それぞれの正義
そのころ、ノルヴァイン帝国。
帝都オルドリア――皇居。
歴代皇帝たちの肖像画が並ぶ謁見の間には、重く張り詰めた沈黙が流れていた。
天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアは昼の光を受けて静かに輝き、その淡い光が黒と金を基調とした広間の床へ長い影を落としている。
巨大な窓の向こうには、雲一つない澄み切った青空が広がっていた。
その空はあまりにも穏やかで、これから世界がさらに大きな戦火へ沈んでいくことなど、まるで知らないかのようだった。
その最奥。
黒曜石のような玉座には、ノルヴァイン帝国第12537代皇帝、ヴィヘルム・フォン・ノルヴァインが静かに腰を下ろしていた。
その周囲には参謀本部長、近衛長官、宮内大臣、帝国政府首脳、そして軍最高司令部に属する将官たちが並んでいる。
誰もが姿勢を正していたが、その表情には隠しきれない緊張が滲んでいた。
先ほどから、この広間では誰一人として余計な言葉を発していなかった。
やがて、一人の武官が手元の報告書へ視線を落とした。
紙面に記された文字を最後まで確認すると、静かに書類を開く。
「グリム王国、リヴェリア共和国、セレナ連合、三国とも正式に我が国へ宣戦を布告しました。」
その声だけが広間へ響いた。
「いずれもヴェルテクス連邦との同盟義務履行を理由としております。」
再び沈黙が訪れる。
誰もが皇帝の言葉を待っていた。
ヴィヘルムはすぐには答えなかった。
ただ静かに玉座へ座ったまま、巨大な窓の外へ視線を向けていた。
青い空。
どこまでも広がる蒼穹。
その青を見つめているうちに、ヴィヘルムの脳裏へ一人の男の姿が浮かび上がった。
グリム王国国王、カール・エーデル・グリム。
直接顔を合わせた回数は決して多くなかった。
それでも二人は長い年月をかけ、幾度となく手紙を交わしてきた。
国家の未来について語り、民の暮らしについて語り、戦争について語り、そして平和について語り合った。
王と皇帝。
立場も国家も違う。
それでも二人は、不思議なほど互いの考えを理解していた。
だからこそ、ヴィヘルムには分かっていた。
カールが何を恐れ、何を守ろうとして、その決断を下したのか。
(……友よ。)
心の中で、静かに呼び掛ける。
(お前は、そちらを選ぶのだな。)
怒りはなかった。
裏切られたとも思わなかった。
憎しみもなかった。
ただ、胸の奥に小さな痛みだけが残っていた。
国を背負う者ならば、最後には国家のために決断しなければならない。
それがどれほど残酷な選択であろうとも、王冠を戴く者には逃げることなど許されない。
カールもまた、国王として決断したのだ。
ならばヴィヘルムもまた、皇帝として決断しなければならない。
ヴィヘルムはゆっくりと目を閉じた。
ほんの数秒。
そして再び目を開く。
その瞳から、最後に残っていた迷いが静かに消えていた。
友としてならば、理解できる。
だが今、この場所にいる彼は一人の友人ではない。
ノルヴァイン帝国第12537代皇帝。
数十億に及ぶ帝国臣民の命を背負う国家元首。
広大な国土と幾つもの都市、無数の軍人とその家族を背負う者。
そして帝国軍最高指揮権を持つ者。
ここから先は、情ではなく責務だった。
ヴィヘルムはゆっくりと玉座へ身体を預けた。
そして、低く静かな声を発した。
「相手がどのような国であろうと、手加減はするな。」
その一言だけで、広間の空気が変わった。
将官たちの表情が引き締まる。
「彼らは覚悟を決めた。」
ヴィヘルムは窓の外に広がる青空を見つめたまま続けた。
「ならば、我らもその覚悟に応えよう。」
参謀本部長が一歩前へ出る。
「御意。」
ヴィヘルムはゆっくりと振り返った。
「西方方面軍、南方方面軍へ通達せよ。」
「グリム王国、リヴェリア共和国、セレナ連合との戦闘を開始する。」
その言葉が発せられた瞬間、広間にいた者たちは一斉に姿勢を正した。
「敵戦力を速やかに撃滅し、帝国本土及び帝国臣民の安全を確保せよ。」
「帝国臣民へ刃を向ける者を許すな。」
「ただし――」
ヴィヘルムの声が僅かに低くなる。
「我らの兵士たちを無駄に死なせるな。」
将官たちが静かに顔を上げる。
「勝つために戦え。」
「だが、勝利のためならば何人死んでも構わないなどという考えは捨てろ。」
「帝国軍人一人の命にも、その帰りを待つ家族がいる。」
「帝国臣民一人の命にも、その者を必要とする者がいる。」
「我々が守るべきものは、地図の上に描かれた国境線だけではない。」
ヴィヘルムの視線が、広間に並ぶ将官たちを一人ずつ捉えていく。
「この国で生きる人々の暮らしそのものだ。」
「必要な戦いは最後まで遂行せよ。」
「だが、無意味な殺戮は許さん。」
その言葉には、皇帝としての揺るぎない意思が込められていた。
「我々はノルヴァイン帝国軍人である。」
「誇りを失うな。」
「怒りに任せて剣を振るうな。」
「憎しみに目を曇らせるな。」
「我々が守るべきものを決して忘れるな。」
「帝国の名を、歴史に恥じぬ形で守れ。」
「はっ。」
一斉に敬礼が響いた。
