次なる目的地
「よし、着いた」
男がそう言った頃には、長い夜の終わりを告げるように、空の色が少しずつ変わり始めていた。
つい先ほどまで深い藍色に沈んでいた東の空が、僅かながら灰色へとほどけている。
山々の稜線の向こう側では、まだ太陽そのものは姿を見せていなかった。
それでも夜明けの気配だけは確かに存在し、暗闇の中へ薄い光が滲み始めていた。
長かった山道もようやく終わりを迎え、車の前方には久しぶりに開けた景色が広がっていた。
左右を覆っていた木々が途切れ、曲がりくねった道路の先に小さな街が姿を現している。
山と山の間に挟まれるようにして存在する、静かな街だった。
遠くから見る限りでは、それほど大きな街には見えなかった。
古びた建物が道路沿いに並び、屋根の多くは長い年月によって色褪せている。
ところどころに古い看板が掲げられているものの、朝が早すぎるためか店は一軒も開いていない。
道路には人影もほとんどなく、街全体がまだ眠りの中にいるようだった。
薄い朝霧が道路の上をゆっくりと這い、建物の足元や路地の奥へと白く入り込んでいる。
遠くの煙突からは細い煙が立ち上っており、そこで暮らす人々の生活だけが静かに始まろうとしていた。
車はゆっくりと街の中へ入り、二人を乗せたまま静かな道路を進んでいった。
昨夜の山道で襲撃を受けてから、かなりの時間が経っていた。
しかし、それ以降は不気味なほど何も起こらなかった。
後方から別の車が追ってくることもなかった。
山道の途中で誰かが待ち伏せしている様子もなかった。
遠くから銃声が響くこともなければ、道路脇に人影が現れることもなかった。
誰かに監視されているような気配すら感じられなかった。
それなのに、アレンは安心することができなかった。
むしろ何も起きないことのほうが、妙に不気味だった。
あまりにも静かすぎる。
まるで何者かが二人の行動を知ったうえで、敢えて手を出していないようにも感じられた。
アレンはそんな考えを振り払うように、窓の外へ視線を向けた。
流れていく街並みを眺めながら、無意識に頬へ手を伸ばす。
そこには大きな白い絆創膏が貼られていた。
昨夜の襲撃で負った傷を覆うためのものだった。
指先が絆創膏の端へ触れる。
まだ少しだけ熱を持っているような感覚があった。
痛みそのものは大したものではない。
しかし、その場所へ触れるたびに昨夜の出来事が頭の中へ蘇ってくる。
暗闇の中で響いた銃声。
突然向けられた銃口。
反射的に動いた自分の身体。
そして、自分が引き金を引いたという事実。
アレンは窓に映る自分の顔を見つめた。
そこには疲労の色が濃く残っていた。
目の下には薄い影があり、長時間眠っていないことがはっきりとわかる。
それでも目だけは妙に冴えていた。
「撃たれたとこ、大丈夫か」
不意に男の声が車内へ響いた。
アレンが振り向くと、男がちらりとこちらを見ていた。
運転から目を離す時間はほんの僅かだった。
それでも、その声には昨夜にはなかった僅かな気遣いが含まれているように聞こえた。
アレンは頬に触れながら、小さく答えた。
「えぇ、少しヒリヒリしますが、大丈夫です」
「そうか」
男は短く返した。
それ以上に心配する様子もなかった。
ただ、それ以上何も言わずに前を向いていた。
車内には再び静かな空気が戻ってきた。
エンジンの低い音だけが、二人の間を一定の間隔で流れていく。
アレンは再び窓の外へ視線を戻した。
朝霧の向こう側に見える建物を、一つずつ目で追っていく。
しかし、街の景色を眺めていても、頭の中から昨夜の出来事が離れてくれなかった。
自分は人を撃った。
それも、ほとんど迷うことなく引き金を引いた。
人生で二度目の発砲だった。
一度目の後、アレンはもう二度と銃を撃つことはないと思っていた。
できることなら、銃など握りたくなかった。
まして誰かへ向けて引き金を引くなど、絶対にしたくなかった。
それなのに昨夜、自分は銃を握りそして、撃った。
考えている暇などなかった。
