ゴミ捨て場の空
久しぶりに新キャラが登場
ブレント・ウェルロッドは帝国東部の僻地にあるミュールハルデ基地へ赴任していた。
そこは前線から遠く離れた、荒野の中にぽつりと取り残されたような基地だった。
帝国東部といっても、主要都市や工業地帯からさらに数百キロも離れた辺境であり、軍事地図を広げなければ、その存在すら見落としてしまいそうな場所だった。
周囲には建物らしい建物もほとんどなく、見渡す限り乾いた大地が続いている。
かつて何かの施設を建設する予定でもあったのか、基地から少し離れた場所には途中まで整地された土地が広がっていたが、その計画がいつ頓挫したのかを知る者は、今ではほとんど残っていなかった。
風が吹けば砂埃が舞い上がり、古びた格納庫の壁を叩き、使われなくなった資材置き場には錆びた金属片が転がっていた。
ところどころに雑草が生えているものの、それすらこの土地の厳しい環境に耐えきれず、ほとんどが地面へ張り付くようにして枯れていた。
昼間は乾いた熱気が基地全体を包み込み、夜になると今度は容赦なく気温が下がる。
昼と夜でまるで別の土地になったかのような寒暖差だった。
基地の兵士たちは、その環境を特別気にすることもなく受け入れていた。
慣れてしまったのか、それとも慣れるしかなかったのか。
ブレントには、そのどちらなのか判断できなかった。
都市部からも遠く離れている。
最寄りの街へ向かうだけでも長い時間を要し、まともな娯楽施設など存在しない。
映画館もなければ、酒場もまともなものは一軒しかない。
休日に外出したところで、結局は基地から何十キロも離れた小さな町へ行き、古びた食堂で食事をして帰ってくる程度だった。
食堂の料理も決して褒められたものではなく、兵士たちの間では、ここへ送られた者は帝国空軍から忘れられたのだと冗談半分に言われていた。
しかし、その冗談を誰も本気では否定できなかった。
ミュールハルデ基地。
帝国空軍の中では、いつしか別の名前で呼ばれていた。
ノルヴァイン帝国空軍のゴミ捨て場。
規律違反を繰り返した者。
上官と衝突した者。
精神的に問題があると判断された者。
前線で使い物にならなくなった者。
あるいは、上層部にとって扱いづらい者。
そうした人間たちが、この場所へ送られてきた。
正式な規定にそんな項目が存在するわけではない。
書類上では、あくまでも人員配置の都合や療養、再訓練、後方勤務への転換といった、それらしい理由が並べられている。
だが、軍人というものはそうした書類の裏側を読むことに慣れている。
誰がどこへ飛ばされたのか。
誰が急に前線から姿を消したのか。
誰が昇進から外されたのか。
そして、誰がミュールハルデへ送られたのか。
それだけで、その人間が帝国空軍の中でどのような扱いを受けているのか、おおよその見当がついた。
誇り高き帝国空軍にとって、ここは表に出したくない存在だった。
戦果を誇る新聞記事にも名前は出ない。
軍の式典で功績を称えられることもない。
若い士官たちが憧れるような華々しい戦場とは、最初から無縁だった。
ここで勤務しているというだけで、周囲からは何か事情があるのだろうと思われる。
そして、ブレントもその一人だった。
もちろん、表向きの理由は別にある。
「人員再編に伴う配置転換」。
書類にはそう記されていた。
印章も正式なものだった。
命令書そのものに不備はない。
上層部が見れば、何一つ問題のない人事異動にしか見えない。
だが、ブレント自身には分かっていた。
ここへ送られた理由など。
わざわざ説明されなくても理解していた。
かつての彼を知る者ならば、なおさらだった。
ブレント・ウェルロッド。
帝国空軍のAWACS管制官。
コールサイン、Oldfield。
かつて、帝国の空を飛んだ一人の男を導いた管制官だった。
帝国の鷲。
その名を知らない帝国軍人はいなかった。
敵機を撃ち落とし、幾度となく絶望的な状況から生還した伝説のエース。
圧倒的な数の敵を相手にしても決して退かず、味方が崩れかけた戦線を一人で支え、帝国軍が勝利を諦めかけた戦場から何度も生還した男。
その存在は、軍人たちにとって一種の神話になっていた。
だが、空を飛ぶ一人の人間だけで戦場を勝ち抜けるわけではない。
その背後には必ず、無数の人間がいた。
整備兵。
兵站担当
情報将校。
管制官。
そして、戦場全体を見渡しながら彼を導く者。
空から戦場を見渡し、敵の位置を読み、味方の動きを整理し、必要な情報だけを一瞬で送り続ける。
パイロットが空で戦えるのは、地上から支える者がいるからだ。
ブレントは、そのことを誰よりも理解していた。
だからこそ、今の扱いには苦笑するしかなかった。
かつて英雄を導いた男が、今では帝国東部の僻地にあるゴミ捨て場の様な小さな基地へ放り込まれている。
まるで過去など存在しなかったかのように。
まるで、あの男の背後にいた自分まで歴史から切り捨てられたかのように。
それでもブレントは、上層部を恨む気にはなれなかった。
恨んだところで、何かが変わるわけではない。
戦場で何度も学んできたことだった。
失ったものを嘆いている間にも、無線の向こうでは次の戦闘が始まる。
誰かが助けを求め、誰かが撃墜され、誰かが帰還し、誰かが帰ってこない。
戦争というものは、人間の感情など待ってはくれない。
この時、すでにヴェルテクス連邦との開戦から数ヶ月が経過していた。
戦争は、誰もが想像していたよりも遥かに早く拡大していた。
突如として始まったヴェルテクス連邦の侵攻。
帝国側は、何が起きているのか理解する暇さえ与えられなかった。
開戦を告げる宣言すら存在しなかった。
警報が鳴り響いた時には、すでに敵機が帝国領空へ侵入していた。
国境部に存在する多くの島々が、無差別攻撃へ晒された。
軍事施設だけではない。
港湾、都市、住宅地。
逃げようとする人々。
戦場と呼ぶにはあまりにも広い範囲が攻撃に巻き込まれ、多くの住民が犠牲となった。
最初の数日間だけで、帝国軍の通信網には数え切れないほどの救難要請が殺到した。
軍の通信周波数に民間人の声が入り込み、子供の泣き声や、家族を探す人間の声まで聞こえてきたという話もあった。
誰かが助けを求める。
別の場所では、また誰かが助けを求める。
しかし、すべてに応えるだけの航空機も艦艇もなかった。
すべての命を救うだけの時間もなかった。
そして、空を知る者ほど、その現実の残酷さを理解していた。
ブレントは、その報告を何度も読んだ。
そして、そのたびに胸の奥へ重いものが沈んでいった。
空から見える景色は、地上にいる者が見るものとは違う。
炎。
煙。
逃げ惑う人々。
破壊された街。
そして、無線から聞こえてくる声。
助けを求める声。
誰かの名前を叫ぶ声。
帰りたいと訴える声。
それらすべてを、ブレントは聞いてきた。
聞き続けてきた。
そして、救えなかった。
どれだけ優秀な管制官であろうと、地図上のすべての点に手を伸ばすことなどできない。
一人を救えば、別の場所が手薄になる。
一機を援護すれば、別の編隊が危険に晒される。
一つの街へ戦闘機を向かわせれば、別の街の防空が薄くなる。
戦場とは、常にそういう選択を迫ってくる場所だった。
いくら優秀な管制官でも、空に存在するすべての命を救うことなどできない。
その事実を、彼は嫌というほど思い知らされていた。
だから、ブレントは時々思うことがあった。
自分が導いていたのは、本当にパイロットだけだったのだろうか。
あるいは、自分はただ、誰を救い、誰を見捨てるかを決めていただけではなかったのか。
そんな考えが浮かぶたびに、彼は頭を振った。
管制官にできることは限られている。
だからこそ、その限られた範囲で最善を尽くす。
それ以外に、戦場で生き残る方法などなかった。
ついこの間まで、前線は大きく動いていた。
帝国軍は大規模な攻勢へ転じ、ヴェルテクス連邦軍を後退させた。
