交点
次の日の朝、まだ東の地平線から太陽が姿を現すよりも早い時刻に、ミュールハルデ基地は静かな目覚めを迎えようとしていた。
東の空は地平線の向こう側から僅かに白み始めていたものの、頭上には夜の名残を残した濃紺の空が広がり、荒野に点在する施設や格納庫は、未だ深い影の中に沈んでいた。
日中には人間の体力を容赦なく奪い去る灼熱の大地も、この時間帯だけは別の顔を見せていた。
乾燥した大地を渡る風は生ぬるく、砂混じりの空気が頬を撫でるたびに、ブレントは襟元を僅かに引き寄せた。
ほんの数時間後には、再び焼けつくような陽射しがこの一帯を覆い尽くすことになるのだろう。
しかし、今はまだ、荒野も基地も、そしてそこに暮らす兵士たちも、束の間の静けさの中にあった。
広大な駐機場では、格納庫の照明だけが白々とした光を放ち、整備員たちの動きに合わせて長い影を地面へ落としていた。
薄暗い駐機場のあちこちでは、既に出発準備が進められていた。
燃料補給車がゆっくりと移動し、貨物を積んだ車両が輸送機の傍らへ停車するたびに、整備員たちの短い指示や金属の触れ合う音が、夜明け前の静寂を破っていた。
航空機の出発準備というものは、どこの基地でも大きく変わらない。
燃料の残量を確認し、積載する貨物の重量を計算し、固定器具の緩みがないかを確かめ、計器類や通信装置の状態を点検する。
どれほど辺境の基地であろうと、どれほど粗末な設備しか与えられていなかろうと、航空機を飛ばす以上、最低限守らなければならない手順は存在する。
それらを怠れば、敵に撃墜される以前に、自らの不注意によって空から帰れなくなる可能性すらあるからだ。
ブレントは肩に荷物を掛け、眠気の残る顔で輸送機へ向かっていた。
バッグは決して重いものではなかったが、ほとんど眠れなかった身体には、普段よりも僅かに負担が大きく感じられた。
歩くたびに肩へ掛かったベルトが制服を擦り、革靴の底が硬い駐機場の地面を規則的に叩いていく。
「……眠いな」
誰に聞かせるでもなく、ブレントは小さく呟いた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
妻との電話を終えたあとも、すぐに眠りへ落ちることはできず、机の上に広げた移動命令や管制関連の資料を何度も読み返していた。
読み返したところで、新しい情報が得られるわけではなかった。
そもそも、渡された資料そのものに必要な情報がほとんど記載されていなかったのだから、何度確認したところで結論が変わるはずもなかった。
それでも、何か見落としているのではないかという考えが頭から離れず、気がつけば時計の針だけが無情に進んでいた。
目を閉じれば、昨日の司令室で見た書類が浮かび上がる。
情報局からの命令。
機体を壊すなという不可解な指示。
そして、何を考えているのか分からない青年。
その情報は、あまりにも少なかった。
経歴も、過去の任務も、今回の試験機に関する詳細も、ブレントが本来知っておくべき情報の大半が伏せられていた。
最前線へ向かえという命令だけが、まるで冗談のように明確に記されていた。
通常であれば、管制官が新たなパイロットを担当することになった場合、事前に相手の飛行記録や操縦傾向、過去の戦闘経験などを確認する。
相手がどのような状況で判断を下すのか、どれほど危険な機動を好むのか、どの程度の損傷まで任務を継続しようとするのか。
そうした情報は、管制官がパイロットの命を預かるうえで欠かせないものだった。
空の上では、ほんの一瞬の判断の遅れが致命的な結果を招く。
パイロットが何を見ているのか、何を考えているのか。
どのような命令なら従い、どのような状況なら独自の判断を優先するのか。
それらを把握しているかどうかで、管制官が与えられる支援の質は大きく変わる。
だが、今回に限っては、その基本すら満足に整えられていなかった。
何も知らされていない人間に、何も知らない相手を任せる。
それでいて、相手が搭乗する機体だけは絶対に壊すなという。
冗談にしても笑えなかった。
「……上の連中は、いったい何を考えてやがる」
ブレントは欠伸を噛み殺しながら、頭の中で昨日のやり取りを繰り返した。
