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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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帰投

戦闘終了の報告が管制機内に流れてから、さほど時間は経っていなかった。敵航空隊の全滅が正式に確認され、各部隊から帰投の報告が相次ぐなか、管制機内では戦闘後の処理が慌ただしく進められていた。戦術画面には各機の位置情報が表示され、管制官たちは帰投する友軍機の航路を確認しながら、損傷の有無や燃料残量、着陸の順序について必要な情報を整理していた。

敵の大規模な航空攻撃を退けた直後である以上、まだ警戒を解くわけにはいかなかった。

撃墜を免れた敵機が残っている可能性もあれば、今回の攻撃が別の作戦に連動した陽動である可能性もある。

管制官たちは次々と報告される情報を照合し、基地周辺の空域に異常がないかを慎重に確認し続けていた。

しかし、そのような慌ただしい状況のなかでも、ブレント・ウェルロッドだけは、ほとんど身じろぎすることなく管制席に座り続けていた。

彼の視線は、戦術マップ上を移動する一つの青い光点に注がれていた。

レイヴン1。

漆黒の戦闘機、F-15Λを駆るカイの機体を示す光点だった。

戦闘が終わってからも、ブレントは一度としてその航跡から目を離していなかった。

ほかの航空機が編隊を維持しながら帰投経路へ入っていくなか、レイヴン1の航跡だけを追い続け、進路や速度に不審な変化が生じていないかを確認していた。

それは、管制官として必要な確認であると同時に、ブレント自身がどうしてもやめられない行動でもあった。

戦術マップ上を移動していた青い光点は、やがてフリューゲル基地の着陸経路へと入っていった。

基地周辺の管制情報と照合しても、進入経路に問題は見当たらず、機体の位置情報にも不自然な乱れは確認されなかった。

レイヴン1は指定された経路を外れることなく、着陸に向けて着実に高度を下げていた。

機体の状態は良好。

周辺空域に新たな敵影はなく、レイヴン1の帰投を妨げる要因も確認されていない。

管制画面に表示される情報は、どれも正常を示していた。

報告だけを見れば、何も問題はなかった。

少なくとも、軍務上の記録に残される情報だけならば、今回の戦闘は帝国軍の圧倒的な勝利として処理されることになるだろう。

敵航空隊は壊滅し包囲されていた友軍部隊は救出され、フリューゲル基地の防衛にも成功した。

戦果だけを見れば、これ以上ないほどの結果だった。

それでも、ブレントの胸中に渦巻く不安は、少しも消えてくれなかった。

むしろ、戦闘が終わり、目の前の危機が去ったことで、今まで押し殺していた感情が一気に込み上げてきていた。

交戦中は管制官としての責任があった。

敵の位置を把握し、味方の状況を確認し、必要な情報を伝え続けなければならなかった。目の前で何が起きようと、感情に振り回されている余裕などなかった。

だが、今は違う。

戦闘は終わった。

レイヴン1は生きて帰ってきている。

それなのに、ブレントの心は、まるで戦闘が始まる前よりも落ち着きを失っていた。

脳裏には、あの戦闘の光景が何度も繰り返し浮かんでいた。

敵機の群れを縦横無尽に駆け抜け、次々と赤い光点を消していった漆黒の機体。

圧倒的な数的不利をものともせず、敵編隊を分断し、抵抗する暇さえ与えずに撃墜していった異常な戦闘能力。

そして、味方が包囲されたという通信を受けた瞬間、何の躊躇もなく進路を反転させたカイの姿。

ブレントが本当に気にかけているのは、敵機を何機撃墜したかという数字ではなかった。

五十機以上の敵航空機を一機で撃墜したという戦果は、確かに異常だった。

これまで数多くのエースパイロットを管制してきた彼でさえ、あれほど一方的な戦闘を目の当たりにしたことはなかった。

だが、どれほど優れた機体と技量を持っていたとしても、戦場には予測できない危険が存在する。敵の数が増えれば、それだけ偶発的な被弾や予期せぬ事態に遭遇する可能性も高まる。

それを理解しているはずのパイロットが、あのような行動を取った。

味方が包囲されたと知るや否や、敵の大群へ向かって機首を反転させた。進路上に存在する敵機の数を考えれば、通常ならば援護を要請するか、友軍との連携を図ったうえで救援に向かうべき状況だった。少なくとも、管制官であるブレントには、そのように判断するだけの理由があった。

