直訴
バンッ、と大きな音を立てて執務室の扉が開いた。
蝶番が軋み、重厚な扉が壁際でわずかに揺れる。
その勢いに、執務机の上に積まれていた書類の端がふわりと浮き上がった。
「司令、アイツはいったい何なんですか!」
ブレントの怒声が、静まり返っていた室内を一気に貫いた。
廊下にいた事務官が驚いたように顔を上げ、扉の向こうを窺う。
だが、ブレントはそんな周囲の反応など気にも留めなかった。
入室の許可を得ることも、敬礼をすることも忘れていた。
いや、正確には、そんなものに気を配っている余裕がなかった。
頭の中では、先ほどまでの戦闘が何度も繰り返されていた。
赤い敵性反応で埋め尽くされたレーダー画面。
その中を縦横無尽に駆け抜ける、たった一つの青い光点。
五十機を超える敵航空隊を相手に、一機で戦況を覆した漆黒の戦闘機。
そして、味方の編隊が包囲されたと知った瞬間、何の躊躇もなく敵の密集地帯へ飛び込んでいった黒い機影。
何度も呼びかけた。
何度も制止した。
それでも、あの青年は一度たりとも応答しなかった。
まるで、地上からの声など最初から聞こえていなかったかのように。
ブレントの脳裏に、戦場で何度も見てきた光景が蘇る。無謀な突撃を仕掛ける若いパイロット。
仲間を救うために自らの危険を顧みない者。
そして、帰還を信じて送り出したにもかかわらず、二度と基地へ戻ってこなかった者たち。
しかし、今日の出来事は、そのどれとも違っていた。あれは無謀という言葉だけでは説明できない。
恐怖を知らないわけでも、戦況を理解していないわけでもない。
むしろ、カイは誰よりも正確に戦場を理解していたはずだった。
それなのに、彼は進んだ。生還できる保証などどこにもない場所へ。
まるで、自分がどうなろうと構わないとでも言うように。
「……ブレント少佐」
机の向こうから、低い声が聞こえた。
司令官は椅子に座ったまま、静かにブレントを見据えていた。
昨日会ったときとは違う。
その変化に気づいた瞬間、ブレントは思わず眉をひそめた。
昨日の司令官は、どこか人当たりのよい人物だった。
厳格さこそあれ、部下の話には耳を傾け、必要とあれば冗談さえ口にする。
少なくとも、こちらを威圧することを好む人間ではなかった。
だが、今、目の前にいる男からは、そうした気配が微塵も感じられなかった。
背筋を伸ばし、机の向こうに座る姿勢には一切の隙がない。
机上の書類は整然と並べられ、傍らのペンも、閉じられた文書の束も、すべてが寸分の乱れなく定位置に収まっていた。
鋭い眼差しだけが、無断で押し入ってきたブレントを静かに捉えている。
そこに怒りはなかった。少なくとも、表面上は。
あるのは、相手の出方を見極めようとする冷徹な観察と、容易には踏み込ませないという明確な意思だった。
「君に与えられた任務は、あの機体を壊さないことだ」
司令官は、机上の書類から目を離さずに言った。
声には抑揚がなく、まるで既に何度も繰り返してきた説明を、改めて口にしているかのようだった。
「それ以外は必要ないと思うが」
「……アイツは異常だ!」
ブレントは、即座に言い返した。
怒鳴り込んできたときの激昂は、まだ完全には収まっていない。
だが、その表情に浮かんでいるものは、単なる怒りではなかった。
彼自身、それを理解していた。今の自分が感じているのは、目の前の司令官に対する不満だけではない。
もっと根深い、説明のつかない不安だった。
戦場で数え切れないほどのパイロットを見送ってきた。
優秀な者もいた。
臆病な者もいた。
自分の実力を過信し、敵の罠に飛び込んでいった者もいれば、仲間を守るために不利な状況へ身を投じた者もいた。
ブレントは、その一人ひとりの声を聞いてきた。
無線越しに交わされる何気ない会話も、出撃前の冗談も、帰投後に交わす安堵の言葉も、すべてが彼にとっては忘れがたい記憶だった。
だからこそ、分かることがある。戦場で本当に危険なのは、敵の数でも、機体の性能でもない。
自分が生きて帰るという意識を、いつの間にか失ってしまった人間だ。そして、今日のカイは、まさにその危うさを感じさせた。
「五十機以上だぞ」
ブレントは、低く押し殺した声で言った。
司令官は答えなかった。
「五十機以上の敵航空隊を、たった一機で全滅させた。しかも、味方が包囲されていると知った途端、敵のど真ん中へ突っ込んでいった」
言葉を重ねるたびに、胸の奥で押さえ込んでいた感情が再び込み上げてくる。
あのとき、レーダー画面に映っていた敵の反応は、明らかにカイ一機を圧倒していた。
敵の数だけを考えれば、包囲された味方を見捨ててでも距離を取るべき状況だった。少なくとも、通常の判断であればそうなる。
一度敵の包囲網に入り込めば、機動の自由は大きく制限される。
複数方向から攻撃を受ければ、どれほど優秀なパイロットでも対処しきれない瞬間が生じる。
それを、カイは承知していたはずだ。
敵の位置も、味方の残弾も、戦場全体の状況も、理解していなかったはずがない。
それでも、あの青年は進路を変えた。
一切の迷いもなく。まるで、味方が危機に陥っているという事実だけで、ほかのすべての判断が上書きされてしまったかのように。
「俺の制止も聞かなかった。通信に応答すらしなかった。まるで自分が撃墜される可能性なんて、最初から考えていないみたいにな」
ブレントは一歩、机へ近づいた。
革靴の底が床を打つ音が、妙に大きく響いた。
司令官の視線が、初めて書類から離れる。
しかし、それだけだった。驚いた様子もなければ、反論する気配もない。ただ、ブレントの言葉を受け止め、次の言葉を待っている。
その態度が、かえってブレントの神経を逆撫でした。
「それで?」
「……は?」
「それで、君は何を問題にしている?」
司令官の声は、依然として静かだった。
まるで、五十機以上の敵を一機で撃墜したことも、包囲された味方を救出したことも、すべて報告書の一項目に過ぎないとでも言うような口調だった。
「それで、だと?」
ブレントの眉がぴくりと動いた。
「アンタは、あれが普通だと思っているのか?」
司令官は何も答えなかった。
沈黙を肯定と受け取ったわけではない。だが、否定しないということ自体が、ブレントには何よりも不気味に思えた。
「人間一人に、あんな戦い方ができるはずがない。あれは戦闘機の性能だけで説明できるような動きじゃなかった」
ブレントは、言葉を選びながら続けた。
単純に機体が優れているだけなら、話は分かる。
最新鋭のレーダー、強力なエンジン、高度な電子戦装備、従来機を大きく上回る運動性能。
そうした要素が揃えば、従来では考えられなかった戦果を挙げることも不可能ではない。
だが、今日の戦闘でブレントが目撃したものは、それだけでは説明がつかなかった。敵機が攻撃を仕掛けるよりも早く、カイは相手の動きを読んでいた。
複数の敵が異なる角度から接近しても、まるで全機の意図を把握しているかのように、最も危険な攻撃だけを寸前でかわしていた。
回避した先に別の敵が待ち構えていれば、そこへ向かうこと自体を逆手に取り、敵同士の射線を交差させる。
追い詰められたように見えた瞬間には、既に反撃の準備を終えている。
そして、撃墜した敵機を確認するよりも早く、次の目標へと意識を移していた。
