見えざる足取り
夜の闇に紛れるようにして、二人を乗せた特殊高速艇は、名もない小さな港へゆっくりと船体を滑り込ませた。
沖合から見れば、そこは港と呼ぶことさえ躊躇われるほど小さな場所だった。
大きな貨物船が停泊するような設備もなければ、煌々と夜を照らす照明もない。岸壁に沿って設置された古い港灯が、一定の間隔を置いてぽつぽつと点いているだけだった。
その明かりも決して明るいとは言えない。
黄色くくすんだ光が、波打つ海面をわずかに照らしている。
光の届かない場所は、まるで夜そのものがそこに沈殿しているかのように暗かった。
船体が岸壁へ近づくにつれ、波が船腹を叩く音が小さくなっていく。
やがて、
ゴン――と鈍い音がして、船体が岸壁に触れた。
船員の一人が無言で係留索を投げ、別の船員がそれを受け取る。
海から吹いてくる風が頬を撫でる。
冷たい。
船の上にいる間も風は冷たかったが、陸地に降りると、その冷たさが妙に身近に感じられた。
湿った潮の匂いに古い木材の匂い、どこか遠くから漂ってくる油の匂い。
それらが混ざり合って、見知らぬ土地の夜を形作っている。
アレンはコートの襟を少しだけ寄せた。
「寒いですね……」
「そうだな」
男も肩を震わせている。
「この辺りは寒流が流れているから余計に寒くなってるんだろ」
一方の船員たちは余計な会話をせず、手際よく荷物を降ろしていく。
男とアレンも最低限の荷物だけ持って岸へ降りた。
やがて荷物の積み下ろしが進み、最後に問題の車が姿を現した。
船の格納庫がゆっくりと開いて車がラダーレールをギシギシと金属が軋ませながら夜の港に降り立った。
アレンは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
少し遅れて軍用車もクレーンで下ろされ地面に降りた車を見て男が満足そうに頷いた。
「よし」
アレンは運転席側へ回ったその瞬間だった。
男の動きが止まった。
その視線が運転席側の側面に向いていた。
静かだった、静かすぎた。
アレンに緊張が走る。
運転席側の側面にしゃがみ込む。
そこには――大きな傷が残っていた。
塗装が大きく剥がれ、金属の地肌が露出している。
一筋どころではない。
かなり深い。
どう見ても、ちょっと擦った程度では済まない傷だった。
男はしばらく無言でそれを眺めた。
「……はぁ」
アレンは視線を逸らした。
「あの……私は悪くないですよ」
男はしゃがみ込み指で擦りながら傷を確認した。
アレンの嫌な予感だけが膨らむ。
「私は悪くないですよ」
もう一回言った。
男は立ち上がった。
「あぁ、わかってるよ...」
しかし、何か吹っ切れたように立ち上がった。
「まぁ、いいさ、カイにたっぷり修理費を請求するさ」
アレンが目を瞬かせる。
「それからこの旅の経費から全部」
「結構な額になりそうですね」
男は車を見る。
船代、宿代、食費、燃料費、武装、修理費さらにここまで来るまでに使った細々としたものを全部合わせればすでに笑えない額なはずだ。
「そうだな」
やがて男が小さく息を吐く。
「まあ、あいつなら払うだろ」
「払いますかね?」
「払わせる」
そう言って男はコートの内側に手を入れた。
カチッと男が拳銃のセーフティを切った。
「ちょ、何してるんですか」
男は平然と答える。
「いつでも使えるようにな」
アレンは周囲を見回した。
夜の知らない国、人気は少なく港の先は暗い道路。
近くに見えるのは古びた倉庫と街灯だけだった。
「用心することにこまることはないぞ」
それだけ言って男は車に乗り込みエンジンを掛けた。
エンジンの低い音が港に響く。
「先にどっか宿を見つけないとな」
「先に情報収集じゃないんですか」
男は前を見る。
「宿だ」
「なんでです」
「拠点がないと動けねぇし、人間は寝れないと頭が腐る」
「……まぁ、確かに?」
「だろ?」
「そこだけは同意します」
「そこだけかよ」
アレンも助手席に乗りドアを閉めた。
男はライトを点けないまましばらく走り出し港から離れた。
バックミラーを何度も見ながら交差点を何度も余計に曲がる。
停車と発進を何度も繰り返していた。
ようやく十分ほど走ってからヘッドライトを点灯した。
「何してるんですか」
男は前を見たまま答える。
「尾行確認」
「いるんですか」
「今のところはいない」
「だが前提としていると思え」
道路脇に古い建物が流れていく。
異国の看板に知らない言葉、知らない空。
アレンは窓の外を見る。
ここまで来た、本当に国外まで来てしまったということを何度も自覚する。
男がハンドルを叩いた。
「まず宿を探して次に情報を見るけるまで聞き込みを続けるぞ」
アレンが聞いた。
「見つかると思いますか」
男は少し考えそれから笑った。
「知らん」
アクセルを踏み込み車の速度を上げた。
「だが、ここまで来たんだ」
「空振りだったらアイツを見つけたあと二発殴る理由が増えるだけだ」
「どっちみち殴るんですね」
「そうだな」