しかし、カイは違った。

まるで、ほかの選択肢など最初から存在しないかのように、ただ一機で敵の包囲網へ飛び込んでいった。

そして、ブレントが何度呼びかけても止まらなかった。

あの漆黒の機体。

敵の包囲網へ迷いなく飛び込んでいったカイ。

そして、何度呼びかけても止まらなかった、その姿。

ブレントはヘッドセットを外し、乱暴にならないよう努めながら管制卓の脇へ置いた。

耳元から通信音が遠ざかっても、先ほどまでの交信内容は頭のなかに残り続けていた。敵機の撃墜を知らせる報告も、友軍から上がった歓声も、最後に届いたフェアリーの感謝の言葉も、今となってはすべて遠い出来事のように感じられた。

周囲では同僚たちが戦果の確認を進めていた。誰かが撃墜数の集計を指示し、別の管制官が帰投する友軍機の着陸順序を確認している。戦闘中に張り詰めていた空気は少しずつ和らぎ、機内には安堵と興奮が入り混じった雰囲気が広がり始めていた。

それでも、彼らの会話はほとんど耳に入ってこなかった。

ブレントは椅子から立ち上がり、必要最低限の報告だけを済ませた。管制官としての仕事を放り出すつもりはなかったが、今の彼には、それ以上この場に留まっている余裕がなかった。レイヴン1の帰投を確認し、必要な情報を後任へ引き継ぐ。ひとまずの責務を果たすと、彼はすぐに管制席を離れようとした。

「オールドフィールド、これから司令部へ?」

隣にいた管制官が、不思議そうに声をかけてきた。

ブレントは足を止め、相手へ視線だけを向けた。

「ああ」

短く返事をすると、彼は再び歩き出そうとした。

「今回の戦果についてですか?いやあ、それにしてもレイヴン1は――」

「悪い、後にしてくれ」

ブレントはそれだけ告げると、相手の返事を待たずに管制区画を出た。

背後から何かを言いかける声が聞こえたが、彼は振り返らなかった。

普段の彼なら、こんなときこそ軽口の一つでも叩いていたはずだった。

戦闘が終わった安堵を口にし、同僚たちの興奮をからかい、帰投してきたパイロットたちを冗談交じりに迎える。

時には戦果を誇張して語る者を笑い飛ばし、時には無事に帰ってきた部下を労いながら、次の任務に備えて気持ちを切り替えさせる。

それが、普段のブレント・ウェルロッドという男だった。

彼は長年にわたって空中管制官を務め、数え切れないほどの戦闘を経験してきた。

戦場では、緊張と恐怖が常につきまとう。

どれほど優秀なパイロットであっても、いつかは危険な状況に追い込まれる。

だからこそ、彼は管制官として冷静であることを心がけていた。自分まで感情に飲み込まれてしまえば、無線越しに指示を待つパイロットたちを支えることなどできないからだ。

厳しい状況でも冗談を口にするのは、単に彼の性格が気さくだからというだけではなかった。

張り詰めた空気のなかで、少しでも周囲の緊張を和らげるためでもあった。

無事に帰投した者には笑顔で迎え、帰らなかった者については、決して軽々しく語らない。

それが、長い軍務のなかでブレントが身につけてきたやり方だった。

だが、今は違った。

彼の頭の中を占めているのは、ただ一つ。

カイのことだった。

なぜ、あの青年はあのような戦い方をするのか。

なぜ、自分の命を危険にさらすことに、あれほど無頓着に見えるのか。

そして、なぜ自分は、あの漆黒の機体を見るたびに、過去の記憶を思い出してしまうのか。

考えようとすればするほど、疑問は増えていった。

管制区画を出たブレントは、機内の通路を進みながら腕時計へ視線を落とした。戦闘終了から、それほど時間は経過していない。

レイヴン1が着陸経路へ入ったことを考えれば、基地に帰投するまでには、まだ多少の時間が残されているはずだった。

空中管制機が滑走路へ着陸し、機体が完全に停止するまでの時間さえ、今のブレントにはひどく長く感じられた。

やがて機体が着陸態勢へ入り、機内に軽い振動が伝わり始めた。

地上が近づくにつれてエンジン音の響き方が変わり、窓の外には滑走路の照明と誘導標識が見え始めた。乗員たちは通常の着陸手順に従って準備を進めていたが、ブレントは落ち着いて座っていることさえ難しかった。

