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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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蒼穹の舞踏

空は蒼かった。

どこまでも、どこまでも果てなく広がる、澄み切った冬の大空。

まるで戦争など、この世界のどこにも存在していないかのように、白い雲海は穏やかな流れを続けていた。

だが、その空域だけは違った。

空そのものが、三機のために裂けていた。 

誰も近づけない。

誰も割り込めない。

そこは既に、普通の空戦ではなかった。

機体性能。

戦術理論。

教本。

常識。

その全てが意味を失っていた。 

空を飛んでいた連邦機の若いパイロットが、震える声で呟く。

「なんだよ……あれ……」

返事はなかった。

誰も言葉を返せない。

彼らの目に映っているものは、人間ではなかったからだ。

燃え盛る機体の残骸が空を赤く染め、撃ち砕かれた鋼鉄が炎を曳きながら海へ落下していく。

幾筋もの飛行機雲は激しい機動によって引き裂かれ、空気は絶え間ない爆音と衝撃波に震えていた。

三機の機影だけが、その戦場から切り離されたように高度を保ちながら互いの距離を詰めていく。

青空へ真っ白な飛行機雲が幾重にも描かれ、その軌跡はまるで巨大な円を描く舞台のようだった。

最初の数秒間、三機は攻撃を仕掛けなかった。

互いを観察するように旋回し、相手の癖、視線、呼吸、操縦の間合いを静かに測り続ける。

それは剣を抜く前に間合いを探る達人同士の静寂そのものだった。

そこでは、ほんの僅かな動き。

視線、機首の角度、速度変化。

その全てが致命傷へ繋がる。

先に動いた方が死ぬ。

そんな異常な緊張が空を支配していた。

アレクセイの背中を一筋の冷たい汗が流れる。

ヴェーダもまた無意識に息を止めていた。

目の前にいる黒い翼は、これまで戦ってきたどの敵とも違う。

ほんの僅かな操縦桿の動きだけで、機体は常識を超えた軌道を描く。

やがて、その均衡は静かに崩れた。

速度がさらに上がる。

旋回半径は一瞬ごとに小さくなり、高度変化は常人なら意識すら追いつかない領域へ達していく。

機体性能ではない。

技量だけで空を支配する者たちだけが踏み込める世界だった。

その中で、カイは二機を相手にしながらも周囲の敵機を次々と撃墜していく。

照準は一瞬だけ敵へ向き機関砲が火を噴く。

護衛機が爆散する。

再び視線はアレクセイへ戻る。

その一連の動作に、一切の無駄は存在しなかった。

アレクセイが小さく笑う。

「私など眼中にもないのか。」

気付けば、周囲で援護に付いていた数十機の連邦機はすべて姿を消していた。

空に残るのは炎と煙だけ。

カイは邪魔者を一機ずつ消していった。

そうした方がいい。

理由ではない。

本能がそう告げていた。

その直後だった。

カイはコックピット中央にある一つのスイッチへ静かに手を伸ばす。

ためらいなく押し込む。

電子音が短く鳴り響く。

その瞬間。

彼を縛っていた補助AIの介入は完全に停止した。

操縦桿から伝わっていた微かな制御補正も消え去る。

黒い翼は完全にカイだけの翼となった。

F-15Λは獣が枷を断ち切ったように鋭く身を震わせる。

カイは機体を軽く左右へ振った。

翼を一度だけ揺らす。

ただ一つの合図。

――邪魔者は消した。

――さあ、始めよう。

そう語りかけるようだった。

次の瞬間。

三機は一斉に加速した。

飛行機雲が交差する。

旋回、急上昇、急降下、ロール。

すべてが一瞬で繰り返される。

三機は互いの尾を奪い合いながら空を舞う。

それは殺し合いでありながら、どこか美しい演舞でもあった。

アレクセイとヴェーダは、長年培った阿吽の呼吸で左右から包み込む。

一方が押し込めば、もう一方が死角へ潜る。

息を合わせた挟撃。

普通の相手なら一瞬で撃墜される連携だった。

だが、黒い翼はそのさらに上を飛ぶ。

二人の攻撃を紙一重でかわしながら、逆に二人の死角へ入り込んでくる。

アレクセイは思わず息を漏らした。

(なぜ、撃ってこない。)

(決定的瞬間だけを狙っているのか。)

わずかな沈黙の後、彼は笑みを深める。

(私と同じ……か。)

(……いい趣味をしている。)

