戦場に蘇る伝説
一方その頃、ヴェルテクス連邦首都にある大統領府、その地下深くに設けられた国家安全保障会議室では、重苦しい沈黙が部屋全体を支配していた。
分厚い防爆扉に閉ざされた会議室には、最高指導部の人間だけが集められていた。
壁面に設置された大型モニターには、セリオン群島中央部の戦況と、そこから送られてきた損害報告が次々と表示されている。
誰も口を開こうとはしなかった。
画面に映し出される数字が、あまりにも現実離れしていたからだ。
大統領は震える手で握っていたグラスを、目の前の机へ叩きつけるように置いた。
「どうなっているんだ!!」
怒声が会議室の壁へ響き渡った。
「数千の兵は消え、その代わりと送った無人機数万はほとんど堕された」
誰も答えられない。
大統領は机の上に置かれていた資料を乱暴に掴み上げ、そのまま床へ叩きつけた。
「こちらのエースはやられ、前線に戻るには数ヶ月かかる!」
室内にいた将官たちは俯いたまま、ただ報告を聞いていた。
あの戦場へ投入した戦力は、決して小さなものではなかった。
有人航空戦力、無人航空戦力、地上部隊。
そして、連邦が誇る戦略超兵器の一つ。
それらを投入した結果が、この有様だった。
大統領は最後に残った報告書へ目を向ける。
「ゼニス・アークは……」
その言葉だけで、室内の空気がさらに重くなった。
担当将校が立ち上がり、震える声を抑えながら報告する。
「ゼニス・アーク、一番艦アレスが多数の武装を喪失及び複数の推進機構に重大な損傷、子機にも重大な被害が出ており数ヶ月は前線には戻せません」
「……」
誰も言葉を発しなかった。
ゼニス・アーク。
連邦が長い年月と莫大な資源を投入して完成させた空中戦略母艦。
その一番艦が、たった一機の戦闘機によってこれほどまでに損傷させられた。
しかも、その戦闘機は最後まで撃墜できなかった。
大統領はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
額へ手を当て、低く呟く。
「一体何が出てきたんだ……」
返事はなかった。
誰も、その問いに答えを持っていなかった。
戦闘記録に残されていたのは、漆黒の戦闘機。
そして、その機体が無数の無人機とゼニス・アークを相手に繰り広げた異常な戦闘の断片だけだった。
そのときだった。
会議室の隅に立っていた側近の一人が、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……黒翼……」
大統領が顔を上げる。
「なんだ?」
側近はしばらく黙っていた。
やがて、震える声で言葉を続けた。
「黒翼の悪魔です」
その目には、軍人としての恐怖とは違うものが浮かんでいた。
古い伝承を思い出した人間のような、言葉にできない畏れだった。
「悪魔が……」
側近はそこで一度言葉を切った。
「……帝国の悪魔が戻ってきた」
「は?」
大統領の顔から血の気が引いた。
「どういうことだ、ヤツらは皆死んだはずだ!!」
「そうだ、戯言を言うな!!」
一人の将官が机を叩きながら怒鳴った。
「帝国の悪魔と呼ばれたパイロットたちは、もう存在しないはずだ!!」
「ラグナーも、その仲間たちも、全員が歴史の中で死んだ存在だ!!」
「死者を悪魔に仕立て上げるなど、くだらん迷信だ!!」
次々と飛び交う怒声が、狭い会議室の中を荒々しく満たしていく。
しかし、側近は反論しなかった。
ただ青ざめた顔で、手元の資料を見つめていた。
その資料には、帝国東部戦線で確認された一機の戦闘機について記録されていた。
漆黒の機体。
黒い翼。
そして、常識では説明できない戦闘機動。
「……私も、そう思っていました」
側近は静かに口を開いた。
「しかし、あれはそうとしか言えない……」
室内の怒声が少しずつ止んでいく。
「奇襲の際に帝国本土へ攻撃に行った一小隊を葬り去ったのも、天空の王をあと一歩まで追い詰めたのも……」
側近の声が僅かに震える。
「そして今回、アレスを追い詰めたのもヤツなんです……」
誰も言葉を返さなかった。
スクリーンには、損傷したゼニス・アークの映像が映し出されている。
多数の武装を失い、複数の推進機構を損傷した巨大な機体。
それを単独で追い詰めた存在。
将官の一人が、低い声で呟いた。
「……ラグナーの再来だとでも言うのか」
「……」
その問いに、誰も答えることはできなかった。
やがて室内には、機器の冷却ファンが回る音だけが残った。
誰も認めたくなかった。
しかし、戦場から送られてきた記録は、否定するにはあまりにも多すぎた。
そして一人の将官が、震える声で呟いた。
「もし……本当にそうなら……」
その先の言葉を、誰も聞こうとはしなかった。
伝説は死んだ。
そう、誰もが信じていた。
だからこそ、その名に匹敵するような黒い翼が空を舞っているという事実は、勝敗そのものよりも恐ろしいものだった。
「ですが、アレスの働きで帝国軍に大きな深傷を負わせることができました……」
沈黙を破ったのは、先ほど報告を続けていた将校だった。
「痛み分けか……」
大統領はそう呟き、机の上へ視線を落とした。
「我軍もですが、当面は大規模な作戦を行うことができません」
「……そうか」
誰もが疲弊していた。
帝国軍もまた甚大な損害を受け、連邦軍も同じように戦力を失っている。
たった二日間の戦闘によって、戦争は大きく姿を変えていた。
その時だった。
会議室の扉が開き、一人の伝令が足早に入ってきた。
「失礼します」
伝令は大統領のもとまで歩み寄り、周囲を確認してから声を潜めた。
そして、大統領の耳元へ短く言葉を告げる。
「……」
大統領の表情が変わった。
驚きでも、怒りでもなかった。
どこか遠い未来を見つめるような、奇妙な静けさだった。
「そうか……」
大統領はゆっくりと顔を上げた。
そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「種が芽吹いたか……」
その言葉の意味を、その場にいた者たちは理解できなかった。
だが、この直後に下される決断と、この夜もたらされた知らせが、やがて戦争そのものを大きく変えていくことになる。
それが世界をより深い混沌へと引きずり込むことになるなど、この時の誰も知る由はなかった。