長く押し込まれていた帝国軍が反撃へ転じたことで、戦況を覆す機運が一気に高まった。
それまで守勢に回っていた帝国軍の部隊が次々と前進を開始し、失われた拠点を奪還していった。
帝国各地では勝利を期待する声が上がった。
前線から送られてくる報告も、それまでとは違っていた。
帝国軍が押している。
敵が退いている。
失われた領土を取り戻している。
このまま行けば、戦争を終わらせられるのではないか。
そんな空気さえ生まれ始めていた。
新聞は帝国軍の反攻を大々的に報じ、街では兵士たちの帰還を願う旗が掲げられた。
長く続いた恐怖の中で、人々はようやく未来という言葉を口にし始めていた。
だが。
その前進を止めたものがあった。
ヴェルテクス連邦の超兵器。
常識では考えられない巨大兵器が戦場へ姿を現し、帝国軍の攻勢を阻んだ。
それは従来の兵器とは根本から異なる存在だった。
一個師団でも、一個艦隊でもない。
たった一つの兵器そのものが、戦場の構図を変えてしまう。
帝国軍が何日もかけて築き上げた前進線が、その存在によって再び停滞した。
それまで積み上げてきた戦果が、一瞬で意味を失ったわけではない。
しかし、戦争という巨大な流れが、再び大きく変わった。
そして今、ブレントが最も気にしていることは、それだけではなかった。
世界対帝国。
まだ誰もそうは口にしていない。
だが、その前兆は日に日に明確になっていた。
帝国とヴェルテクス連邦だけの戦争ではなくなろうとしている。
それを感じ取っている者は、軍の中にも少なくなかった。
まるで巨大な何かが、帝国を取り囲むように動いている。
ブレントには、そんな感覚があった。
だが、軍人として彼に許されているのは、与えられた命令を遂行することだけだった。
政治のことなど分からない。
外交のことも、国家間の思惑も、ブレントには理解できない。
ただ一つ確かなのは、空が以前とは違うということだった。
何より、戦争そのものが、これまでの常識から外れ始めていた。
ブレントは机の上に置かれたハンバーガーを見つめた。
包み紙には油が染み出している。
横には紙袋に入ったフライドポテトが置かれていた。
高級品でもなければ、まともな食事と呼べるようなものでもない。
基地の食堂で出される料理よりは幾分ましだという程度のものだった。
それでもブレントは気にしなかった。
「ッチ、上層部の連中何を考えていやがる」
ハンバーガーを噛りながら悪態をつく。
油と塩の味が口いっぱいに広がった。
妙に現実的な味だった。
戦争のことを考えている頭に、油と塩が無理やり現実を突きつけてくる。
ブレントはしばらく黙って咀嚼した。
食べ物を噛んでいる間だけは、少なくとも余計なことを考えずに済む。
ただ、口の中に残る肉とパンと塩の味だけがある。
そして、その味と共に蘇るものがあった。
かつての後悔。
あの時、もっと早く判断できていれば。
あの時、別の指示を出していれば。
あの時、あと一言だけ伝えていれば。
管制官という仕事を続けている限り、そうした「もしも」は消えない。
何年経っても消えない。
戦争が終わっても消えない。
むしろ、戦闘から離れた後になってからの方が、鮮明に蘇ってくることすらある。
戦場にいる間は、考えている暇がない。
ただ目の前のことだけを処理していればいい。
だが、静かな場所へ戻った瞬間、人間は過去を思い出してしまう。
あの声。
あの最後の通信。
あの時に聞こえた呼吸。
途切れた無線。
消えた識別信号。
そして、二度と戻ってこなかった機体。
ブレントは何度もそれを夢に見た。
だからこそ、彼は食べる。
『腹が減れば判断力が落ちる。』
それが彼の持論だった。
どれだけ精神的に疲れていても、腹が減れば判断力は鈍る。
判断力が鈍れば、ほんの僅かな遅れが生まれる。
その僅かな遅れが、戦場では命取りになる。
かつての経験から身についた、ほとんど癖のような考え方だった。
粗末な食事だった。
だが、今のブレントにとっては十分だった。
「……うめぇ」
そう呟きながら、窓の外を見る。
そこにはミュールハルデ基地の全景が広がっていた。
荒野の中に作られた小さな軍事施設。
滑走路はところどころ補修され、格納庫の一部には古い塗装が残っている。
駐機場には最新鋭とは程遠い機体が並び、整備兵たちが黙々と作業を続けていた。
中には何度も部品を交換され、原型が分からないほど改修された機体すらある。
帝国空軍が前線へ投入する最新鋭機とは、まるで別世界の航空機だった。
それでも整備兵たちは、一機一機を丁寧に扱っていた。
ここでは新しい機体など簡単には回ってこない。
だからこそ、今ある機体を飛ばす。
飛ばせる限り飛ばす。
それがミュールハルデのやり方だった。
人の数も少ない。
活気もない。
前線基地であれば聞こえるはずの緊張感に満ちた無線。
スクランブル警報。
緊急発進を知らせるサイレン。
そういったものは、聞こえてこない。
時折、古い航空機が滑走路を走り、空へ上がっていく。
その音さえ、荒野に吸い込まれるようにして消えていった。
自室から見えるこの基地は、とても基地とは呼べるような代物ではなかった。
ブレントは窓枠へ肘を置いた。
「……ミュールハルデ」
小さく名前を呟く。
その名前を口にしただけで、どこか自嘲的な笑みが浮かんだ。
そして鼻で笑った。
「ゴミ捨て場……その通りだな」
帝国空軍のゴミ捨て場。
誇り高き帝国空軍の中で、何かしら問題のある者をこの辺境の地へ放り込む。
そんな場所だった。
ブレント自身も、ここへ来たばかりの頃は何度も腹を立てた。
なぜ自分が。
なぜこんな場所に。
そんな言葉が頭の中を何度も巡った。
特に最初の数日は、異動命令を何度も読み返していた。
何かの間違いではないか。
誰かが手続きを間違えたのではないか。
そう思っていた。
だが、何度確認しても命令は変わらなかった。
そして数週間も経てば、怒ることすら馬鹿らしくなった。
ここにいる人間たちは、皆どこかに傷を抱えている。
それはブレントも同じだった。
前線で何かを失った者。
上官との衝突で居場所を失った者。
軍務に疲れ果てた者。
過去の失敗を引きずる者。
そして、もう一度だけやり直す機会を待っている者。
ミュールハルデにいる人間は、誰も自分からここへ来たわけではない。
だが、ここへ来てしまえば不思議と似た者同士になった。
誰かの過去を詮索する者はいない。
誰かが酒を飲んでいても、余計なことを聞く者はいない。
夜中に一人で格納庫に座っている人間がいても、わざわざ声を掛ける者はいない。
それぞれが自分の傷を抱えたまま、それでも明日の勤務へ向かう。
だから、今ではこの場所を嫌いになりきれなかった。
むしろ、妙な居心地の良ささえ感じ始めていた。
前線から離れているからこそ、ここでは戦争の巨大さを少しだけ忘れられる。
少なくとも、数時間だけなら。
その数時間だけは、ブレントもただの一人の中年男になれた。
軍服を脱げば、英雄を導いた管制官でもなければ、誰かの過去を背負った人間でもない。
腹が減れば飯を食い、眠くなれば眠る。
整備兵とくだらない冗談を言い、食堂の料理に文句をつける。
そんな当たり前の生活だった。
戦争が始まって以来、ブレントが忘れていたものだった。
ブレントはポテトを一本つまみ上げた。
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれた。
「……?」
ブレントが振り返る。
突然の来客に、眉をわずかに上げる。
この基地では、わざわざ部屋まで訪ねてくる者などほとんどいない。
再び、扉が叩かれる。
「ウェルロッド少佐、基地司令がお呼びです」
若い兵士の声だった。
その声には、どこか緊張が混じっていた。
ブレントは手にしていたポテトを見た。
それから、時計を見る。
まだ昼食を終えてから、それほど時間は経っていない。
「……このタイミングかよ」
ため息を吐く。
