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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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罪を抱いて

ある日、とある一報が、この島にも静かに届いた。

それは、戦争が始まってから半年が過ぎようとしていた頃の出来事だった。

前線の状況は日を追うごとに悪化し、帝国軍が各地で苦戦を強いられているという噂も、島の人々の間では次第に珍しいものではなくなっていた。

それでも、この島で暮らす人々の多くは、まだ完全に希望を捨ててはいなかった。

いつか帝国軍による大規模な反攻作戦が始まり、敵軍を押し返す日が来る。

いつか帝国軍の艦艇や航空機がこの島へ戻り、占領された土地を取り戻してくれる。

いつか、この島にも再び平穏な日常が戻ってくる。

そんな淡い期待だけを心の支えにしながら、人々は不安に耐えて日々を過ごしていた。

戦争が続いている以上、何もかもが以前と同じというわけではなかったが、それでも人々は必死に普段通りの生活を守ろうとしていた。

だからこそ、その日に島へ届いた報告は、島全体の空気を一瞬にして変えてしまった。

最初にその知らせを受け取ったのは基地の通信担当だった。

受信した報告書を何度も読み返し、内容に間違いがないことを確認した後、担当兵は上官へ報告した。

そして、その情報は瞬く間に基地内部へと広がり、やがてどこから漏れたのか島で暮らす一般の人々の耳にも届いていった。

グリム王国。

リヴェリア共和国。

そしてセレナ連合。

その三か国が、ヴェルテクス連邦側としてノルヴァイン帝国へ宣戦布告したという知らせだった。

それを聞いた瞬間、島の空気は凍り付いた。

誰かが大声を上げるわけでもなく、誰かが泣き出すわけでもなかった。

ただ、これまで街にあった僅かな活気が、まるで誰かに奪い取られたかのように消えていった。

帝国は、それまでにもすでに複数の戦線を抱えていた。

兵士も、物資も、航空機も、艦艇も、決して無限に存在するわけではない。

それでも帝国軍は各地の戦線を維持しながら、何とか敵の攻勢を食い止めようとしていた。

そこへ、新たに三か国が加わった。

軍事について詳しい知識を持たない島民ですら、それが何を意味するのかを理解するには十分だった。

帝国軍の戦力はさらに分散される。

新しい戦線が生まれる可能性がある。

これまで戦場になっていなかった地域にも、戦争が押し寄せるかもしれない。

そして何より、この島へ助けが奪還部隊が送られてくる可能性は、これまで以上に低くなった。

帝国軍の助けは来ない。

少なくとも、すぐには来ない。

そう考えた者が大半だった。

街には重苦しい沈黙が広がった。

酒場からは、それまで聞こえていた人々の笑い声が消えていた。

いつもなら客同士の冗談や店主の怒鳴り声が飛び交う場所にも、今は小さな話し声しか聞こえなかった。

市場でも人々の口数は明らかに減っていた。

誰もが不安を抱えていた。

これから何が起こるのか分からない。

この島はいつまで持ちこたえられるのか分からない。

そして、自分たちの家族や友人が無事でいられる保証など、どこにもなかった。

アレンもまた、その重苦しい空気を肌で感じていた。

だが、彼には一つだけ理解できないことがあった。

エトワール隊の面々も、明らかに暗い顔をしていたのだ。

それだけではなかった。

彼らは怒っていた。

まるで、この知らせそのものを憎んでいるかのようだった。

格納庫の片隅で、アレンは黙ったまま彼らの様子を見つめていた。

普段なら冗談を言っている者もいるはずなのに、その日は誰一人として笑っていなかった。

整備兵たちが作業する音だけが、広い格納庫の中に虚しく響いていた。

その沈黙を最初に破ったのは、ヴェータだった。

「これはどういうことだ」

低く押し殺したような声だった。

普段の彼なら、どれほど悪い状況でも感情を表に出すことは少なかった。

