消えない記憶
「あ~食った食った」
男は独り言を漏らしながら、ゆっくりと湯船へ身体を沈めた。
肩まで湯に浸かった瞬間、張り詰めていた身体の力が一気に抜けていき、思わず長い息が口から漏れる。
「……はぁ」
久しぶりだった。
こうして何も考えずに湯へ身体を預け、誰にも急かされることなく、ただ静かに時間を過ごすのは本当に久しぶりだった。
男は浴槽の縁へ頭を預け、天井を見上げた。
白い湯気が天井付近へゆっくりと昇り、浴室の明かりをぼんやりと霞ませている。
今日食べた料理は、グリム王国独特の香辛料がかなり効いたものだった。
最初に運ばれてきたときには、正直なところ自分の口に合うのか少しばかり不安だった。
しかし、そんな心配はほとんど必要なかった。
空腹だったこともある。
それ以上に、ここ数日の間にまともな食事を取れていなかったことも大きかった。
口へ運んだ料理は驚くほど美味く感じられた。
香辛料の強い香りも、今となってはむしろ食欲を刺激するものとして心地よく感じられたほどだった。
思えば、この一週間でまともに食事をした記憶などほとんどない。
移動しながら簡単なものを腹へ入れ、時間がなければ食事そのものを後回しにする。
カイの手掛かりを探すことを優先して、腹が減っていることすら忘れていた。
だからこそ、今日の食事は妙に身体へ染みた。
男は湯船の中で自分の腹を軽く撫でた。
「食ったなぁ……」
誰に聞かせるでもなく、もう一度呟く。
浴室には返事などない。
あるのは湯が僅かに揺れる音と、換気口から聞こえる小さな機械音だけだった。
その静けさが心地よかった。
ここ数日間は、静かな時間そのものが少なかった。
移動して、情報を集めて、襲撃を警戒し、カイの痕跡を探し、また移動する。
常にどこかで気を張っていた。
だが今だけは、その必要がない。
男は目を閉じた。
温かな湯に包まれた身体から、少しずつ疲労が抜けていく。
重たかった肩も、固くなっていた首も、ようやく力を抜くことができた。
そして目を閉じたことで、視界から現実が消えた。
その代わりに浮かんできたのは、どうしても忘れられない過去の光景だった。
士官学校。
まだ何も失っていなかった頃の記憶。
あの頃は、皆がいた。
カイもいた。
エリスもいた。
誰一人として欠けることなく、同じ場所に集まり、同じ空を見上げていた。
まだ戦争の本当の恐ろしさを知らなかった頃だった。
男の口元に、ほんの僅かな笑みが浮かんだ。
エリスは、自分とは正反対の人間だった。
頭の回転が速く、物事を理解するのも早い。
教官が説明する前に答えを出してしまうことさえあり、授業中に教官たちを何度も驚かせていた。
学科試験では常に上位にいた。
ただ成績が良いというだけではない。
一度覚えたことを応用する能力にも長けていて、知識を実際の状況へ当てはめることにも優れていた。
知識量だけなら、カイと真正面から張り合える数少ない人間だった。
それに比べて、自分は勉強が苦手だった。
机に向かって教本を読むくらいなら、格納庫へ行って航空機を眺めていた方がよほど楽しかった。
難しい理論を覚えるよりも、実際に操縦席へ座って操縦桿を握っている方が性に合っていた。
教官から何度怒られたかなど、もう覚えていない。
「お前はもう少し勉強しろ」
何度もそう言われた。
それでも机に向かうと眠くなる。
反対に、操縦席へ座れば眠気など一瞬で吹き飛んだ。
エンジンが始動し、機体が滑走路を走り、地面から離れる瞬間。
あの感覚だけは、どれだけ時間が経っても忘れることができなかった。
空を飛ぶことだけなら負けない。
それだけが、自分にとっての誇りだった。
男は目を閉じたまま、湯船の中で小さく笑った。
そして、そんな二人の中心にいたのがカイだった。
頭が良かった。
操縦技術も高かった。
