英雄の背中、その先に
敵編隊の先頭を飛んでいた戦闘機のパイロットは、正面から接近してくる漆黒の機影を捉えた瞬間、反射的に操縦桿を引いた。
機体が大きく揺れ、視界の中で地平線が傾く。
通常であれば、敵機が正面から接近してくる場合、互いの距離が縮まる前に射撃位置を確保し、先手を取るのが定石だった。
しかし、眼前の機体は、その定石を成立させるために必要な時間さえ与えてくれなかった。
照準器の中へ捉えようとした瞬間には、もう遅い。
漆黒の戦闘機は、敵の射線が重なる寸前にわずかに機首を傾け、放たれた機関砲弾の軌道を紙一重でかわしていた。
次の瞬間、黒い機体が視界を横切った。
『なっ……!?』
パイロットが声を上げるよりも早く、機関砲の発射音が通信回線の向こうまで響いた。
敵機の進路を正確に捉えた機関砲弾が、機体の戦闘能力を奪っていく。
一機目の赤い光点が、レーダー上から消失した。
カイは、その結果を確かめるために振り返ることさえしなかった。
すでに次の敵機が、正面から迫っていたからだ。
操縦桿をわずかに押し込み、機体の姿勢を変える。
敵の照準が重なる直前に機体を滑らせ、そのまま相手の死角へと潜り込む。
敵機のパイロットが反応したときには、漆黒の機体はすでに射撃位置を確保していた。
再び機関砲が火を噴く。
二機目。
続いて、別の敵機が照準器の中央へ入ってきた。
カイは速度を落とさなかった。
敵の進路、機体の姿勢、回避を開始するタイミング。
そのすべてを瞬時に見極め、必要最小限の操作だけで機体を動かしていく。
漆黒の戦闘機は、敵編隊の隙間を縫うようにして突き進んだ。
黒い翼が敵機の脇をすり抜けるたび、その後方で新たな赤い光点が消えていく。
敵はまだ理解できていなかった。
自分たちが何と交戦しているのか。
なぜ、数の優位を持っているはずの自分たちが、次々と撃墜されているのか。
なぜ、目の前の一機を捕捉することさえできないのか。
『なんだ、あの機体は!?』
『速すぎる!迎撃できない!』
『正面から来ているぞ!撃て、撃て!』
敵編隊の通信回線に、焦燥を帯びた声が飛び交った。
各機がそれぞれの判断で射撃を開始する。
無数の機関砲弾が漆黒の機体へ向けて放たれ、周囲の空間を切り裂いていった。
だが、カイはその射線が形成されるよりも早く、機体の位置を変えていた。
大きく回避する必要はなかった。
ほんのわずかな機首の変化。
操縦桿に伝える、ごく小さな入力。
それだけで、敵の攻撃は黒い機体を捉えられず、虚空へと流れていく。
敵の攻撃を避けながら、カイは次の射撃位置を確保していた。
回避と攻撃が、別々の動作として存在しているわけではない。
敵の攻撃をかわす動きそのものが、次の敵を撃墜するための動きへと繋がっていた。
その一連の操作には、目立った無駄がなかった。
回避した先に敵がいる。
敵をかわした先に、次の射撃位置がある。
敵機を撃墜した瞬間には、すでに次の目標へ向けて機体が動き始めている。
まるで、敵がこれからどのように動くのかを、あらかじめ知っているかのようだった。
『囲め!絶対に逃がすな!』
敵の指揮官が、声を張り上げた。
『全機、敵を包囲しろ!ヤツは単機だ、数で押し潰せ!』
命令を受けた敵機が、一斉に進路を変えた。
それまでフェアリー1の包囲に参加していた機体までもが、漆黒の戦闘機へと向きを変えていく。
敵の注意が、急速にカイへと集中していた。
それは、彼らにとって当然の判断だった。
放置すれば、自分たちの編隊はさらに削られる。
このまま一機に好き勝手をさせるわけにはいかない。
どれほど優れた戦闘機であろうと、敵の攻撃をすべて避け続けることはできない。
ならば、数を集めて逃げ場を奪えばいい。