ブレントは首を軽く振り、無理やり思考を切り替えた。
今から考えたところで、何かが変わるわけではない。
移動先へ到着すれば、嫌でも何らかの説明があるはずだった。
そうでなければ、その時に考えればいい。
少なくとも、今の彼にできることは、指定された輸送機へ向かい、出発時刻に遅れないようにすることだけだった。
そのときだった。
視界の端に、周囲の景色とは明らかに異なるものが入り込んだ。
「……ん?」
ブレントは歩みを止めた。
最初は、何かの見間違いかと思った。
眠気の残る目を細め、駐機場の奥へ視線を向ける。
そこには、薄暗い格納庫があった。
大型の照明が天井から吊り下げられ、整備用の器材や工具箱が壁際に並べられている。
普段なら、特に気に留めるような場所ではなかった。
しかし、その奥に一機の航空機が、静かに佇んでいた。
漆黒の機体だった。
周囲の照明を受けているにもかかわらず、その表面は光をほとんど反射せず、まるで格納庫の暗闇そのものを切り取って形にしたかのように見えた。
機首から胴体へ続く滑らかな輪郭だけが、僅かな光を受けて浮かび上がっている。
主翼の付け根から後方へ伸びる機体の線は、既存の戦闘機に似ているようでいて、どこか根本的な部分が違っていた。
ブレントはしばらく黙って、その機体を見つめた。
「……」
見覚えがあるような気がした。
だが、記憶の中にあるどの航空機とも、完全には一致しなかった。
そのシルエットだけを見れば、F-15を思わせるものがある。
双発エンジンを備え、左右に大きく広がった主翼を持ち、胴体後部には二枚の垂直尾翼が立ち上がっている。
長く伸びた機首も、確かにF-15系列の面影を感じさせた。
しかし、そこでブレントの思考は止まった。
「……F-15?」
思わず口にした言葉を、自分自身ですぐに否定する。
違う。
これは、彼が知っているF-15ではない。
F-15EXを思わせる部分はあるものの、その輪郭は単なる改修型という言葉では説明できなかった。
何より、機体の大きさが異様だった。
遠近感の影響を考慮しても、通常のF-15より明らかに大きく見える。
主翼の広がりも、胴体の長さも、全体の存在感も、彼の知識にある同系列の機体から大きく逸脱していた。
遠目には、戦闘機というよりも、何らかの大型航空機を無理やり戦闘機の形へ押し込めたようにさえ感じられた。
だが、奇妙なのは、その大きさだけではなかった。
機体全体に、余計なものがほとんど見当たらなかった。
巨大な機体でありながら、輪郭は不自然なほど整理されている。
翼から胴体へ続く線にも、機首から後部へ流れる形状にも、必要以上の膨らみや突起が感じられない。
あらゆる部分が、最初から一つの目的のために設計されていたかのようだった。
そこにあるのは、単なる機械としての合理性だけではない。
巨大な構造物を成立させるために余計な部分を削ぎ落とし、残された形状だけで圧倒的な存在感を生み出しているような、異様な完成度だった。
ブレントは思わず足を止めたまま、機体を見上げていた。
「……なんだ、ありゃ?」
呟きは、生ぬるい朝の空気に吸い込まれていった。
彼は長年、軍用航空機とともに生きてきた。
管制官という立場上、戦闘機だけでなく、爆撃機や輸送機、偵察機、電子戦機など、数え切れないほどの航空機を見てきた。
実機を目にしたことがなくても、資料や映像を通して、その大半の特徴を把握しているつもりだった。
少なくとも、見たこともない航空機を前にして、ここまで判断に困った経験はほとんどなかった。
しかし、目の前の機体は違った。
どこかの既存機を発展させたものなのか。
それとも、完全に新しい設計思想によって生み出されたものなのか。
外見だけでは、判断できなかった。
昨日、司令室で見せられた資料を思い返してみる。
テストパイロット。
機体を壊すな。
機体の名称も、開発計画の詳細も、性能諸元も、ほとんど知らされていない。
あのときは、単に情報局が情報を隠しているのだと考えていた。
しかし、今になってようやく、その理由の一端が見えたような気がした。
これは、通常の部隊へ配備されるような航空機ではない。
少なくとも、彼がこれまで見てきた軍用機とは、扱いそのものが違う。
