今夜だけは
男は大使館を後にした。
重厚な扉が背後で静かに閉じられ、周囲に立っていた警備兵たちの姿も次第に遠ざかっていく。
大使館の敷地を出れば、そこはもう帝国の領土ではなく、異国の王都に広がる夜の街だった。
夜の王都は昼とは別の顔を見せていた。
昼間には多くの人間が行き交っていた大通りも、夜になると人影がまばらになり、建物の窓から漏れる明かりだけが石畳を淡く照らしている。
街灯には古びた金属製の装飾が施され、その一つ一つから暖かな光が落ち、濡れてもいない石畳の上に細長い影を作っていた。
遠くの通りからは、酒場から漏れてくる笑い声や、酔った男たちの話し声が微かに聞こえてくる。
時折、馬車の車輪が石畳を叩く音が響き、その音も建物の間を抜ける夜風に押し流されるように消えていった。
男はそんな王都の夜を一人で歩いていた。
コートの襟を立て、冷え始めた夜風から首元を隠しながら、一定の速度で歩き続ける。
その歩き方には急いでいる様子もなければ、周囲を警戒しているような素振りもほとんどなかった。
だが、それは油断しているわけではなかった。
むしろ逆だった。
男は大使館の敷地を出た瞬間から、周囲の気配を細かく拾っていた。
正面を歩く人間、横道へ消えていった人間、遠くの街灯の下で立ち止まっている人間、その全てを無意識に確認している。
そして、その中に一つだけ明らかに不自然な気配があった。
男は歩きながら、ポケットから携帯を取り出した。
画面を確認すると、登録された連絡先の中から目的の名前を探す。
数回の操作を終えると、そのまま耳元へ携帯を当てた。
数回の呼び出し音が夜の静けさの中に続く。
やがて、聞き慣れた声が返ってきた。
「アレン、どこにいる」
『もう宿取って宿です』
あまりにも簡潔な返答だった。
男は一瞬だけ黙った。
「迎えに来てくれ」
『そして迎えには行きたくないです』
即答だった。
男は思わず足を止めかけたが、そのまま歩き続ける。
「俺はそもそもどこの宿かわからないから迷子なんだが」
『私はこの国の帝国大使館がどこにあるかわからないんですけど』
「……」
『……』
電話越しに妙に長い沈黙が流れた。
お互い、自分の言っていることが正しいという妙な確信だけは持っている。
しかし、そのどちらにも相手を迎えに行くための情報がない。
男は夜空を見上げた。
雲の切れ間から見える星を眺めながら、どうしたものかと考える。
アレンが宿を取った場所など、男は知らない。
当然ながら、アレンも帝国大使館の位置など知らない。
そもそも二人とも、この王都に来てまだそれほど時間が経っていないのだ。
街の構造を完全に把握しているわけでもなく、土地勘などほとんど存在しない。
「俺と離れたとこまで迎えに来てくれ」
『……わかりましたよ』
明らかに納得していない声だった。
それでもアレンは結局、迎えに来ることを了承した。
男は少しだけ口元を緩める。
『車で行っていいですよね』
「その方が安全だろ」
『じゃあ場所を送ってください』
「頼んだ」
それだけ言うと、男は通話を切った。
携帯をポケットへ戻し、再び歩き出す。
だが、先ほどまでとは違う方向へ進んだ。
大通りではなく、建物と建物の闇の中へ伸びる細い裏道へと足を向ける。
人通りは少なく街灯も数が減り、表通りから漏れてくる明かりがなければ、かなり暗い場所だった。
建物の壁が両側から迫るように並び、夜風が細い路地を抜けていく。
男はそのまま歩いた。
そして、しばらく進んだところで、ふと足を止めた。
理由は単純だった。
妙な視線を感じていたからだ。
大使館を出てからずっと。
最初は偶然だと思っていた。
王都の夜を歩いている以上、誰かと進行方向が重なることなど珍しくない。
しかし、曲がってもついてくる。
歩く速度を変えても一定の距離を保ち大通りを外れても、なお追ってくる。
偶然にしては出来すぎていた。
男は小さく息を吐いた。
やはりそういうことか、と考える。
大使館で得た情報を思い出せば、これほど早く追跡者が現れても不思議ではない。
自分たちが王都にいることを知っている人間は、決して少なくない。
むしろ問題なのは、どこから情報が漏れたのかということだった。
男は路地の中央まで進み、そこで完全に足を止めた。
前方には誰もいない。
背後にも、人影は見えない。