敵はそう考えたのだろう。
だが、その動きこそが、カイの望んでいたものだった。
漆黒の機体が、突然、鋭い旋回を開始した。
機体の姿勢が一瞬で変わり、迫り来る敵機の間を縫うようにして進路を切り替える。
敵が包囲を完成させるよりも早く、カイはその内側へと入り込んでいた。
正面に立ちはだかった敵機が、慌てて機首を向ける。
しかし、照準が定まる前に、黒い機体がその視界を横切った。
短い機関砲の射撃。
敵機の光点が消失する。
カイはそのまま旋回を続け、別の敵機の進路を塞ぐ位置へと滑り込んだ。
敵は互いの位置を確認する余裕さえ失っていた。
味方を追い越そうとする機体。
回避しようとして進路を変える機体。
漆黒の戦闘機を追いかけようと、急旋回を開始する機体。
それぞれの判断が重なり合い、編隊の連携が崩れていく。
敵機の数は依然として多かった。
だが、数が多いことと、そのすべてが有効に戦えることは同じではない。
互いの位置関係が乱れれば、射線が重なり、味方への誤射を警戒しなければならなくなる。
回避する機体が進路を塞げば、後続の機体は攻撃の機会を失う。
指揮官が命令を発しても、その命令が全機へ伝わり、実際の行動へ反映されるまでには時間が必要だった。
そして、そのわずかな時間を、カイは決して無駄にしなかった。
ほんの一瞬だけ、敵編隊の中央に穴が開いた。
複数の敵機が同時に進路を変えたことで、包囲網の一角が崩れたのだ。
その隙間は、ほんのわずかなものだった。
通常の編隊であれば、そこへ機体をねじ込むことは難しいだろう。
だが、カイは迷わなかった。
操縦桿を操作し、漆黒の機体をその隙間へと滑り込ませる。
敵が包囲を立て直そうとしたときには、もう遅かった。
黒い翼が敵機の間を突き抜ける。
その直後、敵の包囲網が内側から切り裂かれていった。
レーダー上で、フェアリーを取り囲んでいた赤い光点の一部が、次々と消えていく。
敵の配置に生じた乱れは、包囲網そのものを崩すきっかけとなった。
それまで逃げ道を塞いでいた敵機が散開し、フェアリーの周囲にわずかな空間が生まれる。
ブレントは、その変化を見逃さなかった。
「……道を作った」
思わず、声が漏れた。
戦術マップを見つめる彼の目が、わずかに見開かれる。
カイは、ただ敵機を撃墜しているだけではなかった。
敵の注意を自分へ引きつけ、その動きを乱し、包囲網に生じた隙間を強引に広げていた。
そして、その隙間の先には、救援を待つフェアリーがいる。
カイは敵編隊を突破し、そのまま味方のもとへ向かっていた。
「まさか、最初から……」
ブレントは言いかけて、口を閉じた。
カイがどこまで先を読んでいたのか、彼には分からない。
ただ一つ確かなのは、カイの進路が、救援を求める味方へ向けられているということだった。
そして、その進路を塞いでいた敵機の配置が、今まさに崩れ始めている。
戦術マップの上では、ほんのわずかな変化に見えるかもしれない。
しかし、包囲されている側にとって、それは生死を分けるほど大きな変化だった。
『こちらフェアリー1!』
通信回線に、驚愕した声が飛び込んできた。
『敵編隊の中に穴が開いたぞ!』
その声には、先ほどまでの絶望とは異なる響きがあった。
信じられないものを目にした者の戸惑い。
それでも、目の前に生まれた可能性を逃すまいとする焦り。
その両方が混じっていた。
『何が起きてる!?敵が急に散開したぞ!』
『わからない!だが今なら抜けられる!』
『全機、状況を確認しろ!この隙を逃すな!』
フェアリーの各機が、次々と反応を返した。
彼らは、何が起きたのかを完全には理解していなかった。
つい先ほどまで、自分たちは敵に包囲されていた。