それは単に反応速度が速いというだけの話ではなかった。
判断と行動の間に存在する、わずかな時間。
通常ならば、誰もが状況を認識し、選択肢を比較し、次の行動を決めるために必要とする時間。
カイには、その過程がほとんど存在しないように見えた。
少なくとも、ブレントの目にはそう映った。
まるで、戦場そのものが彼にだけ違う姿を見せているかのようだった。
「俺は長いこと空を見てきた。いろんなエースを管制してきたし、化け物じみた腕を持つ連中だって知っている」
ブレントの声が、少しだけ低くなった。
「だが、あいつは違う」
司令官は黙って聞いていた。
「技量が高いとか、反応が速いとか、そういう次元の話じゃない。あいつは……」
そこで、ブレントは言葉を切った。
自分が何を言おうとしているのか、うまく説明できなかった。
異常だ。
化け物だ。
そんな言葉なら、いくらでも浮かんでくる。
だが、それらを並べたところで、目の前の司令官が何かを理解するとは思えなかった。
何より、ブレント自身が納得できていなかった。
カイの戦い方には、確かに異常なものがあった。
しかし、同時に、そこには確かな意思が存在していた。
敵を撃墜するためだけではない。
自分が生き残るためだけでもない。
あの青年は、戦場の中で何かを選び続けていた。
たとえ、その選択が自分自身を危険に晒すものであったとしても。
「アイツは何なんだ」
ブレントは、司令官の目を真正面から見据えた。
「いったい、何者なんだ。あれほどの腕をどこで身につけた?あの年齢で、どうしてあんな戦い方ができる?そもそも、あいつは自分の命を何だと思っている?」
最後の問いだけは、怒声にならなかった。
むしろ、それまでよりもずっと静かだった。
だからこそ、室内に響いたその言葉は、ひどく重く感じられた。
ブレントは、答えを求めていた。
単にカイの経歴を知りたいわけではない。
所属や階級、過去の戦果、搭乗機の試験記録。
そんなものは、必要なら情報部に照会すればいい。
彼が知りたいのは、もっと別のことだった。
どうして、あの青年はあそこまで平然と危険の中へ飛び込めるのか。
どうして、仲間を救うためなら、自分が帰還できなくなる可能性さえ顧みないのか。
そして、どうして自分は、その姿にこれほど強い既視感を覚えるのか。
胸の奥に沈めてきた記憶が、答えの代わりに浮かび上がる。
かつて、自分が管制していた一人のパイロット。
誰よりも優秀で、誰よりも無茶をして、それでも必ず帰ってくると信じさせてくれた男。
仲間の危機を知れば、命令を待たずに進路を変えた。
味方が撃墜されれば、敵の攻撃が集中する空域へ迷いなく飛び込んだ。
どれだけ危険な状況でも、無線越しにはいつも落ち着いた声が返ってきた。
そして、最後の日も。
ブレントは、きつく奥歯を噛み締めた。
あの日のことを、今でも鮮明に覚えている。
無線から途絶えていった声。
レーダーから消えた反応。
何度呼びかけても、二度と返ってこなかった応答。
彼は、もう二度と同じ思いをしたくなかった。
だからこそ、カイの行動を見過ごすことができなかった。
優れたパイロットを失うことが惜しいからではない。
貴重な戦力を失えば、戦局に悪影響が出るからでもない。
あの青年が、いつか同じ場所へ辿り着いてしまうのではないか。
その予感が、どうしようもなく彼を苛立たせていた。
「……」
司令官は、長い間、何も答えなかった。
ブレントの視線を受け止めながら、ただ静かに座っている。
その沈黙には、単に回答を拒んでいる以上のものがあった。
言葉を探しているようにも見えた。
あるいは、どこまで話すべきかを慎重に見極めているようにも。
やがて、司令官は小さく息を吐いた。
「君の疑問は理解した」
「だったら、説明してください」
「できない」
「……何?」
ブレントの顔から、わずかに表情が消えた。
「できないとは、どういう意味です?」
「そのままの意味だ」
司令官は椅子の背もたれに身体を預けた。
「君に説明できることと、説明できないことがある。少なくとも、今この場で、私が君の疑問すべてに答えることはできない」
「機密事項ですか」
「そういう側面もある」
「じゃあ、機密を解除してください」
あまりにも即座の返答だった。
司令官の眉が、ほんのわずかに動いた。
「簡単に言ってくれる」
「簡単な話じゃないことくらい分かっています。ですが、俺はあいつの管制官です。戦場であいつの命を預かる立場にいる。何も知らされないまま、あんなものを管制しろと言われても困ります」
「君の任務は変わらない」
「任務の話をしているんじゃない!」
ブレントの声が、再び強くなった。
机の上に置かれたペンが、微かな振動を伝える。
「俺はあいつの戦果に文句を言っているわけじゃない。五十機以上を撃墜したことを責めているわけでもない。味方を救ったことを否定しているわけでもない!」
一度、言葉を切る。
そして、彼は司令官を睨みつけた。
「問題は、あいつが自分の命をまるで勘定に入れていないことだ」
その言葉だけは、何としても伝えなければならなかった。
「どれだけ腕が立とうが、どれだけ優れた機体に乗っていようが、あいつだって人間でしょう。いつかは被弾する。判断を誤ることもある。どれだけ完璧に見えたって、戦場じゃ一瞬の偶然で命を落とすことだってある」
ブレントは拳を握った。
「それを、あいつは分かっているのか?」
司令官の表情は変わらなかった。
「分かっているだろう」
「なら、どうして……」
言いかけて、ブレントは口を閉じた。
どうして、あんなことをするのか。
どうして、自分を危険に晒してまで他人を救おうとするのか。
その問いに、司令官が答えられるとは思えなかった。
もしかすると、本人に聞いたところで、まともな答えなど返ってこないのかもしれない。
カイという青年は、必要なことしか口にしない。
戦果を誇ることもなく、失敗を言い訳することもなく、誰かに感謝されても、淡々と任務を報告するだけだ。
今日だってそうだった。あれほどの戦闘を終えた直後にもかかわらず、彼は何事もなかったかのように帰投を告げた。
まるで、五十機以上の敵を撃墜することも、包囲された味方を救い出すことも、彼にとっては日常の一部でしかないように。
ブレントは、ゆっくりと息を吐いた。
「……あいつを、あのまま戦場へ出し続けるつもりですか」
「それが私の任務だからな」
「司令官としての判断ですか」
「そうだ」
「それとも、上からの命令ですか」
司令官は答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
ブレントの目が細くなる。
「……なるほど」
彼は小さく呟いた。
「最初から、俺に何かを調べさせるつもりなんてなかったわけだ」
「君は考えすぎている」
「そうでしょうか」
「少佐」
司令官の声に、わずかな硬さが加わった。
「君に与えられた任務は、あの機体を壊さないことだ。それ以上のことに首を突っ込む必要はない」
「機体、ですか」
ブレントは、その言葉を繰り返した。
「……機体を壊すな、パイロットのことは聞くな、そういうことですか」
司令官は、何も答えなかった。