どちらか一方だけが優れている人間なら、まだ納得できた。
だがカイは、その両方を当たり前のように持っていた。
学科試験でも上位に入り、操縦訓練でも優秀な成績を残す。
しかも本人は、それを特別なことだと思っている様子すらなかった。
今思えば、あまりにも反則みたいな男だった。
男は湯の中で鼻を鳴らした。
「……ほんと、反則だったよな」
もちろん返事はない。
ただ、昔の記憶だけが静かに蘇ってくる。
三人でいれば何でもできる。
あの時は、本気でそう思っていた。
三人で並んで歩けば、それだけで何か大きなことができるような気がした。
どんな難しい任務でも、どんな危険な場所でも、三人なら乗り越えられると思っていた。
本気で、自分たちは無敵だと思っていた。
若さゆえの万能感だったのだろう。
世界の広さも知らない。
戦争が人間から何を奪うのかも知らない。
自分たちがいつまでも同じ場所にいられるなどという保証など、どこにもなかった。
それでも、当時はそんなことを考えもしなかった。
卒業したら同じ部隊へ行こう。
そんな話を何度もした。
任官したら同じ部隊へ配属されて、三人で飛ぼう。
どんな任務が来ても三人なら何とかなる。
そんな未来を、当たり前のように語り合っていた。
休暇になれば世界中を飛び回ろうとも話した。
まだ訪れたことのない国へ行って、知らない街を歩いて、現地の料理を食べて、空を飛んで帰ってくる。
そんな他愛もない未来の話を、三人で何度もした。
退役したら航空会社でも作るか。
そんな冗談まで言った。
冗談半分だったはずなのに、今思えば、その場にいた全員が割と本気だった。
誰かが本当にやろうと言い出したら、三人とも真剣に計画を立て始めていたかもしれない。
男は目を閉じたまま、小さく笑った。
「馬鹿だったなぁ……」
その声は、湯気の向こうへ静かに消えていった。
誰に向けた言葉でもない。
昔の自分たちへ向けた言葉だったのかもしれない。
あの頃の自分たちは、未来が永遠に続くと思っていた。
明日も、その次の日も、そのまた次の日も、同じ仲間と同じ場所にいる。
卒業して、部隊へ行って、戦場へ出ても、いつかまた戻ってこられる。
そんな未来を、一度も疑ったことがなかった。
だが、現実は違った。
一人は煙のように姿を消し一人は、もう会うことのできない場所へ行ってしまった。
そして、残されたのは自分だけだった。
男は両目を閉じたまま、深く息を吐いた。
湯気が鼻先を通り過ぎる。
「……あれから何年経ったんだろうな」
正確な年月を数えることさえ、今では意味がないように思えた。
戦争は終わった。
それでも、終わったからといって、全てが元通りになるわけではなかった。
英雄。
エース。
そんな呼び名を何度も聞かされた。
表彰され、称賛され、知らない人間から声を掛けられることも増えた。
だが、気付けば周囲には知らない顔ばかりが増えていた。
かつて同じ場所にいた人間たちは少しずつ消えていった。
新しく入ってきた人間たちは、自分の知らない時代の軍人になっていた。
それでも心のどこかでは、今でも自分だけが士官学校の格納庫に取り残されているような感覚があった。
工具の音と航空機のエンジン音に教官の怒鳴り声。
そして、隣にいるカイとエリス。
目を閉じれば、今でも簡単に思い出せる。
あの頃から、自分だけがほとんど何も変われていないような気さえした。
戦争が終わって何年経っても、心の中にはあの頃の自分たちが残っている。
だからこそ、カイを探している。
任務だからではない。
軍の命令だからでもない。
もちろん、帝国のためという理由もある。
だが、それだけではなかった。
どうしても聞きたいことがあった。
なぜ消えたのか。
なぜ誰にも何も言わなかったのか。
なぜ自分たちを置いていったのか。
そして、今まで一体どこで何をしていたのか。