弾薬は尽きかけ、周囲には敵機がひしめき、突破できる見込みなどほとんどなかった。
それが突然、敵の包囲網に穴が開いた。
何十機もの敵が一斉に進路を乱し、互いの連携を失っている。
その中心を、一機の漆黒の戦闘機が駆け抜けていた。
フェアリー1のパイロットが、その機影を見つめた。
遠目にも分かる、異様なまでに大きな機体。
光を吸い込む黒曜石ような漆黒の機体表面。
敵機の間を縫うようにして進みながら、次々と相手を撃墜していく姿。
彼は、その機体の特徴に心当たりがあった。
『……レイヴン1?』
呟くような声が、通信回線に流れた。
そのコールサインを耳にした別のパイロットが、息を呑む。
そして、彼は確信を込めて叫んだ。
『黒翼だ!』
一瞬、フェアリーの通信回線が静まり返った。
誰もが、その言葉の意味を理解していた。
戦場で噂になっている黒い戦闘機。
圧倒的な敵の数を前にしても退かず、味方の危機に現れては戦況を覆すという、あのパイロット。
黒翼の英雄。
その名を口にする者たちは、決して少なくなかった。
だが、噂として聞くことと、実際にその機体が自分たちを救いに来ることは、まったく別の話だった。
彼らは今、目の前でそれを見ていた。
包囲網を切り裂き、自分たちのために敵機の群れへ突入してきた漆黒の戦闘機を。
ほんのわずかな沈黙のあと、通信回線に歓声が弾けた。
『黒翼の英雄が助けに来たぞ!』
その声を合図にしたかのように、フェアリーの各機が一斉に機首を上げた。
まだ敵機は残っている。
損傷した機体もある。
弾薬の不足も解消されたわけではない。
それでも、彼らには今、進むべき方向が見えていた。
目の前に生まれた活路。
その先に広がる、敵の包囲網の外側。
そして、敵の注意を引きつけながら戦い続ける一機の漆黒。
『全機、突破するぞ!レイヴン1が作った道を抜けろ!』
『了解!』
『ついてこい!ここで終わってたまるか!』
『全機、隊形を維持しろ!遅れるな!』
フェアリーの機体が、次々とその隙間へ向かっていく。
先頭の機体が包囲網の境界を越え、続く機体がその後ろを追った。
最後尾の機体も、味方との距離を保ちながら必死に機首を上げる。
つい先ほどまで、彼らは生還を諦めかけていた。
救援が来る保証などなかった。
このまま戦い続ければ、いずれ誰かが撃墜され、残された者たちも次々と追い詰められていくだろう。
そんな未来しか見えなかった空に、今は確かな道が生まれていた。
一機の戦闘機が切り開いた、わずかな突破口。
それは、彼らにとって何よりも大きな希望だった。
そして、その希望を守るように、漆黒の機体は敵編隊の中央へと再び滑り込んでいった。
カイは、フェアリーの全機が突破を開始したことを確認していた。
だが、通信で励ますことも、脱出を促す言葉をかけることもなかった。
彼にとって必要なのは、言葉ではなかった。
味方が脱出するまで、敵を引きつけ突破口を塞ごうとする敵を排除する。
そして、逃げ道を失った味方が再び包囲されることのないよう、敵の動きを抑え続ける。
それだけだった。
漆黒の機体が旋回する。
その機首が向いた先に、フェアリーの突破を阻止しようとする敵機がいた。
カイは照準を合わせ、短く機関砲を撃った。
敵機が戦闘空域から消える。
続いて、別の敵機がフェアリーの進路へ向かおうとした。
その動きも、カイは見逃さなかった。
機体を滑らせ、敵機の側面へ回り込む。
敵が照準を合わせるよりも早く、黒い機体がその進路を横切った。
再び赤い光点が消失する。
敵は、もはや自分たちが何を優先すべきなのか判断できなくなっていた。
フェアリーを追撃すれば、漆黒の戦闘機に背後を取られる。
黒翼を迎撃しようとすれば、包囲網を突破する帝国軍機を取り逃がす。