少し離れた空域では、ルドガーたちが援護へ向かおうとしていた。

「隊長、今援護に――」

しかし、その言葉をアレクセイが遮る。

「やめろ。」

その一言だけで全員の操縦桿が止まる。

「お前たちは基地へ帰還しろ。」

誰もすぐには返事をしなかった。

それほどまでに、この空戦は異質だった。

アレクセイは黒い翼から目を離さぬまま、小さく呟く。

「これほどの相手は、"彼ら"以来だ。」

________________________________________________

「まさか、これほどとは……」

ヴェーダは感嘆の声を漏らした。

目の前を飛ぶ大鴉。

それは、これまで幾多の空を渡り歩いてきた彼でさえ一度も出会ったことのない強大な敵だった。

心臓が激しく鼓動する。

操縦桿を握る手に力が入る。

己のすべてを賭けろ。

全身が、魂が、本能がそう叫んでいた。

『祖国の復権』

そんなものは、この瞬間だけは頭の中から消え去っていた。

今、この空にいる。

この怪物と飛べる。

それだけで十分だった。

ヴェーダの口元が歪む。

笑みだった。

歓喜に満ちた、狂気にも似た笑み。

「隊長……。」

視線は黒い翼から一瞬たりとも外さない。

「私は今、生きていることを心から実感しています。」

返事はない。

だが、隣を飛ぶアレクセイの横顔が、それだけですべてを物語っていた

長い歳月を空に捧げてきた男。

その瞳にもまた、一匹の大鴉しか映っていなかった。

「邪魔だ!!」

アレクセイが鋭く機首を振る。

機関砲が火を噴き、進路上へ迷い込んだ帝国軍戦闘機が炎に包まれて墜落していく。

次の瞬間には、カイが連邦機を撃ち落とす。

さらにヴェーダが別方向から飛び込んできた帝国機を撃墜する。

三機はこの戦いを妨げる存在だけを排除していった。

誰も近づけない。

誰も割って入れない。

気付けば、その空域だけが巨大な空白地帯となっていた。

三人だけの空。

怪物だけに許された戦場。

やがて三機は同時に加速する。

限界を超えた速度に空気が悲鳴を上げる。

そして――。

音の壁を突破した衝撃波が、空域全体へ広がった。

轟音が天を震わせ雲海が裂ける。

厚く空を覆っていた曇天は、まるで神の手によって左右へ引き裂かれたかのように吹き飛んでいく。

閉ざされていた空へ、陽光が降り注ぐ。

果てしなく澄み渡る、戦場とは思えないほど美しい青空。

その中心を舞う三つの機影。

黒翼。

天空の王。

処刑人。

三人の軌跡だけが、蒼空へ白い線を幾重にも描いていく。

その光景は、戦う者たち全ての目を奪った。

帝国軍も、ヴェルテクス連邦軍も。

塹壕の中で銃を構えていた兵士が空を見上げる。

戦車の砲塔に立つ車長が双眼鏡を下ろす。

燃え盛る軍艦の艦橋でも、水兵たちが思わず視線を向ける。

砲声も、銃声も。

その一瞬だけは、誰の耳にも届かなかった。

誰もが戦うことを忘れ、ただ蒼穹を舞う三つの影を見つめていた。

________________________________________________

カイは狂ったような笑みを浮かべていた。

それは、いつからか失っていた感情だった。

そしてカイから放たれる冷たく鋭い殺気が、一段と強くなっていく。

轟く強い風に、悲鳴さえ掻き消えては。

硝煙舞う空に、夢を見るだろう。

悲しさも寂しさも感じることはなく、カイの冷たく鋭い殺気が、さらに濃く空へ溶けていく。

轟く風が悲鳴さえ飲み込み、砕け散る飛行機雲が蒼穹へ幾重にも刻まれる。

硝煙の匂いに満ちた空で、彼はただ飛ぶ。

悲しみも、寂しさも。

何も感じない。

また一つ。

乾いた骨が軋むような感覚だけが胸の奥を通り過ぎていく。

その時だった。

耳元で、誰かが囁いた気がした。

『そうだ……それでいい。』

カイは一つ、また一つと押さえ込んでいた衝動を、本能を解放していく。

餓えた獣が、目の前へ投じられた贄を喰らうように。

もともと人間離れしていた機動は、さらに人の限界から遠ざかっていく。

理性の鎖、躊躇、ためらい。

それらは音もなく砕け散った。

飢えた獣が、ようやく投げ与えられた獲物へ牙を剥くように。

黒い翼はさらに空へ牙を立てる。

もともと常人離れしていた機動は、さらに人間の限界を置き去りにしていく。

すべてが一つの流れとなり、機体はまるで意思を持つ生き物のように蒼穹を駆けた。

F-15Λは、もはや操縦されているのではなかった。

機体と人間が溶け合い、一つの存在となって飛んでいる。

かつて到達した領域を。

さらに、その先へ。

機体と身体の境界が曖昧になる。

風が翼となり鼓動がエンジンとなる。

機体と身体が完全に一体となる、この感覚。

久しく忘れていた。

どれほど忘れていただろう。

いや――。

なぜ忘れていたのだろう。

ドクン……。

ドクン……。

忘れたことも、忘れてしまえ。

ただ今は――これを呼び覚ませ。

高鳴る鼓動が、ゆっくりと何かを呼び覚ましていく。

記憶も。

痛みも。

後悔も。

そのすべてを塗り潰すように。

カイは静かに機首を引き起こした。

黒い翼は天を指し、一直線に上昇を始める。

速度は落ちない。

推力は限界。

だが、それでも大気を裂き、雲海を貫き、なおも上へ。

戦闘機が通常行動する高度を超え、さらに高く。

白く広がる雲海は足元へ沈み、空は蒼から深い藍へと色を変えていく。

やがて視界いっぱいに広がったのは、成層圏へと続く青黒い空だった。

世界の輪郭さえ変わる静寂。

そこには砲声も、爆発も届かない。

ただ三機だけが、空の果てを目指していた。

アレクセイは笑みを浮かべる。

ヴェーダもまた、その背を追う。

誰一人として脱落しない。

黒翼が導く空へ。

天空の王と処刑人は迷うことなく続いていく。

三機はなおも上昇する。

空の頂へ届かんとするように。

そして、その軌跡は蒼穹へ三本の白い飛行機雲を刻んだ。

それはまるで、誰にも真似のできない一つの演舞。

空だけが許した、三人だけの舞だった。


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