ブレントは僅かに眉をひそめた。
「……まさか、あれが」
言いかけて、口を閉じる。
断定するには、情報が足りなかった。
それでも、あの機体が昨日の青年と無関係であるとは思えなかった。
そして、その予想を裏付けるように格納庫の奥で、人影が動いた。
白み始めた空を背に、一人の青年が歩いている。
周囲の整備員たちが機材を運び、出発準備に追われている中で、その青年だけは妙に静かだった。
急ぐ様子もなく、誰かに指示を出すこともなく、ただ一定の歩調で機体へ近づいていく。
昨日、司令室で顔を合わせた男、カイだった。
「……」
ブレントは言葉を失った。
昨日も、あの青年には何か奇妙なものを感じていた。
若いパイロットであれば、珍しいことではない。
優秀な人間ほど自信に満ちていることもあれば、実力に見合わない傲慢さを持つ者もいる。
反対に、極端な緊張から表情を硬くしてしまう者もいる。
戦場へ送り出される直前であれば、なおさらだった。
だが、カイには、そのどれとも異なるものがあった。
自分がどのような場所へ送られようとしているのか。
どれほど危険な任務を命じられているのか。
それらを理解していないようには見えなかった。
それなのに、恐れている様子もなければ、命令に不満を抱いている様子もない。
まるで、これから起きることを最初から知っているかのような、妙に落ち着いた態度だった。
そして今、その青年が、漆黒の機体へ向かって歩いている。
その光景を目にした瞬間、ブレントの胸の奥で、説明のつかない感覚が急速に膨れ上がった。
背中を冷たいものが這い上がってくる。
指先が僅かに強張り、呼吸が一瞬だけ浅くなった。
心臓が、普段よりも強く一度脈打つ。
(……なんだ、この感じは)
ブレントは自分の身体に起きた変化を、すぐには理解できなかった。
ただ、何かがおかしい。
頭で考えるよりも先に、身体がそう判断していた。
危険だ。
近づくべきではない、あの機体にも、あの青年も。
今はまだ、自分の知識や経験で理解できるものではない。
そう告げる声が、胸の奥から聞こえてくるようだった。
ブレントは戦場を知っている。
敵機の接近を知らされたときの緊張も、レーダー上に予想外の反応が現れたときの焦りも、幾度となく経験してきた。
実際に撃墜の危険が迫ったとき、声の調子が変わるパイロットもいれば、普段以上に冷静になるパイロットもいる。
その変化を、ブレントは管制席から何度も見てきた。
だからこそ、自分の感覚を簡単に無視することはできなかった。
今、彼が感じているものは、敵機の接近に対する恐怖とは違っていた。
相手が強いから怖いのではない。
何をするのか分からないから怖いのでもない。
そもそも、何に対して恐怖を覚えているのかさえ、明確ではなかった。
ただ、目の前にある光景そのものが、彼の中にある何かを強く刺激していた。
青年が歩く、漆黒の機体が、格納庫の奥に佇んでいる。
その二つが近づいていくだけの光景だった。
それなのに、ブレントには、二つの存在が初めから一つのものだったかのように見えた。
まるで、あの機体がカイのために存在しているようだった。
あるいは、あの青年が、あの機体へ乗るためだけに生まれてきたかのようにさえ思えた。
馬鹿げている。
そんなことがあるはずもない。
航空機は人間が設計し、人間が製造し、人間が運用する機械にすぎない。
どれほど優れた性能を持っていようと、どれほど特別な設計思想を与えられていようと、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。
ましてや、機械と人間が初めから結びついているなど、まともな理屈では説明できない。
それでもブレントの感覚は、目の前の光景を単なる偶然として受け入れようとしなかった。
「……チッ」
彼は小さく舌打ちした。
(......気持ち悪ぃ)
自分の勘が外れてくれることを、これほど願った朝は久しぶりだった。
ブレントは意識的に視線を逸らした。
これ以上見ていたところで、何かが分かるわけではない。
それどころか、あの奇妙な感覚ばかりが強くなっていく。
今は余計なことを考えるべきではなかった。