それでも、気配だけは確かに存在している。
男は振り返らなかった。
ただ、前を向いたまま静かに口を開いた。
「で、俺のことを大使館から付けてきて何の用だ」
声が狭い路地の壁に反響し、しばらくして静かに消えていく。
返事はなかった。
風が一度だけ吹き抜け、男のコートの裾を僅かに揺らす。
それでも男は動かなかった。
それほど長くない時間だったはずなのに、妙に長く感じられる沈黙が続いた。
そして次の瞬間だった。
路地の奥にあった物陰から、一人の男が姿を現した。
続いて、その後ろからさらに三人が姿を現す。
合計四人。
全員が無言だった。
服装そのものは王都の一般的な市民と大きく変わらない。
しかし、その立ち姿を見れば普通の人間ではないことがすぐに分かる。
視線の動かし方。
周囲との距離の取り方。
歩幅。
互いの位置関係。
どれも自然なように見えて、実際には無駄がなかった。
少なくとも、街中で偶然出会った一般人ではない。
明らかに訓練を受けた人間たちだった。
男は四人を眺めると、小さくため息を吐いた。
「面倒くせぇな」
その言葉には、恐怖も緊張もほとんどなかった。
ただ単純に、面倒な仕事が増えたことへの苛立ちだけが滲んでいた。
四人のうち、先頭に立っていた男が一歩前へ出る。
「白翼殿」
「なんだ」
先頭の男は感情を見せないまま、淡々と言った。
「我々と同行していただきたい」
男は眉を僅かに上げた。
「嫌だと言ったら」
「力ずくでも」
その答えを聞いた瞬間、男は深く息を吐いた。
「交渉って言葉を知らないのか」
返事はなかった。
代わりに、四人の男たちが一斉に動いた。
それぞれが懐へ手を入れ、次の瞬間には銃を取り出している。
薄暗い路地の中で、金属の鈍い光が街灯を僅かに反射した。
男はそれを見ても、慌てることはなかった。
ただ、頭を掻いた。
「本当に面倒くせぇな」
その声が路地に落ちる。
四人の視線が男へ集中した。
次の瞬間だった。
男の姿が消えたように見えた。
実際には消えたわけではない。
ただ、一歩踏み込んだだけだった。
しかし、その一歩が異常なほど速かった。
先頭の男が反応するより先に、男は目の前まで距離を詰めていた。
拳が振り抜かれる。
腹部へ鋭く打ち込まれた衝撃に、先頭の男の身体が大きく揺れた。
「ぐっ……!」
声を上げることさえできず、その場で膝から崩れ落ちる。
残る三人が慌てて動いた。
だが、すでに遅かった。
一人目が銃を構えるより先に、男の身体が横へ流れる。
次の瞬間、二人目の身体が壁へ叩き付けられ、そのまま力を失って崩れ落ちた。
三人目は男の腕を掴もうとした。
しかし、その手首を逆に取られる。
男は相手の動きを利用するように身体を回し、そのまま地面へ転がした。
石畳が大きく鳴った。
残された最後の一人だけが、ようやく銃口を男へ向ける。
だが、その時にはすでに男の手がコートの内側へ伸びていた。
引き抜かれたのは拳銃ではない。
一本のナイフだった。
男の手の中で刃が一瞬だけ光る。
そして次の瞬間には、追跡者の首元へ切っ先が突き付けられていた。
「静かにしろ」
低い声だった。
追跡者の身体が硬直して銃を握る手が僅かに震え始める。
男は相手の目を見たまま、淡々と言った。
「安心しろ」
声には妙な落ち着きがあった。
「お仲間は少し気絶しただけだ」
路地には倒れた三人が転がっている。
誰も動かない。
ただ、全員がまだ息をしていることだけは確認できた。
男はそれを一瞥すると、再び目の前の追跡者へ視線を戻した。
「お前の返答次第で変わるがな」
その言葉を聞いた瞬間、追跡者の顔から血の気が引いた。
「誰に雇われた」
「し、知らない」
男の目が細くなる。
「嘘だな」
「本当だ!」
声が裏返った。
男はナイフを僅かに動かした。
それだけで、追跡者は息を呑んだ。
「俺たちはお前を捕まえろって言われただけだ」
「誰に」
「知らない!」
「んなわけないだろ」
男の声が低くなる。
先ほどまでの軽い口調は消えていた。
その声には、戦場を幾度も経験した人間だけが持つ重さがあった。
追跡者は必死に首を振る。
「本当に知らないんだ!」
「じゃあ誰から依頼を受けた」
「そ、それも……」
「同じことだろ」
男の言葉に追跡者は黙り込む。
路地の奥では風が吹き、古びた看板が小さく揺れていた。