しかし今のヴェータは違っていた。

机に置かれていた拳が強く握り締められ、その指先には力が込められていた。

そして次の瞬間、ヴェータは机を強く叩いた。

鈍い音が格納庫の一角に響き渡った。

アレンは思わず肩を震わせた。

これほど露骨に感情を露わにするヴェータの姿など、これまで一度も見たことがなかった。

「これはどういうことだ……」

もう一度、ヴェータが呟いた。

だが、誰も答えなかった。

ハルドも、ルドガーも、レオンも、ロアルドも、ただ黙ったまま視線を落としている。

その直後だった。

「クソッタレ……」

吐き捨てるように呟いたのはハルドだった。

いつもの彼なら、どんな状況でも皮肉の一つくらいは口にする。

しかし今の声には、そんな余裕など一切なかった。

アレンは困惑した。

何故だ。

確かに帝国側からすれば、三か国の参戦は明らかに悪い知らせだった。

敵側の戦力が増える以上、これから戦況がさらに厳しくなることはアレンにも理解できる。

だが、それでも何故味方の増えたヴェルテクス連邦のエトワール隊の全員が、ここまで怒っているのかまでは分からなかった。

ルドガーも険しい表情を浮かべていた。

レオンも、ロアルドも、普段なら何かしら言葉を交わすはずなのに、今日は誰も口を開かなかった。

その場にいる誰一人として、この知らせを喜んでいる者はいなかった。

アレンには、その理由が分からなかった。

そして、その日の夜になった。

アレンは営舎のベッドに横になっていた。

しかし、目を閉じてもなかなか眠ることができなかった。

昼間に聞いた知らせが、頭の中から離れなかったからだ。

グリム王国。

リヴェリア共和国。

セレナ連合。

三か国の名前が、何度も頭の中を巡っていた。

窓の外では、夜の島を吹き抜ける風が建物の壁を静かに揺らしていた。

遠くから聞こえる波の音も、いつもなら眠りを誘うはずなのに、その夜だけは妙に不気味に感じられた。

アレンは寝返りを打った。

それでも眠れない。

やがて、窓の外から微かな声が聞こえてきた。

誰かが話している。

アレンはゆっくりと目を開いた。

しばらく耳を澄ませる。

間違いない。

複数の人間が話している声だった。

アレンは静かに上体を起こした。

周囲を確認し、それから音を立てないようにベッドを降りる。

靴を履き、上着を羽織ると、できるだけ足音を立てないよう営舎の外へ出た。

夜の空気は昼間よりも冷たかった。

基地内の照明は最低限に抑えられており、遠くにある格納庫だけが薄暗い明かりに照らされていた。

声は、そこから聞こえていた。

アレンは慎重に歩き、格納庫の近くまで進んだ。

そして物陰から、そっと中を覗き込んだ。

そこには、エトワール隊のアレクセイを除いた全員が集まっていた。

いつもなら誰かが軽口を叩いているはずの場所だった。

だが、その夜は誰一人として笑っていなかった。

その場に漂う空気は、まるで葬式のように重かった。

「クソ……」

誰かが小さく呟いた。

しばらくして、その沈黙を破ったのはルドガーだった。

「どうしてだ」

その声は震えていた。

怒りなのか、悔しさなのか、それとも別の感情なのか、アレンには判断できなかった。

ただ、握り締められた拳だけが、その感情の大きさを物語っていた。

「どうしてこのタイミングなんだ……」

誰も答えなかった。

いや、答えられなかった。

おそらく、そこにいる全員が答えを知っていたからだ。

グリム王国。

リヴェリア共和国。

セレナ連合。

その三か国が参戦したことで、戦争はさらに大きくなる。

今まで戦場ではなかった場所まで戦火が広がっていく。

これまで戦争とは無縁だった街が、戦場になるかもしれない。

何も知らない兵士たちが新たに戦地へ送られ、帰ってこなくなるかもしれない。

新しい街が戦火に巻き込まれ、新しい家族が離れ離れになるかもしれない。

そして、新しい子供たちが親を失うことになるかもしれない。

それを、エトワール隊の面々は誰よりも理解していた。

彼らは前線を知っている。