まずは移動先へ向かい、任務の詳細を確認したそのうえで、必要な準備を整える。
それが自分の仕事だった。
ブレントは肩の荷物を持ち直し、指定された輸送機へ向かって歩き始めた。
駐機場の向こう側では、輸送機のエンジンが既に回り始めていた。
低い轟音が夜明け前の基地に響き渡り、機体の周囲では整備員たちが最後の確認作業を進めている。
四基のエンジンが生み出す振動は、少し離れた場所にいるブレントの足元にまで伝わってきた。
見慣れた機体だった。
決して最新鋭ではない。
華々しい戦果を挙げるために設計された航空機でもない。
だが、物資や人員を運び、戦場と後方を結び、必要な場所へ必要なものを届けるという役割において、これほど頼りになる機体もそう多くはなかった。
華やかさはなくとも、軍隊を支えるために欠かせない存在。
その点では、空中管制官という自分の仕事にも通じるものがある。
ブレントは、そんなことをぼんやりと考えながら歩いていた。
やがて輸送機のタラップが見えてくる。
搭乗する人員はブレント一人だけだった。
ブレントはタラップの前まで来ると、何気なく足を止めた。
そして、一度だけ振り返った。
格納庫の奥に、漆黒の機体が見えた。
その隣には、カイが立っている。
青年は既に機体の傍らへ到着しており、整備員たちの動きを静かに見つめていた。
その姿は、遠目にはひどく小さく見えた。
機体が大きすぎるのか。
それとも、周囲の景色があまりにも広大なのか。
理由は分からなかった。
ただ、漆黒の機体と、その傍らに立つ青年の組み合わせだけが、妙に強く目に焼きついた。
「……」
ブレントは何も言わなかった。
視線を切り、タラップを上がる。
機内へ入ると、外の冷たい空気とは違う、燃料や金属の匂いが混ざった独特の空気が鼻をついた。
貨物室には最低限の座席と荷物が並べられ、壁際には固定用の器具が整然と収められていた。
軍用輸送機らしい、実用性を最優先した簡素な内装だった。
ブレントは指定された席へ腰を下ろし、荷物を足元に置いた。
シートベルトを締め、背もたれに身体を預ける。
しばらくすると、機体の外から整備員の確認の声が聞こえてきた。
扉が閉じられ、貨物室の照明が僅かに揺れる。
やがて機体がゆっくりと動き始めた。
エンジン音が大きくなり、床から伝わる振動も徐々に強くなっていく。
輸送機は駐機場を離れ、誘導路を進み始めた。
窓の外では、薄暗い基地の景色が少しずつ後方へ流れていく。
格納庫の照明、燃料補給車に遠くに見える管制塔。
そして、朝の光を待つ荒野。
どれも、昨日までと何も変わらない景色だった。
しかし、ブレントにとっては違っていた。
昨日まで自分がいた場所は、もうすぐ背後へ消えていく。
そして、これから向かう先には、何が待っているのか分からない。
彼は窓の外を眺めながら、深く息を吐いた。
輸送機が滑走路へ進入する。
エンジンの出力が上がり、機体全体が大きく震えた。
重い機体が加速を始める。
滑走路の灯火が、窓の外を後方へ流れていく。
やがて、車輪が地面を離れた。
輸送機は、まだ朝日が昇りきらない空へと飛び立った。
機体が高度を上げるにつれて、基地の施設は次第に小さくなっていく。
格納庫も、駐機場も、管制塔も、やがて広大な荒野の中に埋もれるように見えなくなっていった。
ブレントは窓の外へ視線を向けたまま、しばらく黙っていた。
東の空が少しずつ明るくなっている。
地平線の向こう側から淡い光が広がり、濃紺だった空がゆっくりと青みを帯び始めていた。
雲の縁が白く輝き、その隙間から差し込む光が、荒野の起伏を浮かび上がらせていく。
やがて、雲の向こうから太陽が姿を現した。
朝日だった。
夜の間、暗闇に沈んでいた大地が、ゆっくりと光に包まれていく。
乾いた荒野も、遠くに連なる山並みも、朝の光を受けてその輪郭を取り戻していった。
ブレントはしばらく、その景色を眺めていた。
空は、どこまでも広い。
地上から見上げるときも、航空機の窓から眺めるときも、その印象は変わらない。
だが、彼にとって空は、ただ美しい景色を見せてくれる場所ではなかった。
そこには任務がある。
命令がある。
帰還を待つ人間がいて、時には、二度と帰ってこない者もいる。