表通りからは、まだ酒場の笑い声が聞こえている。
ほんの少し離れた場所では、誰もこの路地で何が起きているのか知らない。
王都の夜は、何事もなかったかのように続いていた。
「金ならいくらでもくれてやる!」
追跡者が突然叫んだ。
「だから――」
「いらん」
男は即答した。
「頼む!」
「断る」
「命だけは助けてください!」
その言葉が路地に響いた。
追跡者は震えながら男を見上げていた。
その瞬間だった。
初めて、男と真正面から目が合った。
追跡者はそこで気付いた。
この男は怒っているわけではない。
憎しみに任せて動いているわけでもない。
そこにあったのは、もっと静かなものだった。
何度も危険な場所を潜り抜け、何度も生き残ってきた人間だけが持つ、冷たい覚悟だった。
それは激情よりも恐ろしく、怒鳴り声よりも重かった。
追跡者の顔から、さらに血の気が引いていく。
呼吸が浅くなり、視界が僅かに揺れる。
そして、そのまま意識を失った。
身体から力が抜け、石畳へゆっくりと倒れ込む。
男はしばらくその姿を見下ろしていた。
そして、大きくため息を吐いた。
「はぁ〜」
緊張が抜けたような、呆れ切ったような声だった。
男はナイフをコートの内側へ戻す。
「止めだ止め」
誰に言うでもなく呟く。
路地に倒れている四人を見渡す。
これ以上ここに留まっていれば、別の人間に見つかる可能性もある。
何より、アレンがこちらへ向かっている。
あいつが来る前に片付けておく必要がある。
男は携帯を取り出そうとしたが、途中で手を止めた。
わざわざ連絡する必要もない。
どうせ説明すれば、アレンはまた余計な心配をする。
男は肩を竦めた。
「アレンが来る前に片付けるか」
そう呟くと、男は最も近くに倒れていた追跡者の首根っこを掴んだ。
そのまま軽く引っ張る。
身体が石畳の上を擦りながら動いた。
男は特に苦労している様子もなく、そのまま一人目を引きずっていく。
そして残る三人も順番に掴み上げ、まとめて大使館の方向へ運び始めた。
王都の夜道を歩く男の姿だけを見れば、どこか疲れた中年男性が荷物を運んでいるようにも見える。
だが、その荷物が先ほど自分を襲ってきた追跡者たちだと知れば、誰もそんな呑気なことは考えないだろう。
男は何事もなかったかのように歩き続けた。
遠くに帝国大使館の明かりが見え始める。
その明かりを確認すると、男は小さく息を吐いた。
「ったく……」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「今日は本当に面倒な日だな」
それでも足取りだけは止まらなかった。
王都の夜は静かに深まり続けていた。
そして男の背後では、意識を失った四人の追跡者が石畳の上を引きずられながら、大使館へと連れていかれていた。
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「か、閣下……それはなんですか……」
大使館の門前で警備に立っていた下士官は、戻ってきた男の姿を確認した瞬間、その表情を露骨に引きつらせた。
男自身は何事もなかったような顔をして歩いてきたが、その後ろには明らかに意識を失った四人の男が転がされており、しかも全員がしっかりと縄で縛られていた。
夜間警備を担当していた兵士たちも何事かと視線を向け、門の周辺にいた数人が思わず姿勢を正す。
しかし男はそんな周囲の反応など気にも留めず、面倒臭そうに肩を竦めながら答えた。
「刺客だよ」
「し、刺客ですか……」
下士官は思わず聞き返した。
あまりにも簡単に言われたため、一瞬だけ自分の聞き間違いではないかと疑ってしまうほどだった。
男は足元に転がっている四人を一瞥し、それから何でもないことのように説明を続ける。
「ここから二つ先の裏道までずっと付けてきてたからな」
男は凝り固まった肩をほぐすように、ゆっくりと肩を回した。
人間を担いで歩いたことによる疲労なのか、それとも先ほどの一件で身体を動かしたせいなのか、本人にもその区別はついていないらしい。
「誘き出したらこれだ」
「これだ、じゃありませんよ……」
下士官は思わず小声で呟いたが、男には聞こえていたらしい。
しかし、特に気にした様子もなく、倒れている四人へ視線を向けた。
「本国にでも送還して情報を吐かせろ」
「了解しました!」
