翼ある獣たち
ヴェーダの機体が黒煙を引きながら、ゆっくりと海の彼方へ落ちていく。
その姿が視界の端へ消えた瞬間だった。
アレクセイ・イグナトフの内側で、何かが静かに砕け散った。
それは怒りではない、絶望でもない。
長い年月をかけ、自らに課してきた枷。
理性、経験、部下を率いる指揮官としての責務。
そのすべてが、一瞬にして蒼穹へ溶けていく。
残されたのは、ただ一人の飛行機乗りとしての誇りだけだった
ただ空を飛ぶことだけを願い、翼を追い求め続けた男。
彼は、自らを縛る最後の鎖を断ち切った。
理性で押さえ込んでいた本能。
戦果よりも安全を、勝利よりも生還を。
そう考え続けてきた四十年以上の歳月が、今この瞬間だけは意味を失う
空に生きる捕食者として、翼ある一匹の獣として。
目の前に現れた唯一無二の獲物へ、本能のまま牙を剥く。
今、彼の中にあるのはただ一つ。
空を極めたい。
それだけだった。
その衝動は純粋であるがゆえに危険だった。
一度解き放たれれば、もう二度と檻には戻らない。
アレクセイの口元がゆっくりと吊り上がる。
これまで誰にも見せたことのない笑み。
老兵の穏やかな微笑ではない。
王子だった頃。
祖国イグナトフの澄み切った青空を初めて飛び、風だけを追いかけていた青年の笑みだった。
戦争も、祖国の滅亡も、連邦への編入も、数え切れない死別も。
何も知らなかった頃。
ただ自由に飛ぶことだけを夢見ていた、あの日と同じ笑顔。
血が沸き立ち鼓動が全身へ響く。
魂そのものが叫んでいた。
飛べ。
もっと高く。
もっと速く。
もっと自由に。
もっと遠くへ。
心臓が高鳴る。
ドクン。
ドクン。
鼓動は年老いた肉体とは裏腹に、若き日のような力強さで胸を叩いていた。
「……止まらんな。」
小さく笑う。
もう、自分では止められない。
止める気もない。
アレクセイはスロットルをアフターバーナー全開まで押し込んだ。
二基のエンジンが咆哮を上げる。
機体は衝撃波をまとい、一筋の白い飛行機雲を描いて加速した。
HUDの中央には、ただ一つの目標だけが映っている。
黒い翼。
世界で唯一、自分が追い求めた存在。
そして、彼は静かに笑った。
「さあ、黒翼。」
「私と踊ろう。」
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そこから始まったものは、もはや人の戦いとは呼べなかった。
熟練者同士の空戦でもない。
ただ撃墜を競う殺し合いでもない。
それは蒼穹に君臨する二匹の猛禽が、本能のままに翼をぶつけ合う死闘だった。
二つの機影は互いの姿だけを視界へ捉え、世界から他のすべてを切り離していた。
アフターバーナーが同時に最大推力を吐き出す。
二機は音速の壁を突き破り衝撃波が空を震わせ、雲海を幾重にも押し広げる。
白い飛行機雲は複雑に絡み合い、一瞬前まで存在した軌跡を、新たな軌跡が塗り潰していく。
カイは急激に左へ九G旋回を開始する。
対するアレクセイも迷うことなく同じだけの荷重を受け止め、旋回半径を極限まで縮める。
二機は互いの旋回円へ食い込むように回り続けた。
ラグ・パーシュート。
ピュア・パーシュート。
リード・パーシュート。
追尾角を何度も切り替えながら、一瞬でも有利な射撃位置を奪い合う。
どちらも照準へ相手を捉え切れない。
捉えたと思えば、その瞬間にはもう相手はいない。
二人は互いの操縦を読み、そのさらに先を読んでいた。
「素晴らしい……!」
アレクセイの笑みが深くなる。
その直後だった。
まるで示し合わせていたかのように。
二機は同時に機首を下げた。
高度計の数字が凄まじい勢いで減少していく。
一万メートル。
八千。
六千。
四千。
二千。
速度はなお音速を超えたままだった。
機首には激しい空力加熱が生じ、キャノピー越しに陽炎のような揺らぎが走る。
HUDには警告表示が次々と点灯する。
《OVERSPEED》
《STRUCTURAL LOAD》
《PULL UP》
機体限界を超える警報が鳴り響く。
だが。
二人ともスロットルを戻さない。
空は瞬く間に遠ざかり、冬枯れの大地と鈍く光る海面が目前へ迫る。