その答えだけは、どうしても本人の口から聞かなければならなかった。
誰かから聞いた話では意味がない。
推測でも駄目だった。
カイ本人から聞かなければならない。
男は額へ手を当てた。
湯に浸かっているにもかかわらず、指先には僅かな力が入っていた。
「なぁ……」
浴室へ声が響く。
だが、当然ながら返事はない。
「俺はどうすればいいんだ……」
声は先ほどよりも小さかった。
問い掛けた相手は、この場にはいない。
だから答えが返ってくるはずもない。
あるのは湯気と静寂だけだった。
男はしばらくそのまま動かなかった。
ただ静かに湯へ身体を預け、目を閉じたまま時間を過ごす。
やがて、湯の熱が少しずつ身体へ馴染んでいく。
疲労も、緊張も、ほんの少しずつ抜けていった。
だが、心の奥に残っているものだけは消えなかった。
カイの姿。
士官学校時代の記憶。
そして、あの頃に交わした約束。
男はゆっくりと目を開いた。
窓の外には、グリム王国の夜景が広がっていた。
遠くの建物には明かりが灯り、王都を縦横に走る道路には、まだいくつかの車が走っている。
知らない国の知らないの街の知らない人々、その中どこかに、カイがいる。
そして自分たちは、その男を探してここまで来た。
明日になれば、また探すことになる。
敵が何人いるのかも分からない。
誰が味方で、誰が敵なのかすら、完全には分かっていない。
それでも、進むしかなかった。
ここまで来て、今さら引き返すことなどできない。
男は湯船からゆっくりと立ち上がった。
身体にまとわりついていた湯が一気に流れ落ちる。
浴室の床へ足を下ろし、壁へ手をつきながら姿勢を整える。
濡れた髪を片手でかき上げる。
鏡に映った自分の顔を見て、男は一瞬だけ黙った。
そこにいたのは、士官学校時代の若者ではなかった。
何年もの戦争を経験し、仲間を失い、戦場から帰ってきた男の顔だった。
それでも、その目の奥にはまだ昔の自分が残っている。
そして、その目には一つだけ消えないものがあった。
カイを見つけるという意思だった。
男は鏡から目を逸らし、浴室の扉へ向かう。
そして、小さく呟いた。
「見つけたら一発じゃ済まねぇからな、カイ」
その声には怒りだけではなかった。
長年抱えてきた疑問も、寂しさも、苛立ちも、再会できるかもしれないという僅かな期待も、全部が混ざっていた。
それでも最後に残った言葉だけは、妙に懐かしい響きをしていた。
まるで士官学校時代、悪ふざけをしていた仲間へ向けるような言い方だった。
その声だけが、静かな浴室にしばらく残った。
やがて湯気の向こうへ消えていく。
男は一人、浴室を後にした。
明日になれば、また長い一日が始まる。
カイを探すための、新しい一日が。
風呂から上がった男は、首にタオルを掛けたまま部屋へ戻った。
濡れた髪から落ちた水滴が首筋を伝い、肩へ流れていくのを手の甲で軽く拭いながら、男は静かに扉を開ける。
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部屋の照明は薄暗く、必要最低限の明かりだけが室内を照らしていた。
窓の外にはグリム王国の王都が広がり、無数の建物から漏れる明かりが夜の街を淡く浮かび上がらせている。
そんな部屋の中で、アレンはベッドの上に大の字になって倒れていた。
まるで誰かに放り投げられたかのような姿勢だった。
靴も脱ぎっぱなしで上着も半分しか脱いでおらず、片方の袖だけが腕から抜けかけた状態になっている。
ベッドへ倒れ込んだあと、そのまま起き上がる気力すらなくなったらしい。
完全に力尽きていた。
男はその姿をしばらく眺め、それから呆れたように眉を上げた。
「生きてるか」
ベッドの上から、少し間を置いて弱々しい声が返ってくる。
「生きてますよ」
声には疲労が滲んでいた。