ブレントは、そこで初めて気づいた。
目の前の男は、カイという人物がどういう人間なのか知らないのではない。
むしろ、知っている。
自分よりもはるかに多くのことを知っている。
今日の戦果を聞いて驚いているわけでもなければ、若いパイロットの無謀さを嘆いているわけでもない。
すべてを理解したうえで、あの青年を戦場へ送り出している。
そして、ブレントには、その理由が分からない。
「……何を隠しているんです、司令」
今度の問いには、怒りよりも警戒が滲んでいた。
司令官は、しばらく彼を見つめていた。
その眼差しの奥で、何かが揺れたように見えた。
ほんの一瞬だった。だが、ブレントは見逃さなかった。
司令官は、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」そ
の声には、諦めに似た響きがあった。
「そこまで気づいてしまったか」
「気づくも何も、隠す気があるのか疑わしいくらいですよ」
ブレントは皮肉を返したが、司令官は笑わなかった。
彼は椅子から立ち上がると、机の脇にある鍵付きの引き出しへ向かった。
それまで一度も乱れることのなかった動作に、ほんのわずかな躊躇が混じっていた。
司令官は制服の内ポケットから小さな鍵を取り出した。
金属が触れ合う音が、静かな室内に響く。鍵を錠前へ差し込み、ゆっくりと回す。
カチャリ、と乾いた音がした。
引き出しが開く。
その中には、整然と分類された複数のファイルが収められていた。
いずれも厚手の表紙で、背表紙には管理番号らしき記号が記されている。
軍の機密文書としては、特に珍しいものではない。
だが、司令官が手を伸ばしたのは、そのどれでもなかった。
引き出しの最奥。
ほかの書類から少し離れた場所に、薄いファイルが一冊だけ置かれていた。
表紙には何の記載もない。
部隊名も、作戦名も、管理番号さえもなかった。
通常なら、どれほど秘匿性の高い文書であっても、管理上の識別情報くらいは付されている。
閲覧権限や保管先を示す記録も必要になる。
だが、そのファイルには何もなかった。
ただ、何度か開かれたことを示す擦れた跡が、表紙の端に残っていた。
司令官はそれを手にしたまま、しばらく動かなかった。
薄い表紙の角を、親指でゆっくりとなぞっている。
まるで、そのファイルが単なる記録文書ではないかのように。
いや、実際にそうなのだろう。
ブレントは、司令官の横顔を見つめていた。
そこに浮かんでいたのは、先ほどまでの冷静な表情とは明らかに違うものだった。
疲労。
躊躇。
そして、長い時間をかけても消えることのなかった、深い後悔。
「……司令?」
ブレントが呼びかけても、司令官はすぐには答えなかった。
やがて彼は、ファイルを持ったまま机へ戻った。
そして、それをドサッと置いた。
紙の束にしては、妙にはっきりとした音が室内へ響いた。
司令官は、ファイルの表紙に一度だけ目を落とした。
それから、ブレントを見た。
「私の負けだ」
「……何ですって?」
「君の言うとおりだ。何も知らせずに、ただ命令に従えと言うだけでは済まないらしい」
司令官は、椅子の背もたれに手を置いたまま、
疲れたように息を吐いた。
「自室でこれを読め」
ブレントは、机上のファイルへ視線を落とした。
あまりにも簡素な表紙だった。
そこに記された文字は一つもない。
それなのに、先ほどまでの戦闘報告書や機密文書とは、まるで違う存在感を放っていた。
「司令、説明が足りません。ここで読ませてください」
「自室で読んでくれ」
「しかし――」
「少佐、これは命令だ」
司令官の声が、わずかに強まった。
その一言で、ブレントは口を閉じた。
軍人として、命令に従わなければならないことは理解している。
どれほど納得できない指示であっても、命令系統を無視して好き勝手に行動すれば、組織そのものが成り立たなくなる。
ましてや、軍の機密に関わる文書であれば、閲覧場所や取り扱いに制限が設けられることも珍しくない。
だが、今の司令官は、単に情報漏洩を警戒しているようには見えなかった。
この場で読ませたくない理由がある。
そうとしか思えなかった。
「……分かりました」
ブレントは、ようやく返事をした。
だが、その声には納得の色などなかった。
司令官は机の上のファイルへ目を落とした。
「ただし、読んだ内容を軽々しく口外するな。君が知る必要のある範囲を超えた情報も含まれている」
「それは、読んでみなければ判断できませんね」
「そうだな」
司令官は、否定しなかった。
その反応が、かえって不安を煽った。
普通なら、機密文書を渡す際には閲覧の範囲や取り扱い上の注意を具体的に説明するはずだ。
少なくとも、どの程度の情報が記載されているのか、誰に報告すべきなのか、その程度の指示はある。
しかし、司令官は何も説明しなかった。
ただ、自室で読めと命じた。
そして、口外するなと告げた。
まるで、その中身を知った者が何を考え、何をするのか、本人にも予測できないとでも言うように。
ブレントは、再びファイルを見た。
カイ。
その名前が頭の中に浮かぶ。
あの青年について、どこまでの情報が記録されているのか。
これまでの戦歴か。
訓練記録か。
特殊な身体能力や認知能力に関する検査結果か。
あるいは、本人すら知らされていない何かがあるのか。
考えれば考えるほど、嫌な予感が膨らんでいった。
「……司令」
「何だ」
「これは、カイ本人の記録ですか」
司令官は、すぐには答えなかった。
一度、ブレントの顔を見た。
その目に浮かんでいたものを確かめるように、数秒間だけ視線を合わせる。
「そうだ」
短い返答だった。
「彼に関する記録だ」
「それだけですか」
「今、私から言えるのはそれだけだ」
ブレントは、口元を歪めた。
「ずいぶんと親切な説明ですね」
「これ以上の説明は、君自身が読むべきだ」
司令官はそう言って、ようやく椅子へ腰を下ろした。
そして、疲れ切ったように目元を押さえた。指先が眉間に触れ、深い皺をなぞる。
その姿を見て、ブレントは何も言えなくなった。
司令官は、今日の戦闘について責任を問われることを恐れているわけではない。
カイの戦果を疑っているわけでもない。
もっと別の何かに、疲れ果てている。
長い間、誰にも話せなかったこと。
知ってしまったがゆえに、簡単には忘れることのできなくなったこと。
そうしたものを、今も抱え続けているように見えた。
「もっとも、君にこれを読む覚悟があるならね」
ブレントは顔を上げた。司令官は、彼を見ていなかった。
机上のファイルへ目を落とし、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「私はこれを読んだことを後悔しているよ」
その言葉に、ブレントは何も答えられなかった。
司令官の声には、脅しも誇張もなかった。
自分を大きく見せようとする気配も、相手を試そうとする意図も感じられなかった。
ただ、深い後悔だけがあった。
それは、長い年月を経てもなお、心の奥底に残り続けている種類の後悔だった。
知らなければよかった。
読まなければよかった。
知ったところで、何も変えられないのなら。
そんな思いを、一度は抱いたことのある人間の声だった。