上空を見上げていた帝国軍も連邦軍も、その二機が何をしようとしているのか理解できなかった。
「落ちるぞ……!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間。
二機は海面すれすれで同時に機首を起こした。
高度は数十メートル。
衝撃波が海面を叩き付ける。
巨大な水柱が何本も立ち上がり、白い飛沫が空高く吹き上がる。
海鳥が一斉に飛び立ち、小型艇は激しい波に揺さぶられた。
黒翼と天空の王は、そのまま海岸線を越えて陸地へ飛び込む。
高度は樹木よりも低い。
猛烈なジェット後流が雪を巻き上げ、凍った土を吹き飛ばし、枯れ木を大きく揺らす。
二機は互いへ機首を向けたまま、超低空で交差する。
機関砲が火を噴き機関砲が応える。
曳光弾が一直線に空間を貫き、赤い光が幾筋も交錯する。
砲弾は互いを紙一重で外れ、その先にあった無人の土嚢や放棄された装甲車を粉砕した。
爆風が戦場を駆け抜ける。
衝撃波だけで塹壕の土壁が崩れ、積み上げられた弾薬箱が転がり落ちる。
帝国軍も、ヴェルテクス連邦軍も。
敵味方の区別なく、誰もが頭を抱えて伏せた。
「伏せろぉぉぉ!!」
怒号すらエンジンの咆哮に飲み込まれる。
砲塔を敵へ向けていた戦車兵たちは、目の前を横切った黒と赤の残像に言葉を失った。
「な……何だ、今の……。」
誰一人として、その速度を目で追うことはできなかった。
彼らの目に映るのは、一瞬だけ現れては消える黒い閃光と銀色の閃光。
そして、その後に遅れて響く雷鳴のような轟音だけだった。
アレクセイの動きが変わっていた。
先ほどまでとは、まるで別人だった。
長年の実戦経験から培われた老獪な技術に、若者のような純粋な狂気が混ざっている。
カイのダークブルーの瞳が、わずかに細くなる。
強い。
先ほどより遥かに。
アレクセイは笑っていた。
「そうだ……!」
その声には、老兵としての落ち着きはもうなかった。
ただ空を飛ぶことを愛した、一人の飛行機乗りの歓喜だけがあった。
二機の戦闘機が真正面から交差する。
互いに機首を向け、真正面から矛を交える。
交差する寸前に機首を僅かに逸らし、同時にロールへ移行する。
翼端が触れそうな距離で二機が絡み合い、そのまま互いの死角を奪い合う。
傍から見れば、それはもはや尋常な空戦機動ではなかった。
旋回、急反転、ロール、ブレイク。
曳光弾が青空を切り裂き、二機の間を幾筋も通過していく。
カイは紙一重で機銃弾を躱す。
その直後、アレクセイの機体がカイの横を掠める。
二機の翼端は、ほんの数メートルしか離れていない。
通常なら衝突を恐れて回避する距離だった。
しかし、二人は迷わない。
互いの思考を読み互いの殺意を感じる。
互いの機体が描く軌道を理解する。
だから飛べる。
アレクセイは理解していた。
黒翼は恐怖で動いているのではない。
最短で敵を仕留めるために飛んでいる。
だからこそ、そこへ罠を置ける。
アレクセイは機体を僅かに減速させた。
ほんの僅か。
普通のパイロットなら気にも留めないほどの変化だった。
しかし。
カイは反応した。
速度差、旋回半径、相対角のそのすべてが一瞬で計算される。
その瞬間。
アレクセイの機体が牙を剥いた。
急減速からの高速反転。
エネルギーを犠牲にしてでも一気に角度を変え、カイの背後へ滑り込む。
「捕まえたぞ、黒翼!」
アレクセイの照準がカイを捉える。
ロックオン。
警告音が鳴り響く。
《MISSILE LOCK》
ミサイル発射。
白煙を引きながら誘導弾が黒翼へ迫る。
「決まった……!」
遠くから見ていたルドガーが息を呑む。
あの距離、あの角度、あのタイミング。
普通なら回避は不可能だった。
しかし。
カイは笑っていた。
まるで、この瞬間を待っていたかのように。
カイは操縦桿を引き、同時にラダーを踏み込む。
機体が大きく横滑りする。
さらにロール。
そして急激なピッチ変化。
通常なら失速へ入るはずの姿勢から、Λは強引に機首を回し込んだ。
ミサイルが機体横を掠める。
爆風が機体を激しく揺らす。
だが、直撃しない。
「何……!?」
アレクセイの目が見開かれる。
次の瞬間。
