして、しばらくの間、そのまま動かなかった。
これ以上、知りたくないという気持ちが、確かにあった。
ここまで読んだだけでも、カイの人生がどれほど過酷なものだったのか、十分に伝わってきた。これ以上、何かを知れば、さらに受け止めきれない事実が出てくるかもしれない。
だが、同時に、途中で読むのをやめることもできなかった。
自分は、カイの管制官だ。
彼が空へ上がるとき、地上からその飛行を支え、必要な情報を送り、危険を知らせ、無事な帰還を助ける立場にいる。
彼がどのような人間であろうと、その役割が変わるわけではない。
しかし、彼が何を抱えているのかを少しでも知ることができれば、自分にできることも変わるかもしれない。
少なくとも、彼が危険な行動を取ったとき、ただ規則を盾にして制止するだけでなく、その判断の背景に何があるのかを考えられるようになるかもしれない。
もちろん、それだけでカイを救えるとは限らない。
彼の過去を知ったところで、失われた人々が戻ってくるわけではない。
父親を失った事実も、親族を失った事実も、同期生たちが命を落とした事実も、何一つ変わらない。
それでも、今ここで何も知らないままでいることだけは、避けなければならない気がした。
ブレントは、ゆっくりと指先に力を込めた。
「……最後まで読むしかねえか」
低く呟いた声は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
それでも、その言葉を口にしたことで、ようやく自分の中で決心が固まったような気がした。
彼は、次のページをめくった。
紙が擦れる音が、静かな室内に響いた。
そこには、カイの人生に関する記録が、さらに続いていた。
ブレントは、もう一度だけ息を整え、文字へ目を向けた。
今度は、ただ情報を読み取るためではなかった。
そこに記された一つ一つの出来事の向こう側に、一人の人間が生きていたことを忘れないためだった。
父親を失った少年がいた。
親族を失い、仲間を失い、それでも生き残った青年がいた。
そして今、その青年は、黒い戦闘機に乗って空を飛んでいる。
その事実を、ブレントはようやく理解し始めていた。
彼は資料から目を逸らさなかった。
まだ知らない過去を確かめるために。
何も語らない青年が歩んできた道を、少しでも理解するために。
そして、次にカイと向き合うとき、彼を単なる戦力や、驚異的な操縦技術を持つ特別な存在として見るのではなく、一人の人間として見るために。
ブレントは、静かに記録を読み進めた。
多分あと何回か同じ感じになりそうですね...ハハハ(笑)
〜お願い〜
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