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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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蒼穹に集う者たち

開戦に備え、整備兵たちが慌ただしく機体の点検を続けていた。

戦闘機のエンジン試験音。

弾薬を運ぶ車両。

甲板士官の怒号。

いつもと変わらぬ光景。

だが、その空気だけは違っていた。

妙な静けさ。

だが、誰も口にはしない。

それでも全員が、何かを感じていた。

空気が重い。

まるで見えない何かが、この空全体を覆っているようだった。

その発端は、遥か東部戦線。

黒翼が解き放った、冷たく鋭い死の気配。

その余韻は、戦場を越え、国境を越え、空を愛する者たちの本能へ静かに届いていた。

ジーク・アイゼンベルク、彼もまた、その異変を感じ取っていた。

格納庫の開口部から蒼空を見上げたまま、微動だにしない。

武者震いが止まらない。

指先が、小さく震えている。

それは恐怖ではない、心の底からの歓喜だった。

その背後から、アンドレイ・ノルドフェルドが煙草を咥えたまま歩いてくる。

「なんだよ隊長。怖い顔して」

だが、ジークは振り向かなかった。

「……お前は感じないか」

「何をだ?」

「この冷たい殺意を、この死の気配を。」

その一言でアンドレイの笑みが消えた。

彼もまた歴戦の猛者だった。

数え切れない死線を潜り抜け、生還してきた男。

だからこそ分かる。

「……ああ。」

「さっきから嫌な汗が止まらねぇ。」

「戦場へ出る前とは違う。」

「まるで首筋へ刃物を突き付けられてるみてぇだ。」

ジークは静かに答える。

「今日、東部戦線で大規模空戦があったという報告が入った。」

「そこで…ぶつかった。」

アンドレイの表情が凍りつく。

「隊長……それは、まさか。」

ジークは静かに頷いた。

「二つの頂が、ついに交差した。」

「……嘘だろ。」

乾いた声だった。

アンドレイは目の前の男を見る。

「なぁ隊長。」

「なんでアンタは……そんなに笑ってる。」

その問いにジークは、ゆっくりと口角を吊り上げた。

「ようやくだ……。」

「ようやく私にも回ってきた。」

「空の頂へ挑む機会が。」

その笑みは冷たい。

だが、その奥には燃え盛る炎があった。

アンドレイの背筋を寒気が走る。

目の前にいるのは、自分が知る隊長だった。

冷静沈着で常に成功率を計算し。

部下を死なせないためなら、自ら囮になる男。

"氷結の騎士"

そう呼ばれた英雄。

だが今、その仮面は、音もなく砕け散っていた。

瞳の奥で燃えている炎は決して勝利への執着ではない。

名誉でも、祖国への忠誠でもない。

もっと原始的で。

もっと純粋で。

もっと危険なもの。

空そのものを求める渇望。

空の果てへ辿り着きたいという、怪物だけが抱く飢えだった。

アンドレイには、目の前ジークが人間には見えなかった。

人の姿を借りた何か。

翼を持たぬ猛禽。

あるいは、蒼穹そのものに魅入られた化け物。

ジークの笑みはさらに深く歪む。

「待っていろ、私は必ず、その場所へ辿り着く。」

「そして、お前たちと同じ空を飛ぶ。」

ジーク・アイゼンベルク。

世界が"氷結の騎士"と称えるセレナ連合の英雄。

だが、その本質は違う。

彼もまた蒼穹の女神アステリアに加護を与えられ、祝福された者。

空に選ばれた英雄だった。

彼女に魅入られた者は。

地上では決して満たされない。

平穏な日々にも。

栄光にも。

勲章にも。

玉座にも。

何一つ価値を見いだせない。

彼らが生きていると実感できる場所は、ただ一つ。

命が燃え尽きるほどの高み。

空だけだった。

氷結の騎士。

その異名は、所詮は人々が後から与えた飾りに過ぎない。

その瞳に映る世界は、常人とは決して同じではない。

彼らは英雄である前に。

空という名の神へ選ばれた者。

蒼穹の女神アステリアに愛され、祝福され、そして呪われた存在。

戦場に君臨する怪物たちだった。

________________________________________________

冷たい潮風を受けながら、一人の男が東の空を見つめている。

ネヴィル・カニンガム。

"グリムの悪魔"。

敵から恐怖を込めてそう呼ばれ、今では世界最高峰のエースとして名を轟かせる男だった。

彼は何も語らない。

ただ、遥か東の空を見つめ続けていた。

その日の朝から彼の心臓の鼓動が、一度たりとも静まらない。

ドクン。

ドクン。

胸の奥で鳴り続ける鼓動。

まるで何かに呼ばれているようだった。

遥か彼方、国境も海も越えた場所

そこで何かが起きた。

それだけは確信できた。

だが言葉では説明できない。

理屈でもない。

だが、空を愛する者の本能が告げていた。

(そこに、自分の求め続けたものがある。)