戦場で何が起きるのかを知っている。

一度戦争が始まれば、それが簡単には終わらないことも知っている。

だからこそ、三か国の参戦を単純な戦力増強として見ることなどできなかった。

敵が増えたということは、それだけ戦場が増えるということでもある。

戦場が増えれば、それだけ戦争に巻き込まれる人間も増えていく。

そして戦争に巻き込まれる人間が増えれば、それだけ失われるものも増えていく。

アレンは物陰から、その姿をじっと見つめていた。

何故彼らが怒っているのか、その理由が少しずつ見えてきたような気がした。

それでも、まだ完全には理解できなかった。

ただ一つだけ確かなことがあった。

この戦争は、もう誰にも止められないほど大きくなろうとしていた。

そして、そのことを最も早く理解していたのは、アレンよりもずっと戦場を知っている彼らだった。

アレンは息を潜めたまま、物陰から彼らの会話を聞き続けていた。

________________________________________________

ハルドが珍しく真面目な顔をしていた。

普段なら、どれほど重苦しい状況であっても軽口を叩き、誰かを笑わせようとする男だった。

仲間が沈んでいれば冗談を飛ばし、空気が悪くなればわざと馬鹿なことを言って場を和ませる。

そんなハルドが、今夜だけは一度も笑っていなかった。

薄暗い格納庫の照明に照らされた横顔には、これまでアレンが見たことのないほど深い疲労と、隠しきれない諦めの色が浮かんでいた。

「……中佐はまだ独立なんてできると思ってるんですか」

その問いが落ちた瞬間、格納庫の中に重い沈黙が流れた。

誰もすぐには答えなかった。

ヴェータは腕を組んだまま、しばらく何も言わずに床を見つめていた。

その表情からは、普段の冷静ささえ僅かに失われているように見えた。

やがて、ヴェータは静かに口を開いた。

「だいぶ厳しい」

その声には隠しようのない苦さが滲んでいた。

「少なくとも、これで帝国が勝利する可能性は少なくなった」

誰も反論しなかった。

反論できなかった、と言った方が正しかった。

この場にいる全員が、同じことを考えていたからだ。

三か国の参戦は、単純に数が増えたというだけの話ではない。

それによって戦争そのものの形が変わってしまう。

これまで複数の戦線を抱えていた帝国は、さらに広大な地域へ戦力を振り分けなければならなくなる。

戦線はさらに拡大し、必要とされる兵士の数も増え、補給線は長くなり、戦争の終わりはさらに遠ざかっていく。

そして、それは彼らにとって何よりも重大な問題だった。

ヴェータはゆっくりと拳を握った。

「このままヴェルテクス連邦が勝利すれば、もう二度と祖国は復権しない」

その言葉を聞いた瞬間、そこにいた全員が顔を伏せた。

誰もその現実から目を逸らすことができなかった。

彼らは今、ヴェルテクス連邦軍の軍服を着ている。

胸元には連邦軍人であることを示す徽章があり、肩には所属を示す記章が付けられている。

外から見れば、彼らは疑いようのない連邦軍人だった。

しかし、その軍服に誇りを持つ者は、この場には一人もいなかった。

祖国を奪われた者。

国旗を消された者。

自分たちの言葉を禁じられた者。

先祖から受け継いできた歴史を書き換えられた者。

そして、生まれ育った国そのものを地図から消された者。

この場にいるほとんど全員が、そんな過去を抱えていた。

ルドガーが、自分の軍帽を握り潰すように強く掴んだ。

布地が大きく歪み、指の間から皺が広がっていく。

「このヴェルテクス連邦の軍服を着て、俺たちは何をしたかったんだ」

誰かに向けた問いではなかった。

だからこそ、誰も答えられなかった。

その言葉は、彼自身に向けられた問いでもあった。

自分たちは何のために、この軍服を着ているのか。

何のために銃を持ち、何のために空へ上がり、何のために敵機を撃ち落としてきたのか。

ロアルドが静かに口を開いた。

「矛盾した願いを持った報いだろ」

その口元には、自嘲するような笑みが浮かんでいた。