基地司令から呼び出される理由など、ろくなものではない。
特にこの基地ではそうだった。
何か問題が起きたのか。
人事関係なのか。
それとも、またどこかで規定違反をした兵士の処分について意見を求められるのか。
あるいは、前線から何か情報が入ったのか。
いくつもの可能性が頭をよぎる。
最後にハンバーガーを一口だけ頬張り、紙袋を机の上へ置いた。
「分かった。今行く」
「了解しました」
足音が遠ざかっていく。
ブレントは立ち上がった。
制服の襟を整え、鏡を見る。
そこには、少し疲れた顔の中年男が映っていた。
灰色の瞳。
深く刻まれた皺。
そして、かつて空を駆けた英雄たちを導いてきた男の顔。
以前ならば、その顔を見るだけで自分の過去を思い出した。
今では、それすら少し遠い記憶のように感じる。
ブレントは鏡の中の自分を見つめる。
「……今さら何の用だよ」
そう呟きながら、扉へ向かった。
ドアノブへ手をかける。
開ける直前、ふと机の上へ目を向けた。
食べかけのハンバーガー。
冷めかけたポテト。
まるで途中で時間だけを止められたように、そこへ残されていた。
「帰ってきたら食うか」
そして部屋を出た。
廊下には、ミュールハルデ基地特有の静けさが漂っていた。
遠くから整備兵の声が聞こえる。
そのさらに向こうから、古いエンジンの始動音が響いた。
ブレントは歩きながら、何となく窓の外を見る。
荒野の向こうには、青い空が広がっている。
前線から遠く離れた場所。
戦争から忘れられたような場所。
だが、その空は前線の空と繋がっている。
そしてブレントはまだ知らなかった。
この何もないように見える辺境の基地で、彼の空を再び大きく変える出来事が、すでに動き始めていることを。
ブレントは外に出ると、途端に強烈な陽射しを全身へ浴びた。
建物の中にいる間はそれほど感じなかった熱気が、扉を一歩出た瞬間、まるで別の世界から押し寄せてきたかのように肌へまとわりついてくる。
荒野にはサンサンと太陽光が降り注ぎ、まるで大地そのものを焼き尽くそうとするような熱気が立ち込めていた。
空には雲がほとんどない。
どこまでも続く青空の中央で太陽が容赦なく輝き、乾いた大地へ真上から光を叩きつけている。
地面から立ち上る熱気によって、遠くの景色は揺らいで見えた。
まっすぐ伸びているはずの滑走路でさえ、ところどころ陽炎によって歪んでいる。
まだ季節としては冬に入っているはずだったが、赤道に近いこの地域では、季節という言葉そのものがあまり意味を持たなかった。
一年を通して強烈な陽射しが大地へ突き刺さり、雨が降らなければ乾いた砂埃が舞い上がり、雨が降れば今度は荒れた地面が泥に変わる。
季節が変わっても、この土地そのものが大きく変わることはない。
ただ暑く乾いている。
そして、風が吹けば砂が舞う。
それだけだった。
ブレントは目を細めながら、額へ浮かんだ汗を手の甲で乱暴に拭った。
「……相変わらずクソ暑い場所だな」
吐き捨てるように呟きながら、彼は司令室へ向かって歩き始めた。
建物の影から出た途端、軍服の生地越しに熱が伝わってくる。
数分歩いただけだというのに、首筋にはじっとりと汗が滲んでいた。
靴底が乾いた地面を踏み締めるたび、細かな砂が舞い上がり、軍靴の周囲へ薄い煙のようにまとわりついてくる。
風が吹けば、その砂は容赦なく顔へ吹きつけてくる。
ブレントは顔を少し背け、目へ入らないようにしながら歩いた。
「ったく……」
小さく舌打ちする。
ここへ赴任してから、何度この言葉を吐いたか分からない。
暑い。
遠い。
何もない。
そして、仕事まで少ない。
軍人として考えれば、これほど気が滅入る環境もそう多くはない。
基地の周囲にはほとんど建物がなく、視界の先には果てしなく続く荒野と、陽炎によって歪んだ地平線だけが広がっていた。
遠くには低い岩山が連なっている。
その山肌にはほとんど緑がなく、太陽の光を浴びて赤茶けた色に染まっていた。
時折、その向こうから砂煙が立ち上がる。
自然現象なのか、軍用車両が走っているのか。
この距離では見分けることすらできない。
ここから最も近い都市へ向かうには、車を使ったとしてもかなりの時間が必要になる。
道路もまともに整備されていない。
基地へ続く一本の舗装路があるだけで、その先は荒れた地面が延々と続いている。
民間人の姿などほとんど見かけることもなく、基地の外へ出たところで目に入るのは乾いた大地と岩山ばかりだった。
そんな場所だからこそ、ここは帝国空軍の中で特別な意味を持っていた。
ミュールハルデ基地。
帝国空軍の表舞台から押し出された者たちが、最後に流れ着く場所。
もっとも、赴任してから数週間が経った今となっては、嫌悪という感情も随分と薄れていた。
嫌いになるには、あまりにも長く見すぎた。
人間というものは、どれほど劣悪な環境であろうと、そこに長くいればある程度は慣れてしまう。
ミュールハルデも同じだった。
壊れたフェンスに錆びた格納庫、補修跡だらけの滑走路。
味の薄い食堂に古い宿舎。
そして、諦めたような顔をした兵士たち。
最初の頃は、そのすべてが嫌だった。
今では、それらがこの基地の景色として当たり前になっていた。
ブレントが格納庫の近くまで差しかかった時、そこに人の集まりができていることに気がついた。
数十人ほどの兵士たちが、格納庫の前に集まっている。
整備兵、操縦士、警備兵、通信要員。
階級も所属もばらばらだった。
しかし、その場には前線基地特有の活気がまったく存在していなかった。
ただ、皆が黙ってそこに立っていた。
ある者は腕を組み、ある者はポケットへ手を突っ込み、またある者は煙草を咥えたまま、何も言わずに地面を見つめている。
その表情には、疲労と諦めが張り付いている。
まるで、自分たちが何のためにここにいるのかさえ忘れてしまったような顔だった。
ブレントは歩みを緩め、その人々を遠くから眺めた。
風が吹き抜ける。
兵士たちの制服が風に揺れ、砂埃が足元を流れていく。
それでも誰一人として動かなかった。
まるで、そこに立っていることそのものが任務であるかのようだった。
その中には、まだ若い顔も少なくなかった。
本来ならば前線で戦い、帝国空軍の一翼を担っていてもおかしくない年齢の兵士たちだった。
操縦士もいる。
整備兵もいる。
管制要員もいる。
それぞれが何らかの理由によって、この場所へ流れ着いてきた者たちだった。
ブレントは目を伏せた。
(アイツらも、こんなとこに来るべきじゃねぇ……)
胸の奥で、静かにそう呟く。
あの中にいる者たちは、こんな辺境の地で使い潰されるために軍人になったわけではない。
少なくとも、ブレントにはそう思えた。
帝国軍へ入隊した時には、それぞれ何かを夢見ていたはずだ。
操縦士なら、空を飛ぶことを夢見た者もいただろう。
整備兵なら、自分が整備した機体が大空へ舞い上がる瞬間を誇りにしていたかもしれない。
管制官なら、自分の判断によって誰かを生還させることに意味を見出していたかもしれない。
だが、ミュールハルデへ送られた瞬間、それらはすべて関係なくなる。
ここでは過去の戦果も、才能も、将来性もほとんど意味を持たない。
一度問題を起こした者は、問題を起こした者として扱われる。
一度組織から不要と判断された者は、不要な人間として扱われる。
そして、帝国空軍には、それを可能にするだけの巨大さがあった。
帝国はあまりにも巨大だった。
人口は二十億を超え、広大な領土の隅々にまで人々が暮らしている。
東の荒野から西の大都市まで。
北方の凍土から南方の密林まで。
帝国という巨大な国家の中には、無数の人間が生きている。
その巨大な国家を守る軍隊には、当然ながら膨大な数の人員が存在していた。
兵士だけではない。
整備兵、技術者、管制官、輸送要員、医療要員、補給要員、通信要員。
一人の兵士を支えるために、さらに何人もの人間が必要になる。
それでも帝国は、それを維持できるだけの人間を抱えていた。