着陸の衝撃が機体全体に伝わり、エンジンの出力が落ちていく。機体は滑走路を走り続け、やがて所定の誘導路へ向かってゆっくりと進み始めた。地上員が所定の作業を始め、機体の周囲で慌ただしく人が動き始める。

いつもなら見慣れた光景にすぎないはずだったが、今のブレントには、その一つ一つの動作さえもどかしく感じられた。

通常であれば、ブレントも搭乗員たちとともに所定の手順を踏み、必要な報告を終えてから基地施設へ戻るところだった。

着陸後の安全確認を行い、機内の装備を所定の位置へ戻し、次の任務に備えて必要な引き継ぎを済ませる。軍人として守るべき手順は理解していたし、これまで一度として軽視してきたつもりもなかった。

だが、機体が停止した瞬間、彼はシートベルトを外した。

ヘッドセットを所定の位置へ戻し、足早に通路を進む。周囲では乗員たちが着陸後の作業を続けていたが、ブレントは必要な確認だけを済ませると、そのまま昇降口へ向かった。

途中、同乗していた乗員が何かを尋ねてきたが、ブレントは短く返事をするだけで、そのまま機外へ出た。

地面に足をつけるなり、彼は基地司令部の方向へ歩き始めた。

いや、歩くという表現では足りなかった。

まるで何かに追い立てられているかのように、ブレントは早足で進んでいった。

普段なら周囲の状況を確認しながら歩き、顔見知りの兵士がいれば気軽に声をかけるところだった。

だが、今は誰の顔を見る余裕もなかった。

胸の奥に引っかかっている不安が、時間を追うごとに大きくなっていく。

格納庫の前を通り過ぎる。

そこでは、帰投した機体の周囲に整備員たちが集まり、外板や翼、脚部に損傷がないかを確認していた。

工具を手にした整備兵が機体の下へ潜り込み、別の兵士が記録端末を操作しながら、機体の状態について何かを報告している。

戦闘を終えたばかりの基地には、いつもと変わらない軍務の光景が広がっていた。

別の場所では、戦闘から戻ったパイロットたちが地上員に囲まれ、興奮した様子で先ほどの戦闘について話している。

緊張から解放された者たちの声には、安堵と高揚がはっきりと表れていた。

戦闘中に感じていた恐怖を振り払うように笑い合う者もいれば、仲間の帰還を確かめて安堵の息を吐く者もいた。

誰もが、今日の戦果に沸き立っていた。

そのなかには、黒翼の英雄の名を口にする者もいた。

ブレントの耳にも、断片的な歓声が届いた。

「レイヴン1が敵を全部片づけたらしいぞ!」

「五十機以上だって話だ!信じられるか?」

「フェアリーも全機帰ってきたそうだ!」

興奮した兵士たちの声が、基地の空気を明るく染めていた。

つい先ほどまで圧倒的な数の敵航空機に脅かされていたとは思えないほど、彼らの表情には活気が戻っていた。

敵航空隊が全滅し、味方が全機帰投したという報告は、前線で戦う兵士たちにとって何よりも大きな朗報だったのだろう。

普段なら、思わず足を止めて話に加わっていたかもしれない。

五十機以上という数字を聞けば、まずは本当かどうかを確かめようとしただろうし、フェアリーが全機帰投したと聞けば、冗談を交えながら彼らの無事を喜んでいたかもしれない。