恐怖で手が震えていたはずなのに、引き金を引く瞬間だけは妙なほど冷静だった。
そのことが、何よりも怖かった。
撃ったことそのものよりも、撃ててしまったことのほうが怖かった。
もしあの瞬間、もっと迷っていたなら。
もし引き金を引けなかったなら。
結果は違っていたのかもしれない。
しかし現実には、アレンは引き金を引いた。
そして今も、その事実だけが胸の奥に重く残っている。
男は何も言わずに運転を続けていた。
やがて街の中心へ入る手前で、車はゆっくりと速度を落とした。
道路脇には古い街灯が並んでいる。
まだ明かりは消えていなかった。
夜と朝の境目に取り残されたような街灯が、白い霧の中でぼんやりと光っていた。
男は道路脇へ車を寄せると、静かに停車した。
エンジンが切られる。
その瞬間、今まで車内を満たしていた音が消えた。
静寂だった。
あまりにも静かで、遠くから聞こえる鳥の声さえはっきりと耳へ届く。
男はすぐには車を降りなかった。
ハンドルへ置いた手をそのままにして、前方を見つめている。
そして、しばらくしてから低い声で言った。
「なぁアレン、別に俺のことを人殺しだと思って避けてもいい」
アレンはゆっくりと男へ振り向いた。
男は前を向いたままだった。
その横顔には疲労が浮かんでいる。
昨夜から一睡もしていないせいなのか、それとも別の理由なのか。
アレンには判断できなかった。
「罪悪感があるなら忘れるな」
男は静かに言葉を続けた。
「忘れちまったら、それこそ終わりだ」
朝日が山の向こうから少しずつ顔を出し始める。
淡い光がフロントガラスを通り、男の横顔を僅かに照らした。
その表情はどこか遠くを見ているようだった。
「そして絶対に人を殺すな」
男はそう言ってから、ほんの少しだけ笑った。
それは笑顔と呼ぶにはあまりにも力のないものだった。
自分自身へ向けた、皮肉のような笑いだった。
「まぁ、俺が言えたことじゃないけどな……」
その言葉の後、男は口を閉じた。
アレンも何も言わなかった。
車内には再び沈黙が落ちた。
男の言葉が、アレンの胸の中へ静かに沈んでいく。
しばらく考えた後、アレンは小さく口を開いた。
「あなたは後悔してるんですか」
男の動きが止まった。
すぐには答えなかった。
ハンドルから手を離し、窓の外へ視線を向ける。
そこには、二人にとって見慣れない街が広がっていた。
知らない建物に知らない道路。
そして知らない人々が暮らす場所。
そして、そのさらに向こうには朝の光を受け始めた山々が連なっている。
男はしばらくその景色を眺めていた。
まるで答えを探しているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「どうだろうな……」
声には迷いがあった。
ほんの少し息を吐く。
「もうわからねぇ」
その言葉は静かだった。
後悔しているようにも聞こえた。
後悔などとうに捨ててしまったようにも聞こえた。
どちらとも断言できない、曖昧な答えだった。
男自身にも、もう自分の中にある感情を正確に理解できていないのかもしれない。
何人もの人間を傷つけ、何人もの人間を殺して。
それでも生き続けてきた。
長い年月の中で繰り返された出来事は、やがて一つ一つの記憶を曖昧にしていく。
最初は重かったはずの罪も。
最初は耐えられなかったはずの記憶も。
何度も思い返すうちに、感覚だけが少しずつ擦り減っていく。
それでも完全に消えることはない。
ふとした瞬間に蘇り夢の中で現れる。
誰かの言葉を聞いた瞬間に、忘れていたはずの光景が戻ってくる。
男がどれほど遠くへ逃げても、それだけは置き去りにできないのだろう。
アレンは男の横顔を見つめていた。
何か言おうと思った。
しかし、何を言えばいいのかわからなかった。
「それなら仕方ない」と言うこともできない。
「あなたは悪くない」と言うこともできない。
まして、「自分には理解できる」と言えるほど、アレンは何も知らなかった。
だから、何も言わなかった。
ただ黙って男を見ていた。
やがて男はシートへ背を預けると、短く息を吐いた。