下士官は反射的に返事をした。
「なんでもいい」
「なんでもいい、ですか……」
「俺はもう疲れた」
その言葉に、下士官は一瞬だけ何も言えなくなった。
帝国でも名の知れた軍人が、夜の裏路地で刺客四人を相手にして、その結果をまるで仕事帰りに拾った荷物でも扱うように話している。
しかも本人は、そのことを大した出来事だとは考えていないようだった。
「り、了解しました!」
下士官は気を取り直し、周囲の兵士たちへ慌ただしく指示を飛ばした。
「お前たちはこの四人を中へ運べ! 武器も回収しておけ! それから拘束を二重にして、意識が戻るまで絶対に目を離すな!」
「医務担当にも連絡しておけ! 怪我の状態を確認させろ!」
複数の兵士が一斉に動き始める。
倒れていた四人の身体が慎重に持ち上げられ、帝国大使館の敷地内へと運ばれていく。
男はその様子をしばらく眺めていた。
だが、兵士たちが仕事を始めたことを確認すると、それ以上の興味を失ったように踵を返した。
「え、閣下?」
呼び止めようとした下士官に対して、男は振り返らなかった。
「後は任せた」
男はそのまま大使館から離れていく。
石畳を踏む足音だけが、夜の王都に静かに響いていた。
大使館の周辺には帝国軍人が配置されているため、先ほどまでとは違ってある程度の安心感はある。
それでも男の表情から緊張が完全に消えているわけではなかった。
今日一日だけでも、何度も警戒しなければならない場面があった。
大使館では古い敵の情報を聞き、さらに自分たちの動きを把握している複数の勢力が存在することも改めて確認した。
そして、その帰り道には刺客まで現れた。
偶然などではない。
誰かが自分たちの動きを追っている。
そして、それが一つの組織なのか、それとも複数の勢力なのかさえ、まだ分かっていない。
男はそんなことを考えながら、コートのポケットへ手を入れた。
指先が煙草の箱に触れる。
「……」
取り出そうとしたところで、妙な軽さに気付いた。
箱を取り出して確認する。
蓋を開けると中には何も入っていなかった。
男は数秒間、無言で空になった箱を見つめそして、思い出したように小さく呟いた。
「そうだ、切らしてたんだ」
男は空箱をポケットへ戻した。
買いに行けば済む話ではあるが、今から店を探して歩き回る気力は残っていなかった。
それよりも、今は一刻も早く宿へ戻りたかった。
移動、情報収集、襲撃、追跡、そして今日の大使館での話し合い。
身体はとっくに休息を求めている。
男はそのまま数分ほど歩いた。
やがて、遠くから車のライトが近付いてくる。
一台の車が男の前でゆっくりと速度を落とし、そのまま路肩へ停車した。
エンジン音が小さく響く。
男が近付くと、運転席側の窓が下がった。
中から見慣れた顔が現れる。
運転席にはアレンがいた。
「遅いですよ」
開口一番、それだった。
男は車の横に立ったまま、悪びれた様子もなく答える。
「すまんすまん」
「どこで何してたんですか」
「ちょっと酔っぱらいのチンピラに絡まれてな」
「何やってるんですか」
アレンの声には明らかな呆れが混じっていた。
男は助手席のドアを開けながら、何でもないことのように答える。
「交番に置いてきたから大丈夫だろ」
「絶対嘘ですよね」
「気のせいだ」
アレンは深いため息を吐いた。
男はその反応を完全に無視し、助手席へ身体を滑り込ませる。
シートに深く腰を下ろすと、ようやく少しだけ身体から力が抜けた。
ドアが閉まる。
車内には外の冷たい空気とは違う、暖房の残った穏やかな空気が漂っていた。
アレンはしばらく男を横目で見ていたが、やがて諦めたように前を向く。
「早く宿に戻りますよ」
「あぁ」
アレンがアクセルを踏む。
車は静かに動き出し、石畳の道路をゆっくりと進んでいく。
大使館の明かりが後方へ流れていき、やがて建物の陰へと消えていった。
王都の夜景が窓の外を流れていく。
昼間とは違う色に染まった街並みが、車の窓から次々と後ろへ流れていく。
街灯の明かりが車内へ差し込み、男の横顔を一瞬だけ照らしては、すぐに暗闇へ戻っていく。
人々が歩く大通りを抜け、商店街を通り過ぎる。
酒場の前では何人かの人間が笑いながら話しており、別の通りでは店を閉めるために看板を片付けている人間もいた。
その光景をぼんやりと眺めながら、男は助手席のシートへさらに深く身体を預けた。