「連邦を滅べと思いながら、連邦に従った」

誰も否定できなかった。

彼らは確かにヴェルテクス連邦軍人だった。

命令を受ければ出撃し、敵と戦い、与えられた任務を遂行してきた。

しかし同時に、彼らは連邦そのものを憎んでいた。

自分たちの祖国を奪った存在だったからだ。

それでも軍を離れなかった。

離れることができなかった。

空を飛ぶためだった。

仲間を守るためだった。

そして、いつか来るかもしれない未来のためだった。

いつか戦争が終わり、連邦が敗北し、祖国が再び独立できる日が来るかもしれない。

その僅かな可能性だけを信じて、彼らは連邦軍の軍服を着続けていた。

ヴェータは遠くの闇を見つめていた。

格納庫の開いた扉の向こうには、夜の空が広がっている。

星の少ない暗い空だった。

「この戦争で我々が敗北すれば、祖国は復権できた」

静かな声だった。

しかし、その言葉には彼自身が長い間抱えてきた願いが込められていた。

「少なくとも、その可能性は高かった」

誰も口を挟まない。

ヴェータはゆっくりと言葉を続けた。

「この戦争で連邦が敗北すれば、帝国は必ず連邦を解体する」

その予測は、決して荒唐無稽なものではなかった。

この戦争で流された血は、もはや数えることさえできないほどだった。

帝国側にも連邦側にも、多くの兵士が倒れ、更に帝国側では多くの民間人がヴェルテクス連邦の手によった殺されていた。

もし帝国がこの戦争に勝利すれば、その報復を避けることは難しいだろう。

「帝国の民を殺した連邦を消し、昔の状態へ戻すはずだった」

ヴェータの声が少しずつ小さくなっていく。

「そうなれば、我々の国も戻るかもしれなかった」

沈黙が落ちた。

誰も何も言えなかった。

それは彼らが何年もの間、心の奥底で願い続けていたことだった。

そして、その願いのために彼らは戦ってきた。

ハルドが俯き、両手で顔を覆った。

「俺たちは、何のために人を殺してきたんだ」

その言葉は、夜の冷たい空気へ静かに溶けていった。

空で。

雲の上で。

彼らは数え切れないほどの命を奪ってきた。

敵機を撃墜し爆撃を行った。

そこが民間施設だろうとどこだろうと彼らは戦い続けた。

いつか祖国へ帰る日が来ると信じていたからだ。

いつか自分たちの国の旗が再び空に掲げられる日が来ると信じていたからだ。

いつか、地図から消された国の名前が再び地図へ戻る日が来ると信じていたからだ。

その時だった。

ロアルドがゆっくりと顔を上げた。

「中佐」

ヴェータが視線を向ける。

ロアルドはしばらく黙っていたが、やがて静かに言葉を続けた。

「少なくとも私は」

その瞳は揺れていなかった。

「我々は、祖国の復活を夢見てここまで来ました」

静かな声だった。

しかし、その奥には確かな意思があった。

これまで戦ってきた年月を否定するつもりはないという意思が、そこにはあった。

「ヴァルディア大陸は、五十年前の地図に戻る」

その言葉を聞いても、誰も笑わなかった。

誰も夢物語だとは言わなかった。

なぜなら、この場にいる全員が、その可能性を一度は夢見たことがあったからだ。

「連邦上層部は死に」

ロアルドは一つずつ、言葉を選ぶように続けた。

「ヴェルテクス連邦は、世界から消える」

その言葉には確かに憎しみがあった。

自分たちの祖国を奪った連邦という存在に対する、長年積み重なった憎しみだった。

しかし、それ以上に強かったのは、願いだった。

失われたものを取り戻したいという、切実な願いだった。

「そして我々の国にも……」

ロアルドはそこで言葉を止めた。

しばらく黙った後、強く拳を握った。

「もう一度、名前が戻るかもしれない」

誰も何も言わなかった。

消された国の失われた旗、そして奪われた歴史に文化。

語ることさえ許されなかった祖国の名前。

それら全てが、いつの日か戻ってくるかもしれない。

その可能性だけが、彼らを長い間戦わせてきた。

「それだけを信じて」

ロアルドがそう呟いた直後、格納庫の外から冷たい夜風が吹き込んできた。