「行くぞ」
男はドアを開けた。
外から冷たい朝の空気が一気に車内へ入り込んでくる。
夜の名残を含んだ冷気が、火照った頬を静かに撫でていった。
アレンもシートから身体を起こす。
ドアを開け、車の外へ降りる。
足が地面へ触れた。
長時間車内にいたせいで、身体が少し重く感じられた。
男は既に道路へ立っていた。
コートの裾を朝風になびかせながら、街の奥を見つめている。
アレンもその隣へ並んだ。
目の前には、二人が探していた街が広がっていた。
ここが本当に目的地なのか。
カイが本当にこの街へ来たのか。
それすら、まだ確かなことではない。
ただ一つだけわかっていることがある。
カイは最後に、この街で目撃された。
そして、それだけを手掛かりに二人はここまで来た。
長い山道を越え、幾度もの危険を潜り抜け。
昨夜には再び襲撃まで受けた。
それでも、まだ終わってはいない。
むしろここからが始まりだった。
薄い朝霧の向こうで、街は静かに目を覚まし始めていた。
遠くで扉の開く音がする。
どこかの店で明かりが灯る。
煙突から上がる煙が、朝の空へゆっくり溶けていく。
人々が起き始め今日という一日が始まろうとしている。
その穏やかな日常の中へ、二人は足を踏み入れようとしていた。
しかしアレンには、なぜかこの街が穏やかな場所には思えなかった。
静かすぎる街。
何かを隠しているような山々。
そして、まだ誰も知らないカイの足取り。
アレンは小さく息を吐いた。
隣に立つ男も、同じように街を見つめている。
二人の視線の先にあるのは、まだ眠りから覚めきっていない小さな街だった。
そのどこかに、カイへ繋がる手掛かりが眠っている。
そして二人は、それを見つけるためにここまで来た。
「行きましょう」
アレンが言った。
男は短く頷いた。
二人は並んで歩き始めた。
朝の冷たい空気の中へ、二人の足音が静かに響いていく。
その足音は、やがて街の喧騒へ紛れていった。
二人の前には、カイが最後に目撃されたという街が静かに広がっていた。
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早朝の街には、まだ夜の名残が濃く残っていた。
東の空から差し込む朝日は山々の向こう側でまだ弱々しく、街路には薄い霧が漂っていた。
店の多くはまだ扉を閉ざしており、通りを歩く人間の姿も数えるほどしか見当たらなかった。
そんな静かな街の中を、アレンと男は並んで歩いていた。
二人の目的はただ一つだった。
カイの足取りを追い、彼がこの街を出た後にどこへ向かったのかを突き止めることだった。
しかし、二人とも簡単に情報が手に入るなどとは考えていなかった。
これまで何度も同じような聞き込みを繰り返してきたが、有力な情報を得られることなど滅多になかった。
街へ入り、宿を探し、店を回り、人々へ写真を見せ、カイについて尋ねる。
そして何も得られないまま一日を終え、翌日もまた同じことを繰り返す。
それが、この一週間の二人の日常になっていた。
一つの街に数日滞在することもあった。
場合によっては一週間以上も同じ場所を探し続けたことさえあった。
それでも手掛かりが見つからず、最後には諦めて次の街へ移動することになる。
だから今回も、二人は覚悟していた。
カイがこの街にいたという情報だけで、そこから先を見つけるには何日もかかるだろう。
場合によっては何週間もこの街を歩き回ることになるかもしれない。
特に男は、もはや半ば惰性のような気持ちで歩いていた。
疲れていた。
身体的な疲労だけではなかった。
探しても見つからない。
追っても追いつけない。
あと少しと思った瞬間に、また遠ざかっていく。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、期待することそのものが面倒になっていた。
それでも探すしかない。
それだけの理由で、男はアレンと共に歩いていた。
やがて二人は、街の中心部から少し離れた場所にある小さな宿の前で足を止めた。