ブレントは、ゆっくりとファイルを手に取った。
表紙は思ったよりも薄かった。
紙の束そのものに、特別な重さがあるわけでもない。
それなのに、手の中に収まったそれは、妙に重く感じられた。
彼は、表紙の端を指先で押さえた。
開けば、何かが分かる。
少なくとも、今日まで知らなかった事実を知ることはできるだろう。
だが、その先に待っているものが、自分の望む答えである保証はなかった。
むしろ、司令官の態度を見れば見るほど、そうではない可能性の方が高いように思えた。
「……失礼します」
ブレントは、それだけ告げて踵を返した。
入室したときの荒々しい足取りとは違い、今度は慎重に床を踏みしめていた。
扉へ向かう途中、手にしたファイルが視界の端に映る。
何も書かれていない表紙。
識別番号も、閲覧区分も、発行元を示す印章もない。
それが、かえって不気味だった。
軍の記録には、必ず何らかの形で管理の痕跡が残る。
たとえ最上級の機密であっても、存在そのものを管理するための記録は必要になる。
だが、このファイルは違った。
まるで、誰にも見つかってはならないものを、ただ一人の人間が手元に置き続けてきたかのようだった。
扉へ手をかけた、そのときだった。
「ウェルロッド少佐」
背後から、司令官の声が聞こえた。
ブレントは足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
司令官は机の向こうから、まっすぐに彼を見ていた。
先ほどまでの冷徹な眼差しは、もうそこにはなかった。
代わりに浮かんでいたのは、言葉にしがたい複雑な感情だった。
「これを読んだあとも、君が彼を扱えることを願っている」
ブレントの手が止まった。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……どういう意味ですか」
問い返す声が、思いのほか低く響いた。
司令官は答えなかった。
ただ、静かに首を横に振った。
それ以上、説明するつもりはない。
そう告げるような仕草だった。
「もう行きなさい」
ブレントは、しばらく司令官を見つめていた。
『扱えることを願う』
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
何を読めば、そんな言葉が出てくるのか。
どれほど異常な戦歴を持っていようと、どれほど常人離れした技量を備えていようと、カイは人間だ。
少なくとも、ブレントはそう考えていた。
戦闘機に乗り、空を飛び、敵と戦う。恐怖を感じ、判断を下し、時には無謀な選択をする。
仲間を救い、命令に従い、基地へ帰還する。
そのすべてが、彼を一人の人間として形作っているはずだった。
それなのに、司令官は言った。
ファイルを読んだあとも、彼を扱えることを願っている、と。
まるで、その記録には、カイを人間として見ることさえ難しくさせる何かが書かれているかのように。「……」
ブレントは、ファイルを持つ手に力を込めた。
聞きたいことは、まだいくらでもあった。
なぜ、これほどまでに秘密にされているのか。
なぜ、司令官自身が読むことを後悔しているのか。
そして、なぜ、カイのことを知るために覚悟が必要なのか。
だが、もう何を尋ねても、答えは返ってこないだろう。
そう悟った彼は、結局、何も言わずに執務室を出た。
扉が静かに閉まる。
その音が、背後で小さく響いた。
廊下には、いつもと変わらない基地の日常があった。
行き交う兵士たち。
壁際で書類を確認する事務官。
遠くの格納庫から聞こえる整備兵の掛け声。
滑走路の向こうからは、航空機のエンジン音が低く響いていた。
誰もが、自分の任務を果たすために動いている。
戦場へ向かう者もいれば、帰還した機体を整備する者もいる。
次の出撃に備えて装備を確認する者もいれば、通信記録を整理する者もいる。
いつもと何も変わらない。
つい先ほどまで、五十機以上の敵航空機が撃墜されるという異例の戦闘が繰り広げられていたとは思えないほど、基地は平静を保っていた。
その光景を見ているうちに、ブレントは妙な感覚に襲われた。
自分だけが、別の場所に立っているようだった。
周囲の音は聞こえて人々の動きも見えている。
それなのに、すべてが薄い壁の向こう側にあるかのように遠かった。
彼は、手元のファイルへ視線を落とした。
何の記載もない表紙。
その無機質な表面には、廊下の照明がぼんやりと映り込んでいた。
「……いったい、何を隠してやがる」
吐き捨てるように呟いた声は、誰にも届かなかった。
答えはない。
当然だ。
ファイルは何も語らない。
司令官も、これ以上は何も教えてくれない。
残された手段は一つしかなかった。
自分の目で読みそして、自分の頭で判断する。
ブレントはファイルを抱え直した。
その瞬間、ふと、今日の戦闘で聞いたカイの声が脳裏に蘇った。
『こちらレイヴン1、敵機全機の撃墜を確認。状況オールグリーン。帰投する』
淡々とした、報告だった。
あれほどの戦闘を終えた直後だというのに、声に乱れはなかった。
喜びも、興奮も、疲労さえも感じさせない。
ただ、任務の終了を告げるだけの声。
その声を聞いたとき、ブレントは安堵するよりも先に、別のことを考えてしまった。
まただ。また、同じだ。
かつて自分が管制していた男も、そうだった。どれほど危険な戦闘を終えたあとでも、無線越しにはいつも落ち着いた声で報告してきた。
自分が何を成し遂げたのかなど、まるで気にしていないように。
ただ、次に守るべきものがあるかどうかを確認するように。
そして、最後には帰ってこなかった。
「……冗談じゃねえぞ」
ブレントは、誰に向けるでもなく呟いた。
あんなものを、二度と見たくはなかった。
優秀なパイロットが命を落とすことは、戦争では珍しくない。
どれほど気を配っていても、どれほど慎重に管制していても、失われる命はある。
それを理解していないほど、彼は若くなかった。
だが、だからといって、最初から失われることを受け入れるつもりもなかった。
パイロットは、撃墜するためだけに空へ上がるのではない。
生きて帰るために飛ぶのだ。
少なくとも、ブレントはそう信じていた。
カイにも、それを理解してほしかった。
いや、理解しているのかもしれない。
あの青年は、決して愚かなパイロットではない。
状況判断は正確で、戦術眼も鋭く、敵の意図を読む能力も並外れている。
だからこそ、余計に分からなかった。
すべてを理解していながら、どうして自分を危険に晒すことを躊躇しないのか。
どうして、味方が危機に陥った瞬間、自分の生還よりも救出を優先できるのか。
その答えが、このファイルの中にあるのだろうか。
ブレントは、もう一度だけ表紙を見た。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
廊下の窓から差し込む光が、床に長い影を落としている。
その影を踏み越えながら、彼は自室へ向かって進んでいった。
手の中にある薄いファイルは、相変わらず何も語らない。
(上の連中、何を隠していやがる)
ブレントは、片腕に抱えたファイルへ視線を落としながら、人気の少なくなった廊下を歩き続けていた。
