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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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絡み合う糸

王都へ入った頃には、空はすでに昼間の青さを失い、地平線の向こうから広がった群青色の闇が街全体をゆっくりと包み込み始めていた。

長い山道と幾つもの街を越えてきた車は、車体のあちこちに細かな埃をまといながら、王都の石畳を低いエンジン音とともにゆっくりと進んでいた。

街の規模はこれまで立ち寄ったどの場所よりも大きく、街路には夕暮れから夜へ移り変わる時間帯にもかかわらず、多くの人々が行き交っていた。

石造りの建物が何列にも連なり、その窓には一つ、また一つと明かりが灯されていく。

商店の看板を照らすランプや、街路を照らす街灯の光が石畳へ淡く落ち、遠くから聞こえてくる馬車や自動車の音が王都の夜を形作っていた。

さらにその向こうには、この国の中心に位置する巨大な王城の姿が見えており、夜空を背景にした城壁と尖塔の周囲には無数の灯りが浮かんでいた。

「長かったですね」

アレンは長時間握り続けていたハンドルから片手を離し、凝り固まった肩を軽く動かしながら小さく呟いた。

その声には疲労だけではなく、ようやく目的地へ辿り着いたという安堵も僅かに混じっていた。

「……あぁ、長かったな」

助手席に座っていた男は、窓の外へ視線を向けたまま短く答えた。

その横顔には疲れが残っていたものの、これまでの道中で見せていた眠そうな表情とは違い、王都へ入った瞬間から明らかに警戒の色が浮かんでいた。

二人はしばらく何も言わず、流れていく王都の街並みを眺めていた。

ここまで来れば、カイ・ラグナーがこの街のどこかに残した足取りへ近づける可能性も高い。

そう考えれば、アレンの胸には期待と緊張が同時に込み上げてくる。

しかし、そんな空気を不意に切り裂くように、男が口を開いた。

「ここから別行動だ」

「……え?」

アレンは一瞬、聞き間違えたのかと思った。

長旅の疲れで頭が回っていないのか、それとも男がまた何か冗談を言っているのかと考え、思わず隣へ顔を向ける。

「嘘ですよね」

「本当に別行動だ」

男は何でもないことのように答えた。

まるで最初からそうすることが決まっていたかのような、あまりにも平然とした口調だった。

「お前はこのまま車を運転して、適当な宿を取ってきてくれ」

「俺はちょっと用がある」

「どこに行く気なんです」

アレンが問い掛けると、男は肩を軽く竦めた。

そして数秒ほど街の様子を眺めてから、何でもないことのように答えた。

「帝国大使館に行ってくるんだよ」

「何しに行くんですか、そんなところまで」

「情報共有だよ」

「ジジイ共に連絡できるのが、そこぐらいしかないんだ」

「……わかりましたよ」

アレンは明らかに不満そうな表情を浮かべながら前方へ視線を戻した。

これまで散々振り回されてきた挙げ句、ようやく王都まで辿り着いたと思った矢先に別行動を告げられたのだから、素直に納得できるはずもなかった。

何より、男はこれまでにも突然危険な場所へ一人で向かうことが何度もあった。

本人にとってはいつものことなのかもしれないが、アレンからすれば、そのたびに嫌な予感を抱かされる側なのだ。

男はそんなアレンの横顔をしばらく眺めると、僅かに口元を緩めた。

「そんな顔するな」

「心配してるんですよ」

「俺をか?」

「当たり前でしょう」

即答だった。

アレン自身も、なぜそこまで迷いなく答えたのか一瞬だけ戸惑ったほどだった。

男は何も言わなかった。

ほんの数秒だけ沈黙し、窓の外へ視線を戻す。

やがて、その口元に小さな笑みが浮かんだ。

「……そうかい」

それだけだった。

だが、その声には先ほどまでの軽い調子とは違う、どこか静かな響きがあった。

車はそのまま王都の中心部を抜け、大使館街へ近づいていった。

道路の両脇には各国の施設が並び、それぞれの国旗が夜風に揺れながら街灯の光を受けていた。

帝国だけではなく、周辺諸国の旗も並んでおり、そこが王都の中でも特に外交関係者の出入りが多い地域であることが一目で分かった。