古い木造の建物だった。
壁には長年風雨に晒された跡が残り、窓枠も少しばかり歪んでいる。
それでも手入れだけはきちんとされているらしく、玄関先には小さな鉢植えが並べられていた。
男は宿を見上げた。
そして、いつものように胸ポケットへ手を入れた。
「この宿で聞き込みするか」
そう言った声には、期待よりも疲労のほうが強く滲んでいた。
どうせ何も出ない。
今回も写真を見せて、知らないと言われて、それで終わる。
男の中では、すでにそんな結末が出来上がっていた。
それでも扉へ手を伸ばした。
古びた木製の扉を押し開ける。
「ごめんください」
アレンが続いて中へ入る。
宿の中は外から見た以上に小さかった。
受付らしい木製の机が一つ置かれており、その奥には古い時計といくつかの鍵が並べられていた。
壁にはこの地方の山々を描いた古い絵が飾られている。
暖炉には火が残っており、朝の冷たい空気とは対照的な温もりが建物の中に満ちていた。
その奥から、年配の女が一人姿を現した。
白髪交じりの髪を後ろでまとめ、厚手の服を着ている。
どうやらこの宿を一人で切り盛りしているらしかった。
女は二人を見ると、軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「悪いな、朝早くに」
男がそう言いながら、胸ポケットへ手を入れる。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
男はポケットから一枚の写真を取り出した。
それは、何度も何度も使われてきた写真だった。
角には小さな折れ目があり、表面には長期間持ち歩いたことによる細かな傷までついている。
男はもう何度この写真を人に見せたのかわからなかった。
そして今日もまた、同じ写真を差し出す。
「なぁ、女将さん」
男は写真を女将へ向けた。
「この男を知らないかい」
その瞬間だった。
女将は写真へ視線を落とした。
ほんの一瞬だけ写真を見つめる。
そして――
「えぇ、知ってるわよ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
男の手が止まった。
アレンも動かなかった。
まるで時間そのものが一瞬だけ止まったようだった。
「…………」
「…………」
誰も言葉を発さない。
女将だけが不思議そうに二人を見ている。
男は写真を持ったまま固まっていた。
表情は変わっていない。
しかし、その内側では全く違うことが起きていた。
(しゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
心の中で、これまで溜め込んできた疲労を吹き飛ばすような歓声が響き渡っていた。
見つかった。
ついに手掛かりが出た。
それも、ただの目撃情報ではない。
この女将はカイを知っている。
男は叫び出したい衝動を必死に抑え込んだ。
アレンも思わず目を見開いていた。
「……本当に?」
アレンの口から、思わず声が漏れた。
女将は首を傾げる。
「えぇ、本当に知ってるわよ」
男はようやく我に返った。
そして、できる限り平静を装いながら問い返した。
「……女将さん、本当にあってますか」
「忘れるはずないじゃない」
女将は即答した。
その迷いのなさに、男は一瞬言葉を失った。
女将は写真をもう一度眺める。
「そんな綺麗な黒髪をしていて、深いダークブルーの瞳をしたイケメンなんだから」
その言葉を聞いた瞬間、男の眉が僅かに動いた。
「…………」
アレンも何とも言えない表情になる。
男は写真へ視線を落とした。
それから、女将を見る。
(おいおい、マジか)
男の記憶にあるカイは、そんな人物ではなかった。
少なくとも、男が知っているカイは無愛想だった。
人付き合いが得意なわけでもない。
自分から誰かに話しかけることも少ない。
何かあれば自分一人で抱え込む。
誰かに頼ればいい場面でも、最後まで自分だけで何とかしようとする。