司令官の執務室を出てから、どれほどの時間が経過したのか、正確には分からなかった。
数分程度のはずだった。
それなのに、基地司令部から自室へ向かうまでの道のりが、普段よりもずっと長く感じられていた。
足を止めるつもりはなかったが、意識は何度も手元のファイルへ引き戻されてしまう。
何の変哲もない、ただの書類綴りにしか見えなかった。
灰色がかった無地の表紙には、部隊名も管理番号も記されていない。軍の正式な文書であれば、通常は何らかの識別情報が記載されているはずだが、このファイルにはそうしたものが一切見当たらなかった。
表紙の端には、長年にわたって使用されてきたことを示す細かな擦れが残っている。
角はわずかに丸みを帯び、背表紙には何度も開閉を繰り返したような跡があった。
特別な装飾も、目を引く特徴もない。
どこかの事務室に置かれていても、誰も気に留めないような代物だった。
しかし、ブレントはどうしても、そのファイルをただの書類として扱うことができなかった。
最初に司令官から手渡されたときは、ここまで強い違和感を覚えなかった。
あのときは、司令官の態度や言葉に意識を奪われていたせいかもしれない。
何が記されているのか。
なぜ、これほどまでに情報を隠していたのか。
そして、なぜ、読んだことを後悔しているなどという言葉を口にしたのか。
考えるべきことが多すぎて、手の中にあるファイルそのものへ注意を向ける余裕などなかった。
ところが、執務室を離れ、誰にも問い詰められることのない廊下を歩き始めてから、妙な感覚が少しずつ強くなってきたのだ。
最初は、気のせいだと思った。
長時間の戦闘管制で疲労が蓄積しているのだろう。
緊張が解けたことで、身体が余計な反応を示しているだけかもしれない。
そう考えて、何度も意識を別のことへ向けようとした。
しかし、どうしても消えなかった。
まるで、ファイルそのものが異様な気配を放っているかのようだった。
目に見えるわけではない。
何かの音が聞こえるわけでもない。
ましてや、表紙が勝手に動いたり、手の中で異常な熱を帯びたりしているわけでもなかった。
外見上は、どこまでも普通のファイルでしかない。
それなのに、手に持っているだけで、説明のつかない不快感がまとわりついてくる。
皮膚の表面を、冷たい何かが這っているような感覚。
背後に誰かが立っていると気づいたときのような、根拠のない警戒心。
それらが混ざり合い、意識の奥底にじわじわと広がっていた。
ブレントは、歩きながらファイルを持ち直した。
その瞬間、指先に力が入った。
無意識の動作だった。
自分が何をしているのかに気づき、彼は眉をひそめた。
(なんだこれ、気味悪りぃ)
心の中で吐き捨てる。
こんなものに、何を警戒しているというのだ。
相手は紙の束だ。
どれほど機密性の高い情報が記載されていようと、所詮は文字を並べた記録にすぎない。
そこに何が書かれているかによって、自分の考え方や判断が変わることはあるだろう。
しかし、ファイルそのものに何か特別な力があるわけではない。
少なくとも、普通に考えればそうなるはずだった。
それなのに、背筋に冷たいものが走った。
肩甲骨の間から首筋へ向かって、氷のような感覚がゆっくりと這い上がってくる。
ブレントは反射的に肩を強張らせた。
続いて、腕の内側から指先にかけて、細かな刺激が広がっていく。
全身を針で突き刺されるような感覚だった。
鋭い痛みがあるわけではない。
実際に皮膚を傷つけられているわけでもない。
それでも、身体のどこかが、何かを拒絶するように反応していた。
呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
心臓の鼓動が、いつもよりも強く感じられた。
ブレントは足を止めず、視線だけを周囲へ向けた。
廊下には、いつもと変わらない光景が広がっていた。
白い壁。
天井に並ぶ照明。
床に落ちる兵士たちの影。
壁際に設置された通信端末からは、低い電子音が断続的に鳴っている。
少し離れた場所では、二人の兵士が書類を片手に何かを話し合っていた。
誰かが隠れている様子もなければ、不審な人物がこちらを見ているわけでもない。
何も変わっていなかった。
それでも、ブレントの背筋を走る冷たさは消えなかった。
(……何だってんだ)
彼は心の中で悪態をついた。
軍人として、得体の知れないものに警戒心を抱くこと自体は珍しくもなかった。
戦場では、正体の分からないものほど危険な場合がある。
敵の姿が見えない。
通信が突然途絶える。
レーダーに説明のつかない反応が現れる。
事前の情報と現実が食い違う。
そうした状況に直面したとき、無理に理由を決めつけることは命取りになる。
何かがおかしいと感じたなら、その感覚を無視せず、周囲を確認し、状況を整理する。
長年の経験から、ブレントはそれを理解していた。
理屈で説明できない違和感であっても、必ずしも無意味とは限らない。
過去に経験した危険を、身体が無意識のうちに思い出していることもある。
わずかな音の変化や、相手の視線、普段とは違う空気の流れ。
意識が認識するよりも早く、身体が何らかの異常を察知することはあり得るのだ。
だからこそ、ブレントは自分の感覚を完全に否定することができなかった。
しかし、今回ばかりは違った。
周囲に敵はいない。
身体に危険が迫っている兆候もない。
目の前にあるのは、司令官から渡された一冊のファイルだけだ。
それなのに、身体は明らかに警戒を強めていた。
まるで、そこに触れてはいけない理由があるとでもいうように。
触れるな。
そんな警告が、意識の奥底から聞こえてくる気がした。
もちろん、実際に誰かの声が聞こえたわけではない。
耳に届いた音ではなく、言葉として形を持った思考でもなかった。
ただ、ファイルを持ち続けることに対する拒絶感が、いつの間にかそんな意味を帯びていた。
近づくな。
開くな。
その先を知ろうとするな。
何かが、そう訴えかけてくる。
ブレントは、思わず舌打ちしそうになった。
自分は何を考えているのだろう。
まるで、子供向けの怪談話にでも出てくる呪物を扱っているようではないか。
軍の機密資料を一冊渡された程度で、ここまで神経質になるなど、我ながらどうかしている。
そう考え、意識的に呼吸を整えようとした。
鼻からゆっくりと息を吸い込み、少しだけ間を置いてから吐き出す。
それを二度、三度と繰り返す。
いつものように、頭の中で状況を整理する。
自分は今、基地司令から機密性の高い資料を受け取った。
その内容は、カイという青年に関係している可能性が高い。
司令官は閲覧を許可したものの、執務室では読むなと命じた。
さらに、読んだことを後悔しているとまで口にした。
現時点で確かな情報は、それだけだ。
そこに余計な想像を付け加える必要はない。
ファイルから妙な気配を感じるというのも、疲労や緊張による錯覚である可能性が高い。
そう結論づけようとした。
だが、どれほど理屈を並べても、身体の反応は変わらなかった。
背筋を這い上がる冷たさは、消えるどころか、意識を向けるたびに強くなるように感じられた。
ブレントは、ファイルを持つ手を少しだけ離してみた。
腕を伸ばし、身体から距離を取る。