だからこそ、一人や二人が消えたところで帝国そのものが揺らぐことはない。
一人の操縦士が戦死すれば、別の操縦士が補充される。
一人の整備兵が倒れれば、別の整備兵が配置される。
一人の管制官がいなくなれば、代わりの管制官が席へ座る。
兵士が倒れれば、代わりはいくらでもいる。
帝国という巨大な機構は、一人の人間が欠けた程度では止まらない。
そのことを、ブレントは理解していた。
理解していたからこそ、嫌だった。
そんな考えが、帝国の上層部に少なからず存在しているのだろう。
ブレントは、その現実を長い軍歴の中で嫌というほど見てきた。
戦場から戻ってきたパイロットの数が一人減っていても、翌日には別のパイロットが同じ席へ座る。
整備兵が一人死んでも、翌週には別の人間がその機体を整備している。
戦死者の名前が記録から消えることはない。
だが、軍という組織は、その名前を抱えたまま前へ進む。
一人の命が失われるたびに、書類の上では一つの数字が増えるだけだった。
戦死者数。
負傷者数。
行方不明者数。
数字に変えられた瞬間、人間だったものは急速に遠い存在へ変わっていく。
だが、ブレントは知っている。
その数字一つ一つには、必ず名前があった。
帰る場所があろ好きな食べ物がありくだらない冗談を言う友人がいて眠る前に家族へ連絡する習慣があった。
そして誰かに愛されていた人間だった。
そして、その人間が空から消えた瞬間を、ブレントは無線越しに何度も聞いてきた。
声が途切れる瞬間。
識別信号が消える瞬間。
レーダー上の光点が一つ消える瞬間。
それらは、管制官にとってあまりにも日常的な出来事だった。
だからこそ恐ろしい。
何度経験しても、慣れてはいけないものだった。
格納庫の前に集まった兵士たちを横目に、ブレントは小さく息を吐いた。
「……クソッタレ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
兵士たちに向けたものではない。
この基地に向けたものでもない。
ましてや、戦争そのものだけに向けた言葉でもなかった。
巨大な国家の中で、一人の人間があまりにも簡単に埋もれていく現実。
その現実を作り出しているすべてのものへ向けた言葉だった。
ブレントはそれ以上考えることをやめた。
考えれば考えるほど、腹の底に嫌なものが溜まっていく。
それならば、今は自分の仕事をするしかない。
彼は格納庫を通り過ぎ、基地中央の司令施設へ向かった。
その途中、格納庫の内部から金属を叩く音が響いた。
カン、カン、と乾いた音が荒野へ響く。
その音だけが、妙に生々しく耳へ残った。
ブレントは一瞬だけ足を止めた。
格納庫の中では、何人かの整備兵が一機の戦闘機を囲んでいる。
機体は古く何度も塗装を重ねた跡があり、機首には小さな傷がいくつも残っている。
翼の一部には補修跡が見え、整備兵の一人が工具を使って慎重に部品を調整していた。
その光景を見て、ブレントはほんの少しだけ口元を緩めた。
「……あんなオンボロまだ飛ばすつもりかよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
古い機体だった。
しかし、整備兵たちは真剣だった。
この基地では、新しいものが来ることは少ない。
だからこそ、今あるものを飛ばす。
使える限り使う。
壊れれば直す。
また壊れれば、もう一度直す。
それが、この基地で生きる人間たちのやり方だった。
ブレントは小さく息を吐き、再び歩き始めた。
基地の中央へ進むにつれ、建物の数が少しずつ増えていく。
しかし、それでも前線基地と比べれば圧倒的に少ない。
帝国空軍の一基地として見れば、あまりにも小さい。
それでも、この場所で数百人の兵士が生活している。
戦争が始まってから、その人数は少しずつ増えていた。
前線から送られてきた者。
負傷して戦闘任務から外された者。
精神的な疲弊によって後方勤務へ回された者。
問題を起こした者。
そして、何らかの理由で上層部から目をつけられた者。
皆、同じ場所へ集められていた。
ミュールハルデ基地。
帝国空軍の底。
それが、この場所だった。
ブレントはそのことを考えながら、基地中央の司令施設を見上げた。
司令施設は基地の他の建物と同じように古く、外壁には砂埃がこびりついていた。
ところどころ塗装が剥がれ、帝国軍の紋章さえも薄くなっている。
かつては帝国の威厳を示していたはずの建物が、今では荒野の中に取り残された古い箱にしか見えなかった。
それでも、建物の入口には帝国軍の旗が掲げられている。
風に煽られた旗が大きくはためいた。
黒鉄色の旗面に描かれた帝国の紋章。
その姿だけは、どれだけ周囲が荒れ果てても変わらない。
ブレントはその旗をしばらく見つめた。
そして、苦笑する。
「帝国空軍様々ってか……」
皮肉を吐きながら、階段を上っていく。
階段を一段上るたび、軍靴の音が乾いた音を響かせた。
古い階段だった。
ところどころ金属が軋み、踏み込むたびに微かな振動が靴底へ伝わる。
それでも、ブレントは気にせず上っていった。
やがて司令室のある廊下へ到着する。
そこには数人の兵士が立っていた。
廊下の窓から強烈な陽射しが差し込み、床へ細長い光を落としている。
その光の中を、砂埃が小さく舞っていた。
ブレントの姿を確認すると、彼らは軽く敬礼する。
「ウェルロッド少佐」
「おう」
ブレントは片手を上げて応じ、そのまま奥へ進んだ。
兵士たちは何も言わなかった。
ただ、ブレントが通り過ぎるのを見送った。
その視線に、どこか妙なものが混じっていることにブレントは気づいていた。
尊敬なのか。
同情なのか。
それとも単なる好奇心なのか。
ブレントには分からなかった。
この基地では、自分の過去を知っている人間も少なくない。
かつて帝国の鷲を導いた管制官。
そんな噂が、いつの間にか基地中へ広がっていた。
だが、ブレント自身はその話を好まなかった。
過去は過去だ、それも拭うことのできない罪の証でもあった。
今の自分は、ミュールハルデ基地に配属された一人の管制官にすぎない。
廊下の突き当たり。
その先に基地司令室がある。
扉の前まで来たところで、ブレントは足を止めた。
扉の向こうに誰がいるのかは分かっている。
基地司令。
自分をここへ呼び出した男。
そして、こんな辺境基地に何年も閉じ込められている人間たちを管理する人物。
だが、それだけではない。
ブレントは、何となく嫌な予感を覚えていた。
わざわざ自分を呼び出す。
この基地で起こることの大半は、翌日の勤務表や整備予定、補給物資の話だ。
基地司令が個人的に呼び出すようなことなど、そう多くない。
それだけに、胸の奥へ小さな警戒心が生まれていた。
ブレントは一度だけ深く息を吸った。
さっきまで食べていたハンバーガーの油っぽい味が、まだ口の中に残っていた
ほんの少しだけ口元を緩めた。
いつものブレントだった。
どれほど嫌な場所でも、どれほどくだらない命令でも、仕事ならばやる。
それが空の管制官として生きてきた男の意地だった。
かつて何度も戦場でそうしてきた。
敵が多かろうが。
味方が少なかろうが。
状況が最悪だろうが。
管制席に座った以上、やるべきことをやる。
それだけだった。
ブレントは拳を軽く握り、司令室の扉を二度叩いた。
「ウェルロッド少佐、入ります」
中から、低い声が返ってきた。
「入れ」
ブレントは扉のノブへ手をかけた。
そして、ゆっくりと扉を開いた。
中には、中年を通り越し、もはやジジイに片足を突っ込んだような男がいた。
そう、こいつこそが、このミュールハルデ基地を預かる基地司令官だった。
年齢は六十をとうに超えているように見え、頭髪には白髪が目立ち、額や目尻には長年の軍務によって刻まれた深い皺が幾重にも走っていた。
身長はそれほど高くないものの、横幅だけは妙に広く、軍服の腹部はこれでもかというほど前へ突き出している。