それでも人は、今日も空へ上がる。
何かを守るために、命令を果たすために。
あるいは、ほかに行く場所がないから。
ブレントは窓の外に広がる朝の空を見つめながら、昨日の青年を思い出していた。
カイ。
あの漆黒の機体。
そして、説明のつかない悪寒。
考えれば考えるほど、頭の中に疑問ばかりが増えていく。
あの機体は何なのか。
なぜ、あれほど大きな機体を、あの青年に任せるのか。
なぜ情報局は、機体の保全だけを強調しているのか。
そして、なぜ自分が、その青年の管制官に選ばれたのか。
偶然だと考えるには、不可解な点が多すぎた。
だが、今の段階では、どの疑問にも答えを出すことはできなかった。
ブレントは小さく息を吐き、背もたれへ身体を預けた。
そのときだった。
腹の底から、妙に大きな音が鳴った。
「……」
ブレントは眉をひそめた。
もう一度、腹が鳴る。
どうやら、先ほどから空腹を感じていたらしい。
ただ、考え事に気を取られていたせいで、そのことをすっかり忘れていた。
「そういや、何も食ってなかったな」
自分の腹を軽く押さえながら、ブレントはぼやいた。
昨日、まともな夕食を食べた記憶がない。
家族との通信を終えたあとも、移動の準備や書類の確認に追われていた。
何か食べようと思えば食べられたはずだが、頭の中を占めていた問題が多すぎて、食事を取ることさえ後回しになっていた。
そのままほとんど眠れない夜を過ごし、気がつけば朝になっていた。
そして今、輸送機の中でようやく空腹を自覚したというわけだった。
ブレントは足元の荷物を引き寄せ、留め具を外した。
中には着替えや洗面用具、必要最低限の私物が詰め込まれている。
その隙間を探り、目的のものを取り出した。
「……あった」
紙袋だった。
中身を確認すると、そこにはカツサンドが入っていた。
さらに、その横には冷えたコーラが一本収まっている。
ブレントは、それを見て僅かに満足そうな顔をした。
「朝飯には十分だろ」
誰に言うでもなく呟く。
軍用輸送機の貨物室で食べる朝食としては、悪くない組み合わせだった。
少なくとも、味気ない保存食を口にするよりは、ずっとましだろう。
ブレントは紙袋からカツサンドを取り出し、包み紙を丁寧に開いた。
揚げた衣の香ばしい匂いが、ほんの僅かに漂う。
パンの間には、厚みのあるカツと千切りのキャベツが挟まれ、ソースがたっぷりと染み込んでいた。
見た目だけなら、基地の売店で売られている普通のカツサンドだった。
しかし、今の彼には、それで十分だった。
「いただきます」
小さく呟き、ブレントは大きく一口かじった。
衣の歯応え、肉の旨味、ソースの濃い味。
空腹だったこともあり、普段よりも美味しく感じられた。
彼は余計なことを考えず、口の中のものをゆっくりと噛み砕いた。
そして、手元のコーラを開ける。
蓋が外れる音が小さく響き、炭酸の弾ける音が続いた。
ブレントはボトルを持ち上げ、喉へ一気に流し込む。
「……ふぅ」
思わず息が漏れた。
冷たい炭酸が喉を通り、眠気の残る頭を僅かに刺激する。
ほんの少しだけ、気分が落ち着いた。
食べ物というものは不思議だった。
どれほど不安な状況でも。
どれほど嫌な予感がしても。
腹に何か入れば、ほんの少しだけ思考がまともになる。
それまで頭の中を占めていた疑問や不安が消えるわけではない。
明日からの任務が安全なものに変わるわけでもなければ、情報局が隠している秘密が明らかになるわけではない。
それでも、空腹のまま考え続けるよりは、いくらかましだった。
ブレントは二口目へ手を伸ばした。
そして、何気なく窓の外を見る。
そこには、どこまでも続く雲海が広がっていた。
朝日を受けた雲の表面が白く輝き、その向こう側には、澄み切った青い空が続いている。
先ほどまで見えていた荒野は、もう見えない。
自分が昨日まで暮らしていた基地も、今では雲の下に隠れていた。
輸送機は一定の高度を保ちながら、目的地へ向かって飛び続けている。
ブレントはカツサンドを持ったまま、しばらくその景色を眺めていた。
「……」
静かな時間だった。
機内にはエンジンの低い轟音が響き、時折、機体が小さく揺れる。
夜明け前から始まった移動は、今のところ何事もなく進んでいた。