すると、ほんのわずかに呼吸が楽になった気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、彼はその感覚を無視できなかった。
数歩進んでから、再びファイルを抱え直す。
途端に、先ほどの不快感が戻ってくる。
指先に、妙な力が入った。
ブレントは、思わず足を止めた。
廊下の向こうから、二人の兵士が歩いてくる。
彼らは最初、いつもどおりの足取りでこちらへ向かっていた。
しかし、ブレントの姿を認めた瞬間、二人の歩調が微妙に変化した。
一人が、隣を歩く兵士へ小さく何かを囁く。
もう一人は、ちらりとブレントの顔を見てから、すぐに視線を逸らした。
そして、すれ違う直前になって、二人は自然な動作を装いながら進路をわずかに変えた。
廊下の端へ寄り、ブレントが通れるだけの空間を空ける。
その動きには、特別な意味などないように見えた。
上官とすれ違う際に道を譲る。
軍隊では、ごく普通の行動だった。
しかし、ブレントは二人の表情を見逃さなかった。
怯えている。
少なくとも、普段の敬意だけでは説明できないほど、彼らは緊張していた。
ブレントが近づくにつれ、一人は口を閉じ、もう一人は背筋を伸ばした。
すれ違う瞬間、二人とも視線を合わせようとはしなかった。
「……」
ブレントは、無言のまま歩き続けた。
自分の顔に何かついているのだろうか。
それとも、先ほど司令官の執務室へ怒鳴り込んだことが、すでに基地中へ知れ渡っているのか。
可能性はいくらでも考えられた。
戦闘終了直後に管制機を降り、そのまま司令部へ向かったのだ。廊下を走っているところを目撃した者もいるだろうし、執務室の前で騒ぎになったのなら、噂が広まっていても不思議ではない。
だが、それだけだろうか。
ブレントは、すれ違った二人の背中を一瞬だけ振り返った。
彼らは、こちらを見ていなかった。
しかし、歩き去る速度が、先ほどよりも明らかに速くなっているように感じられた。
(……気のせいだ)
そう自分に言い聞かせる。
今は、余計なことを考えている場合ではない。
そう思って前を向いた、そのときだった。
廊下の先から、見慣れた顔の兵士が歩いてきた。
以前から何度も顔を合わせている、通信関係の担当者だった。
名前も知っている。
普段なら、すれ違うたびに何かしら声をかけてくる男だった。
任務の愚痴をこぼしたり、食堂の献立について文句を言ったり、ときにはブレントの好物を知っていることを利用して、余った食事を押しつけてきたりもする。
大した話ではない。
だが、そうした何気ないやり取りが、基地で働く人間同士の距離を縮めていた。
今日も、いつもと同じように声をかけてくるだろう。
ブレントは、そう思っていた。
ところが、男は彼の姿を認めると、明らかに動きを鈍らせた。
口を開きかけたものの、すぐに閉じる。
視線がブレントの顔から手元のファイルへ移り、次の瞬間には、何事もなかったかのように横へ逸れた。
そして、軽く敬礼すると、そのまま通り過ぎていった。
何も言わなかった。
いつもの軽口も、挨拶に続く雑談もなかった。
ただ、必要最低限の礼儀だけを残して、足早に立ち去った。
ブレントは、その背中を見送った。
(……おいおい、何だってんだ)
普段なら、何か一言くらいは言ってくる男だった。
あの態度は、明らかにおかしい。
司令部へ怒鳴り込んだことを知っているとしても、それだけで急によそよそしくなるような相手ではない。
ましてや、ブレント自身が何かをしたわけでもない。
それなのに、周囲の人間が次々と距離を取っていく。
偶然だと片づけるには、少しばかり重なりすぎていた。
ブレントは、自分の表情を確かめるように、空いている手で頬を軽く擦った。
いつもと違う顔をしているのだろうか。
怒りが収まらず、周囲を威圧するような表情になっているのかもしれない。
自分では、どんな顔をしているのか分からなかった。
ただ、誰も近寄ってこないことだけは理解できた。
普段なら軽口の一つでも飛ばしてくる顔見知りの兵士でさえ、今日は遠巻きにこちらを眺めるだけだった。
誰も、理由を尋ねてこない。
誰も、何があったのか聞こうとしない。
まるで、こちらへ近づくことそのものを避けているようだった。
ブレントは、再び手元のファイルへ目を落とした。
無地の表紙が、廊下の照明を受けて鈍く光っている。
その表面には、何も書かれていない。
何かが浮かび上がっているわけでも、異常な模様が刻まれているわけでもない。
ただのファイルだ。
それなのに、どうしても目を離すことができなかった。
先ほどから感じている違和感と、周囲の兵士たちの態度。
それらに直接の関係があるとは思えない。
自分がファイルを持っているからといって、周囲の人間が急に態度を変える理由などないはずだ。
それでも、妙な考えが頭をよぎる。
もしかすると、このファイルは、単なる機密資料ではないのではないか。
軍の中でも、ごく限られた人間しか存在を知らないようなもの。
知っているだけで、扱いに注意を要するもの。
あるいは、知ってしまった人間の態度を変えてしまうほど、重大な何かが記されているもの。
そこまで考えたところで、ブレントは小さく首を振った。
馬鹿馬鹿しい。
ファイルに書かれた情報が、直接人間の態度を変えるわけではない。
周囲の兵士たちが何かを知っているのなら、話は別だが。
しかし、もし彼らが、このファイルについて何か知っているのだとしたら。
なぜ、誰も何も言わないのか。
なぜ、こちらを避けるように振る舞うのか。
そして、なぜ、司令官はあれほどまでに深刻な顔をしていたのか。
考えれば考えるほど、疑問は増えていった。
ブレントは、ファイルを抱え直した。
その重さが、腕にずしりとのしかかる。
中身は紙の束にすぎないはずだった。
分厚い資料なら、これくらいの重量があってもおかしくはない。
それでも、今の彼には、単なる紙の束を持っているという感覚がなかった。
まるで、取り返しのつかない何かを抱えているような気分だった。
まだ中身を読んでもいない。
そこに何が書かれているのか、一文字たりとも知らない。
それなのに、すでに何かを背負わされてしまったような感覚があった。
それは、任務を与えられたときの責任感とは違っていた。
戦場へ向かう部隊を管制するときに感じる緊張とも違う。
もっと曖昧で、もっと根深いものだった。
知らなければ、何も変わらずに済む。
そんな考えが、ふと頭に浮かんだ。
ファイルを開かなければいい。
自室へ戻り、机の引き出しにしまい、明日になってから司令官へ返せばいい。
読むことを命じられたわけではない。
司令官は、読む覚悟があるならと言っただけだ。
ならば、今すぐ読む必要はないのではないか。
そんな逃げ道が、一瞬だけ頭の中に浮かんだ。
しかし、ブレントはすぐにその考えを振り払った。
何を馬鹿なことを考えている。
自分は、そんな人間ではない。
任務に必要な情報が与えられたのなら、内容を確認する。
理解できないことがあるのなら、調べる。
判断に必要な情報が足りないのなら、上官に求める。
それが、管制官としての自分の仕事だった。
カイを任された以上、彼について知らなければならないことがある。