男は周囲を確認するように何度か視線を動かしていた。

その様子を見て、アレンは改めてこの男がただ大使館へ連絡を取りに行くだけではないのだろうと感じた。

しかし、今はそれ以上聞かなかった。

やがて男は助手席のドアへ手を掛けた。

「あと、俺がもし明日までに戻らなかったら、あとは一人でどうにかしろ」

「……は?」

アレンの表情が一瞬で固まった。

今の言葉が冗談なのか本気なのか判断できず、ハンドルを握る手に自然と力が入る。

「冗談ですよね」

「さぁな」

「さぁなじゃないですよ」

男は悪びれる様子もなく、肩を竦めただけだった。

「その場合は、宿に置いてある荷物と車を使え」

「勝手に人に車を押し付けないでください」

「じゃあ売れ」

「売れるわけないでしょう」

「そうか」

あまりにもあっさりした返答だった。

しかも、どうやら男は本気で一つの選択肢として考えているらしい。

アレンは思わず片手で額を押さえた。

「本当に戻ってきてくださいよ」

「善処する」

「信用できません」

「それは残念だ」

男は軽く笑いながらドアを開けた。

その瞬間、外から冷たい夜風が車内へ流れ込み、長時間暖められていた空気が一気に冷やされていく。

アレンは反射的に肩を竦めた。

男は外へ足を下ろし、開いたドア越しに一度だけアレンを振り返った。

その表情から先ほどまでの冗談めいた雰囲気が僅かに消えていた。

「アレン」

「なんですか」

「もし何かあったら、無理するな」

アレンは眉を寄せた。

「あなたに言われたくないんですけど」

男は一瞬だけ目を細め、それから苦笑した。

「違いない」

それは確かにその通りだった。

無理をしている本人からそんな忠告を受けたところで、説得力などあるはずもない。

男はコートの襟を立てると、冷たい風から首元を守るようにして歩き出した。

「じゃあ後でな」

「……本当に戻ってきてくださいよ」

男は振り返らなかった。

ただ片手を僅かに上げ、それを返事の代わりにして、そのまま帝国大使館の方角へ歩いていった。

王都の大使館街には夜になっても人の流れがあり、仕事を終えた外交関係者や街を歩く住民が行き交っていた。

その人混みの中へ男の姿は少しずつ紛れていき、やがてコートの背中さえ見えなくなっていった。

アレンはしばらくその方向を見つめたまま、車を動かそうとはしなかった。

胸の奥に、理由の分からない重苦しい感覚が残っている。

嫌な予感だった。

戦争のときもそうだった。

何か大きなことが起きる直前には、決まってこんな胸騒ぎがしていた。

まだ何も起きていないというのに、身体だけが先に危険を感じ取っているような感覚だった。

アレンはゆっくりと息を吐いた。

やがて男の姿が完全に見えなくなると、ようやく前方へ視線を戻した。

誰もいなくなった助手席が、妙に広く感じられた。

これまでずっと隣にいた男がいなくなっただけなのに、車内の空気まで変わってしまったように感じる。

アレンは小さく首を振り、両手でハンドルを握り直した。

「戻ってこなかったら、どうにかしろって……」

呟いた声は、静かな車内へ吸い込まれていった。

「本当に戻ってきてくださいよ」

当然、返事をする者はいなかった。

アレンはもう一度だけ大使館の方角を見た。

しかし、そこには無数の街灯と行き交う人々の姿があるだけで、探している背中を見つけることはできなかった。

仕方なくアレンはエンジンを掛け直した。

低い駆動音が静かな夜の街へ響き、車体がゆっくりと動き始める。

王都の夜は、何事もなかったかのように静かに更けていった。

だがアレンの胸に残った嫌な予感だけは、時間が経っても消えることがなかった。

そして彼はまだ知らなかった。

この夜を境に、二人を取り巻く状況が再び大きく動き始めることを。

________________________________________________

男は王都の夜道を一人で歩いていた。

昼間の喧騒が嘘のように薄れた街路には、冷たい夜風が静かに吹き抜けており、石造りの建物の窓から漏れる明かりが、長く伸びた影を石畳の上へ落としていた。

男が歩くたびに、硬い革靴の靴底が石畳を叩き、その乾いた音だけが静かな夜の街へ規則正しく響いていく。

