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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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52/54

誰より高く、誰より壊れて

カイとアレクセイの機体が、音速域のまま真正面ですれ違った。

キャノピー越しに交差した視線は一瞬でありながら、互いの本質を見抜くには十分な時間だった。

その瞬間、アレクセイはカイの表情を見た。

そこにあったのは勝利への歓喜ではない。恐怖でも怒りでもない。ただ、壊れた人間だけが浮かべる、どこまでも静かで狂気を孕んだ笑みだった。

アレクセイの背筋に、長年忘れていた冷たい震えが走る。

それは敵を前にした恐怖ではない。同類と出会った者だけが覚える、本能的な戦慄だった。

「……そうか。」

ヘルメットの中で小さく呟く。

「君もか。」

この青年もまた、空にすべてを奪われた者。

空に呪われ、それでもなお空を捨てられず、蒼穹の女神アステリアに愛された英雄――いや、人ならざる化け物だった。

三機は交差した勢いのまま垂直上昇へ移る。

エンジンは最大推力を維持し、アフターバーナーの蒼い炎が三本の尾を描いた。

高度は一万二千、一万四千、一万六千メートルと急激に上昇する。

通常なら意識を失っても不思議ではない高Gが連続して身体へ叩き付けられるが、三人は操縦桿を握る手を一切緩めない。

アレクセイは機首をわずかに先行させ、リードパーシュートへ移行する。

照準器が黒翼の未来位置を予測し、機関砲が火を噴いた。

曳光弾が一直線に空を裂く。

だが、黒い機影は照準線から滑るように姿を消した。

カイは迎角を限界まで引き起こしながらロールを重ね、エネルギーを失うことなく射線だけを外していく。

「化け物め……。」

アレクセイは思わず息を漏らした。

その隙を突き、ヴェーダが下方二時方向から高速で割り込む。

二機によるサンドイッチアタック。互いの死角を補完しながら逃げ道を完全に塞ぐ、エトワール隊の必勝パターンだった。

「挟みます!」

ヴェーダが機首を押し込み、高速で旋回半径を縮める。

火器管制装置が黒翼を捕捉し、ロックオン警報が断続的に鳴り響く。

しかし。

警報音が鳴った次の瞬間には、カイはもうそこにいなかった。

黒翼は機首を九十度近く引き起こし、そのまま推力偏向も存在しない機体とは思えない角度で機体を捻る。

失速寸前の領域を利用したポストストール機動。

「消えた……!?」

ヴェーダの視界から黒翼が完全に消失する。

索敵装置が再捕捉を試みる間にも、黒翼は垂直方向へ滑るように位置を変えていた。

「ヴェーダァッ!」

アレクセイが警告を飛ばす。

ヴェーダは反射的に左へバレルロールを開始した。

その直後だった。

機関砲弾が機体側面を掠め、右翼端が爆散する。

破片が白い飛行機雲の中へ散っていく。

「くっ……!」

それでもヴェーダは姿勢を崩さない。

補助翼の損傷をラダーで補正しながら再び加速し、黒翼の後方へ食らいつく。

死に近づくほど、不思議と心は澄み渡っていく。

祖国も、戦争も、復興も。

何もかもが今だけはどうでもよかった。

あるのは、この空だけ。

この一瞬だけ。

三つの軌跡だけが、青黒い空へ白い線を刻み続ける。

遠方ではルドガーたちが、その異次元の戦いをただ見つめていた。

「……冗談だろ。」

ルドガーの声は震えていた。

「なんだよ……あの動き。」

ハルドは呆然と口を開ける。

「隊長とヴェーダさんが……押されてる。」

ロアルドは信じられないものを見るように双眼鏡を握り締める。

「人間じゃない……。」

イリヤが掠れた声で呟く。

連邦最強。

その二人が全力で挑みながら、一機の黒翼に主導権を握られている。

しかも黒翼は二人だけを相手にしていなかった。

高速旋回の合間に機首をわずかに振る。

