空の怪物たち
格納庫の巨大な扉が開かれ、冷え切った朝の風が吹き込んできた。
冬の気配を帯びた空気が、整備灯に照らされた機体を静かに撫でる。
そこに、F-15Λがいた。
漆黒の機体は、他の戦闘機とは明らかに違う存在感を放っている。
黒曜石のような機体表面は光を鈍く吸い込み、翼はまるで巨大な鳥が羽を休めているかのように静かだった。
整備員たちは必要以上に近寄らず、それぞれの持ち場で黙々と作業を続けている。
誰もが無意識のうちに、この機体だけは特別なものだと理解していた。
カイはゆっくりと歩み寄る。
その足音だけが、広い格納庫へ静かに響いていく。
タラップは既に取り付けられ、キャノピーは開かれていた。
すぐにでも飛び立てる状態だった。
だが、カイはすぐには乗り込まない。
機首の前で足を止める。
ダークブルーの瞳が、黒い翼を静かに見上げた。
あの夢を見てから、まだほとんど時間は経っていない。
胸の奥で鼓動が響く。
ドクン……
ドクン……
規則正しいはずの鼓動が、今日はどこか違っていた。
高鳴っている。
戦闘前の緊張とも違う。
恐怖でもない。
もっと深い場所から込み上げてくる、言葉にならない感覚。
(……今日の空には、何かがいる。)
根拠などない。
それでも確信に近い予感だけが、心の奥底で静かに脈打っていた。
何かが待っている、自分を。
胸の鼓動はさらに強くなる。
ドクン……
ドクン……
こんな感覚は、いつ以来だろう。
思い出せない。
思い出せるはずもない。
記憶は霧の向こうへ消えてしまっている。
それでも身体だけは覚えていた。
空で、自分と同じ場所へ辿り着く何者かがいることを。
カイは無言のまま、黒い翼へ手を伸ばす。
指先が冷たい機体へ触れる。
金属のはずなのに、不思議と鼓動が伝わってくるような錯覚があった。
まるで眠っていた生き物が、主人の訪れを感じて目を覚ますように。
格納庫の照明を浴びた漆黒の翼は、静かに存在を主張している。
主人のことを待ち続けていたかのように。
鳥籠の中で見た、あの黒い大鴉。
その姿が一瞬だけ脳裏をよぎる。
カイは何も言わない。
ただタラップへ足を掛け、一段ずつ昇っていく。
コックピットへ身を沈めると、計器類が次々に目を覚まし始めた。
HUDが淡い緑色の光を灯し、システムチェックが自動で進行していく。
低く重い振動が機体全体へ広がる。
まるで巨大な心臓が鼓動を始めたかのようだった。
ドクン。
胸の鼓動と、エンジンの鼓動が重なる。
今日の空には何かがいる。
その予感だけが、静かに、しかし確かな重みを持ってカイの胸に残り続けていた。
主人のことを待っていた黒い大鴉もまた、その時を静かに待っていた。
『レイヴン1、離陸を許可する。』
『中尉、皆をよろしく頼みます。』
カイは静かにスロットルレバーを握り、そのまま限界まで押し込む。
次の瞬間、F-15Λの二基のエンジンが轟音を響かせた。
アフターバーナーが蒼白い炎を噴き上げ、漆黒の機体が猛烈な加速を始める。
重い機体は一瞬で滑走路を駆け抜け、機首がわずかに持ち上がった。
『レイヴン1、高度制限解除。』
「……」
短い呼吸だけがヘルメットの内側に響く。
F-15Λは滑走路を離れ、一気に大空へ舞い上がった。
黒い翼が冬の朝焼けを切り裂く。
上昇、さらに上昇。
機体はまるで重力そのものを拒絶するように急角度で高度を稼いでいく。
基地の建物は瞬く間に豆粒となり、砲声に包まれた前線も霞んでいった。
雲を突き抜ける。
純白の雲海の上へ飛び出した瞬間、黄金色の朝日が漆黒の翼を照らした。
しかし、その黒は光を反射することなく静かに飲み込んでいく。
まるで空に溶け込む影だった。
HUDには味方部隊、敵航空隊、地上戦線の情報が次々と表示される。
戦場全域が、緑と赤の光点で埋め尽くされていた。