黒翼が視界から消えた。
カイはミサイルの進行方向と自機の運動ベクトルを利用し、紙一重でその軌道を外していた。
そして、気付いた時には。
黒翼は既にアレクセイの背後にいた。
「な――」
ロックオン警報。
今度はアレクセイのコックピットへ鳴り響く。
カイは一切躊躇しなかった。
機関砲が火を噴き弾丸が赤色の機体へ吸い込まれる。。
左翼に火花が走った。
次の瞬間、翼の一部が吹き飛ぶ。
機体が大きく揺れた。
警報音がコックピットを埋め尽くす。
それでもアレクセイは操縦桿を離さなかった。
そして、その口元には――まだ笑みが残っていた。
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「「「隊長ぉぉぉ!!」」」
エトワール隊の悲鳴にも似た叫びが、無線回線いっぱいに響き渡る。
ハルドの顔から一瞬で血の気が引いた。
「嘘だろ……。」
ルドガーは言葉を失い、ただ損傷した隊長機を見つめることしかできない。
ロアルドは無意識に操縦桿を握り締める。
「隊長が……押されてる……。」
イリヤは震える声で呟いた。
「無敵の天空の王が……。」
それは、あってはならない光景だった。
数十年にわたり空を支配し続けた男。
帝国の鷲と互角に渡り合った伝説。
そのアレクセイ・イグナトフが、一人の青年によって追い詰められている。
誰も、その現実を受け入れられなかった。
黒翼は損傷したアレクセイ機の背後へ静かに回り込む。
HUD中央。
照準器が銀色の機体を捉える。
あと一射。
それだけで終わる。
カイの指がトリガーへ掛かった。
その瞬間だった。
何かが二機の間へ高速で割り込み爆発した。
「!」
黒煙が視界いっぱいに広がる。
カイは即座に機体をロールさせ、破片を回避する。
煙の向こう。
ダークブルーの瞳は、その正体をはっきりと捉えていた。
(無人機)
人の乗らない漆黒の機体が、静かにアレクセイの前へ立ちはだかっている。
「……ッチ。」
カイは小さく舌打ちした。
決着を邪魔された。
そのときだった。
無線へ激しいノイズが割り込む。
『レイヴン1、無人機だ!』
『あのクソ野郎ども、無人機を投入してきやがった!』
別の回線では切羽詰まった叫びが飛び交う。
『こちら第七航空隊! 押さえ切れない!』
『誰か助けてくれぇ!!』
『クソ、味方が次々にやられていく!』
カイの瞳が静かに細くなる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
損傷したアレクセイ機を見る。
この決着は、不本意だった。
勝っても負けても。
最後まで飛び切ってこそ意味があった。
だが。
今は違う。
守るべき味方がいる、優先すべき任務がある。
カイは短く通信を返した。
「……了解。」
次の瞬間。
F-15Λの二基のエンジンが咆哮する。
アフターバーナーが蒼い炎を噴き上げる。
黒翼は急加速し、一直線に戦場の彼方へ飛び去っていく。
残されたのは、損傷したアレクセイ機だけだった。
風だけが静かに流れる。
アレクセイは呆然と、その黒い背中を見送っていた。
ようやく巡り会えた。
何十年も空を飛び続け、探し求めてきた唯一の好敵手。
その背中が、また遠ざかっていく。
まるで若き日に見失った夢が、再び手の届かない場所へ飛び去ってしまうようだった。
思わず声が漏れる。
「おい……待ってくれ……!」
その声は、天空の王と恐れられた老英雄のものとは思えないほど、寂しさを帯びていた。
エトワール隊は誰一人として口を開けない。
ただ隊長の視線の先を見つめていた。
そのとき。
すべての周波数へ、一つの通信が流れる。
オープンチャンネル。
国籍も所属も関係なく、この空にいる全員へ届けられた短い言葉。
『この決着は不本意だ。』
静かな青年の声だった。
感情はほとんど感じられない。
だが、その一言には確かな意思が宿っていた。
『だから――また、いずれ決着をつけよう。』
通信はそこで途切れる。
黒い機影は振り返ることなく、無人機が待つ戦場へ消えていった。
アレクセイは静かに目を閉じ、小さく笑う。
「……ああ。」
「必ずだ、黒翼。」