操縦技術がどれほど優れていても、人間である以上、必ず何らかの限界がある。
どれほど冷静な操縦士であっても、過去の経験や感情が判断に影響することはある。
そして、どれほど強い人間であっても、一人ですべてを背負い続けることはできない。
ブレントは、それを知っていた。
だからこそ、カイを単なる戦果の数字として扱うつもりはなかった。
敵機を何機撃墜したか。
どれほどの作戦を成功させたか。
どれほど高性能な機体を操縦しているか。
それらは、操縦士を評価するための重要な情報ではある。
だが、それだけでは足りない。
彼が何を考え、何を恐れ、何を守ろうとしているのか。
それを知らずに、どうして彼の命を預かることができるだろう。
ブレントは、ゆっくりと息を吐いた。
背筋にまとわりつく冷たい感覚は、まだ消えていなかった。
それでも、彼は歩みを止めなかった。
やがて、廊下の先に見慣れた区画が現れた。
士官用の居住区へ続く通路だった。
壁の色も、照明の配置も、床に敷かれた素材も、普段と何一つ変わらない。
何度も通った場所だった。
任務を終えたあと、疲れた身体を引きずりながら歩いたこともある。
深夜に呼び出しを受け、眠気をこらえながら司令部へ向かったこともある。
戦果を挙げた部下たちと食堂で騒ぎ、翌朝になってから後悔したこともあった。
ここは、ブレントにとって見慣れた場所だった。
だが、今日は違った。
同じ廊下を歩いているはずなのに、まるで知らない場所へ足を踏み入れているような気分だった。
自分の足音が、妙に大きく聞こえる。
手元のファイルが、妙に重く感じられる。
周囲の気配が、妙に遠い。
そのすべてが、いつもと違っていた。
やがて、自室へ続く最後の曲がり角が見えてきた。
ブレントは、そこを曲がる直前に、ふと足を止めた。
目の前には、見慣れた廊下が続いている。
その先に、自分の部屋がある。
扉を開けて中へ入り、鍵をかける。
机の上へファイルを置き、椅子に座る。
それから表紙を開き、最初のページを読む。
たったそれだけのことだった。
何も難しいことではない。
これまでに経験してきた数々の任務に比べれば、危険などないに等しいはずだった。
それなのに、足が止まっていた。
ブレントは、ゆっくりと目を閉じた。
ほんの数秒だけ、何も考えない時間を作る。
耳に入ってくるのは、遠くの機械音と、廊下の向こうから聞こえる兵士たちの声。
いつもと変わらない基地の音だった。
その音を聞きながら、彼は深く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと吐き出した。
(オールドフィールド、ブレント。覚悟を決めろ)
自分に言い聞かせる。
軍人としての自分へ。
管制官としての自分へ。
そして、これからカイという青年を支えることになる、一人の人間としての自分へ。
今さら引き返すわけにはいかない。
司令官があれほど躊躇し、読むことを後悔していると言い切った資料だ。
カイという青年について、何か重大な秘密が記されていることは間違いない。
その内容が何であれ、知らないままでいることは、これから先の任務に支障をきたす可能性がある。
もし、カイの行動に何らかの理由があるのなら、それを理解する必要がある。
もし、軍が彼について特別な扱いをしているのなら、その理由を知る必要がある。
そして、もし、彼が自分の命を軽く扱うようになった原因があるのなら、管制官として、それを見過ごすわけにはいかなかった。
ブレントは、ゆっくりと目を開けた。
手元のファイルを見つめる。
先ほどまでと同じ、何の変哲もない表紙だった。
だが、もう目を逸らすつもりはなかった。
知るべきことなら、知らなければならない。
たとえ、その内容がどれほどおぞましいものであろうとも。
たとえ、それを知ることで、自分自身の考え方が変わってしまうのだとしても。
彼は、カイを任された管制官なのだ。
知らないことを理由に、彼を理解することから逃げるわけにはいかない。
ブレントは、もう一度だけ息を吐いた。
それから、足を踏み出した。
廊下を進み、自室の扉の前へ立つ。
見慣れた金属製の扉には、部屋番号を示すプレートが取りつけられていた。
その表面には、長年の使用による細かな傷が残っている。
扉の向こうには、これから読まなければならない資料が待っている。
そして、その資料を読み終えたあと、自分が何を考えることになるのかは分からない。
ブレントは、取っ手へ手を伸ばす前に、廊下の左右を確かめた。
人影はなかった。
少し離れた場所に通信端末が設置されているが、そこにも誰もいない。
今のところ、誰かに見られている様子はなかった。
司令官は、自室で読むように命じた。
ならば、少なくとも、誰にも邪魔されずに内容を確認できる環境を整えるべきだろう。
ブレントは扉の取っ手を握った。
金属の冷たい感触が、指先に伝わる。
いつもと同じ感触だった。
それでも、ファイルを持っている腕には、先ほどから続く違和感が残っていた。
彼は一度だけファイルを見下ろし、それから扉を開けた。
室内は、静かだった。
窓から差し込む光が床の一部を照らし、壁際の棚や机の輪郭を浮かび上がらせている。
椅子は机の前に置かれ、端末の画面は消えたままだった。
書類は整理され、必要なものがすぐに取り出せるように並べられている。
特別なものは何もない。
自分が普段から使っている、見慣れた部屋だった。
ブレントは中へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
カチリ、と小さな音がした。
その音を聞いてから、彼は鍵を回した。
カチャリ、と錠がかかる。
扉の向こうにあった基地の日常が、わずかに遠ざかったように感じられた。
廊下の足音も、遠くの機械音も、扉を隔てたことで幾分か小さくなっている。
完全な無音ではない。
基地の中にいる以上、外の音をすべて遮断することはできなかった。
それでも、今のブレントにとっては十分だった。
誰も入ってこない。
誰にも話しかけられない。
少なくとも、これからファイルを開くまでの間、自分は一人でいられる。
ブレントは、しばらく扉の前に立ったまま動かなかった。
鍵がかかっていることを、もう一度確かめる。
それから、ゆっくりと振り返った。
机の上には、いつもと変わらない書類が置かれている。
その向こうには、何度も使ってきた椅子がある。
いつもなら、帰室したあと、まず端末を確認する。
管制に関する連絡が届いていないかを確かめ、必要なら報告書をまとめる。
そのあとで、ようやく食事を取るなり、休息を取るなりする。
それが、これまでの習慣だった。
しかし、今日は何もかも後回しだった。
ブレントは机の前まで歩き、手にしていたファイルをそっと置いた。
表紙が木製の机に触れ、小さな音を立てた。
その音に、彼は一瞬だけ反応した。
あまりにも小さな音だった。
普通なら、気にも留めないほどの音だ。
それなのに、室内が静かだったせいか、妙にはっきりと聞こえた。
ブレントはファイルから手を離した。
そして、数秒間、その場に立ったまま表紙を見つめていた。
開くべきだ。
そう分かっていた。
ここまで来たのだから、もう迷う必要はない。