風に押されて扉が僅かに揺れ、照明の光が床の上で静かに震えた。

誰も言葉を返さなかった。

しかし、その場にいた全員が同じものを胸に抱えていた。

祖国。

もう存在しない故郷。

かつて確かにそこにあった国。

地図から消された国の名前。

それだけが、彼らを今まで戦わせてきた理由だった。

彼らは帝国のためだけに戦っていたわけではなかった。

連邦のために戦っていたわけでもなかった。

自分たちがいつか帰ることのできる場所を取り戻すために、彼らは戦っていた。

そのためなら、自分たちが憎んでいる連邦の軍服を着ることさえ受け入れた。

そのためなら、敵機へ向かって飛ぶことも受け入れた。

仲間が帰ってこない夜を耐えることさえ受け入れた。

そして今、その願いそのものが、三か国の参戦によって遠ざかろうとしている。

アレンは物陰から、その会話を一言も聞き漏らさないようにしていた。

胸の奥に、何とも言えない重さが生まれていた。

今までアレンが見ていた彼らは、ただの連邦軍人だった。

自分たちの故郷を奪った側に立ち、帝国と戦う敵兵だと思っていた。

しかし、それは違った。

少なくとも、心の中まで連邦に忠誠を誓っていたわけではなかった。

彼らもまた、戦争によって故郷を奪われた者たちだった。

国を奪われ、名前を奪われ、歴史を奪われ、それでも失ったものを取り戻すことだけを願って生きてきた。

その姿は、どこか自分自身と重なって見えた。

アレンは、物陰から彼らを見つめたまま、初めて理解した。

彼らは連邦軍人だった。

だが、それは彼らの全てではなかった。

そして自分もまた、戦争によって故郷を奪われた人間だった。

立っている場所も、着ている服も、戦っている相手も違う。

それでも胸の奥に残されたものだけは、きっと同じだった。

奪われた故郷を忘れられないという、その感情だけは。

________________________________________________

ロアルドは長い沈黙のあと、震える声でゆっくりと口を開いた。

「私は、私が犯したこの罪を許しはしない」

その声には、いつもの穏やかさがどこにもなかった。

まるで長い間胸の奥へ押し込めていたものを、とうとう隠しきれなくなったかのようだった。

「なにより、私が殺した者たちが許さないでしょう」

その言葉が薄暗い格納庫の中へ落ちた。

誰も口を挟まなかった。

夜の冷たい空気が開け放たれた扉から流れ込み、天井から吊り下げられた照明が僅かに揺れている。

薄暗い空間の中で、エトワール隊の全員がただ黙ってロアルドを見つめていた。

ロアルドは俯いたまま、固く握り締めた拳へ視線を落とした。

その拳は小さく震えていた。

「祖国の復活を見たら、私は死ぬ予定でした」

その言葉が落ちた瞬間、格納庫の空気が凍り付いた。

「「「……!!!」」」

誰もが息を呑んだ。

その場にいた全員が、一瞬だけ言葉を失った。

冗談だと思いたかった。

聞き間違いであってほしいと思った。

しかし、ロアルドの顔には冗談を言っている者の表情など微塵もなかった。

最初に反応したのはハルドだった。

「お前、何を言ってんだ!!」

その声には、普段の軽い調子が完全に消えていた。

それでも、その声には明らかな動揺が滲んでいた。

ハルドは一歩だけロアルドへ近づいた。

まるで、今の言葉をもう一度聞き直そうとしているかのようだった。

ロアルドは顔を上げなかった。

「いっそ、黒翼と踊って死のうと、最近はずっと思っていました」

その言葉を聞いた瞬間、誰も何も言わなくなった。

ロアルドの言っていることが決して冗談ではないと全員が理解していたからだ。

「……」

ロアルドは静かに続けた。

「祖国の復活が叶わないなら、この罪はどうすればいいんでしょう」

その声は、先ほどまでよりもさらに小さかった。

「殺した者たちは、私を許さない」

一度言葉を切り、拳を強く握る。

「私自身が、許せない」

誰も言葉を返せない。

返す言葉がなかった。

何を言えばいいのか分からなかった。

励ますこともできなかった。