前線では既に数百機規模の航空戦が始まっている。
地上では砲兵隊同士が絶え間なく砲弾を撃ち合い、無数の歩兵部隊が白く凍り始めた大地を進撃していた。
そのすべてを、カイは無言で見下ろす。
胸の鼓動だけが静かに速くなる。
ドクン……
ドクン……
あの格納庫で感じた違和感は消えていなかった。
むしろ、空へ上がったことでさらに強くなっている。
今日の空には何かがいる。
誰かが飛んでいる。
まだ姿は見えない。
だが、それでも、空気そのものが違っていた。
張り詰めた糸のような緊張が、大空全体を覆っている。
カイは先に上がっていた部隊と合流した。
『おい、お前ら……英雄殿が来たぞ!』
最初に気付いたのは、前線上空を警戒していたヴァイパー隊だった。
黒く染まった一機の戦闘機が、高高度から戦場へ向けて一直線に降下してくる。
朝日に照らされてもなお光を返さない漆黒の機体。
F-15Λ。
東部戦線において、もはや知らぬ者はいない黒い翼だった。
『レイヴン1を確認!』
『黒翼だ! 本当に来た!』
『これで勝てるぞ!』
無線には安堵と歓喜が次々と広がっていく。
幾度も絶望的な戦況を覆し、味方を救い続けてきた存在。
黒翼が現れた。
それだけで、生きて帰れる。
そう信じる者は、この東部戦線に数え切れないほど存在していた。
その情報は航空隊だけでは終わらない。
前線司令部、砲兵陣地、戦車部隊、歩兵中隊。
伝令と無線によって、瞬く間に戦場全域へ駆け巡っていく。
「黒翼が来た!」
その一報だけで、疲弊しきっていた将兵たちの表情が変わる。
塹壕の中で震えていた若い兵が立ち上がる。
砲弾の雨に身を縮めていた歩兵が銃を握り直す。
履帯を撃ち抜かれ停止していた戦車兵が再び砲塔を旋回させる。
絶望しかなかった戦場へ、小さな希望が灯っていく。
眼下では、すでに壮絶な地上戦が繰り広げられていた。
砲撃で抉られた大地、燃え上がる戦車、崩れた塹壕、吹き飛ぶ土砂。
機関銃の曳光弾が幾筋もの光となって飛び交い、人影が泥と硝煙の中を駆け抜けていく。
空では敵味方合わせて数百機規模の航空戦が展開され、爆炎が至る所で花開いていた。
そのすべてを、黒い翼は遥か上空から見下ろしていた。
コックピットの中で、カイの表情は変わらない。
HUDには無数の敵味方識別マーカー。
警告表示、ミサイル接近警報、戦術データ。
それらすべてを、冷たいダークブルーの瞳が淡々と処理していく。
感情はない、焦りもない。
ただ、戦場だけを見ていた。
その時、無線が響く。
『さて、お前ら、敵さんのお出ましだ。』
ヴァイパー1の低く力強い声だった。
『各機、エンゲージ。』
『一機も生きて帰すな。』
その号令と同時に、帝国航空隊は一斉にアフターバーナーを点火した。
幾筋もの蒼い炎が空へ伸びる。
そして、その先頭を飛ぶ黒い翼は、誰よりも速く敵陣へ向かって加速を始めた。
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その遥か先。
厚い雲海を切り裂くように、数百機規模にも及ぶヴェルテクス連邦軍の大規模攻撃隊が東へ進撃していた。
重爆撃機が幾重にも隊列を組み、その周囲を護衛戦闘機が幾層にも取り囲む。
電子戦機は後方から電波を放ち、空中給油機や早期警戒機がさらにその背後で巨大な航空網を維持していた。
空そのものを埋め尽くす鋼鉄の大編隊。
その中心。
ひときわ整然とした八機編隊が静かに飛行している。
銀の八芒星。
翼に刻まれたその紋章は、連邦空軍の誰もが畏敬を抱く印だった。
エトワール隊。
ヴェルテクス連邦最強。
"天空の王"アレクセイ・イグナトフ率いる精鋭部隊。
隊列は乱れない。
誰一人として無駄な機動をしない。
長年ともに空を飛び続けた者たちだけが持つ、言葉すら不要とする阿吽の呼吸。
