山岳の彼方
二人は車に駆け乗りドアを閉めた次の瞬間、男はキーを回した。
一瞬だけスターターが空回りし、次いで低く重いエンジン音が響いた。
車体そのものが目を覚ましたように震える。
だが、男はエンジンが十分に回るのを待とうともしなかった。
間髪入れずアクセルを踏み込み車体が前へ跳ねるように飛び出した。
タイヤが路面を掴み、勢いよく加速する。
アレンの身体がシートへ押し付けられた。
「っう……!」
反射的にシートベルトを掴む。
視界の端を、路地裏の壁が凄まじい速度で流れていった。
男は両手でハンドルを握り、表情を険しくしたままアクセルを踏み続けていた。
「クソッタレが」
男は低く吐き捨てた。
普段の軽口とは違った。
焦っていた、怒っていた、そして何より急いでいた。
街並みが後方へ消えていく。
商店、住宅、交差点、人々そういったものが一つ一つ、瞬く間に遠ざかっていく。
やがて建物が少なくなった。
舗装された道路の両側に広がる景色も変わっていく。
住宅地から郊外へ、郊外から山間部へと進んでいく。
道路の先には、夕暮れの光を失いつつある山々が連なっていた。
空はすでに薄暗い。
山の稜線が黒い影となって、遠くまで続いている。
アレンはシートベルトを握った。
手のひらに力が入る。
アレンはシートベルトを握った。
「先を越されていたって……間に合いますかね」
男は前だけを見ながら言った。
「無理だ」
アレンは息を止めた。
「向こうが三日前に動いてるなら、普通に考えて追いつけねぇ」
「......」
アレンは何も言えなかった。
全く持って男の言う通りだった。
相手が三日前にカイの痕跡を追って山岳部へ向かったのなら、二人が今から追いかけても距離を縮めるどころか、さらに差を広げられている可能性すらある。
車がカーブに差し掛かったが男はアクセルを踏み続けた。
「だが、まだ終わったとは限らねぇ」
男は前方へ視線を固定したまま、山道へと入っていく。
道路は徐々に狭くなり、左右を木々に囲まれていく。
街灯も減っていく。
沈黙の車内で聞こえるのはエンジン音とタイヤが路面を踏みしめる音だけ。
男はコートの位置を直しながら言った。
「アレン、ここからは最悪の事態を想定して動く」
アレンは顔を男に向け視線を動かさない。
「追跡者がいることが確定した今、揉め事になる可能性はかなり高い」
「お前は戦いに来たんじゃない」
ハンドルを握る手に力が入る。
「絶対に前に出るな」
「そして最悪――俺を捨てて逃げろ」
アレンは固まった。
「え」
男は淡々としていた。
「何がなんでも生き残れ」
車内の空気が変わった。
アレンは理解できなかった。
ここまで来た。
海を越え探し続けた、なのに。
「そんな……」
アレンの声が震える。
「今、何て……」
「聞こえてただろ」
「そんな……」
アレンの胸が大きく鳴った。
「何を、何を言っているんですか」
男は苦笑した。
「最悪の事態を想定してるって言ってるだろ」
車の速度は更に上がっていく。
「でも......」
「最悪の時だけだ」
短く付け足した。
「それ以外で俺を捨てて行くなよ」
アレンは返事ができなかった。
ようやく見つけた一つの手掛かり。
それを追って、今こうして山へ向かっている。
なのに、それなのに。
ーー俺を捨てて逃げろ。
そんな言葉を聞かされるとは思わなかった。
アレンは俯いた。
「……嫌です」
小さな声だった。
男には聞こえたらしい。
「何?」
「嫌です」
今度ははっきり言った。
「そんなの……できません」
男は少しだけ苦笑した。
「お前なぁ……」
「ここまで来たんですよ」
アレンは窓の外を見たまま続けた。
「海まで越えて」
「……」
「一週間も探して」
「……」
「ようやく手掛かりを見つけたのに」
アレンの声が震える。
「それで、あなたを置いて帰れなんて……」
男は何も言わなかった。
しばらくして、静かに口を開く。
「俺はお前みたいな一般人を連れてきた責任がある」
「だからヤバかったら逃げろ」
「お前は家に帰れ、最悪グリム王国のノルヴァイン帝国の大使館を頼れ」
「俺の名前を出せばしっかり対応してくれる」
アレンは窓の外を見る。
知らない国の知らない山に知らない空が広がっている。
だが、ここまで来た理由だけは知っている。
「お前が死んだら何の意味もねぇ」
アレンは何も言えなかった。
その言葉だけは、妙に胸へ残った。
男は急に話題を変えるように言った。
「それに俺は簡単には死なん」
「……」
「死ぬならもっと昔に死んでる」
笑った、その笑みは乾いた笑いだった。
自分自身を笑うような。
これまで何度も死線を越えてきた人間だけが浮かべるような、妙に達観した笑みだった。
そしてアクセルをさらに踏み込む。
アレンは更にシートへ押し付けられた。
「ちょっ……!」
「舌噛むなよ」
「あなたが急に速度を上げるからでしょう!」
「急いでんだ」
「それは分かってますけど!」
男は笑った。
ほんの僅かな笑い。
しかし、その笑みの奥には緊張が残っている。
男自身も分かっているのだ。
三日の差は大きい。
カイがどこにいるのかも分からない。
そして、相手がすでにカイへ接触している可能性もある。
間に合わないかもしれない。
しかし、それでも行くしかない。
車は山道を登り続けた。
道路脇の木々が、黒い壁のように流れていく。
遠くで鳥の鳴き声がした。
それもすぐに闇へ消える。
やがて雲が増え始めた。
山の向こうに薄い雲が浮かんでいる。
月明かりを僅かに遮り、山々をさらに暗く見せていた。
遠く、山の向こうの薄い雲の下に何かが待っている気がした。
男は前を見たまま呟く。
「待ってろよ、カイ」