そして何より、自分自身のことを後回しにする馬鹿だった。
そんな男を「イケメン」と評価する人間がいる。
しかも、それを何の迷いもなく口にしている。
男にとっては妙な気分だった。
「……まぁ、いい」
男は小さく咳払いをした。
今はそんなことを気にしている場合ではない。
「いつまで泊まっていたんだ」
声の調子を戻し、真剣な表情で尋ねる。
女将は少し考えた。
「そうね……一週間前までよ」
男とアレンの表情が変わった。
「一週間前?」
アレンが確認する。
「えぇ」
女将は頷いた。
「あの人、この宿の二階に泊まっていたのよ」
男の目が僅かに細くなる。
「部屋は?」
「二階の端の部屋ね」
その言葉を聞いた瞬間、男とアレンは互いの顔を見た。
二人とも同じことを考えていた。
カイはここまで来ていた。
これまで何日も街を渡り歩き、何度も空振りを繰り返してきた。
それなのに、カイは一週間前まで、この宿にいた。
ほんの少しだけ時間がずれていた。
もしもっと早くこの街へ来ていたなら。
もし、あと数日だけ早く情報を掴んでいたなら。
二人はカイ本人と遭遇していた可能性すらあった。
「……そうか」
男は静かに呟いた。
しかし、女将はそこで話を終えなかった。
「ただね」
その一言で、男の表情が変わった。
女将の声に僅かな引っ掛かりがあった。
「あなたたち以外にも、その人を探していた人たちがいたわよ」
空気が変わった。
男の目から僅かな喜びが消える。
アレンも無意識に背筋を伸ばした。
「……本当ですか」
「えぇ、本当よ」
女将は何でもないことのように答えた。
しかし二人にとっては、決して何でもない話ではなかった。
男の目が鋭くなる。
「いつ頃だ」
「そうね……あの人が泊まっていた頃だったと思うわ」
男は黙り込んだ。
頭の中で情報を整理している。
カイがこの街にいた。
そして、カイを探している人間もこの街へ来ていた。
つまり偶然ではない可能性が高い。
追跡者は存在する。
しかもカイが宿を出る前後まで、この街へ接近していた。
「どんな連中だった」
男が尋ねる。
女将は少し困ったような顔をした。
「それがね、よく覚えていないのよ」
「人数は?」
「何人かいたと思うけど……」
女将は記憶を辿るように目を伏せる。
男は黙って待った。
急かすことはしなかった。
やがて女将が顔を上げる。
「でも、あの人を探していたのは間違いないわ」
「……そうか」
男は短く答えた。
アレンは女将へ尋ねる。
「カイさんは、その人たちのことを知っていたんでしょうか」
「さぁ、それはわからないわ」
女将は首を横に振った。
「でもね、最後の数日間は少し様子がおかしかったのよ」
男が顔を上げる。
「様子がおかしかった?」
「えぇ」
女将は頷いた。
「何度も建物の周りを確認していたわ」
アレンが息を呑む。
「それに、街を歩いている時もよく後ろを振り返っていたの」
男の表情が険しくなった。
それだけで十分だった。
カイは何かを察知していた。
自分を追っている人間がいることに気付いていた。
だから周囲を確認して宿の周辺を警戒していた。
「……なるほどな」
男は低く呟いた。
アレンは男を見る。
「監視を警戒していたんでしょうか」
「間違いなくそうだろう」
男は即答した。
「アイツが意味もなくそんなことをするとは思えねぇ」
それは長年カイを知っている人間だからこその確信だった。
女将は二人の様子を見ながら、さらに記憶を辿っていく。
「それにね、今時なら普通カードで払うでしょう?」
男が女将を見る。
「でも、あの人は宿代を全部現金で払っていたのよ」
男は小さく舌打ちした。
「……足跡を残したくなかったんだな」
「足跡?」
アレンが聞き返す。
「支払い記録だ」
男は低く答えた。
「カードを使えば、いつどこで金を使ったか記録が残る可能性がある」
アレンは黙って頷いた。
「現金なら、それを避けられる」
まるで追跡されることを前提に生活していたようだった。
男の脳裏に、カイの姿が浮かんだ。