黒翼の英雄という呼び名が飛び交っているのを耳にすれば、いつもの調子で何か一言返していたはずだった。

だが、今の彼には、そのどれもが遠い場所で起きている出来事のように感じられた。

敵航空隊を壊滅させたこと。

劣勢だった戦況を覆したこと。

包囲されていた味方を救い出したこと。

そのどれもが、疑いようのない戦果だった。

カイがいなければ、フェアリーは全滅していた可能性が高い。

敵の航空攻撃によって、フリューゲル基地の防衛そのものが危うくなっていた可能性もある。

そう考えれば、今回の戦闘でカイが果たした役割は、単に敵機を撃墜したという言葉では片づけられないほど大きなものだった。

しかし、ブレントが知りたいのは、そんなことではなかった。

なぜ、カイはあのような行動を取ったのか。

なぜ、あれほど危険な状況だと分かっていながら、一機で敵の群れへ突っ込んでいったのか。

そして、なぜ自分の制止を一切聞き入れなかったのか。

その疑問が、彼の胸中で何度も繰り返されていた。

敵機を撃墜することだけが目的なら、あそこまで危険な進路を選ぶ必要はなかったはずだ。

戦況を立て直すという意味でも、友軍との連携を図りながら敵を分断する方法はあった。

カイの技量と機体の性能を考えれば、ほかの選択肢を選んでも十分に戦果を挙げられた可能性がある。

それでも、彼は敵の大群へ向かった。

味方が助けを求めた、その瞬間に。

まるで、自分がどうなるかなど考える必要もないとでもいうように。

ブレントには、その行動が理解できなかった。

いや、正確には、理解したくなかったのかもしれない。

彼は、あのような行動を取る人間を知っていた。

仲間が危機に陥れば、自分の置かれた状況も忘れて救援に向かう。

誰かが助けを求めれば、危険を承知で敵の射線へ飛び込んでいく。

自分自身の生還よりも、仲間が生き残る可能性を優先する。

何度止めても、何度危険を説明しても、最後には自分の判断を貫いてしまう。

かつて、ブレントの隣には、そういう男がいた。

その男を、彼は失った。

だからこそ、目の前の若いパイロットの姿が、どうしても過去の記憶と重なってしまうのだった。

ブレントは足を速めた。

基地施設の通路へ入ると、外の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。

分厚い壁に遮られた廊下には、空調設備の低い稼働音が響き、磨かれた床には天井の照明が細長く映り込んでいた。

壁に掲げられた部隊章や戦功を示す額縁が、彼の視界の端を流れていく。

長い年月をかけて築かれてきた帝国空軍の歴史が、その廊下の至るところに刻まれていた。

廊下には、戦闘後の報告に向かう軍人や、書類を抱えて移動する事務員たちの姿があった。

彼らはそれぞれの任務に追われ、必要な報告をまとめたり、次の命令を受け取ったりしながら、慌ただしく仕事を続けていた。

誰もが戦闘後の処理に追われていたが、基地全体には、勝利を収めたという安堵が確かに広がり始めていた。

その空気のなかで、ブレントだけが違う場所にいるようだった。

彼の胸中には、勝利の喜びも、戦闘終了の安堵もなかった。

今の彼にとって、敵航空隊が全滅したという事実は、カイが無事に帰投したという結果を除けば、ほとんど意味を持たなかった。

彼が気にしているのは、今回の戦闘でどれだけの敵機を撃墜したかではなく、カイが次の戦闘でも同じ行動を取るかもしれないという可能性だった。

そして、その可能性を否定できるだけの理由を、彼は何一つ持っていなかった。

ブレントは彼らの間をすり抜け、まっすぐに司令部へ向かった。