その静寂の中で、副隊長ヴェーダ・リンクスが雲海の彼方を見つめ、小さく口を開いた。
「……隊長。」
アレクセイは視線だけを向ける。
「何か来ますよ、今日は……」
その声には、普段の余裕はなかった。
空気の変化を感じ取った者だけが持つ、確かな緊張。
アレクセイは静かに頷いた。
「全機、警戒しろ。」
通信回線に短い命令が流れる。
「隊長、一体何が来るって言うんですか。」
ハルドが、重苦しい空気を吹き飛ばそうとするように笑い混じりで言った。
しかし、その直後だった。
「黙れ、ハルド。」
ルドガー・ネルソンの鋭い怒号が飛ぶ。
「だから何が……ッ!!」
ハルドの言葉は途中で止まった。
その瞬間だった。
全員が同時に感じ取る。
冷たく鋭く恐ろしい。
空のどこかから、ゆっくりと這い寄ってくる異様な気配。
言葉では説明できない。
目にも見えない。
それでも、歴戦のエースたちの本能だけが叫んでいた。
──来る、何かが。
全身の産毛が逆立ち呼吸が浅くなる。
操縦桿を握る手に、無意識のうちに力が入る。
まるで空そのものが、何か巨大な存在の訪れを告げているようだった。
死だ。
濃密で絶対的な死の気配。
ルドガーが喉を鳴らし、小さく呟く。
「隊長……これは……」
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カイのダークブルーの瞳が、遥か前方の敵編隊を捉えた。
HUDには赤い識別マーカーが次々と表示される。
数百機規模の敵航空隊。
その最前列。
銀の八芒星を尾翼に刻んだ八機編隊。
目標まで千数百メートル。
距離は一瞬ごとに縮まっていく。
二基のエンジンが低く唸り、漆黒の機体は一直線に敵へ向かって加速する。
コックピットの中で、カイの表情は変わらない。
ただ照準器だけが静かに目標を追尾していた。
照準円が敵機へ重なった次の瞬間。
トリガーが引かれ機関砲が火を噴く。
轟音とともに曳光弾が一直線に空を裂き、敵編隊へ降り注ぐ。
先頭を飛んでいた護衛戦闘機が回避する間もなく被弾した。
右翼が吹き飛び、機体は火球となって雲海へ落下する。
その爆炎を突き抜けるように、黒い翼はなおも速度を緩めなかった。
敵編隊へ、真っ直ぐに突き進んでいく。
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ルドガーが小さく呟いた。
「隊長……これは……」
その瞬間だった。
一機の攻撃機が、何の前触れもなく空中で爆発四散した。
「なっ――!?」
爆発の閃光が雲海を赤く染める。
それに続くように、一機、また一機と撃ち抜かれていく。
まるで見えない死神が編隊を食い破っている。
「クソッ! ミサイルアラートが反応しなかったぞ!」
「機銃だ!」
ヴェーダが鋭く叫ぶ。
「機銃で落としてやがる!」
「嘘だろ……!」
高速で飛行する航空機をしかも厚い雲海の中。
さらに千数百メートル先という長距離。
そんな状況で機関砲だけを用いて正確に撃ち抜く。
常識ではあり得ない。
だが、敵はそれを現実にしていた。
曳光弾が雲を貫き、次々と機体を切り裂いていく。
爆撃機が炎を噴きながら落下する。
護衛機は回避機動へ移る間もなく撃ち抜かれ、空中で爆散した。
編隊は瞬く間に乱れ、密集していた隊列は無秩序な混乱へ変わっていく。
それだけで、大規模編隊は半壊していた。
無線には悲鳴と怒号が溢れ返る。
『どこだ!?』
『見えない!』
『敵機確認でき――うわぁぁぁぁ!!』
火球がまた一つ。
さらに一つ。
空を埋め尽くしていた大編隊が、黒い死神に喰われるように崩れていく。
アレクセイはその光景を見つめ、静かに吐き捨てた。
「……化け物め。」
その時だった、雲海が大きく裂け轟音とともに、一機の漆黒の戦闘機が姿を現す。