編隊を再編しようにも、その前に黒い機体が現れて隊形を崩していく。
彼らが選択肢を考えている間にも、戦況は刻一刻と悪化していた。
そして、カイは一切の言葉を発さなかった。
ただ淡々と、必要な敵を排除していく。
フェアリーの最後尾が包囲網を抜けたとき、戦術マップ上の青い光点は、すでに敵編隊の中央深くへ入り込んでいた。
ブレントは、その光景を凝視していた。
カイが敵を引きつけている。
フェアリーが戦闘空域を突破した。
その事実は、戦術マップの情報だけでも十分に読み取れた。
だが、彼の目を引きつけていたのは、救援に成功したという結果だけではなかった。
カイの戦い方そのものだった。
敵を引きつけ、包囲網を崩し、味方の脱出を可能にする。
そのために、彼は自ら最も危険な位置へ飛び込んでいる。
敵の注意を引き受けることに、躊躇がない。
味方を救うためなら、自分が敵の集中攻撃を受ける可能性さえ受け入れているように見えた。
その姿が、ブレントの記憶に残る男と重なった。
かつて、彼も同じことをしていた。
味方が追い詰められれば、どれほど危険な状況でも救援に向かった。
自分の機体が損傷していても、残された弾薬が少なくても、誰かが助けを求めている限り、空へと向かっていった。
ブレントは、何度もその背中を見送った。
何度も無線で警告し、何度も帰還するよう呼びかけた。
そして、何度も彼の帰還を確認してきた。
だが、いつまでも続くものなどなかった。
ある日、その男は最後の出撃へ向かった。
そして、ブレントが管制席から聞いた最後の記憶は、今も胸の奥に残っている。
その日の詳細を思い出すまいとするように、ブレントは一度だけ強く目を閉じた。
今は、目の前の戦闘に集中しなければならない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、戦術マップ上で敵の光点が減っていくたび、記憶は再び顔を出した。
カイは、まだ戦っていた。
フェアリーが脱出したあとも、敵編隊の中で機体を動かし続けている。
救援対象が安全圏へ抜けたからといって、戦闘が終わったわけではない。
敵機はまだ残っている。
しかも、先ほどまでフェアリー1を包囲していた敵機の多くが、今ではカイへと向きを変えていた。
数十機の敵が、一機の漆黒を取り囲もうとしている。
それでも、カイの動きは変わらなかった。
敵機が散開する。
その先には、すでに漆黒の機体がいた。
反転すれば、機関砲の射線が伸びてくる。
上昇すれば、黒い機体がその動きを追い、下降すれば、上空から進路を塞ぐように迫ってくる。
敵機は逃げようとするたびに、次の行動を制限されていった。
まるで空そのものが、彼らの逃げ道を奪っていくかのようだった。
『こいつ……!何なんだ、こいつは!』
『来るな!こっちに来るな!』
『誰か援護してくれ!後ろを取られている!』
敵の通信回線は、恐怖と混乱に満たされていた。
先ほどまで優勢だったはずの航空隊。
数の上では圧倒的な優位を保ち、帝国軍の一小隊を包囲していたはずの部隊。
その彼らが今、たった一機の敵戦闘機に翻弄されていた。
指揮官の命令は、もはや編隊全体を動かす力を失っていた。
各機が生き残るために回避し、味方との距離を取り、迫り来る漆黒の機体から逃れようとしている。
だが、カイはその動きを許さなかった。
一機が散開すれば、その進路を塞ぐ。
一機が反転すれば、照準を合わせる。
別の機体が上昇を開始すれば、機体の姿勢を変えて追いすがる。
敵の行動を封じるように、次々と射撃位置を確保していく。
そのたびに、戦術マップから赤い光点が消えていった。
一機また一機と。
敵編隊の数は、もはや目に見えて減少していた。