否定することもできなかった。

なぜなら、ロアルドが口にしていることは、この場にいる全員が心のどこかで考えていたことでもあったからだ。

ただ時計の針だけが、一定の間隔で音を刻んでいた。

カチ、カチ、と乾いた音が、静まり返った格納庫の中へ響いていく。

「私は無抵抗の民間人に爆弾を落とし殺そうとも、敵を墜してもそれでも、祖国のためだと思った」

ロアルドの声は震えていた。

「いつか祖国が復活するなら」

「いつか故郷に名前が戻るなら」

「この罪にもこの血に汚れた手にも意味があると思った」

彼はそこで一度言葉を切った。

ゆっくりと顔を上げる。

その瞳は、目の前にいる仲間たちを見ていなかった。

もっと遠い場所を見ているようだった。

もう存在しない故郷を見ているようだった。

かつて自分たちが暮らしていた街。

かつて掲げられていた旗。

かつて当たり前のように呼んでいた国の名前。

それらは今、この世界のどこにも存在していない。

「私は、アレン君と会って思ったんです」

その名前が出た瞬間、部屋の空気がさらに重くなった。

誰もが、あの日のことを思い出していた。

秘密警察によって叔父を奪われた少年。

戦争によって家族を失った少年。

そして、自分が帰る場所さえも失ってしまった少年。

ロアルドは苦しそうに言葉を絞り出した。

「彼の家族を、叔父が死んだのは私たちのせいだ」

アレンは物陰で息を止めた。

その言葉が、自分自身へ向けられたもののように感じられた。

「この街を爆撃機が爆撃できるように帝国機を落としそして爆弾を落としたのも」

ロアルドの声が震える。

「秘密警察をこの島に入れたのも」

「全て、私たちがやった」

誰も否定しなかった。

ルドガーは黙ったまま床を見つめていた。

先ほどまで強く握っていた軍帽は、今では力なく膝の上に置かれている。

ハルドも何も言えなかった。

いつもの彼なら、何か言葉を探していただろう。

冗談でもいい。

馬鹿げた話でもいい。

何か一言口にして、この重苦しい空気を壊そうとしたはずだった。

しかし、今だけは何も言えなかった。

レオンは腕を組んだまま目を閉じていた。

その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。

そしてヴェータだけが、静かにロアルドを見つめていた。

何も言わず、ただ彼の言葉を受け止めていた。

「そして何より」

ロアルドは震える声で続けた。

「私たちが、彼の故郷を奪った」

その言葉は、アレンの胸へ深く突き刺さった。

「私は連邦の犬になるために軍人になったんじゃない」

ロアルドは拳を強く握り締めた。

「そんなことのために、この隊に入ったわけじゃないんです」

握り締めた拳に力が込められる。

爪が掌へ食い込むほど強く握られていた。

それでも、彼は拳を開かなかった。

痛みさえも忘れようとしているかのようだった。

「あの日、初めてアレン君に会った日」

ロアルドの声が僅かに掠れた。

「秘密警察に叔父を殺されたと聞いたとき」

「私は、断腸の思いでした」

そこまで言ったところで、ロアルドは一度目を閉じた。

胸の奥から込み上げてくるものを押し殺すように、ゆっくりと息を吐く。

「私は祖国を取り戻したかっただけなんです」

その言葉は、酷く弱々しかった。

「それなのに」

ロアルドは俯いた。

「気付けば私は、誰かから祖国を奪う側になっていた」

誰も否定できなかった。

それは、この場にいる全員が抱えている矛盾だった。

故郷を失った者たちが。

祖国を奪われた者たちが。

自分たちの国を取り戻すために戦いながら別の誰かの故郷を焼き別の誰かの家族を奪って別の誰かに、自分たちと同じ絶望を与えていた。

彼らが憎んでいたものと、彼ら自身の行動が、いつの間にか重なっていた。

ロアルドの声は、もうほとんど掠れていた。

「私たちは、祖国のためだと言いながら」

その声が静かな格納庫へ響く。

「別の誰かから、祖国を奪っていた」

誰も動かなかった。

「故郷を守りたいと願いながら」