黒曜石のような機体。
光さえ飲み込む漆黒の翼。
蒼いアフターバーナーを曳きながら、一直線に加速してくる。
F-15Λ。
カイはスロットルを限界まで押し込み、さらに速度を上げた。
その姿を目にした瞬間。
エトワール隊全員が理解した。
――コイツだ。
――コイツがやった。
ハルドが思わず叫ぶ。
「隊長!! コイツだ!! コイツが――!!」
アレクセイは黒い翼から目を離さず、小さくその名を口にした。
「……黒翼。」
その一言が無線に流れた瞬間。
この空域にいたヴェルテクス連邦軍将兵すべての背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
コイツが、この黒いヤツが、」敵味方問わず恐れられる死神。
黒翼
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カイのダークブルーの瞳が、敵編隊の最前列を静かに見据える。
無数の敵機。
爆撃機。
護衛戦闘機。
そのすべてを視界へ収めながらも、彼の意識はただ二機だけに向けられていた。
先頭を飛ぶ二機。
銀の八芒星を尾翼に刻んだ赤黒い機体。
他の機体とは違う。
速度、間合い、機体の動き。
編隊全体を支配するような飛び方。
歴戦の空気。
カイは確信する
(……これだ。)
(この二機だ。)
(違和感の正体は。)
周囲の数百機とは比べものにならない存在感。
まるで空そのものが、その二機を中心に動いているかのようだった。
一際、濃密な気配。
互いに大きく離れている。
それでも、空を通して伝わってくる。
その瞬間。
カイの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
それは笑みとも呼べないほど僅かな変化。
本人は、自分がそんな表情を浮かべていることにすら気付いていない。
長い間、闇だけが満ちていたダークブルーの瞳。
その最も深い場所で、小さな蒼い炎が静かに灯った。
消えかけていた何かが、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。
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「クソ……何なんだ、アレは……」
ルドガーが思わず呟く。
目の前で繰り広げられている光景は、彼が知る空戦ではなかった。
黒い機影が通過するたびに、味方機が炎となって消えていく。
回避する暇すら与えられない。
反撃する間合いすらない。
ただ一方的に狩られていた。
アレクセイは黒い翼から一瞬たりとも視線を外さなかった。
そして、静かに命じる。
「各員、散開。」
その一言でエトワール隊は一斉に隊形を崩した。
長年ともに飛び続けた彼らは説明など必要としない。
「私とヴェーダで、彼の相手をしよう。」
その言葉に、ルドガーが思わず振り向く。
「隊長、本気ですか……」
アレクセイは小さく笑った。
「あぁ。もちろん本気だとも。」
その横で、ヴェーダも静かに操縦桿を握り直す。
「ヴェーダ、行くぞ。」
「エンゲージ。」
「了解。」
短い返答。
その声は、どこか弾んでいた。
恐怖ではない、焦りでもない。
それは高揚。
長い年月を空で生きてきた者だけが知る感覚。
その瞬間。
アレクセイとヴェーダは、互いに視線を交わす。
二人の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
ようやく見つけた。
長い間、探し求め続けた存在。
己のすべてを懸けて挑むに値する、至高の敵。
二人の瞳には、恐れではなく歓喜だけが宿っていた。
果てなき蒼穹の中で。
英雄と英雄が、ついに同じ空を翔んだ。