いわゆる、立派なビール腹だった。
机の前に座っているだけなのに、その腹だけで本人の存在感を主張しているようにさえ見える。
しかも、その机の上には大量の書類が積み上げられているにもかかわらず、本人はそれらをほとんど処理している様子がなかった。
片手には冷めかけたコーヒー。
もう片方の手には、書類をめくるためのペン。
しかし、そのペンはしばらく動いていない。
ブレントは扉の前に立ったまま、その男をじっと見つめた。
男もまた、眼鏡の奥からブレントをじっと見返していた。
数秒間、二人の間に妙な沈黙が流れる。
「……」
「……」
部屋の壁時計が、妙に大きな音を立てて時を刻んでいた。
基地の外では、乾いた風が吹き荒れている。
窓ガラスが僅かに震え、その向こうから格納庫の方で何か金属を叩く音が聞こえてきた。
それでも司令室の中だけは、まるで時間が止まっているかのように静かだった。
やがて、基地司令が持っていたペンを机の上へ置いた。
先に口を開いたのは基地司令だった。
「座れ、ウェルロッド」
「失礼します」
ブレントは正面の椅子へ腰を下ろした。
椅子が小さく軋む。
ブレントはその音を聞きながら、心の中でこの椅子もそろそろ限界なんじゃないかと思った。
だが、そんなことを口にするほど馬鹿ではなかった。
基地司令はそんなブレントを見ながら、机の上に置かれた書類を一枚持ち上げた。
紙の端を親指で軽く整え、それから眼鏡を少しだけ押し上げる。
「……ウェルロッド」
「はい」
「貴官をここへ呼んだ理由について、心当たりはあるか」
ブレントは僅かに眉を上げた。
この質問を聞いた瞬間、頭の中にはいくつもの可能性が浮かんだ。
また誰かが規律違反をしたのか。
航空機の整備に問題でも起きたのか。
それとも、上層部から新しい無茶な命令でも降ってきたのか。
だが、何より可能性が高いのは、自分自身に関係する何かだった。
ここへ送られてからというもの、ブレントは自分が何かを期待されているとは考えていなかった。
むしろ、その逆だった。
問題を起こさず、余計なことをせず、ただこの基地で時間を潰していればいい。
そんな扱いだと思っていた。
だからこそ、わざわざ基地司令室へ呼び出されたこと自体が妙だった。
ブレントは少しだけ口角を上げた。
「左遷理由なら、いくらでも思い当たりますがね」
室内にいた参謀の一人が顔をしかめる。
しかし基地司令は表情を変えなかった。
ただ眼鏡の奥からブレントを見つめている。
その視線には、呆れとも怒りとも違う何かがあった。
「冗談を言っている場合ではない」
「失礼しました」
ブレントは背筋を正した。
その瞬間、先ほどまでの軽薄そうな雰囲気が少しだけ消えた。
空中管制官として長年生きてきた男の顔が戻る。
戦場で何百人ものパイロットを相手にしてきた男。
一つの判断で人間の生死が分かれる世界を知っている男の目だった。
基地司令も、その変化を見逃さなかった。
司令は部屋の外へ視線を向けた。
まるで誰かがそこにいることを確認するような仕草だった。
そして、再びブレントへ視線を戻す。
「入ってこい」
扉の向こうへ向けて、基地司令が声を上げた。
数秒後。
扉がゆっくりと開いた。
軍靴の音が一つ、司令室へ入ってくる。
ブレントは反射的にそちらへ視線を向けた。
入ってきたのは、まだ若い男だった。
軍服は整えられている。
姿勢も崩れていない。
しかし、その顔にはこの基地にいる他の兵士たちとは違うものがあった。
諦めているようには見えない。
怯えているわけでもない。
まして、この辺境基地へ送られたことを嘆いているようにも見えなかった。
ただ静かに、そこに立っている。
基地司令はその若い中尉へ目を向けた。
「……こちらへ来い」
中尉は数歩進み、ブレントの横を通り過ぎる。
その瞬間、ブレントは無意識に彼の姿を目で追った。
何となく、引っ掛かる。
理由は分からない。
ただ、長年空を見てきた人間としての直感が、ほんの僅かに反応していた。
基地司令は中尉を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「君の管制下に入る者だ」
その男が部屋に入ってきた瞬間、部屋の温度がガクッと下がったような気がした。
実際に気温が変化したわけではない。
窓の外では相変わらず赤道近くの強烈な陽射しが荒野を焼き続け、乾き切った大地から立ち上る熱気が、古びた司令施設の壁越しにまで伝わってきている。
司令室の中にも午後の熱気が僅かに残っており、窓際に置かれた古い扇風機が一定の間隔で首を振りながら、ぬるい風を部屋の中へ送り込んでいた。
紙の端が風に煽られて僅かに揺れ、机の上に置かれた書類の角が、ぱたぱたと小さな音を立てている。
それでも、ブレントには確かにそう感じられた。
まるで、先ほどまで存在していた室内の温度が、男が一歩足を踏み入れた瞬間、一気にガクと下がるような感覚だった。
理由は分からない。
もちろん、実際には何も変わっていない。
暑い。
相変わらず暑い。
額には先ほどから浮かんでいる汗が残っており、制服の襟元にも、この基地特有の乾いた熱気がまとわりついている。
それなのに、意識だけが妙に冷えていた。
ブレントは自分でも気づかないうちに、その男へ視線を向けていた。
男は何も言わない。
基地司令から呼び出されたことに対して、不満を口にすることもなければ、周囲を見回すこともしなかった。
ただ静かに基地司令の前まで歩み寄り、一定の歩幅を保ったまま、その場で足を止めた。
靴底が床へ触れる音が、司令室の中に小さく響く。
そして、敬礼する。
その動作自体は、軍規に完全に則ったものだった。
腕の角度も正確だった。
肩の位置にも乱れはない。
動作の速度も適切で、急ぎ過ぎることもなければ、必要以上にゆっくりとすることもない。
視線の向け方にも無駄がなく、姿勢は真っ直ぐに保たれている。
長年の訓練によって身体へ染み込ませた、完成された軍人の敬礼だった。
一つ一つの動作だけを見れば、何一つ問題はない。
むしろ、教本に載せてもいいほど正確だった。
だが――何かが違う。
ブレントは僅かに眉を寄せた。
それは、敬礼の形に問題があるという意味ではない。
軍人としての動作に不自然なところがあるわけでもない。
(……なんだ、こいつは)
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
警鐘。
それは理屈ではなかった。
目の前にいる男の経歴を知っているわけでもない。
これまでに何をしてきたのかを知っているわけでもない。
どこで訓練を受け、どれほどの飛行時間を持ち、どんな戦果を上げたのかさえ、ブレントはまだ知らない。
それでも、何かがおかしい。
そう感じた。
これまで何人ものパイロットを見てきた経験から来る、言葉にならない違和感だった。
ブレントは長い軍歴の中で、様々なパイロットを見てきた。
初めて戦闘機に乗る若者も見てきた。
初めて実戦へ送り出される新米も見てきた。
何度も死線を潜り抜け、それでもなお空へ戻っていくベテランも見てきた。
恐怖で無線越しの声が震えてしまう者もいた。
緊張で言葉がうまく出てこなくなる者もいた。
逆に、初めての配属に浮つき、自分の実力を証明しようとするあまり、必要以上に威勢を張る者もいた。
自分がエースになれると信じて疑わない者。
戦場へ出ることそのものに興奮している者。
仲間に認められたい者。
家族のために戦おうとする者。
国のためだと信じている者。
ただ生き残るために飛ぶ者。
それぞれに違いがあった。
そして、その違いは多くの場合、姿勢や声、視線、呼吸、ほんの僅かな仕草に現れる。
経験を積んだ管制官であるブレントにとって、それらは無意識のうちに読み取ってしまうものだった。
だが、この男にはそのどれとも違うものがあった。