コツ、コツ、コツ――とその足音は一定の間隔を保ちながら、夜の大通りを進んでいった。

昼間ならば商人や市民、外交関係者や旅行者で溢れ返っている通りも、この時間になると人影はまばらになっている。

時折、遠くから馬車の音が聞こえる程度で、それ以外には夜風が建物の隙間を抜けていく音しか聞こえなかった。

男は周囲へ視線を走らせながら歩いていた。

王都へ入ってからというもの、彼は常に周囲の状況を確認していた。

ここが敵国ではないとはいえ、今の彼には安心して気を抜ける理由など一つもなかった。

やがて、通りの先に巨大な門が見えてきた。

高い石壁に囲まれた広大な敷地、その中央に設けられた鉄製の正門。

門の上にはノルヴァイン帝国の国旗が掲げられ、夜風を受けてゆっくりと揺れていた。

帝国大使館だった。

その周囲には複数の街灯が設置され、門の両脇には武装した衛兵が立っている。

衛兵たちは周囲を警戒しながら一定の間隔で配置されており、一般的な外交施設とは思えないほど厳重な警備体制が敷かれていた。

男が門へ近づくと、衛兵の一人がその姿に気付いた。

次の瞬間、その衛兵は目を見開き、隣に立っていた下士官へ何かを伝える。

下士官は男の顔を確認した瞬間、明らかに慌てた様子で駆け寄ってきた。

「お待ちしていました」

そう言うなり、下士官は勢いよく姿勢を正して敬礼した。

その動きにつられるように、周囲にいた衛兵たちも一斉に姿勢を正し、男へ向かって敬礼する。

その光景を見た瞬間、男の眉間に深い皺が刻まれた。

「バレたらどうするんだよ、バカども」

低く抑えられた声だった。

しかし、その声に込められた怒気は周囲にいる全員へ十分に伝わった。

衛兵たちは一瞬だけ固まり、それから慌てて敬礼を解いた。

「す、すみません!」

下士官も明らかに恐縮した様子で頭を下げる。

「ったく……」

男は呆れたように頭を掻いた。

ここまで目立たないように王都へ入り、わざわざ別行動まで取ったというのに、到着した途端に大勢の兵士から一斉に敬礼されては意味がない。

「それより、本土の方はどうなった」

男がそう尋ねると、先ほどまで慌てていた下士官の表情が一気に引き締まった。

軍人としての顔に戻り、周囲を一度確認してから低い声で報告を始める。

「内通者の捜索は続いていますが、依然として手掛かりは見つかっていません」

「そうか」

男は短く返した。

予想していた答えだったのか、特に驚いた様子は見せなかった。

「ですが、諜報員の方はいくつか確保しました」

その言葉を聞いた瞬間、男の目が僅かに細くなった。

「どこの連中だった」

「旧ヴェルテクス連邦の諜報部員だった者たちです」

その答えを聞いた瞬間、男の足が止まった。

「……どういうことだ」

先ほどまでの軽い口調とは明らかに違う声だった。

周囲にいた衛兵たちも、男の変化を察したのか、一言も発さずに黙り込んでいる。

「本土の情報を探っていた連中の中に、旧ヴェルテクス連邦の諜報部員が混じっていたということか」

「はい」

下士官は慎重に頷いた。

「連中はヴェルテクス連邦の復活を望んでいるようです」

男の表情から僅かに険しさが増した。

そして、低く舌打ちをする。

「チッ……」

ヴェルテクス連邦。

かつて世界最大級の軍事国家として存在し、帝国と長年にわたって対立を続けた国家。

そして、あの大戦を引き起こした国家として、今なお多くの人々の記憶にその名を刻み込んでいる。

戦争によって数え切れないほどの都市が焼かれ、数え切れないほどの人々が命を失った。

戦場となった場所には今も戦争の痕跡が残り、そこで生き残った人々の中には、戦争が終わった現在も過去を忘れられない者が数多くいる。

男はそれを知っている。

だからこそ、ヴェルテクス連邦という名前を聞いた瞬間、その反応が変わった。

「あんな国、またできてたまるかよ」

吐き捨てるような声だった。

下士官は何も言わず、ただ静かに頷いた。

男は一度だけ夜空を見上げ、それから再び下士官へ視線を戻した。

「他は」

「民間軍事会社や傭兵団など、所属の異なる連中が複数確認されています」

「金に群がる連中か」

男は冷たく言い放った。

国の思想や大義などではなく、金によって戦場へ送り込まれる者たち。