途中、何度か呼び止められた。

「ウェルロッド少佐、お疲れさまです!」

背後から、若い軍人の明るい声が聞こえた。

ブレントは足を止めず、そのまま通路を進んだ。

「少佐殿、先ほどの戦闘について確認したいことが――」

別の軍人が書類を手に近づいてきたが、彼はその横を通り過ぎた。

「悪い、後にしてくれ!」

短く答えた声には、余裕がなかった。

振り返ることもなく答え、彼は進み続けた。

いつもなら、相手の用件を聞かずに立ち去るようなことはしない。

まして、軍務に関する問い合わせを無視するなど、彼自身が最も嫌う行為の一つだった。

管制官として働く以上、必要な情報を共有し、報告を怠らないことの重要性は誰よりも理解している。

たった一つの報告の遅れが、前線で戦うパイロットの生死を左右することさえあるのだから。

それでも、今は足を止められなかった。

胸の奥で、何かが警鐘を鳴らし続けていた。

このまま何もせずにいれば、また取り返しのつかないことになる。

そんな考えが、頭から離れなかった。

もちろん、カイは生きて帰ってきた。今日の戦闘で撃墜されることもなく、味方を救い、敵航空隊を壊滅させ、何事もなかったかのように帰投を報告した。

その事実だけを見れば、ブレントがここまで取り乱す必要はないのかもしれない。

だが、戦場で生き残ったという結果が、その行動の危険性を消してくれるわけではなかった。

今回、カイが無事だったのは、彼の卓越した技量とF-15Λの性能があったからだろう。

あるいは、敵が彼の能力を把握していなかったことも大きかったのかもしれない。

しかし、次の戦闘でも同じ条件が揃う保証はどこにもない。

敵が対策を講じ、より高度な戦術を用い、彼の機体を追い詰めるための罠を仕掛けてくる可能性もある。

そのとき、カイはどうするのだろうか。

また同じように、誰かを救うために危険な空域へ飛び込むのだろうか。

そして、もし次に帰ってこなかったら。

その想像が頭をよぎるたび、ブレントの胸は強く締めつけられた。

やがて、廊下の先に基地司令部の入口が見えてきた。

厚い扉の脇には、面会者を確認するための受付が設けられていた。

入口の周辺には警備のための設備が整えられ、壁際には基地司令部への立ち入りに関する規則が掲示されている。

軍の作戦や人事、機密情報を扱う施設である以上、出入りには厳格な管理が必要だった。

ブレントも、そのことは十分に理解していた。

彼はこれまで何度も基地司令部を訪れている。

作戦の打ち合わせや戦闘報告、部隊の配置に関する協議など、管制官として司令部と関わる機会は少なくなかった。

面会の手続きも、警備兵の役割も、誰よりもよく知っているつもりだった。

しかし、今の彼には、その手続きを踏んでいる余裕がなかった。

ブレントは歩調を緩めることなく、受付へ向かった。

扉の前まで辿り着き、そのまま奥へ進もうとしたところで、受付に座っていた事務員が異変に気づいた。

書類に目を落としていた彼女は、足音が近づいてくるのを聞いて顔を上げた。

そして、勢いよく近づいてくるブレントの姿を認めると、慌てて椅子から立ち上がった。

「少佐殿、お待ちください!」

事務員が受付から出て、彼の前へ回り込む。

「司令官への面会でしたら、事前の許可が必要です。現在、面会の予定は確認できておりません」

規則に則った、ごく当然の対応だった。

基地司令部は、誰もが自由に出入りできる場所ではない。

軍の作戦や人事、機密情報を扱う以上、階級の高い軍人であっても、面会には所定の手続きが必要になる。無断で立ち入ることは、情報管理の観点からも許される行為ではなかった。