一人で宿へ入り、一人で部屋を借りて周囲を警戒しながら街を歩きながら現金だけで生活して夜のうちに姿を消した。
それは旅行者の行動ではなかった。
逃亡者の行動だった。
「チェックアウトしたのも夜だったしね」
女将が付け加える。
男は黙って聞いていた。
「夜に出ていった?」
「えぇ」
「何時頃だ」
「かなり遅い時間だったと思うわ」
男は腕を組んだ。
そして女将は、さらに何かを思い出したように口を開いた。
「そうそう、着ていた服も変だったわ」
男が顔を上げる。
「どんなのです?」
アレンが先に尋ねた。
女将は少し考え込んでから答えた。
「ノルヴァイン帝国軍のコートみたいな服だったわ」
その瞬間だった。
男の表情が変わった。
先ほどまでの疲労が、一瞬で消えたように見えた。
「……帝国軍?」
「えぇ」
女将は頷く。
「でも、本物の軍服なのかは私にはわからないわ」
男は黙ったまま女将を見る。
「肩のところにね」
女将は自分の肩を指差した。
「黒と白の鳥の羽が交差していたのよ」
アレンの呼吸が止まる。
「それから、その真ん中を銀色のリボンが結んでいる刺繍があったわ」
その瞬間。
アレンの視線がゆっくりと男の肩へ向いた。
そこには、女将が語ったものと同じ刺繍があった。
黒い翼と白い翼の二つが交差し、中央を銀色のリボンが結んでいる。
それは単なる軍装の装飾ではなかった。
この世界において、特別な意味を持つ記章だった。
その意匠を身につけることを許された人間は、世界に二人しかいない。
白翼。
そして黒翼。
アレンは息を呑んだ。
視線を男から外せない。
男もまた、自分の肩にある刺繍へ視線を落とした。
そして静かに息を吐いた。
長い沈黙が続いた。
男の脳裏には、昔のカイの姿が浮かんでいた。
無愛想で、不器用で、何を考えているのかわかりにくく。
それでも、誰よりも周囲をよく見ていた男。
危険を察知すれば、誰にも知らせず一人で動く。
誰かを守るためなら、自分自身を危険へ置くことさえ躊躇しない。
そんな男が、今も一人で逃げ続けている。
そしてその背後には、自分たちとは別の追跡者までいる。
男は窓の外へ視線を向けた。
朝の街が広がっている。
霧は少しずつ薄くなり、遠くの建物がはっきりと見え始めていた。
その街のどこかを、カイは一週間前まで歩いていた。
この窓から街を見下ろしていた可能性もある。
そして今も、どこかで生きている。
男は目を細めた。
「……間違いねぇ」
低い声だった。
しかし、その言葉にはこれまでにない確信があった。
「この街にいたのは、あいつだ」
アレンは男を見る。
男は窓の外を見たまま続けた。
「あいつは追われていた」
そして、ほんの僅かに口元を歪める。
「だから逃げた」
アレンも窓の外へ視線を向けた。
霧の向こうには、街の道路が伸びている。
その先には、さらに別の街へ続く道がある。
カイはそこを通ったのかもしれない。
あるいは、別の道を選んだのかもしれない。
まだ何もわからない。
それでも、今までとは違った。
これまでは、ただ名前と写真だけを頼りに探していた。
だが今は違う。
カイがこの宿にいたという確かな証言がある。
部屋も残っている。
行動もわかっている。
警戒していたこともわかった。
夜に宿を出たこともわかった。
そして何より、彼が着ていた服の特徴まで判明した。
男は写真を胸ポケットへ戻した。
「……あと少しだ」
その言葉は、これまで何度も口にしてきた言葉だった。
しかし今回は違った。
ただの希望ではない。
確かな手掛かりがある。
男はアレンへ振り返った。
「女将さん」
「何かしら?」
「悪いが、もう少し聞きたいことがある」
女将は頷いた。
「何でも聞いてちょうだい」
男の目には、先ほどまでの疲労とは違う光が戻っていた。
長い追跡の中で何度も消えかけていたものが、再び灯り始めている。
アレンも同じだった。
この国に来てから何度も街を歩き、何度も写真を見せ、何度も空振りを繰り返した。
その全てが、今になって一本の線へ繋がり始めていた。