男はそう言いながら笑った。
________________________________________________
帝都を離れてから一週間。
異国の空気にも少しずつ慣れ始めたが、肝心の成果だけは、何一つなかった。
カイの足取りは、まるで最初から存在しなかったかのように途切れていた。
手当たり次第に
帝国人らしい男を見なかったか。
軍人らしい旅行者はいなかったか。
黒い髪の若い男を知らないか。
と聞いて回ったが、返ってくるのは決まって同じ答えだった。
「知らない」
「見ていない」
「そんな奴は来ていない」
それだけだった。
裏通りの小さな飲み屋にも入った。
時には、情報屋を名乗る人間にまで金を払った。
それでも何も出てこなかった。
そして、その日の夕方。
二人は、裏路地にいた。
表通りから一本入っただけだというのに、そこはまるで別世界だった。
建物と建物の間に挟まれた細い道。
壁には剥がれかけた古い広告が貼られ、その上から別の紙が何枚も重ねられている。
雨水が溜まった場所には薄汚れた水たまりができ、足元には空き缶や煙草の吸い殻が転がっていた。
夕方だというのに、路地裏にはほとんど人がいない。
表通りから聞こえてくる車の音だけが、遠くから響いている。
男は路地裏の壁にもたれ、吸っていた煙草を噛み潰すように吐き捨てる。
「クソ、誰も知らねぇじゃねぇかよ」
アレンは少し離れた場所で地図を広げていた。
何度も折り畳まれた地図には、これまで二人が訪れた場所がいくつも書き込まれている。
アレンは地図を見ながら言う。
「ここには来ていないんじゃないですか」
「じゃあ、カイの野郎どこに行ったんだよ」
その声には明らかな苛立ちが混じっていた。
怒っている。
焦っている。
そして何より、疲弊している。
まるで大海原に小石を投げ込み、その落ちた場所を探しているようなものだった。
情報は断片すら出てこない。
そのとき遠くからエンジン音が聞こえた。
二人のいる路地の入口へ、一台の古びたタクシーが近づいてくる。
塗装はところどころ剥げていてかなり車体も古い。
長年使い込まれたことが一目で分かる車だった。
男が顔を上げる。
タクシーは二人の前を通り過ぎようとした。
「おい」
男が手を上げた。
タクシーが減速する。
キッ、と小さな音を立てて停車した。
運転席の窓が下がる。
中から中年の男が顔を出した。
「ちょっと聞きたい」
「何を?」
男はコートの内側から一枚の写真を取り出した。
男はそれを運転手へ差し出した。
「なぁ、この男を知らないか」
運転手は写真を一瞥して、少し考えるように目を細めた。
「ああ……その人なら、一ヶ月ほど前かな」
男の目が鋭くなる。
「知っているのか?」
「あぁ、山岳部の僻地に行きたいって言ってね。よく覚えてるよ」
「どこへ行きたいと言った?」
「すまない、具体的な町の名前までは覚えてない」
「覚えてないのか?」
「この辺りは山が多いからな」
運転手は苦笑する。
「ただ、かなり遠い場所だったのは覚えてる」
運転手はハンドルに肘を乗せたまま続ける。
「チップもやたら弾んでくれたし」
アレンが一歩前に出る。
「どこで乗せたんですか」
「南に四つ隣の街だよ」
男は無言で地図を広げ指が動かし距離を測り線を引いた。
「どんな格好だった」
「旅行客には見えなかったな」
運転手は少し笑う。
「ノルヴァイン帝国軍みたいなコート着てたよ。手荷物は古びたトランク一つだけだったはずだ」
男の指が止まる。
「やけに静かな人だった」
「こっちが話しかけても、短く相槌打つだけで」
アレンはその言葉を聞きながら呼吸を浅くする。
間違いない、とまでは言えない。
運転手がふと思い出したように付け足す。
「そういえば、その人を探してる奴らもいたな」
男の視線が上がる
「いつだ」
「三日ほど前。でかい男二人組だったよ。軍人みたいな格好をした変な連中だった」
空気が変わった。
男の声が低くなる。
「最後に降ろした場所は」
運転手は窓の外を見た。
「ここから北西に150km。山岳部の田舎町だ」
一瞬だけ沈黙。
男は財布を取り出し、紙幣を束ごと握らせた。
「ちょ、ちょっと」
「受け取れ」
拒否の余地はない圧だった。
アレンは男の横顔を見る、その顔には焦りがわずかに見えた。
しかしそれ以上に、確信に近いものもあった。
「アレン、俺たちはどうやら先を越されたらしい」
アレンは地図を見つめたまま問う。
「どうします」
男は迷わず車へ向かった。
ドアを開けエンジンをかけながら短く言った。
「急ぐぞ、三日の遅れを取り戻すしかない」
〜お願い〜
作品総合評価に影響するのは、「ブックマークの数」と「星評価」です。
ブックマークや評価をぜひお願いします。
評価はこのページの下側にある【☆☆☆☆☆】をタップすればできます。
フォローの方もどうかよろしくお願いします。
これからも頑張っていく所存ですのでどうかブックマークの方もよろしくお願いします。