一瞬だけ照準を外周へ向け機関砲が短く火を噴く。

千数百メートル離れた護衛戦闘機が何が起きたかも理解できぬまま火球へ変わった。

「まだ他を落としたのか……!」

ルドガーは言葉を失う。

三機によるドッグファイトを続けながら、周囲の敵味方の位置まで把握し、必要な標的だけを撃ち抜いている。

常識ではあり得ない。

だが現実だった。

アレクセイとヴェーダは互いに視線を交わす。

言葉は不要だった。

左右へ同時に散開。

高低差を利用したシザーズ機動から同時突入。

完全な挟撃。

普通の相手なら絶対に逃げ場はない。

だが黒翼は逃げなかった。

真正面から加速した。

「なッ――!」

アレクセイの瞳が見開かれる。

衝突警報がキャノピー内へ響く。

距離五百。

三百。

百。

通常なら回避を開始する距離。

しかしカイは一切機首を逸らさない。

八十。

五十。

三十。

そして衝突寸前。

カイは操縦桿を一気に引き込みながら機体を縦方向へ九十度近く捻り、そのまま慣性を利用してアレクセイ機の真上を紙一重で通過した。

ヴェーダの視界から黒翼が完全に消える。

「上ッ!?」

遅かった。

カイはすでに二機の後方、高度差を利用した絶対優位のポジションを奪っていた。

ヴェーダは反射的にフレアを連続して放出した。

白熱したデコイが幾筋もの光となって空へ散り、赤外線誘導を攪乱する。

だが、カイは撃たない。

機首はわずかにヴェーダを追い続けるだけだった。

「……読まれている。」

ヴェーダの背中を冷たい汗が伝う。

誘導兵器を警戒して放ったフレア。

それすら、この男には誘導の一手でしかなかった。

カイは待っていた。

ただ、獲物が自ら最も脆い瞬間を迎えるまで。

ヴェーダはフレア散布と同時に最大荷重でブレイクターンへ移行する。

速度が急激に落ちる。

旋回率を優先した代償として、エネルギーを失う。

その一瞬、ほんのコンマ数秒。

カイのダークブルーの瞳が細くなった。

HUD中央の照準円が静かに収束する。

電子音が一度だけ鳴る。

右翼パイロンから放たれたミサイルは、炎ではなく静寂を曳くように加速した。

ヴェーダが異変へ気付く。

「しま――」

言葉は最後まで続かなかった。

至近距離で炸裂した弾頭が右翼基部を吹き飛ばす。

機体は激しく右へ跳ね、破片が青空へ散乱する。

警報音が一斉に鳴り響く。

《MASTER CAUTION》

《HYDRAULIC FAILURE》

《RIGHT WING DAMAGE》

操縦桿が暴れ狂う。

機体は制御を失い、黒煙を引きながら回転降下へ入った。

「ヴェーダァァァァ!!」

ルドガーの悲鳴にも似た叫びが無線へ響く。

エトワール隊全員の顔色が変わる。

彼らにとってヴェーダ・リンクスは、決して墜ちるはずのない存在だった。

アレクセイの表情から穏やかな笑みが消える。

「ヴェーダ!」

応答は返らない。

煙を噴きながら機体は高度を失い続ける。

雲を突き抜ける。

その下には冬の海が広がっていた。

警報音だけがコックピットへ鳴り響く。

ヴェーダは荒い呼吸を繰り返す。

額から流れた血が視界を赤く染める。

口元にも鉄の味が広がっていた。

「はは……。」

小さく笑う。

不思議と恐怖はなかった。

不思議なほど心は静かだった。

震える右手で操縦桿を握り締める。

損傷した機体はなおも悲鳴を上げる。

「なるほど……。」

ゆっくりと空を見上げる。

蒼穹の中心。

黒い翼はなおも舞い続けていた。

「これが……黒翼……。」

その瞳に宿るのは敗北への悔しさではない。

憎悪でもない。

ただ純粋な敬意だった。

空の果てだけを見つめ続けた者だけが辿り着ける場所。

誰にも届かない高み。

誰にも理解されない孤独。

そこに、あの男はいた。

黒い翼を広げ。

誰よりも高く、誰よりも自由に。

そして、誰よりも壊れたまま飛び続けていた。

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