フェアリーが脱出したことで、カイを縛る必要はなくなった。
彼は味方の救出を優先するために敵の包囲網へ突入し、突破口を作った。
そして今、その役目を終えた漆黒の機体は、残された敵を一つずつ排除していた。
そこに怒りを示すような動きはなかった。
勝利を誇示するような派手な機動もなかった。
ただ、目の前の敵を排除し、次の敵へ向かう。
その繰り返しだった。
敵がどれほど叫ぼうと。
どれほど必死に逃げようと。
どれほど最後まで抗おうと。
戦闘空域に残された敵機は、次々とその戦闘能力を失っていった。
彼らにとって、漆黒の機体はもはや一機の戦闘機ではなかった。
何度逃げても、何度進路を変えても、必ず目の前に現れる黒い影。
抵抗しようとすれば、その動きの先を読んだかのように攻撃を仕掛けてくる存在。
どこへ向かっても逃げ道がない。
その恐怖が、敵編隊の連携をさらに崩していった。
そして、最後の一機が戦闘空域から消えた。
戦術マップ上で、全ての赤い光点が消失する。
それを最後に、カイの周囲から敵機を示す光点がなくなった。
静寂が訪れた。
先ほどまで数十機もの航空機が飛び交い、無数の通信と警報が重なっていた空域。
そこには、もう敵影が存在しなかった。
残されたのは、青い空と、その中に浮かぶ雲。
そして、その空を悠然と飛ぶ一機の漆黒だけだった。
ブレントは、管制画面を見つめたまま動けなかった。
敵機の表示が消えたことは理解できている。
カイが敵航空隊を排除し、フェアリーを救い出したことも、戦術情報から明らかだった。
それでも、目の前の結果を現実のものとして受け止めるには、あまりにも異常だった。
先ほどまで、敵の数は五十機を超えていた。
その敵航空隊が、今では戦闘空域から姿を消している。
しかも、カイは一度として救援を求めていない。
自分の危険を訴えることも、追加の支援を要求することもなかった。
ただ一機で敵の中へ飛び込み、包囲網を切り裂き、味方を救出し、そのまま敵航空隊を壊滅させたのだ。
「……全部、消えた」
ブレントは、呆然としたまま呟いた。
その声に答える者はいなかった。
隣の管制官も、別の席に座るオペレーターも、誰一人としてすぐには言葉を発せなかった。
全員が、戦術マップ上に表示された一つの青い光点を見つめていた。
その光点は、戦闘空域の中央で静かに進路を変えようとしていた。
まるで、つい先ほどまで五十機を超える敵航空隊と交戦していたことなど、最初から存在しなかったかのように。
やがて、通信回線に小さな声が届いた。
『……こちらフェアリー1』
先ほどまで悲鳴に近い救援要請を繰り返していたパイロットだった。
その声には、まだ戦闘の緊張が残っていた。
だが、先ほどまでの絶望は消えていた。
『レイヴン1へ』
一瞬の沈黙。
彼は、何を言うべきなのか分からないようだった。
命を救われたことへの感謝。
信じられない光景を目にした驚き。
そして、目の前に現れた漆黒の機体が、自分たちを助けるために敵の群れへ飛び込んできたという事実。
そのすべてが胸の中で入り混じっているのだろう。
やがて、通信回線の向こうから、震えた声が聞こえてきた。
『……すまない、助かった』
短い言葉だった。
それ以上、何を言えばいいのか分からなかったのかもしれない。
それでも、その一言には、彼らが今どれほどの安堵を感じているのかが滲んでいた。
カイからの返答はなかった。
感謝の言葉を求めることもなく、救出した味方へ何かを告げることもない。
ただ、必要な確認を終えると、淡々と通信を送った。
『こちらレイヴン1。敵機全機の撃墜を確認。状況オールグリーン。帰投する』
その声は、驚くほど平坦だった。
声を荒らげることもなく、勝利を誇る様子もない。
