忘却の彼方
海から吹きつける夜風は冷たく、昼間に残った戦場の熱をすべて奪い去っていく。
帝国東部前線航空基地。
昼間、空を震わせた激闘が嘘だったかのように、基地は静寂へ沈んでいた。
格納庫の奥では、整備兵たちが工具を片付ける音だけが響いている。
金属が触れ合う乾いた音、足音、小さな会話。
その全てが、どこか遠い世界の出来事のように聞こえていた。
格納庫中央に一機の戦闘機が、薄暗い照明の下に佇んでいる。
F15Λ。
その姿は、帰還した兵器というよりも、傷を負った巨大な獣のようだった。
翼には無数の焦げ跡、機首には焼けた塗装、機体表面には、高速機動による摩擦熱の痕跡が残っている。
整備兵たちは誰一人として軽口を叩かなかった。
いつもなら任務後の格納庫には安堵の声や冗談が飛び交う。
しかし今日は違った。
誰もが理解していた。
この機体が今日、何と戦ったのか。
「あんな空戦……見たことねぇ……」
若い整備兵が、無意識に呟いた。
その声に返事はなかった。
主任整備士は黙ったまま、黒い主翼へ手を置く。
冷たい金属だが、その奥にはまだ昼間の戦いの熱が残っているような気がした。
「……」
しばらく沈黙した後、主任は小さく息を吐く。
「……生きて帰ってきただけで奇跡だ」
誰も否定できなかった。
あの空域で起きたことは、もはや一人のパイロットと二機の敵機による戦闘ではない。
英雄同士の衝突、化け物同士の死闘。
そう呼ぶしかなかった。
その話は、すでに基地全体へ広がっていた。
世界最高峰と呼ばれる者たちがぶつかった空。
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基地へ戻ったカイは、まだあの空を忘れられずにいた。
久しぶりだった。
胸の奥から何かが湧き上がる戦い。
血が騒ぐ。
身体の奥に眠っていた何かが目を覚ます。
あの瞬間。
空しか存在しなかった。
敵も味方も。
全てが消えていた。
ただ、己の翼と相手の翼だけが存在していた。
飛行服には砂埃が付着している。
顔には疲労の色。
手袋には黒い油汚れ。
そして右手。
操縦桿を握り続けた手からは、赤い血が滲んでいた。
皮膚が裂けている。
だがカイは気にも留めなかった。
痛みなど、今はどうでもよかった。
頭の中に残っているのは。
あの二人。
黒い翼を見つめていた二つの機影。
「……」
カイは空を見上げる。
(あの二人は……生きているだろう)
あれほどの戦いだった。
あれほどの相手だった。
簡単に消えるような存在ではない。
むしろまた会敵する。
そんな確信すらあった。
カイは一人、基地の端へ向かった。
基地から少し離れた海岸。
潮の香りが鼻を抜ける。
波が砂浜へ寄せては引いていく。
静かな音、冷たい風。
戦争の最前線とは思えないほど穏やかな夜だった。
カイは砂浜に立ち、空を見上げる。
夜空には無数の星が広がっていた。
星々は、まるで黒い海に浮かぶ無数の光の粒のようだった。
「……」
なぜだろう。
この景色を以前にも見たことがある気がした。
誰かと、大切な誰かと。
同じ空を見上げていたような気がする。
「……っ」
突然、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……う……」
視界が揺れ星空が歪む。
何かを思い出そうとすると、必ずこの痛みが襲ってくる。
まるで、何かが記憶の扉を閉ざしているように。
「…………」
額を押さえ息が荒くなる。
砂浜へ膝をつく。
思い出せない。
何も、何一つ。
だが、その瞬間。
頭の奥に、知らないはずの声が響いた。
優しい声。
温かな声。
「私の可愛い小鳥ちゃん」
カイの目が見開かれる。
暗闇の中。
一人の女性の姿が浮かぶ。
自分と同じ黒い髪に優しい瞳。
誰よりも近くにいたような感覚。
『あなたのお父さんや、おじいちゃんには大鷲が宿っているの』
『でも……あなたの中にいる子は違う』
『真っ黒な、大きな鴉』
『誰よりも高く飛べる』
『可能性に満ちた翼』
声が遠ざかる。
手を伸ばすが届かない。
「誰なんだ……」
次の瞬間。
再び激しい頭痛が走った。
「ぐっ……!」
頭蓋を内側から貫くような痛み。
視界が白く弾ける。
星空が砕ける。
身体の力が抜ける。
カイは砂浜へ片膝をついた。
荒い呼吸、震える指。
「……なぜ……」
なぜ忘れている。
なぜ何も覚えていない。
自分は、何を失った。
何を奪われた。
何を置き去りにした。
その答えだけが、いつも手の届かない場所にある。
その時だった。
ふわり、と。
冷たい夜風とは違う感覚が背中を包んだ。
一瞬だけ、誰かが肩へ手を置いたような。
懐かしい温もり。
遠い昔に知っていたような温もり。
カイはゆっくり顔を上げる。
「……」
誰もいない。
そこにはただ冬の海風が吹いているだけだった。
「……誰だ」
波の音だけが静かに響いていた。
ストックがなくなったので投稿頻度が落ちると思います。
すいません。