だからこそ、ブレントは妙な落ち着かなさを覚えていた。
これから何かが起きる。
そんな確信に近い予感が、頭の片隅から離れなかった。
昨日、漆黒の機体を見たときに感じた悪寒。
あれは単なる疲労や寝不足によるものだったのだろうか。
長年の軍務によって染みついた警戒心が、未知の機体に反応しただけなのだろうか。
それとも、自分がまだ知らない何かを、身体が先に察知していたのだろうか。
ブレントは小さく息を吐いた。
「チッ、とんだ厄介事になりそうだ」
カツサンドを片手に、ぼそりと呟く。
もちろん、その言葉を聞いている者はいなかった。
いたとしても、単なる愚痴だと思っただろう。
実際、本人にもそうとしか説明できなかった。
ただ、長年の経験が告げていた。
何かがおかしい。
この移動は、単なる配置転換では終わらない。
そして、あの青年は、ただのテストパイロットではない。
ブレントはまだ、その根拠を一つも持っていなかった。
資料にも記録にも、確かな証拠は何もない。
それでも、昨日から続く一連の出来事が、すべて偶然によって起きているとは思えなかった。
情報局が関わり、参謀本部が命令を出し、機体だけを守れと念を押す。
その一方で、肝心のパイロットについては、必要な情報すらまともに渡されない。
そして、あの漆黒の機体。
常識から外れた大きさと、見たことのない輪郭。
その傍らを歩く青年の、妙に静かな姿。
それらが、ブレントの中で一つの形になりかけていた。
だが、その形が何を意味しているのか、彼にはまだ分からなかった。
やがて輸送機は雲海を抜け、朝の光に包まれた空を進んでいった。
その日、ブレントが目にした漆黒の機体が、ただの試験機ではなかったこと。
そして、その機体を操る青年が、ただのテストパイロットではなかったこと。
それをブレントが知ることになるのは、もう少し後の話だった。
この戦争には、誰も予測できなかった特異点が存在していた。
一人の人間。
一機の戦闘機。
そして、その二つが交わった瞬間から、戦争の流れそのものが変わっていく。
この時点では誰一人として、これから何が起きるのかを正確には理解していなかった。
ただ、一人の青年が空へ上がる。
それだけだった。
しかし、その一歩は、やがてそしてこの戦争そのものを巻き込んでいくことになる。
それは、誰かが用意した英雄譚ではなかった。
綿密に計算された作戦の結果でもなければ、歴史に名を残すために企てられた計画でもなかった。
無数の命令と判断が交錯する戦場で、一人の人間が一機の航空機に乗り込み、空へ向かう。
ただ、それだけの出来事だった。
それでも、戦争の歴史を振り返る者たちは、後になってその瞬間を境に、世界が変わり始めたのだと語ることになる。
その青年が、何を考えていたのか。
なぜ、あの機体に乗ることになったのか。
そして、どのような思いで空へ向かい続けたのか。
その答えを知る者は、当時ほとんど存在していなかった。
ブレントもまた、その一人だった。
今の彼は、輸送機の機内でカツサンドを頬張り、コーラを飲んでいる。
移動先の基地に到着したあと、どのような任務が待っているのかを考えながら、眠気を誤魔化すように食事を続けていた。
その先に何が待っているのかも知らずに。
自分がこれから担当する青年が、やがて帝国の空を大きく変える存在になることも知らずに。
ただ一つだけ、あの漆黒の機体を見た瞬間に感じた悪寒。
それだけは、いつまでも消えなかった。
そして、ブレントはまだ知らない。
これから先、彼が管制席から送り続ける声が、一人の青年の運命を左右するだけではなく、数え切れないほどの人間の未来を変えこの戦争の命運を握っていくことになるのを。
その声が、空の上で孤独に戦う青年にとって、やがて何よりも確かな帰還の道標になっていくことを。
そして、自分自身がかつて失ったものと向き合いながら、今度こそ一人のパイロットを生きて帰すために、戦うことになるのを。
その時が来るまで、ブレントはまだ何も知らなかった。
ただ、輸送機は朝の空を進んでいく。
雲海の向こうには、これから向かう基地がある。
その先には、カイ・ラグナーという青年と、F-15Λが待っていた。