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真剣な顔で男は聞いた。
「女将さん、ソイツはどこに行くのか言ってなかったか」
男は間を置かず、次の質問を投げた。
ここまで来て、ようやく掴んだ手掛かりを逃すわけにはいかなかった。
これまで何度もあと一歩というところで情報を失ってきた。
だからこそ、今回は絶対に取りこぼしたくなかった。
男の視線には、それまでの疲労とは違う鋭さが戻っていた。
女将は腕を組み、天井を見上げながら記憶を探るように考え込んだ。
「そうねぇ……」
少し首を傾げる。
「何も言ってなかったと思うわ」
その返答に、男は小さく息を吐いた。
「そうか……」
せっかく掴んだ手掛かりだった。
カイがこの宿に泊まっていたこともわかった。
一週間前までこの場所にいたこともわかった。
追跡者らしき人間が近くまで来ていたこともわかった。
それでも、肝心の行き先だけがわからない。
男は窓の外へ目を向けた。
霧の残る街並みが、朝の光の中へ少しずつ浮かび上がっている。
この先を探すには、また街中を歩き回るしかない。
そう思いかけた、そのときだった。
「あぁ、そうだ」
女将が突然顔を上げた。
男とアレンが同時に振り返る。
女将は何かを思い出したような顔をしていた。
「墓参りに行くって言ってたと思うわ」
一瞬、部屋の空気が止まった。
男の目が僅かに見開かれる。
アレンも思わず女将を見つめた。
「墓参りですか?」
「そう、墓参り」
女将は頷いた。
「確か、そんなことを言っていた気がするわ」
男は黙った。
その言葉を頭の中で何度も反芻する。
墓参り。
カイが墓参りへ向かった。
その情報だけでは、まだ行き先を特定できない。
この街の周辺だけでも墓地はいくつかあるだろう。
だが、男の表情には僅かな変化が生まれていた。
何かが引っ掛かった。
何かを思い出そうとしているようだった。
「誰のかとか言ってなかったか?」
男が尋ねる。
女将は苦笑した。
「さすがに、そこまでは聞いてないわよ」
「……そうか」
「宿の客が、どこの誰の墓参りに行くかなんて普通聞かないもの」
「まぁ、そうだな」
しかし、納得したわけではなかった。
むしろ頭の中では別のことを考えていた。
カイがわざわざ墓参りをする。
それも、追跡者に警戒しながら宿を出ていった。
ならば、単なる観光や気まぐれではない。
カイにとって、そこへ行く理由がある。
そして、その理由を知っているのは恐らくカイ自身だけだった。
男は窓際へ歩いた。
窓枠へ手を置き、腕を組む。
その横顔には、深く考え込む色が浮かんでいた。
アレンにはわかった。
男は何か思い当たることがある。
「どうしたんですか」
アレンが尋ねる。
男はすぐには答えなかった。
窓の外を眺めたまま、しばらく沈黙する。
やがて低い声で呟いた。
「いや……」
短い言葉だった。
「アイツなら、あり得ると思ってな」
「何がですか?」
男は答えず、窓の外を見つめ続けた。
カイのことを思い出しているのだろう。
昔の記憶を一つずつ辿っているようだった。
やがて男は振り返った。
「女将さん」
「なに?」
「この辺りに、あの戦争の慰霊碑とか共同墓地とかないか」
女将は少し考えた。
「戦争の……?」
「兵士が大勢眠っているような場所だ」
女将は腕を組み、記憶を辿るように視線を上へ向けた。
「あぁ、それならあるわ」
男の身体が僅かに前へ出る。
「どこだ」
その声には明らかな焦りが混じっていた。
女将は窓の向こうを指差した。
「ここからさらに山と谷を二つぐらい越えた先よ」
「山と谷を二つ……」
アレンが呟く。
「かなり遠いですね」
「えぇ」
女将は頷く。
「でも、そこまで行けば王都があるわ」
男の目が細くなる。
「王都?」
「そう」
女将は続けた。
「王都には大きな慰霊公園があるわ」
「慰霊公園……」
「戦争で亡くなった兵士たちの共同墓地も、そこにあったはずよ」
男は無言で頷いた。
その顔には、やはりという表情が浮かんでいた。
アレンは男の横顔を見る。