ブレントも、それを知らないわけではなかった。

むしろ、彼はそうした規則を守ることの重要性を理解している側の人間だった。

必要な手続きを省略することが、どれほど大きな問題につながるかを知っている。

だからこそ、普段の彼ならば、事務員の説明を聞き、面会の申請を済ませ、許可が下りるまで待っていたはずだった。

だが、彼は足を止めなかった。

「すまない、緊急の連絡なんだ」

事務員の横を通り抜けようとする。

「えっ、少佐殿?お待ちください!」

「司令官に直接話さなければならないことがある。急いでいるんだ」

「ですが、面会の許可が下りていません!」

「あとで手続きをする。今は通してくれ」

ブレントは、できる限り抑えた声で告げた。

しかし、その声音には有無を言わせない切迫感があった。

事務員は一瞬、どう対応すべきか迷ったようだった。

彼女も、ブレントが普段から規則を軽んじるような人物ではないことを知っていたのだろう。

少佐という階級に相応しい責任感を持ち、部下や同僚からの信頼も厚い彼が、これほど強引に司令部へ入ろうとする姿は、明らかに普段とは違っていた。

それだけに、今の彼の態度は異様だった。

「で、ですが……」

「頼む、今すぐなんだ」

ブレントはそう告げて、再び歩き出そうとした。

彼の表情には、焦燥がはっきりと表れていた。

怒っているというよりも、何かを恐れているような顔だった。

今ここで司令官に会えなければ、取り返しのつかない事態を防ぐ機会を失ってしまう。

そんな思いが、彼を突き動かしているように見えた。

「ちょ、ちょっと待ってください!警備員!!」

事務員が声を上げた。

その声を聞きつけた警備兵が、廊下の奥から駆けてくる。

規則に従って入口を守る彼らにとって、無許可で司令官室へ向かおうとする軍人を止めることは当然の任務だった。

足音が近づき、二人の警備兵がブレントの進路を塞ぐように立った。

「少佐殿、お止まりください」

一人が敬礼をしながら告げた。

もう一人も、彼の様子を警戒するように身構えている。

ブレントは、苛立ちを押し殺しながら二人を見た。

「どいてくれ」

「申し訳ありません。司令官への面会には、許可が必要です」

「そんなことは分かっている!」

思わず声が大きくなった。

廊下に鋭い声が響き渡り、受付の事務員がびくりと肩を震わせた。

近くを歩いていた軍人たちも、何事かと足を止める。

書類を抱えていた事務員が動きを止め、通路の向こうからやってきた兵士たちも、騒ぎの中心へ視線を向けていた。

ブレントは、自分の声が周囲に響いたことに気づいていた。

それでも、怒りを抑えることはできなかった。

「だが、今はそんなものを待っている時間がない!」

彼は警備兵を真正面から見据えた。

声には、普段の彼からは想像もできないほどの激しさがあった。

長年、空中管制官として戦場を見続けてきた男。

危機的な状況に置かれても、冷静に状況を分析し、適切な指示を出すことを求められてきた男。

無線越しに聞こえる悲鳴や、撃墜された機体の報告に心を揺さぶられながらも、声を荒らげることなく任務を遂行してきた男。

そのブレントが、今は明らかに冷静さを失っていた。

警備兵の一人が、思わず息を呑んだ。

しかし、彼らも任務を放棄するわけにはいかない。

司令官室への無断侵入を認めれば、警備上の責任を問われることになる。

相手が少佐であろうと、戦闘で大きな功績を挙げた軍人であろうと、定められた手続きを無視することはできなかった。

「少佐殿、どうか落ち着いてください。こちらも規則に従わなければなりません」

「落ち着いていられるか!」

ブレントの怒鳴り声が、再び廊下に響いた。

周囲にいた事務員たちが、揃って肩を震わせる。

普段の彼を知る者ほど、その異様な剣幕に言葉を失っていた。

ブレントは、部下や同僚に対して気さくな男だった。

冗談を口にし、時には食べ物の話で場を和ませ、厳しい任務の最中でも周囲が張り詰めすぎないよう気を配っていた。

疲れた顔をした若い管制官を見つければ、軽口を叩きながら休憩を促し、緊張しているパイロットには、通信越しにいつもの調子で声をかけることもあった。

もちろん、軍人として譲れない一線は持っている。

任務に対しては真剣であり、必要なときには厳しい判断も下す。

危険な状況にあるパイロットを救うためならば、規則の範囲内でできる限りの手段を尽くす。

その姿勢は、彼と共に働いてきた者たちなら誰もが知っていた。

だが、これほど感情を露わにして怒鳴り散らす姿など、誰も見たことがなかった。

「退け!!」

ブレントが一歩踏み出した。

警備兵は反射的に身構えたが、道を空けようとはしなかった。

「少佐殿、これ以上はお通しできません」

「俺が誰だか分かっているだろ!」

「承知しております。ですが、規則です」

「規則、規則、規則……!」

ブレントは吐き捨てるように繰り返した。

「そんなことは重々承知している!俺だって、こんな真似をしたいわけじゃない!」

握り締めた拳に、力がこもる。

彼自身、今の行動が軍人として褒められたものではないことは理解していた。

司令官への面会許可を得ずに押し通ろうとすることも、警備兵の制止を無視することも、後から問題にされる可能性がある。普段の自分なら、絶対に選ばない行動だった。