それでもアレンは、男の言葉に反応する程度の余力は残っているらしい。
そして、ほんの少しだけ間を置いてから続けた。
「勝手に殺さないでください」
「そうかい」
男はそれだけ返すと、部屋の隅に置かれていた椅子を引いた。
椅子の脚が床を擦る音が、静かな部屋の中に小さく響く。
男はそのまま腰を下ろし、タオルで濡れた髪を適当に拭きながらアレンの姿を眺めた。
「なんだ、その顔」
アレンは天井を見つめたまま答えた。
「大丈夫かって聞きたいんですか」
「まぁそんなところだ」
「……」
アレンはしばらく黙っていた。
そして、乾いた笑みを浮かべながら小さく息を吐いた。
「大丈夫に見えます?」
男はすぐには答えなかった。
数秒ほど、黙ってアレンの姿を観察する。
目の下にははっきりと隈ができている。
ここ数日の疲労がそのまま顔に出ていた。
頬にはまだ絆創膏が貼られており、その周囲には傷の痛みが残っていることを思わせる僅かな赤みもある。
何より、身体全体から力が抜け切っている。
この数日間、まともに休めていないことなど一目で分かった。
男はしばらく黙ってから、率直に答えた。
「見えないな」
「でしょうね」
アレンは小さく息を吐いた。
その吐息には、諦めとも疲労ともつかない感情が混ざっていた。
部屋にしばらく沈黙が流れる。
窓の外からは、王都を走る車の音が微かに聞こえてくる。
遠くでは人々の話し声も聞こえていたが、この部屋まで届く頃には小さく掠れた音へ変わっていた。
男は無理に話そうとはしなかった。
疲れている人間に、無理やり言葉を引き出す必要などない。
まして、アレンが今どんなことを考えているのか、男にはなんとなく分かっていた。
こういう時は、相手が話し出すのを待った方がいい。
男はそれを、長い軍隊生活の中で嫌というほど学んできた。
言葉を掛けることが正しい時もある。
しかし、何も言わずに隣にいることが必要な時もある。
今は、きっと後者だった。
アレンはしばらく天井を見つめ続けていた。
やがて、その口がゆっくりと開く。
「少し昔のことを思い出してまして」
男の視線がアレンへ向いた。
「昔?」
「えぇ」
アレンは天井を見上げたまま動かなかった。
その瞳は、この部屋の天井を見ているようでいて、実際にはもっと遠い場所を見ているようだった。
ここではない場所。
今ではない時間。
そして、もう戻ることのできない過去。
男は何も言わず、ただアレンの言葉を待った。
「叔父さんが生きていた頃のこととか」
アレンの声は静かだった。
そこで一度、言葉が途切れる。
ほんの僅かに喉が詰まったような間だった。
「エトワール隊の人たちのこととか」
男は何も言わなかった。
名前を聞けば、そこにどんな記憶があるのか想像することはできる。
だが、それを勝手に口にすることはしなかった。
アレン自身が話したいと思ったことだけを聞けばいい。
そう考えていた。
アレンは天井を見つめたまま、さらに言葉を続ける。
「忘れたつもりだったんですけどね」
その声には、自嘲するような響きが僅かに混じっていた。
「こうして旅をしていると嫌でも思い出します」
男は黙って聞いていた。
ベッドの上で、アレンの拳が僅かに握られる。
力を込めたというほどではない。
ただ、無意識に指先が少しだけ曲がった。
それだけだった。
しかし男には、その小さな変化が見えていた。
アレンはしばらく何かを言おうとしていた。
言葉を探しているのか、それとも言っていいものか迷っているのか。
男は急かさなかった。
ただ静かに待つ。
やがてアレンの口から、ほんの小さな声が漏れた。
「それは……」
次回から再びアレンの過去編へと変わります。
〜お願い〜
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