どうやら男には、カイがそこへ向かった理由が見えているらしい。
「……そこへ?」
アレンが尋ねる。
男はすぐには答えなかった。
やがて小さく口を開く。
「可能性は高い」
「何か心当たりがあるんですか?」
「まだ確信はねぇ」
男はそう言った。
「だが、アイツが墓参りをするって聞いたら、そこが一番に浮かんだ」
アレンは黙って頷いた。
男にとってカイは、ただの追跡対象ではない。
長い時間を共に過ごしてきた相手なのだ。
だからこそ、カイが何を考えて行動するのか、その一端を理解できるのかもしれない。
「なぁ、女将さん」
男は続けて尋ねた。
「この街から王都に行く方法は?」
「王都?」
「そうだ」
女将は少し笑った。
「バスならあるわよ」
「本当か」
男の声が僅かに弾んだ。
「えぇ」
女将は頷いた。
「一日に一本だけだけどね」
「一日一本……」
アレンが呟く。
女将は苦笑する。
「こんな田舎だから、本数なんて期待しない方がいいわ」
男は窓の外へ視線を向けた。
王都へ向かうバスがある。
男はアレンを見る。
そして即座に言った。
「アレン」
「はい」
「次は王都に行くぞ」
迷いはなかった。
これまでの旅で、男がこれほど明確な目的地を得たのは初めてだった。
今までは、ただカイがいたかもしれないという情報を追い続けてきた。
街へ入り、聞き込みをする。
見つからなければ次の街へ行く。
その繰り返しだった。
だが今は違う。
カイ・ラグナーは確かに、この街にいた。
しかも一週間前まで、この宿に滞在していた。
そして最後には、墓参りへ向かうと言って宿を出た。
その先には王都がある。
戦争の慰霊碑。
そして共同墓地。
男の中では、全ての情報が一本の線へ繋がり始めていた。
「本当に王都へ向かったんでしょうか」
アレンが尋ねる。
男は少しだけ考えてから答えた。
「わからねぇ」
「……」
「だが、行く価値はある」
男はそう言った。
「ここで他の場所を探して時間を潰すよりはな」
アレンは頷いた。
男は再び窓の外を見る。
朝霧はすでに薄くなり、遠くの山々がはっきりと姿を現していた。
その向こう側に王都がある。
そして、そのどこかにカイがいるかもしれない。
「……待ってろよ、カイ」
男が呟いた。
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
それでも、その瞳には久しぶりに確かな光が宿っていた。
長い追跡の中で何度も消えかけた光だった。
それは希望なのか。
焦りなのか。
あるいは、別の感情なのか。
男自身にもまだわからなかった。
ただ、今までとは違う。
初めて追うべき場所が見えた。
初めて、カイへ続く道が目の前に現れた。
男は窓から離れる。
「行くぞ」
「はい」
アレンも頷いた。
二人は女将へ礼を言い、階段を下り始めた。
古い木の階段が、二人の足音に合わせて軋む。
一階へ降りる途中、アレンはふと振り返った。
二階の廊下、その一番奥にある部屋。
そこには一週間前まで、カイがいた。
そして今、その部屋は誰もいない。
ただ、そこに残された僅かな痕跡だけが、彼が確かに存在していたことを証明している。
アレンはその光景をしばらく見つめた。
やがて男に続いて玄関へ向かう。
扉を開ける。
冷たい朝の空気が二人を包んだ。
外へ出ると、街は少しずつ目を覚まし始めていた。
店が開き始める。
人々が通りを歩き始める。
遠くから車の音が聞こえる。
さっきまで眠っていた街が、いつもの一日を始めようとしていた。
その中で二人だけが、次の目的地を見つけていた。
王都。
そこには戦争で亡くなった兵士たちの墓がある。
そして、その墓のどこかにカイが訪れようとしている。
男は山並みの向こうへ視線を向けた。
「今度こそ逃がさねぇ」
その声は小さかった。
だが、今度の言葉には疲労がなかった。
二人は王都へ向かう準備を始めるため、宿を後にした。
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