そこに立っているだけなのに、周囲から音が消えていくような感覚があった。
基地司令が何かを話して書類をめくる音も聞こえている。
古い扇風機が軋みながら回転している。
窓の外からは遠く離れた格納庫の方で、工具を使う金属音が微かに聞こえている。
どこかで車両が動き、乾いたエンジン音が一瞬だけ響いた。
時計の針が進む音さえ聞こえている。
それなのに、ブレントの意識には男だけが異様なほど鮮明に映っていた。
周囲の景色が薄れているわけではない。
音が本当に消えたわけでもない。
ただ、意識が勝手に目の前の男へ集中していた。
まるで、他のものを見落とすなとでも言われているようだった。
ブレントは無意識のうちに呼吸を浅くしていた。
自分でも、それに気づくまで少し時間がかかった。
そして、男が顔を上げた。
ダークブルーの瞳。
その瞳が、まっすぐブレントを捉える。
目が合った。
その瞬間だった。
ブレントの胸の奥が、僅かにざわついた。
ほんの一瞬だった。
だが、確かに何かが反応した。
その色には、見覚えがあった。
蒼穹の空の果を思わせるような、暗い青。
冷たく静かな青。
光を受けても、その奥まで簡単には見通せないような色だった。
だが、その色を見たのは初めてではなかった。
脳裏に浮かんだのは、もう二度と会うことのできない親友の顔だった。
かつて同じ空を見上げ、同じ無線を聞き、同じ戦場を飛んだ男。
もう帰ってこなかった男。
その瞳も、よく似た色をしていた。
「……」
ブレントは一瞬、言葉を失った。
声を出そうとしたわけではない。
何かを言おうとしたわけでもない。
ただ、ほんの一瞬だけ思考が止まった。
長い軍歴の中で、忘れようとしても忘れられない記憶が、不意に引き出されたからだった。
似ている。
ただ、それだけのことだった。
目の色が似ている。
それだけだ。
それ以上の意味などない。
それでも、この瞳だけが妙に記憶へ引っ掛かった。
過去と現在が重なったのは、ほんの一瞬だった。
そしてブレントは、すぐに意識を目の前へ戻した。
軍人として長く生きてきた彼にとって、過去に引きずられることほど危険なことはない。
戦場では、一瞬の判断の遅れが命取りになる。
だからこそ、彼はその記憶をそれ以上掘り起こさなかった。
ただ、その瞳を見つめたまま、胸の奥に残った僅かな違和感だけを感じ取っていた。
しかし、それ以上にブレントを警戒させたのは、その目の奥だった。
感情がない。
少なくとも、ブレントがこれまで見てきた新任パイロットたちが見せるような、分かりやすい感情の揺れは感じられなかった。
ただ静かに、こちらを見ている。
だからこそ、不気味だった。
敵意があるなら分かる。
警戒しているなら、それも分かる。
緊張しているなら、なおさら分かる。
人間は感情を隠そうとしても、完全には隠せない。
長年、人の声を聞き続け、人の判断を読み続け、人の命を預かってきたブレントには、それがよく分かっていた。
無線越しの僅かな声の震え。
呼吸の変化。
返答までの僅かな間。
言葉の選び方。
そうした小さな変化から、パイロットが何を考えているのかを推測してきた。
だが、この男からは、それがほとんど読み取れない。
何を考えているのか分からない。
何を感じているのか分からない。
何を見ているのかさえ、分からない。
ただ、そこに立っているだけだった。
ブレントの背中を、冷たいものがゆっくりと這い上がる。
汗をかいているはずなのに、背筋だけが妙に冷えていく。
首筋の辺りにまで、薄い寒気が広がっていく。
もっと原始的な、拒絶反応。
頭で考えるよりも先に、身体が何かを感じ取っている。
長年の経験でも説明できない。
これまで幾度となく敵機を相手にしてきた。
レーダー画面に突然現れた機影。
識別不能の反応。
予想外の方向から接近する敵機。
突然途切れる味方機の通信。
そうした異常事態に直面した時、身体は思考より先に反応する。
空で敵機を視認した瞬間よりも早く身体が危険を察知する、あの感覚に近かった。
何かが来る。
何かが起こる。
理屈では説明できなくても、長く空に携わってきた人間だけが感じ取る、あの嫌な予感。
それと同じものを、ブレントは今、この司令室で感じていた。
目の前にいる若い男が何かをしたわけではない。
威圧しているわけでもない。
敵意を向けているわけでもない。
ただ立っているだけだ。
それなのに、ブレントの本能だけが警告を発している。
例えるなら――死神に、肩を叩かれたような感覚。
ブレントは無意識に背筋を伸ばした。
自分でも意識しないうちに、椅子へ深く座り直していた。
視線を逸らすこともできた。
だが、逸らさなかった。
目の前にいる男から目を離してはいけない。
なぜか、そう思った。
もちろん、そんな理由のない直感に従うべきではないと、頭では理解していた。
目の前の人間が何者なのかを判断する。
感覚だけで人間を決めつけるべきではない。
それくらい、ブレントにも分かっている。
それでも、空を知る者としての本能は消えてくれなかった。
目の前にいるのは、ただの若い中尉ではない。
そう思った。
理由は分からない。
根拠もなにもない。
ただ、空を知る者としての本能だけが、そう告げていた。
基地司令は、二人の間に流れる妙な空気など気にする様子もなかった。
あるいは、気づいていても意図的に無視しているのかもしれない。
どちらなのか、ブレントには分からなかった。
基地司令は手元の書類へ目を落としたまま、何事もなかったかのように紙を一枚めくった。
紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
その音によって、ブレントはようやく自分が目の前の男を凝視していたことに気づいた。
僅かに視線を外す。
だが、完全に意識から消すことはできない。
基地司令が書類へ目を落としたまま、淡々と告げる。
「彼は帝国軍のテストパイロットだ」
(テストパイロット……だと?)
ブレントは内心で眉をひそめながら、目の前に立つ若い男の姿を改めて観察した。
テストパイロットという言葉そのものに、特別な驚きがあったわけではない。
帝国空軍の規模を考えれば、試験飛行を専門とする人間が存在することなど珍しい話ではないし、新型機や改修機、特殊装備の評価を行う彼らは、むしろ帝国空軍にとって極めて重要な役割を担っている。
通常の部隊では試すことのできない限界領域へ機体を持ち込み、設計者や技術者が想定した性能が本当に発揮できるのかを確認し、時には機体そのものが想定していなかった挙動を発見する。
それがテストパイロットという人間たちの仕事だった。
当然、その仕事には高い操縦技術が求められる。
並のパイロットでは任せられない。
機体の癖を理解する知識が必要であり、異常が発生した瞬間に何が起きているのかを判断する冷静さも必要になる。
さらに、危険な試験飛行を繰り返しながら、それでも感情に流されず機体の状態を正確に記録し、必要ならば自分自身の命よりもデータを優先しなければならない場面すらある。
だからこそ、テストパイロットには優秀な人間が多い。
ブレント自身も、これまで何人ものテストパイロットと仕事をしてきた。
癖の強い連中も多かったが、それでも彼らには彼らなりの人間臭さがあった。
飛行前には緊張し飛行を終えれば安堵する。
危険な試験を前にすれば文句を言う。
新しい機体に乗れば興奮する。
無茶な試験項目を提示されれば、技術者や上官へ食ってかかることだってあるそういう人間たちだった。
だが、目の前の男から感じるものは違った。
これは、“試験飛行の延長線”ではない。
ブレントには、そう感じられた。
もっと別の、何か。
説明しようとしても言葉が見つからない。
テストパイロットとして優秀だからというだけでは説明できない。
単純に操縦技術が高いという話でもない。
目の前にいる男そのものが、どこか普通の人間とは違っている。
(コイツが?)