その音は広大な謁見の間を震わせ、歴代皇帝たちの肖像画の前へ静かに消えていった。
命令は直ちに帝国軍最高司令部から各方面軍へ送信された。
暗号化された通信が帝国全土の軍事通信網を駆け抜ける。
西方方面軍司令部。
南方方面軍司令部。
各軍団司令部。
師団司令部。
航空基地。
海軍基地。
そして最前線の塹壕に至るまで、その命令は瞬く間に伝達されていった。
その瞬間から、ノルヴァイン帝国は三つの国家との戦争状態へ正式に移行した。
西方では、グリム王国との国境へ展開していた帝国軍部隊が一斉に戦闘態勢へ移行する。
巨大な装甲車両が格納庫から引き出され、戦車部隊がエンジンを始動させ、砲兵隊では長大な砲身がゆっくりと敵国境へ向けられていく。
航空基地では警報が鳴り響いた。
格納庫の扉が開かれる。
整備兵たちが駆け回り、戦闘機へ最後の点検を施していく。
燃料が補給され、弾薬が搭載され、操縦士たちが次々と飛行服へ袖を通していく。
ある基地では、出撃を待つ若い操縦士が家族から届いた手紙を胸ポケットへしまった。
別の基地では、老いた整備兵が若いパイロットの肩を叩き、何も言わずに送り出した。
誰もが知っていた。
今日から、この戦争は昨日までとは違う。
南方ではさらに巨大な動きが始まっていた。
セレナ海へ面した帝国海軍基地では、停泊していた艦艇が次々と係留索を外していく。
巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、航空母艦。
巨大な艦隊が一隻、また一隻と港を離れていった。
海面には艦艇が残した白い航跡が長く伸びていく。
艦上では乗組員たちが慌ただしく配置につき、格納庫では艦載機が次々と甲板へ運び出されていた。
その光景を港に残った家族たちが見つめていた。
手を振る者、祈る者、ただ黙って立ち尽くす者。
誰もが同じことを願っていた。
どうか帰ってきてほしい。
それだけだった。
帝都オルドリアでも、街は急速に戦時の姿へ変わっていった。
大通りを軍用車列が通過する。
駅には兵士たちが溢れ、鉄道網では軍用列車が優先的に運行される。
工場では夜を徹して兵器の生産が続けられ、街の上空では戦闘機が一定間隔で警戒飛行を続けていた。
市民たちは立ち止まり、その空を見上げていた。
戦闘機の轟音が帝都の空を震わせる。
その音は、もはや日常のものではなかった。
戦争が始まった。
その事実を、誰もが理解していた。
皇居の謁見の間では、最後まで残っていた者たちが退室を始めていた。
やがて広間から人の気配が消えていく。
最後に残ったのは、ヴィヘルム一人だった。
皇帝は再び窓辺へ歩いていく。
そして青空を見上げた。
先ほどと何も変わらない空だった。
青く、広く、どこまでも静かだった。
ヴィヘルムはその空を見ながら、ふと小さく呟いた。
「……カール。」
返事などあるはずもない。
それでも、しばらくその名を口にしたまま動かなかった。
「お前が守ろうとするものも、私には分かっている。」
「だからこそ……」
皇帝の瞳が静かに細められる。
「こちらも、守らねばならない。」
窓の外を一機の戦闘機が横切った。
轟音が皇居の上空へ響き渡る。
ヴィヘルムはその姿を目で追った。
そして、ゆっくりと踵を返した。
もう振り返らなかった。
友としての言葉は、もう終わった。
ここから先にあるのは、国家と国家の戦いだった。
西ではグリム王国軍が動き始める。
南ではセレナ連合の艦隊が海へ出る。
リヴェリア共和国でも、各軍基地が戦時体制へ移行していく。
そして東では、ノルヴァイン帝国軍がさらなる攻勢の準備を始めていた。
世界各地で軍靴が鳴る。
砲身が空を向き戦闘機のエンジンが唸る、艦隊が港を離れる。
国境線には兵士たちが並び、空には無数の航空機が舞い始める。
ほんの数日前まで、まだ戻れると思っていた者たちもいた。
外交によって止められる、条約によって止められる。
誰かが最後の一歩を踏みとどまる。
そう信じていた。
だが、その最後の一歩は既に踏み越えられていた。
グリム王国。
リヴェリア共和国。
セレナ連合。
そしてノルヴァイン帝国。
四つの国家が、それぞれの正義と恐怖と責務を抱えながら、巨大な戦争の渦へ足を踏み入れていく。
そして誰もまだ知らない。
この戦争が、もはや国家同士の単純な戦争ではなくなりつつあることを。
英雄たちが目を覚まし始めていることを。
空の彼方で、誰も知らない化け物たちが互いの存在を感じ取り始めていることを。
そして、その全ての始まりとなった一羽の黒い翼が、今も東の空を飛び続けていることを。
世界は静かに、しかし確実に変わり始めていた。
昨日までの戦争と、今日からの戦争は違う。
英雄が生まれ。
怪物が目を覚まし。
空そのものが、次なる時代へ引きずり込まれていく。
青空は何も語らない。
ただ、その下で無数の人々がそれぞれの故郷を守るため、戦場へ向かっていた。
ここで一旦カイ編の方が終わりでアレン編の方を再開します
〜お願い〜
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