それでも、今だけは譲るわけにはいかなかった。

「だが、今はそれより重要なことがあるんだ!」

警備兵の表情がわずかに変わった。

彼の言葉に、ただの無茶な要求ではない何かが含まれていることを感じ取ったのかもしれない。

ブレントの目には、単なる怒りだけでは説明できないほどの切迫感が浮かんでいた。

何か重大な問題を知っているのか。それとも、司令官に伝えなければならない緊急の報告があるのか。

警備兵たちにも判断はつかなかった。

それでも、彼らの立場では簡単に通すことはできなかった。

「ですが、少佐殿……」

「退け!!」

ブレントは、ついに声を張り上げた。

その剣幕に、警備兵が一瞬たじろぐ。

しかし、彼らはなおも進路を塞ごうとした。

「お待ちください。無許可で司令官室へ入れば、処分の対象になります。場合によっては軍法会議に――」

「そんなことは重々承知の上だ!!」

ブレントの声が、廊下全体に響き渡った。

彼は一歩、警備兵との距離を詰めた。

その目は、冗談を言っている者のものではなかった。

怒りと焦燥、そして、何かを失うことへの恐怖が入り混じった、真剣そのものの眼差しだった。

「俺のことを軍法会議にかけようが、降格しようが、好きにすればいい!」

警備兵の目を真正面から見据え、ブレントは言い切った。

「後でどんな処分を受けようと構わない!今はそれより重要なことがあるんだ!」

彼の脳裏には、先ほどの戦闘が繰り返し浮かんでいた。

敵機を次々と撃墜し、圧倒的な戦果を挙げた漆黒の戦闘機。

その機体が敵編隊のなかを駆け抜け、次々と赤い光点を消していく光景は、今も鮮明に記憶に残っていた。敵機の動きを先読みするかのような機動。

攻撃を仕掛ける暇さえ与えない圧倒的な速度。

通常の戦闘機同士の交戦という枠組みでは説明しきれないほど、一方的な戦闘だった。

その操縦席にいた若いパイロット。

カイ。

ブレントが問題にしているのは、五十機以上の敵を一人で撃墜したという事実ではなかった。

そんな戦果だけなら、驚きこそすれ、ここまで取り乱すことはなかっただろう。

長年、空を戦場として生きてきた彼にとって、卓越した技量を持つエースパイロットの存在は決して珍しいものではなかった。

通常の基準から外れた才能を持つ者も、常識では考えられない戦果を挙げる者も、戦争の歴史には確かに存在している。

だが、ブレントが目の当たりにしたものは、それだけでは説明できなかった。

味方が包囲された瞬間、カイは一切の躊躇なく進路を変えた。

敵機が数十機も存在する空域へ、一機で突入していった。

管制官である自分が、危険を伝え、何度も止めようとしたにもかかわらず、彼は一度として返事をしなかった。

それは、通信が届かなかったというだけではない。

ブレントには、カイがこちらの呼びかけを認識していた可能性が十分にあるように思えた。

少なくとも、敵の配置や周囲の状況をあれほど正確に把握できるパイロットが、管制からの警告だけを聞き逃していたとは考えにくかった。

それなのに、カイは止まらなかった。

まるで、ブレントの言葉など必要ないとでもいうように。

その行動が、どうしても頭から離れなかった。

あのとき、カイは何を考えていたのか。

自分が撃墜される可能性を、どれほど真剣に考えていたのか。

それとも、最初から自分がどうなるかなど、考えていなかったのか。

ブレントには分からなかった。

カイがどれほど優れたパイロットであろうと、命を危険にさらすことに慣れていようと、彼もまた一人の人間であることに変わりはない。

どれほど強力な戦闘機に乗っていようと、敵の攻撃を完全に防げるわけではない。

機体の性能にも限界があり、操縦技術だけではどうにもならない状況も存在する。

それを知っているからこそ、ブレントはカイの行動を見過ごすことができなかった。

だからこそ、確かめなければならなかった。

今のままでは、何も知らないまま、また同じ光景を見送ることになる。

それだけは、どうしても避けたかった。

「ですが――」

警備兵が、なおも言葉を続けようとした。

「退け!!」

ブレントは、返事を待たなかった。

警備兵の肩を押し退けるようにして、強引に前へ進んだ。

「うわっ……!」

不意を突かれた警備兵が体勢を崩し、壁に手をついて踏みとどまる。

もう一人が慌ててブレントを止めようとしたが、彼はその脇をすり抜けた。

普段ならば、相手が職務を全うしようとしていることを理解し、ここまで強引な手段に出ることはなかっただろう。

しかし、今はもう、立ち止まることができなかった。

「少佐殿!お待ちください!」

「止まってください!」

背後から制止の声が飛んでくる。

受付の事務員も、何かを叫んでいた。

周囲にいた軍人たちが、騒ぎを聞きつけて足を止める。何人かは状況を確かめるように視線を交わし、別の者は警備兵のもとへ近づこうとしていた。

司令部の入口で少佐が警備兵を押し退けて進むという光景は、基地の日常からはあまりにもかけ離れていた。

それでも、ブレントは振り返らなかった。

今さら引き返すつもりなどなかった。

ここまで来て、何も聞かずに戻ることなどできない。