まるで、通常の哨戒任務を終えたパイロットが帰投を報告しているだけのような、何の変哲もない声音だった。
そこには、五十機を超える敵航空隊と交戦した痕跡さえ感じられなかった。
通信回線に、短い沈黙が流れた。
誰もが、その報告を聞いていた。
そして、次の瞬間。
戦場全体が爆発したかのような歓声が、通信回線を埋め尽くした。
『うおおおおおおお!!』
『やったぞ!!やりやがった!!』
『敵航空隊、全滅だ!!』
『黒翼の英雄殿がやってくれたぞ!!』
『レイヴン1、よくやった!!』
『ノルヴァイン帝国万歳!!』
各機から、次々と歓声が上がった。
先ほどまで恐怖に震えていたパイロットたち。
敵の数に押され、撤退すら覚悟していた帝国軍の航空隊。
そして、絶望的な状況の中で救援を求め続けていたフェアリーの隊員たち。
その誰もが、今は声を上げていた。
生きている。
自分たちは生き残った。
そして、目の前の戦場を覆っていた敵の大群は、もう存在しない。
その事実が、彼らの胸に押し寄せていた。
戦闘が始まったとき、誰もが厳しい戦いになることを覚悟していた。
敵は多く、味方は押されていた。
各所で交戦が続き、戦線の一部では後退を余儀なくされていた。
誰もが、いつか自分たちの番が来るのではないかという不安を抱えていた。
だが、そこへ一機の漆黒が現れた。
そして、その機体が敵を撃墜するたびに、戦況が変わっていった。
絶望しかなかった空に活路が生まれ、追い詰められていた味方が反撃に転じ、最後には敵航空隊そのものが姿を消した。
彼らにとって、それは単なる勝利ではなかった。
自分たちが生きて帰れるという、確かな実感だった。
歓声は止まらなかった。
管制機の中でも、管制官たちが次々と立ち上がっていた。
互いに肩を叩き合い、拳を握り、戦術マップを指さしながら声を上げている。
「撃墜数、確認!敵機の反応はありません!」
「敵航空隊、戦闘能力喪失!周辺空域の脅威は急速に低下しています!」
「レイヴン1が全部やったのか!?」
「信じられん……本当に一機で片づけたのか……!」
次々と報告が飛び交い、誰もが興奮を隠せずにいた。
先ほどまで緊張に満ちていた管制機内は、今や歓喜に包まれていた。
彼らもまた、目の前の戦闘がどれほど異常なものだったのかを理解していた。
数の上では圧倒的に不利な状況だった。
救援に向かったカイも、敵の集中攻撃を受ける可能性があった。
それでも、カイは敵の包囲網へ飛び込み、味方を救い、敵航空隊を壊滅させた。
しかも、そのすべてを終えた後の報告は、あまりにも淡々としていた。
まるで、これほどの戦果を挙げることが特別な出来事ではないとでも言うように。
管制官たちが歓声を上げるのも無理はなかった。
彼らにとって、カイは戦場に現れた希望そのものだった。
しかし、その歓声の中で、ただ一人だけ、声を上げない男がいた。
ブレントは管制席に座ったまま、何も言わなかった。
ヘッドセット越しに歓声が聞こえている。
隣では同僚たちが互いに喜びを分かち合い、戦術画面には敵機の反応が消えたことを示す情報が表示されていた。
フェアリーも生き残った。
帝国軍の戦線も、先ほどよりはるかに有利な状況へと変わっている。
喜ぶべき理由なら、いくらでもあった。
それなのに、ブレントの胸の中には、歓喜とは異なる感情が渦巻いていた。
彼の視線は、ゆっくりと帰投を開始した青い光点に向けられていた。
カイ。
その光点は、戦闘空域を離れ、基地の方向へと進んでいる。
その動きは、あまりにも静かだった。
先ほどまで敵の群れの中を駆け抜け、次々と敵機を撃墜していた機体とは思えないほど、落ち着いた軌跡だった。
ブレントは、ヘッドセットから聞こえる歓声を聞きながら、ゆっくりと拳を握った。