視線を外さないまま、ブレントは静かに評価を続けた。
しかし、どこを見ても、大きな無駄がない。
立っているだけなのに、身体のどこにも余計な力が入っていない。
かといって、気を抜いているわけでもない。
必要な部分だけに力が存在し、それ以外は徹底的に抑え込まれているように見える。
呼吸さえも一定だった。
普通の人間なら、誰かに見られていることを意識すれば多少なりとも呼吸が変わる。
初対面の相手と向かい合えば、視線に僅かな揺れが生じる。
上官から突然呼び出されれば、緊張によって肩が僅かに強張る。
ましてや、これから最前線へ送られることを告げられたばかりなら、何らかの反応があって当然だった。
しかし、目の前の男にはそれがほとんどない。
無駄がない。
だが、それ以上に――“削ぎ落とされている”。
ブレントは、その言葉が最も近いように思えた。
余分なものが、一切存在しない。
余計な動作もない。
余計な表情もない。
余計な言葉もない。
余計な反応すらない。
まるで長い時間をかけて、人間という存在から不要な部分だけを一つずつ取り除いていったような印象だった。
まるで人間を、機械に近づけたような存在。
そんな考えが、ブレントの脳裏をよぎった。
(……何なんだ、こいつは)
その疑問を口には出さなかった。
出す必要もない。
今ここで不用意に問い詰めても、答えが返ってくるとは思えなかった。
それよりも、まず情報を集めるべきだ。
目の前の男が何者なのか。
なぜこんな場所へ送られてきたのか。
なぜ自分がこの男の管制を任されるのか。
そして、なぜ情報局が絡んでいるのか。
ブレントがそう考えていた時だった。
基地司令が手元の書類へ視線を落としたまま、何気ない調子で口を開いた。
「情報局の連中から――」
その言葉を聞いた瞬間、ブレントの意識が僅かに引き締まった。
情報局。
その単語だけで、空気が変わったように感じられた。
司令は続ける。
「彼はどうなってもいいが、機体だけは壊すなと申し付けられている」
その瞬間、時間が、止まった。
少なくとも、ブレントにはそう感じられた。
司令室の中を回っていた扇風機の音も、窓の外から聞こえていた基地の雑音も、一瞬だけ遠ざかったように思える。
「……」
ブレントは瞬きをしなかった。
聞き間違いかと思った。
だが、司令の口調は変わっていない。
冗談を言っているようにも聞こえない。
ましてや、言葉を間違えたようにも聞こえない。
(……は?)
理解が一拍遅れる。
脳が聞こえてきた言葉を咀嚼し、その意味を一つずつ再構築していく。
彼はどうなってもいい。
機体だけは壊すな。
その二つの言葉が、頭の中で並んだ。
そして。
(コイツ今、何て言いやがった?)
怒りとも呆れともつかない感情が、胸の奥でゆっくりと膨らんだ。
人間はどうでもいい。
機体を守れ。
命令として見れば成立している。
軍事作戦という観点から考えれば、機密性の高い機体を最優先するという判断も理解できなくはない。
特殊な試験機なのだろう。
新型兵装を搭載しているのかもしれない。
あるいは、帝国空軍が極秘に開発している何かを積んでいるのかもしれない。
だから機体を失うな。
それ自体は理解できる。
だが――だからといって、搭乗する人間を“どうなってもいい”と切り捨てるのか。
それは、まったく別の話だった。
(……狂ってやがる)
ブレントはそう思った。
声には出さない。
ただ、胸の奥で吐き捨てる。
人間が機体を操る。
空へ上がるのも人間。
敵を見つけるのも人間。
判断するのも人間。
撃つのも人間。
そして、生きて帰るのも人間だ。
どれだけ高度な機体を与えられようとも、それを飛ばす人間の命まで部品と同じように扱っていい理由にはならない。
少なくとも、ブレントはそう考えていた。
だからこそ、その命令には強烈な嫌悪感を覚えた。
「……」
ブレントは何も言わない。
ただ、視線がわずかに鋭くなる。
それまで静かに観察していた男へ向ける視線とは別の意味で、目の前の状況を見つめ直す。
情報局。
あいつらが絡む案件に、ろくなものはない。
帝国軍の中でも、情報局は特殊な存在だった。
奴らが何を目的として動いているのか。
軍の中枢に居たことのあるブレントですら、ほとんど知らない。
ただ一つ分かっていることがある。
あいつらが関わった案件では、人間が“人間”として扱われなくなることがある。
兵士ではなく資源。
操縦士ではなくデータ。
人格ではなく能力。
名前ではなく番号。
そうやって、人間を一つの要素として切り分けていく。
その結果が、これなのか。
(いい趣味してやがる……)
ブレントは心の中で吐き捨てた。
目の前の男は、相変わらず何も言わない。
自分がどんな扱いを受けるのかを聞かされても、表情一つ変えない。
それが余計に気に入らなかった。
いや、正確には、気に入らないというよりも、怖かった。
普通なら怒る。
普通なら戸惑う。
普通なら、少なくとも何かしらの反応を見せる。
だが、この男にはそれがない。
まるで最初から、自分の命にそれほど価値を置いていないようにも見えた。
ブレントは僅かに目を細める。
(……お前は、それでいいのかよ)
問いかけたい気持ちはあった。
だが、口にはしなかった。
今の段階では、まだ何も分からない。
そして、司令の言葉は続いた。
「そして君たちには、これから別の基地へ向かってもらう」
その言葉に、ブレントは顔を上げた。
別の基地。
このミュールハルデから、この帝国空軍のゴミ捨て場から。
その瞬間、嫌な予感がさらに強くなる。
こんな場所へ送られてきたばかりの自分を、また別の基地へ移動させる。
しかも、この男と一緒に。
何かがおかしい。
「司令、それはどういう……」
反射的に口を開く。
だが、司令は首を横に振った。
説明する気がないというような仕草だった。
「彼には参謀本部より、最前線に向かえと命令が出されている」
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
最前線。
その言葉を聞いた瞬間、ブレントの頭の中でいくつもの情報が繋がった。
現在、戦線は大きく動いている。
帝国軍は開戦初期の混乱を乗り越え、各地で反撃を開始している。
しかし、敵はそれに合わせるように新たな兵器を投入し、戦場そのものを変えようとしている。
前線では既に、通常の航空戦だけでは説明できない戦闘が増えている。
そこへ、情報局が絡んだ極秘のテストパイロット。
しかも、機体だけは絶対に失うなという異常な命令。
そして参謀本部直々の最前線派遣。
嫌な材料が、あまりにも揃いすぎている。
「詳しくは移動先の基地で聞いてくれ。私もそれ以外は何も知らされていない」
司令の声は淡々としていた。
嘘ではない。
ブレントには分かった。
長年、無線越しに人間の声を聞き続けてきた。
戦闘中のパイロットが嘘をついている時も分かる。
恐怖を隠そうとしている時も分かる。
無理をして平静を装っている時も分かる。
そして今の司令の声には、少なくとも嘘をついている人間特有の揺らぎはなかった。
本当に知らない。
だからこそ、余計に異常だった。
(知らされていないこと自体が異常だろ)
普通なら、少なくとも管制官にはある程度の情報が渡される。
どんな機体なのか。
どんな任務なのか。
どんな能力を持つパイロットなのか。
何を警戒すべきなのか。
最低限、それくらいは知らされる。
特に最前線へ送り込むのであれば、それはなおさらだ。
だが、何もない。
情報がない。
それなのに、命令だけはある。
(参謀本部直通……しかも情報局絡みか)
ブレントの胸の奥に、嫌な感覚が広がっていく。
嫌な匂いしかしない。
それも、ただの軍事作戦ではない。
何か別の目的がある。
そんな気がしてならなかった。
最前線。
この腐った基地から、一気に地獄の中心へ。
そして、その鍵を握るのが――目の前の男。
「……」
数秒の沈黙が流れた。
誰も口を開かなかった。
司令室の空気が再び張り詰める。
ブレントは目の前の男を見る。
男は相変わらず静かだった。