ロアルドの瞳に涙が浮かんだ。

「別の誰かの故郷を焼いていた」

一筋の涙が、頬を伝って落ちた。

誰も笑わなかった。

誰も責めなかった。

誰も彼を慰めることすらできなかった。

なぜならここにいる全員が、同じ罪を抱えていたからだ。

誰もが誰かを殺した。

誰もが誰かの故郷を焼き、壊した。

そして誰もが、その行為を正しいことだと信じようとしていた。

祖国のためだと。

仲間のためだと。

未来のためだと。

そう言い聞かせなければ、これまで自分たちがしてきたことに耐えられなかったからだ。

ロアルドは力なく顔を上げた。

その目には、涙が残っていた。

静かな格納庫へ落ちる。

「私たちの今までは」

そこで言葉が止まった。

誰も口を開かなかった。

誰も答えを探そうとはしなかった。

ロアルドは震える息を吐きながら、最後の言葉を絞り出した。

「一体、何だったんでしょうか……」

その問いに答えられる者は、誰一人いなかった。

________________________________________________

「隊長……」

重苦しい沈黙が続いていた格納庫の中で、ヴェータのその声だけが静かに響いた。

全員が一斉に振り返る。

そこに立っていたのは、アレクセイだった。

治療を終えたばかりの身体には、まだ戦闘の痕跡が残っていた。

包帯の巻かれた腕も、疲労の残る顔も、決して万全とは言えない状態だった。

それでも、その瞳だけは以前と何も変わっていなかった。

強い光を宿している。

まるで、どれだけ身体が傷つこうとも、空を飛ぶことだけは諦めないとでも言うような目だった。

アレクセイはゆっくりと格納庫の中を見渡した。

そこにいる仲間たちは、誰も顔を上げていなかった。

ロアルドは涙を拭ったばかりだった。

ハルドは拳を握ったまま、床を睨み付けている。

ルドガーは軍帽を膝の上に置き、深く俯いていた。

レオンは腕を組んだまま目を閉じている。

ヴェータだけが、静かにアレクセイの方を見つめていた。

そこにいるのは、祖国を失った者たちだった。

故郷を奪われた者たちだった。

自分たちが何のために戦ってきたのかさえ、分からなくなりかけている者たちだった。

そして何より、自分たちが失ったものを取り戻そうとする過程で、気付けば誰かの故郷を奪う側にもなってしまった者たちだった。

アレクセイは、そんな仲間たちをしばらく黙って見つめていた。

やがて、静かに口を開く。

「君たちのやってきたことは、決して無駄ではない」

その言葉に、ルドガーがゆっくりと顔を上げた。

だが、その表情に浮かんでいたのは救われたような安堵ではなかった。

むしろ、苦しそうな表情だった。

「ですが、もう……」

そこまで言って、ルドガーは言葉を失った。

続きが出てこなかった。

無駄ではないと言われても、失われた命は戻らない。

焼かれた街も戻らない。

奪われた家族も、失われた故郷も、もう元には戻らない。

それを彼自身が誰よりも理解していた。

代わりに、ハルドが立ち上がった。

椅子が床を擦る音が、静かな格納庫の中に響く。

その動きは乱暴だった。

今にも目の前の机を叩きそうなほど、肩には力が入っていた。

「隊長、もう無駄なんだよ」

誰も止めなかった。

ハルドの声には、抑えきれない感情が込められていた。

「俺たちがやってきたこと、その全部がだ!!」

一度言葉を切る。

そして、堰を切ったように続けた。

「坊主の家族を奪った」

「故郷を奪った」

「なんのためだ」

その声は、もはや怒鳴り声に近かった。

「全部、祖国のためだと信じてやってきたんだ」

握り締めた拳が震えている。

そこに込められていたのは、単純な怒りではなかった。

自分自身に対する怒りだった。

過去の自分に対する怒りだった。

そして、どれだけ後悔しても取り戻すことのできない現実に対する怒りだった。

「俺たちは国を取り戻したかった」

ハルドは苦しそうに言った。

「ただ、それだけだったはずなんだ」

誰も何も言わない。

「なのに、気付いたら俺たちが誰かから同じものを奪ってた」