喜ぶべきなのだ。
帝国軍は救われた。
フェアリーも生き残った。
敵航空隊は全滅し、戦場には新たな活路が生まれた。
これほどの結果を前にして、管制官である自分が喜ばない理由などないはずだった。
むしろ、彼らと一緒に歓声を上げるべきだった。
今までの緊張を解き、仲間たちと勝利を喜び、無事に帰投するカイを迎えるべきだった。
だが、できなかった。
ブレントの脳裏には、先ほどまでの光景が鮮明に残っていた。
一機で敵の群れへ突っ込んでいった漆黒の機体。
仲間が助けを求めた瞬間、迷いなく進路を変えた姿。
どれほど呼びかけても止まらず、ただ一直線に味方のもとへ向かっていった機影。
そして、その背中に重なった、遠い昔の記憶。
かつての親友も、同じだった。
誰かが助けを求めれば、どれほど危険な空域であろうと向かっていった。
何度止めても、何度危険を伝えても、最後には自分の判断で空へ飛び込んでいった。
そのたびに、ブレントは無線越しに彼の声を聞いた。
何度も帰還を確認し、何度もその背中を見送った。
そして、いつしか、その声を聞くことはできなくなった。
ブレントは、奥歯を噛み締めた。
目の前にいるのは、別の人間だ。
カイは、かつての親友ではない。
彼はまだ若く、これから先も空を飛び続けるはずのパイロットだ。
今日の戦闘を生き延びた。
味方を救った。
敵航空隊を撃墜し、無事に帰投しようとしている。
それだけのことだ。
そう考えようとしても、胸の奥に沈んだ不安は消えなかった。
なぜ、あれほど迷いなく危険へ向かうのか。
なぜ、自分がどれほど危険な場所にいるのかを理解していながら、ためらう様子さえ見せないのか。
そして、なぜ自分は、あの機体を見ていると、かつて失った男のことを思い出してしまうのか。
答えは出なかった。
ブレントはただ、帰投していく青い光点を見つめ続けた。
「……またかよ」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
それは呆れたような響きを帯びていたが、その奥には隠しきれない苦さがあった。
彼は知っている。
戦場で英雄と呼ばれることが、必ずしも幸運を意味するわけではないことを。
誰かを救うために危険へ向かい続ける者が、いつか取り返しのつかない場所へ辿り着くこともある。
そして、その背中を見送る側にできることが、驚くほど少ないということも。
ブレントは、管制席の上で握った拳をゆっくりと開いた。
ヘッドセットからは、まだ歓声が聞こえている。
誰もがカイの戦果を称え、黒翼の英雄の名を叫んでいた。
その声は、戦場に残された恐怖を吹き飛ばすかのように、いつまでも響き続けていた。
だが、ブレントには、その歓声がどこか遠くに聞こえていた。
彼の目に映るのは、基地へ向かって静かに進む一つの青い光点だけだった。
やがて、その光点が戦術マップ上をゆっくりと移動していく。
帰投経路は安定している。
敵機の反応はない。
周辺空域にも、今のところ新たな脅威は確認されていなかった。
数値だけを見れば、すべては順調だった。
それでも、ブレントの胸の奥には、消えない予感が残っていた。
「……お前まで、同じ道を行くつもりか」
その言葉は、誰にも届かなかった。
通信回線の向こうで、カイが何を考えているのかは分からない。
彼がブレントの呼びかけを聞いていたのかどうかさえ、確かなことは言えなかった。
ただ、カイは静かに帰投していた。
戦場に歓声を残し、救われた者たちの感謝を背に受けながら、漆黒の機体は基地へ向かって飛び続けていた。
〜お願い〜
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