それなのに、指先が動かなかった。
ファイルの表紙には、何も書かれていない。
ただの紙の束。
ただの記録。
そう考えようとしても、身体の奥に残る違和感が、どうしてもその考えを受け入れさせてくれなかった。
ブレントは、片手を腰へ当て、ゆっくりと息を吐いた。
「……さて」
乾いた声が漏れた。
誰に聞かせるためでもない。
自分の気持ちを切り替えるために、ただ言葉を口にしただけだった。
その声は、思っていた以上に疲れて聞こえた。
戦闘管制の疲労が、今になって押し寄せてきたのかもしれない。
目の奥には鈍い重さがあり、肩には張りが残っている。
長時間、管制席に座り続けた身体は、休息を求めていた。
しかし、今は休むわけにはいかなかった。
ブレントは椅子を引き、腰を下ろした。
椅子の脚が床を擦る音が、室内に短く響く。
机の前に座ると、ファイルが目の前にあった。
手を伸ばせば届く距離。
表紙を開けば、中身を確認できる距離。
それだけのことだった。
ブレントは、両手を机の上へ置いた。
右手の指先が、わずかに動く。
自分が緊張していることに気づき、彼は小さく眉をひそめた。
馬鹿馬鹿しい。
敵のミサイルが接近している状況でも、ここまで手が止まることはなかった。
通信回線が混乱し、複数の部隊から救援要請が重なったときでさえ、必要な判断を下すことができた。
戦場で何が起ころうとも、管制官として冷静でいようと努めてきた。
それなのに、今は一冊のファイルを前にして、妙な緊張を覚えている。
自分でも、理由が分からなかった。
いや、理由がまったくないわけではない。
司令官の態度が、あまりにも異様だった。
あの男は、簡単には動じない人物に見えた。
基地の責任者として、さまざまな問題に直面してきたはずだ。
戦況の悪化、兵員の損失、作戦の失敗、上層部からの無理な要求。
そうしたものを受け止め、判断し、部下へ命令を下してきた人間だろう。
その司令官が、ファイルを手にした瞬間、明らかに様子を変えた。
そして、読んだことを後悔していると告げた。
ブレントは、その言葉を思い出すたびに、胸の奥が重くなるのを感じた。
後悔。
何を後悔しているのか。
知ってしまったことか。
読んでしまったことか。
それとも、知ったうえで何かを決断したことなのか。
もし、ただの軍事機密であるなら、そんな言葉を口にする必要はない。
読んだ内容が重大であれば、慎重に扱うよう指示すればいい。
しかし、司令官はそうしなかった。
彼は、ブレントがファイルを読むことそのものに、何らかの影響があると考えているようだった。
そして、その影響が決して良いものではないことを、身をもって知っているようだった。
ブレントは、目の前のファイルへ視線を落とした。
(……カイ)
心の中で、その名を呟く。
今日、彼が目撃した黒い戦闘機の操縦士。
たった一機で敵航空隊を壊滅させ、包囲された味方を救い、最後には何事もなかったかのように帰投した青年。
その姿は、今もはっきりと脳裏に残っていた。
操縦技術は、疑いようもなく卓越していた。
判断速度も、敵の動きを読む能力も、常人の域を超えているように見えた。
しかし、ブレントが本当に気にしていたのは、そこではなかった。
彼は、自分の命を危険にさらすことに、あまりにも無頓着だった。
少なくとも、管制席から見た彼はそうだった。
味方が危機に陥れば、敵の数を問わず救援へ向かう。
制止を受けても、必要だと判断すれば進路を変える。
その結果、自分が撃墜される可能性について、どこまで考えていたのか分からない。
だが、あの行動には、迷いがなかった。
それが、ブレントには恐ろしかった。
優れた操縦士ほど、自分の能力を理解している。
どこまでなら無理が利くのか。
どの状況なら撤退すべきなのか。
何を優先し、何を諦めなければならないのか。
経験を積むほど、その判断は洗練されていく。
だが、カイは違った。
いや、違うように見えた。
彼は、あまりにも迷わずに危険へ踏み込んでいった。
まるで、自分が生き残ることよりも、別の何かを優先しているかのようだった。
もし、それが単なる使命感であるなら、まだ理解できる。
味方を救うために危険を冒すことは、軍人として決して珍しいことではない。
しかし、今日のカイの行動は、それだけでは説明できないように感じられた。
彼の中には、何か別の理由があるのではないか。
自分でも気づいていない何かが、彼の判断を支配しているのではないか。
そして、その理由を、軍は知っているのではないか。
ブレントは、ファイルの表紙を見つめた。
この中に、その答えがあるのだろうか。
彼はゆっくりと右手を伸ばした。
指先が、表紙に触れる。
その瞬間、ブレントはほんのわずかに眉をひそめた。
やはり、嫌な感覚は消えていなかった。
指先から腕へ、冷たいものがゆっくりと広がっていく。
表紙に触れている部分だけが、妙に意識される。
ただの紙に触れているだけなのに、その感触が必要以上にはっきりと伝わってきた。
ブレントは、一度だけ手を止めた。
今なら、まだ引き返せる。
表紙を閉じたままにしておけば、何も知ることはない。
少なくとも、この瞬間までは。
だが、彼は手を引かなかった。
司令官の顔が、脳裏に浮かぶ。
私の負けだ。
読む覚悟があるなら。
読んだことを後悔している。
そして、これを読んだあとも、君が彼を扱えることを願っている。
ブレントは、静かに息を吸い込んだ。
何が書かれていようと、目を逸らすわけにはいかない。
知らなければ、カイを理解することはできない。
理解できなければ、彼を支えることもできない。
それだけは、確かだった。
ブレントは、指先にわずかに力を込めた。
そして、ゆっくりと表紙を開いた。
紙が擦れる、乾いた音がした。
その音を聞いた瞬間、室内の静寂が一段と深くなったように感じられた。
もちろん、実際に何かが変わったわけではない。
窓の外では、基地の活動が続いている。
廊下の向こうからは、遠くの機械音がかすかに聞こえていた。
それでも、ブレントには、何かの境界を越えてしまったような感覚があった。
もう、戻ることはできない。
そんな考えが、頭の片隅をよぎった。
彼は、開いたページへ視線を落とした。
最初のページには、何らかの情報が記載されているはずだった。
カイの経歴か。
所属部隊の記録か。
あるいは、F-15Λに関する機密情報か。
何が書かれていても、まずは冷静に読み進めるつもりだった。
感情に流されず、事実を確認し、必要な情報を整理する。
それが、自分の仕事だ。
ブレントは、視線をページの上へ滑らせた。
そして、最初の一行を読もうとした。
その瞬間、彼の表情から、わずかな余裕が消えた。
目に入った文字を理解するために、意識が静かに集中していく。
指先は、まだファイルの端を押さえていた。
背筋には、先ほどから続く冷たい感覚が残っている。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
ブレントは、最初のページへ視線を落としたまま、ゆっくりと読み始めた。
〜お願い〜
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