それまで張り詰めていた意識が、少しずつ緩んでいく。
ようやく今日が終わる。
少なくとも、今夜だけは。
男は車内の天井を見上げながら、小さく呟いた。
「久々にちゃんと寝れるな」
その声を聞いて、アレンが前を向いたまま尋ねる。
「ご飯食べないんですか?」
「……あぁ」
男は返事をしたものの、そこで数秒ほど考え込んだ。
何か重要なことを思い出そうとしているような顔だった。
そして、ようやく思い出したように口を開く。
「忘れてたな」
「……は?」
アレンが一瞬だけ男を見る。
男は何でもない顔をしている。
「飯」
「あぁ」
「それを忘れてたんですか?」
「そうだ」
「食事を?」
「そうだな」
アレンは思わず吹き出した。
「忘れることあります?」
「あるんだよ」
男はそう答えながら、自分の腹へ手を当てた。
すると、まるで今まで存在を忘れられていたことに抗議するように、腹の奥から盛大な音が鳴った。
ぐううう、と車内に響く。
アレンが一瞬黙った。
男も黙った。
数秒後、男は腹を押さえたまま、妙に納得したように頷いた。
「ほら」
「説得力ありますね」
アレンの口元には笑みが浮かんでいた。
男は少しだけ苦笑する。
「やっぱブレントのおっさんの言う通りだな」
「本当ですね」
アレンは苦笑した。
確かに今日一日のことを思い返してみれば、まともに食事を取らないまま動き回り、大使館では情報を聞き、帰り道では刺客に襲われている。
偶然とはいえ、あまりにも落ち着かない一日だった。
男はシートへ身体を預けたまま、ぼんやりと天井を見つめる。
男はほんの少しだけ口元を緩める。
その表情は、戦場で見せるものとはまるで違っていた。
ここ数日間、二人の周囲には常に張り詰めた空気があった。
カイの行方を追いながら移動を続け、何度も襲撃を受け、敵の正体も目的も分からないまま前へ進んできた。
それでも今だけは、そんなことを考えなくてもいい。
少なくとも、車内にいる間だけは。
窓の外を流れていく王都の明かりを眺めながら、アレンはハンドルを握り続けた。
助手席では男が目を閉じている。
今にも眠り始めそうなほど疲れているようだった。
だが、アレンもまた疲れていた。
互いにそれを理解しているからこそ、今は余計な話をしなかった。
しばらく車内にはエンジン音だけが響く。
王都の中心部から少しずつ離れていくにつれ、人通りも減っていく。
やがて宿泊施設の並ぶ一角へ入り、アレンは予約しておいた宿へ向かって車を走らせた。
男は窓の外を眺めながら、静かに息を吐いた。
明日になれば、またカイを追う。
それは変わらない。
カイがどこにいるのか。
誰が彼を追っているのか。
誰が情報を流しているのか。
分からないことはまだ多い。
そして、自分たちを狙う敵が何人いるのかすら分からない。
王都という大きな街のどこかには、今この瞬間にも自分たちを探している人間がいるかもしれない。
それでも、今夜だけは考えないことにした。
アレンも同じだった。
今はただ、温かい飯を食べること。
そして、まともなベッドで眠ること。
それだけでいい。
車は夜の王都を静かに走り続けた。
二人の目的地である宿の明かりが、やがて遠くに見えてくる。
その光を確認したアレンは、ほんの少しだけアクセルを緩めた。
男は目を閉じたまま、小さく呟く。
「飯……何があるかな」
「宿の近くに店がいくつかありますよ」
「じゃあそこでいい」
「食べられるなら何でもいいんですか」
「今はな」
アレンは小さく笑った。
「じゃあ今日は、ちゃんと食べてくださいよ」
「分かってる」
「本当に分かってます?」
「分かってるって」
「ならいいです」
二人の会話が途切れる。
だが、その沈黙は先ほどまでの緊張したものではなかった。
車内には、どこか穏やかな空気が流れていた。
今夜だけは、追跡も、襲撃も、カイの行方も忘れていい。
明日になれば、また現実が待っている。
それでも今だけは、二人ともそれを考えなかった。
温かい食事と、久しぶりに身体を預けられるベッド。
その二つだけを頭に浮かべながら、車は静かに夜の王都を進み、予約した宿へと向かって走り続けていた。
〜お願い〜
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