声が震える。

「そんなことをするために戦ってたわけじゃねぇんだよ」

アレクセイは黙って聞いていた。

途中で口を挟むこともなかった。

ハルドが言いたいことをすべて吐き出すまで、ただ静かにその場に立っていた。

やがてハルドの声が途切れる。

格納庫の中に、再び沈黙が戻った。

アレクセイはしばらく目を閉じていた。

そして、ゆっくりと目を開く。

「なら、その罪を背負うしかない」

静かな言葉だった。

しかし、その言葉には迷いがなかった。

誰も動かなかった。

「少しでも後ろめたいと感じるなら、その気持ちを忘れるな」

アレクセイは、一人一人の顔を見ながら続けた。

「忘れた瞬間、人は本当の意味で壊れる」

その言葉は静かだった。

怒鳴っているわけでもない。

誰かを責めているわけでもない。

それでも、その場にいる全員の胸へ真っ直ぐ届いた。

罪悪感を消すことが正しいわけではない。

過去を忘れることが救いになるわけでもない。

むしろ、自分たちが何をしてきたのかを覚えておくことこそが、これから生きていくために必要なのだと、アレクセイは言っていた。

誰も反論しなかった。

「今の我々は、帝国の奴らと戦うしかない」

その言葉に、全員の表情が僅かに変わった。

「そして黒翼と戦うしかない」

その瞬間、アレクセイの瞳が、僅かに輝いた。

先ほどまでの苦悩とは明らかに違う光だった。

ヴェータもまた、小さく息を吐いた。

黒翼。

あの空で出会った存在。

自分を何度も追い詰め、それでもなお彼らが追い続けてきた存在。

敵として出会った、圧倒的な強者。

アレクセイにとって、その名前は特別だった。

祖国でもない。

復讐でもない。

名誉でもない。

ただ純粋に、空の上で己の限界を超えるために追い求めている相手だった。

アレクセイは迷いなく言った。

「私は彼と戦い、技の限りを尽くせるなら」

その声には、先ほどまでの苦悩とは別の強さがあった。

「たとえ墜とされ、死んだとしてもいい」

その言葉に、誰も驚かなかった。

ハルドも。

ルドガーも。

ロアルドも。

レオンも。

そしてヴェータも。

皆、理解していた。

それがアレクセイという男なのだ。

彼にとって、戦いとは祖国のためだけに存在するものではなかった。

名誉のためでもない。

金のためでもない。

ましてや誰かから認められるためでもなかった。

彼はただ、空の果てを求めていた。

誰よりも高く。

誰よりも遠く。

そして、誰よりも強い存在との戦いを求めていた。

それが彼にとって、空を飛ぶ理由だった。

「そのためなら、私はなんでもやる」

静かな声だった。

しかし、その言葉には確固たる覚悟があった。

格納庫の中に漂っていた重苦しい空気が、僅かに変わった。

ロアルドは頬に残った涙を拭った。

ハルドは唇を強く噛み締めた。

ルドガーは深く息を吐き、握っていた軍帽からゆっくりと手を離した。

誰も救われたわけではない。

誰の罪も消えてはいない。

失ったものが戻ったわけでもない。

祖国が復活したわけでもない。

そして、アレンから奪ったものが元に戻るわけでもなかった。

それでも、明日になれば彼らは飛ぶ。

罪を抱えたまま。

後悔を抱えたまま。

失った故郷を胸に抱えたまま。

それでも翼に乗り、空へ上がる。

そして、戦い続ける。

アレクセイは、そんな仲間たちを一人ずつ見渡した。

誰もが疲れていた。

誰もが迷っていた。

それでも、まだ立っている。

まだ飛ぶことができる。

アレクセイは静かに言った。

「覚悟を決めるんだ」

その言葉だけが、重く格納庫の中に残った。

外では夜風が吹いていた。

遠くから波の音が聞こえている。

その静かな音の向こうで、戦争は今も続いていた。

そして彼らもまた、夜が明ければ再び空へ向かうことになる。

自分たちが背負った罪を、決して忘れないまま。

次回現在のアレンの視点に戻ります。


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