「……やはり、ここでしたか。」

背後から聞き慣れた声がした。

副隊長エドワード・ハートマン。

ネヴィルは小さく笑った。

「バレてしまったか。」

「意外と簡単ですよ。」

エドワードは隣へ立ち、同じように東の空を見上げる。

しばらく沈黙が流れた。

やがてネヴィルが静かに問いかける。

「……お前にも分かるか。」

エドワードは苦笑した。

「ええ。」

「朝から震えが止まりません。」

彼は自分の手を見る。

わずかに震えていた。

だが、それはネヴィルとは違う。

歓喜ではない。

本能が理解してしまったのだ。

この世界のどこかで人知を超えた何かが目を覚ましたことを。

「隊長。」

「どうしてロザリオなんて握り締めているんです。」

ネヴィルは掌を開く。

古びた銀のロザリオ。

長年、胸元へしまっていたものだった。

「少しだけ……神へ感謝をと思ってな。」

「私に、この機会を与えてくれた。」

そう言って、穏やかに笑う。

「ようやく私にも運が回ってきた。」

「彼らと同じ場所へ行く機会が。」

その声に迷いはなかった。

ネヴィル・カニンガムは憧れていた。

世界中の空軍史へ、その名を刻んだ伝説。

ノルヴァイン帝国の英雄たち。

ラグナー。

空を誰よりも愛し。

空に誰よりも愛され。

誰よりも強く。

誰よりも高く。

誰よりも速く。

誰よりも無茶をして。

誰よりも仲間を想い。

そして、誰よりも空へ命を捧げた者たち。

彼らはもはや英雄ではない。

ネヴィルは幼い頃から、その英雄譚を追い続けてきた。

その背中を追い。

その空を追い。

いつの日か、自分も同じ景色を見たいと願い続けてきた。

祖国グリム王国で人々は彼を英雄と呼ぶ。

だが敵国は違う。

"グリムの悪魔"

その異名を恐怖と共に口にする。

しかしネヴィル自身は、そのどちらにも興味はなかった。

欲しいのは称号ではない。

勲章でも、撃墜数でもない。

ただ一つ。

あの伝説の英雄たちが見上げた空。

蒼穹の女神アステリアに愛された者だけが辿り着くという、あの世界だった。

エドワードが静かに口を開く。

「隊長。」

「戻りましょう。」

ネヴィルはもう一度だけ東の空を見る。

その瞳には確かな憧憬が宿っていた。

「ああ。」

短く答えると、踵を返して歩き出す。

その背中は穏やかだった。

だが、その胸の内では誰よりも熱い炎が静かに燃え始めていた。

ネヴィル・カニンガム。

彼もまた蒼穹の女神アステリアより加護と祝福を授かった英雄の一人。

空に選ばれ。

空へ魅入られ。

空の果てを夢見続ける者。

英雄である以前に、蒼穹という名の神へ、その魂を捧げた飛行機乗りだった。

________________________________________________

彼らは皆、女神に愛されていた。

そして今、世界中で、その英雄たちが同じ空を見上げ始めていた。

まだ姿を見せぬ無数の英雄たちもまた、胸騒ぎを覚え、理由も分からぬまま東の空へ視線を向けている。

彼らはまだ知らない。

この胸を打つ鼓動の正体を。

戦争は英雄を生む。

それは歴史が幾度となく証明してきた。

だが、時として英雄では届かない領域がある。

人という殻を越え、空だけを求め続けた者たち。

空に呪われ。

空に救われ。

空だけを生きる理由とした者たち。

人々は後に、彼らをこう呼ぶ。

――蒼穹の女神アステリアに愛された者。

そして、その中心には一羽の黒い翼がいた。

彼の放った一度きりの飛翔は、静かな湖へ落ちた一粒の雫のように世界中へ波紋を広げていく。

その波紋は国境を越え、思想を越え、敵味方という垣根すら越えて。

空を愛する者たちの魂へ届いた。

まるで夜空に輝く北極星が、旅人を導くように。

一羽の黒い翼は、世界中の「空へ魅せられた者」たちを、静かに、そして確実に引き寄せ始めていた。

まだ誰も、その意味を知らない。

だが、運命の歯車は、確かに回り始めていた。

英雄が英雄と出会う時。

化け物が化け物と牙を交える時。

空はさらなる高みを求め。

翼は限界を忘れ。

彼らは、新たな次元へ足を踏み入れる。

その果てに待つものは、栄光か。

破滅か、それとも――人がまだ誰一人として辿り着いたことのない、蒼く深い空の向こう側か。

誰にも、その答えは分からない。

〜お願い〜

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