まるで、これから最前線へ送られるという話など、自分には関係のない出来事であるかのように立っている。
その姿を見ていると、胸の奥に苛立ちとも不安ともつかない感情が湧いてくる。
この場で感情をぶつけるのは簡単だ。
司令に食ってかかることもできる。
情報局のやり方を批判することもできる。
目の前の男に問い詰めることもできる。
だが、それは意味がない。
情報が足りない。
状況も読めない。
何も分からないまま騒いだところで、余計に自分たちの立場を悪くするだけだ。
ブレントは短い時間で判断した。
(……この場は静める方がいいか)
結論は早かった。
管制官として生きてきた彼にとって、状況が見えない時ほど感情を抑えることが重要だった。
空戦でも同じだ。
敵機がどこにいるのか分からない時ほど、焦って動いてはいけない。
見えないものに向かって銃を撃つことはできない。
まず情報を集める。
敵の位置を知り味方の位置を知る。
そして、そこから判断する。
今も同じだった。
ブレントは小さく息を吐いた。
「了解しました」
声はいつも通りだった。
何も変わらない。
驚きも怒りも表には出さない。
まるで今の命令を最初から予想していたかのような、落ち着いた返答だった。
だが、その奥にある思考はすでに動いている。
何が待っている。
何を隠している。
なぜ自分なのか。
なぜこの男なのか。
そして、この男の機体には何がある。
一つ一つの疑問を、ブレントは頭の中へ積み上げていく。
司令はわずかに頷いた。
それから椅子の背もたれへ手を置き、ゆっくりと立ち上がった。
長い話をするつもりはないらしい。
「後は任せる」
短く言い残し、司令は二人の横を通り過ぎる。
ブレントはその背中を目で追った。
扉が開き廊下から、外の熱気が僅かに流れ込んでくる。
そして扉が閉まる音。
その瞬間――沈黙が、濃くなる。
まるで部屋そのものが、二人だけを残して閉じ込めたようだった。
先ほどまで存在していた上官の気配が消えたことで、司令室の広さが妙に大きく感じられる。
互いに何も言わない。
ただ、空気だけが流れる。
扇風機が一定の速度で首を振り、乾いた風が二人の間を通り抜ける。
窓の外では、遠くで車両のエンジンが唸っている。
それ以外には、目立った音はない。
ブレントは壁にもたれた。
背中に古い壁の硬さが伝わってくる。
それから制服のポケットへ手を入れた。
指先に触れた小さな包みを取り出す。
ガムだった。
包みを剥がす。
紙が擦れる小さな音が、妙に大きく響いた。
ブレントはガムを口へ放り込む。
そして、ゆっくりと噛み一定のリズムを刻む。
(落ち着け)
自分自身へ言い聞かせる。
今はまだ、何も分からない。
ならば、焦る必要はない。
目の前の男が何者なのかも分からない。
何のために最前線へ送られるのかも分からない。
情報局が何を企んでいるのかも分からない。
ならば、まず目の前の人間を見る。
それしかない。
ガムを噛みながら、ブレントは呼吸を整え、一度、ゆっくり息を吐く。
それから、改めて男へ視線を向けた。
先ほどまでの漠然とした警戒ではない。
今度は管制官としての目だった。
これから自分が管制を担当するのであれば、この男のことを知らなければならない。
空へ送り出す以上、相手がどんな人間なのかを把握する必要がある。
何より、危険な状況に置かれた時、どう動くのか。
それを知らなければ、管制官として支えることなどできない。
ブレントは数秒間、男を見つめた。
そして。
「……で」
わずかに顎を上げる。
声は軽かった。
先ほどまでの張り詰めた空気を意図的に崩すような、普段のブレントらしい調子だった。
「お前、名前は?」
問いはシンプルだった。
だが、その裏には明確な意図がある。
声のトーン。
間。
反応速度。
視線。
呼吸。
その一つ一つを見る。
答えそのものだけが欲しいわけではない。
名前を聞かれた時、どれくらいの時間で反応するのか。
どんな声を出すのか。
自分から名乗るのか。
余計なことを言うのか。
それとも、必要なことだけを答えるのか。
ブレントは無意識のうちに、管制官としての観察を始めていた。
「……」
男は一瞬だけ、沈黙した。
ほんの僅かな間だった。
普通なら、名前を聞かれればすぐに答える。
あるいは一瞬だけ考える。
だが、ブレントにはその間が少し違って感じられた。
いや、“考えた”のではない。
ただ、間があっただけだ。
そして。
「……カイ……」
自分について何かを付け加えることもない。
ブレントはその答えを聞いた瞬間、僅かに目を細めた。
(カイ、か)
頭の中で、その名前を反芻する。
カイ。
響きだけなら、特別珍しいものではない。
それでも、その名前と目の前に立つ存在が、どうにも結びつかない。
名前というものには、普通なら何らかの人間らしさがある。
家族から呼ばれた記憶。
仲間から呼ばれる声。
上官から呼ばれる時の響き。
そうしたものが、名前には積み重なっていく。
だが、この男が口にした「カイ」という言葉には、それすら感じられなかった。
ただ、必要だから発した。
それだけに聞こえた。
「……」
ブレントは黙ったまま、男を見る。
人間らしさが、あまりにも希薄だ。
もちろん、本当に感情がないわけではない。
そう決めつけることもできない。
ただ、外へ出てくるものが少なすぎる。
何を考えているのか。
何を感じているのか。
何を望んでいるのか。
それがまるで見えてこない。
(厄介なもん押し付けてきやがる……)
ブレントは心の中で吐き捨てた。
口にすれば、余計な問題を生む。
だから言わない。
代わりにガムを噛み潰す。
柔らかかったガムが、何度も噛むうちに少しずつ硬さを失っていく。
わずかに甘味が広がる。
だが、その味すら、どこか遠い。
いつもなら気分転換になるはずの甘味も、今はほとんど意識に入ってこなかった。
頭の中では、すでに別の計算が始まっている。
テストパイロット。
情報局。
機体だけは壊すな。
参謀本部からの命令。
最前線への派遣。
そして、目の前の男。
カイ。
まだ何も分からない。
だからこそ、分からなければならない。
この男を理解する。
少なくとも、自分が管制を担当する間だけでも、この男がどういう人間なのかを把握する。
それができなければ、空へ送り出すことなどできない。
「カイ、ね……」
ブレントは小さく呟いた。
その声には、先ほどまでの軽さはなかった。
名前を口にした瞬間、相手を一人のパイロットとして見る視線へ変わっていく。
ただの尉官ではない。
情報局の案件として扱われている男。
特殊な機体を任され、機体だけは絶対に失うなと言われた男。
そして、これから最前線へ送られる男。
その目は、すでに“管制官”のそれに変わっていた。
これから先、どんな戦場が待っているのかは分からない。
どれほど危険な任務になるのかも分からない。
この男がどれほどの技量を持っているのかも、まだ知らない。
だが、ブレントは一つだけ理解していた。
この男を空へ送り出す以上、自分にはやるべきことがある。
空で何が起きても、無線の向こうから支える。
敵機の位置を伝える。
味方の位置を伝える。
必要ならば撤退を命じる。
そして、最後まで声を届ける。
それが管制官の仕事だった。
この男がどれほど異質に見えようとも、それは変わらない。
むしろ、これほど得体の知れない男だからこそ、ブレントは自分の仕事を果たさなければならないと思った。
目の前の人間が何者なのか。
それを知るのは、これからだ。
(さて……どうすっか)
ブレントはガムをゆっくり噛みながら、改めてカイを見つめた。
空は、まだ遠い。
窓の向こうには、赤道近くの強烈な陽射しに照らされた荒野が広がっている。
その先には、まだ見えない戦線がある。
無数の戦闘機が飛び交い、砲火が交わり、人間の命が一つずつ消えていく戦場がある。
そして、その空へ、この男は向かう。
ブレントもまた、その隣にいる。
まだ何も始まっていない。
それでも確実に――何かが、動き始めていた。
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