車はさらに速度を上げた。
山岳地帯へ続く暗い道を、二人を乗せた車は山岳地帯へ向かって走り続けた。
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男は数時間ほとんど休まず車を走らせ続けていた。
休憩らしい休憩は一度も取っていない。
給油のために一度だけ車を止めた以外は、ただひたすら前へ進んでいた。
最初は街灯の残る郊外だった道も、いつの間にか細く曲がりくねった山道へ変わっていた。
道路は舗装はされているものの、ところどころひび割れている。
補修された跡もあるが、それも新しいものではない。
車がその上を通るたび、小さな振動が車内へ伝わってきた。
外は完全な夜だった。
ヘッドライトに照らされた範囲だけが世界のすべてみたいに見える。
それ以外は黒かった。
山肌も、木々も、崖の下も何も見えない。
その両脇を覆う木々は、ヘッドライトの端に一瞬だけ姿を現しては、すぐに後方へ消えていった。
窓の外には時折ガードレールが流れるだけだった。
男は前を見たまま口を開く。
「真っ暗だな」
アレンはシートを握りながら答えた。
「事故にはならないようにしてくださいよ」
男は鼻で笑った。
「お前の運転よりはマシだろ」
「まだ言うんですか、それ」
少しだけ空気が緩むが次の瞬間にはまた静かになった。
エンジン音だけが響いていた。
アレンは窓の外を見ながら言った。
「さっきから上りがキツくなってきましたね」
男は頷く。
「結構高いところまで来ているんだろう」
山道はさらに狭くなっていた。
ところどころ路面も荒れている。
普通の旅行者が好んで来るような場所ではない。
男は慎重にハンドルを切っていた。
速度を落としすぎることもなく。
かといって無謀に飛ばすこともなく。
この道を知らない人間が見れば危険な運転に見えるかもしれない。
アレンは膝の上に置いた地図を開いた。
紙が車の振動で僅かに揺れる。
現在地を確認する。
地図上では、山道はさらに北西へ伸びている。
その先に小さな町が記されていた。
名前すら無い無名の町だった。
「こんなところに街が本当にあるんですよね」
男は肩をすくめた。
「多分な」
「そこにアイツがいる可能性が一番高いだろうし、他にあてもない」
男は時計と速度計を見た。
「あと一時間もしない内につくはずだ」
アレンは頷いた。
沈黙。
タイヤが路面を擦る音だけが続く。
そのときだった。
男がバックミラーを見た。
一度。
ほんの一瞬だけだった。
そして前を見る。
アレンは気にしなかった。
数分後、男が再びバックミラーを見る。
今度は少し長かった。
アレンが横目で男を見る。
だが、男は何も言わない。
また前を見る。
さらに数分後男が三度目にミラーを確認した。
今度は視線が戻らなかった。
「……どうしました?」
男はすぐには答えなかった。
ミラーの中を見つめている。
「なぁアレン」
「一時間前ぐらいから後ろのバイクがさっきからずっと追いてきているんだが」
その言葉を聞いた瞬間、アレンの身体が強張った。
アレンは反射的に後ろを見る。
だが、そこにあるのは闇だけだった。
道路はすぐにカーブの向こうへ消えている。
森も見えない。
何もない。
「……どこですか?」
真っ暗だったが遠くに小さい光が一つ見えた。
車の揺れに合わせて動いている。
「嘘ですよね……」
男は目を細めた。
「それなら良かったんだけどなぁ」
「こんな山奥までそれにこんな真夜中にバイク一つでそれも一人で来るヤツなんているか?」
アレンはすぐ答えなかった。
確かにおかしい。
夜の山道で近くに大きな街はない。
こんな時間に、バイク一台で山を登ってくる理由があるとは思えない。
「それでもまだ決め付けるのは早いですよ、もしかするとただの偶然かもしれないですし」
男もすぐには否定しなかった。
「そうなんだがな」
またミラーを見る。
「曲がるところがこうも全部同じだとな……」
アレンは何も言わなかった。
アレンは自分の呼吸が浅くなっていることに気付いた。
心臓が速い。
さっきまでの疲労とは違い身体が勝手に緊張している。
アレンはゆっくりとコートの中へ手を入れた。
指先が冷たい金属に触れる。
拳銃のグリップの冷たく硬い感触が掌へ伝わった。
鼓動が速くなる。
アレンはできれば触りたくなかった、ましてや、使いたくなんてない。
だが手は離れなかった。
男は気付いていた。
だが何も言わない。
ただアクセルを少しだけ踏み込んだ。
エンジンの音が変わり車体が僅かに前へ出る。
アレンはミラーを見た。
後ろの光が――動いた。
同じように速度を上げた。
アレンの心臓が大きく跳ねた。
偶然かもしれない。
たまたま同じタイミングで速度を上げただけかもしれない。
車内は静かだった。
二人は何も言わなくなった。
必要なことは、もう分かっていた。
あの光が偶然なのか。
それとも――
自分たちを追っている誰かなのか。
今はまだ、確証はない。
だが、二人とも同じことを考えていた。
もし、あれが追跡者ならこの先で待っているのは、ただの山間の町ではない。
カイへ続く手掛かり。
そして、自分たちより三日早く動いた誰か。
その両方が、同じ場所で待っている可能性がある。
男はハンドルを握る手に力を込めた。
アレンはコートの中で拳銃のグリップを握ったまま、前を見つめる。
誰も口を開かない。
エンジン音だけが、夜の山に響いていた。
車はさらに暗い山道の奥へ進んでいった。
その後ろから、一つの光が静かについてきていた。
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