今回の一連の動きにも、そうした連中が数多く関わっているらしい。

「雇い主は吐いたのか」

「いえ……」

下士官は僅かに言葉を詰まらせた。

それから、何かを思い出したように続ける。

「ですが、閣下が最初に捕らえた男が、一つだけ名前を口にしています」

男の視線が鋭くなる。

「なんだ」

下士官は周囲を確認した。

大使館の門前には他の衛兵もいる。

誰かに聞かれることを警戒するように、下士官は僅かに身を寄せると、声を潜めてその名を告げた。

「……ワルプルギス、と」

その瞬間だった。

男の表情から、感情が消えた。

先ほどまで僅かに浮かんでいた苛立ちも、疲労も、軽い皮肉めいた笑みも、すべてが消えていた。

「……本当に、そう言ったのか」

その声は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

低く、冷たく、感情の温度を感じさせない声だった。

下士官は思わず背筋を伸ばす。

「はい」

「一度だけじゃないんだな」

「複数回確認されています」

男は黙り込んだ。

ワルプルギス。

その名は、軍や諜報関係者の間では決して軽く扱えるものではなかった。

表向きには巨大な傭兵団の一つとして扱われている。

しかし、その実態については詳しいことが分かっていない。

世界各地の戦争や政変、暗殺などの裏側で、その名前が囁かれてきた。

国家同士の争いに直接姿を現すことは少ない。

それでも、事件の背後を辿っていくと、どこかでその名へ行き着くことがある。

資金力も、兵力も、情報網も、単なる傭兵団という言葉では片付けられない規模だと言われている。

下手な国家よりも厄介な存在だと考える者さえいた。

男の脳裏に、古い記憶が浮かび上がる。

燃える空。

黒煙に覆われた戦場。

機体の警告音。

無線越しに飛び交う怒号。

そして、あの戦場でカイと共に撃墜した双子のパイロット。

あの異様な強さ。

最後まで諦めることのなかった執念。

そして、彼らの機体に刻まれていた見覚えのある紋章。

男は過去の記憶を振り払うように、ゆっくりと息を吐いた。

「……連中に接触したか」

「まだです」

「そうか」

男は短く答えた。

しかし、その声には明らかな警戒が滲んでいた。

ただの傭兵団の名前を聞いたときとは違う。

ワルプルギスという名が、過去の戦争と現在の事件を一本の線で繋いでいるように感じられてならなかった。

男はしばらく黙ったまま夜空を見上げた。

王都の空には雲が流れていた。

その隙間から月が僅かに姿を覗かせ、淡い光が大使館の石壁を照らしている。

「……親玉は早めに潰さないと、面倒なことになるかもな」

小さな独り言だった。

下士官は返事をしなかった。

いや、できなかった。

男の目に宿っていたものが、あまりにも冷たかったからだ。

それは怒りとも殺意とも簡単には言い切れない、長い戦争を生き抜いてきた者だけが見せるような、静かな警戒だった。

男は再び夜道へ視線を向けた。

遠く離れた王都のどこかで、今もカイを追っている者たちが動いている。

アレンが一人で宿を探している今も、カイへ繋がる手掛かりを追う者たちは止まっていない。

そして帝国の外でも、別の動きが始まっている。

ヴェルテクス連邦の復活を望む者たち。

金のために動く傭兵たち。

素性の分からない諜報員たち。

そして、そのすべての背後に名前だけを残すワルプルギス。

これまで別々に見えていた出来事が、少しずつ一本の線へと繋がり始めていた。

男はコートの襟を直し、もう一度だけ月を見上げる。

「……厄介な夜になりそうだな」

そう呟いた男の声は、夜風に乗って静かな王都へ消えていった。

その頃、遠く離れた場所ではアレンが一人、男の帰りを待つための宿を探している。

まだ二人は知らなかった。

カイを探す旅が、単なる行方不明者の捜索では終わらないことを。

王都の夜は静かだった。

しかし、その静けさの下では、見えない糸が少しずつ絡み合い始めていた。

そしてその中心には、かつて世界を焼いた戦争と、そこから生き残った者たちの過去が静かに横たわっていた。


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