彼は司令官室の扉へ向かって歩き出した。

足音が廊下に響く。

一歩進むごとに、胸の奥で膨らんでいた焦燥が、別の感情へと変わっていく。

怒りではない。

警備兵への不満でもない。

自分自身への苛立ちだった。

なぜ、あのとき何もできなかったのか。

なぜ、あれほど強く呼びかけても、カイを止められなかったのか。

そして、なぜあの漆黒の機体を見た瞬間、過去の記憶が蘇ってしまったのか。

答えを求めても、何も分からなかった。

ただ、目の前の光景が、あまりにも過去に似ていた。

助けを求める味方。

危険を承知で救援に向かうパイロット。

そして、無線越しに何度も制止を呼びかける自分。

それらの光景が重なり合うたびに、ブレントの心には、長い年月を経ても消えることのない記憶が蘇っていた。

かつての親友を失ったあの日と、何が違うというのだろう。

もちろん、カイは生きて帰ってきた。

敵を撃墜し、味方を救い、何事もなかったかのように帰投を報告した。

戦闘の結果だけを見れば、誰もが彼を称賛するだろう。あの戦場にいた帝国軍の兵士たちにとって、カイは絶望的な状況を覆してくれた英雄だった。

敵の大群を退け、包囲された味方を救い、戦場に希望をもたらした存在だった。

だが、今日無事だったからといって、明日も同じとは限らない。

戦場は、いつもそうだった。

一度の勝利が、次の生還を保証してくれるわけではない。

どれほど優れたパイロットであろうと、ほんの一瞬の判断の遅れや、予測できない状況によって、すべてを失うことがある。

機体の故障、敵の奇襲、通信の途絶、予測外の気象変化。

どれほど慎重に準備を整え、どれほど優れた技量を持っていたとしても、戦場には人間の力だけでは制御できない要素が必ず存在する。

そして、ブレントは、その現実を誰よりもよく知っていた。

彼は何度も、帰投するはずだった機体が帰ってこないという報告を聞いてきた。

出撃前には冗談を交わしていたパイロットが、数時間後には戦死者の名簿に記されることもあった。

通信回線を通して聞こえていた声が、ある瞬間を境に途絶え、二度と戻ってこなくなることもあった。

戦場では、それが珍しいことではなかった。

だからこそ、ブレントは一人でも多くのパイロットを生きて帰すために、管制官としての任務を続けてきた。

無理な交戦を避けるよう警告し、危険な空域から離脱するよう指示し、必要であれば味方の配置を変更してでも帰投の道を確保する。それが、彼にできることだった。

だが、カイは、その声を聞かなかった。

少なくとも、あの瞬間には、聞き入れなかった。

そしてブレントには、その理由が分からなかった。

彼が命を惜しまないのか。

それとも、誰かを救うことを、自分自身の安全よりも優先しているのか。

あるいは、その両方なのか。

どれも、確かな答えにはならなかった。

「……クソッ」

低い声が、喉の奥から漏れた。

司令官室の扉は、目の前にあった。

厚い扉の向こうに、基地司令がいる。

今の彼に必要なのは、規則の説明でも、事務的な報告でもなかった。

カイについて、直接確認しなければならないことがある。

あの機体は何なのか。

あのパイロットは、いったい何を考えているのか。

そして、なぜ自分は、あの男の姿にこれほど強く心を揺さぶられるのか。

疑問は、どれだけ考えても消えることはなかった。

むしろ、考えるほどに、何か重大なことを見落としているような感覚が強くなっていた。

カイの卓越した技量だけでは説明できないものがある。

あの機体の異様な性能だけでは説明できないものがある。そして何より、カイという青年自身について、自分はほとんど何も知らないのだという事実が、ブレントの胸に重くのしかかっていた。

彼は、これから何を聞くことになるのか分からなかった。

司令官がすべてを知っているとも限らない。

自分の疑問に答えられるだけの情報を持っているのかどうかも分からない。

それでも、尋ねずにはいられなかった。

ブレントは扉の前で立ち止まった。

握り締めた拳に、さらに力がこもる。

背後では、警備兵たちが追いつこうとする足音が聞こえていた。

誰かが彼の名を呼んでいる。制止する声も、状況を確認しようとする声も聞こえたが、今の彼には、それらすべてが遠く感じられた。

目の前の扉だけを見据え、息を一度、深く吸い込む。

扉の向こうには、答えがあるのだろうか。

それとも、さらに多くの疑問が待っているのだろうか。

そんな考えが一瞬だけ脳裏をよぎった。

しかし、もう迷いはなかった。

たとえ自分が知りたくなかった事実を突きつけられたとしても、たとえその結果、これまで信じてきたものが揺らいだとしても、今のまま何も知らずにいることだけはできなかった。

カイという青年が、何者なのか。

彼が何を背負い、何を考え、どこへ向かおうとしているのか。

そして、あの漆黒の翼が、これからどのような戦場を飛ぶことになるのか。

それを知らなければ、ブレントは再び管制席に座ることさえできないような気がしていた。

そして――。

ブレントは、司令官室の扉を強く叩いた。

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