闇に囚われた鴉
カイは、自室へ戻っていた。
シャワーの音だけが、静かな部屋に響いていた。
蛇口から流れ落ちる湯が肩を伝い、床へと落ちていく。
戦場の硝煙も、油の匂いも、乾いた血の臭いも洗い流していく。
それでも、胸の奥に沈んだ何かだけは洗い流せなかった。
部屋には必要最低限の物しかない。
簡素な備え付けのベッド、壁に掛けられた時計。
そして、壁に飾られた一枚の写真。
それ以外に私物らしいものは何一つなかった。
シャワーを止める。
静寂が戻る。
濡れた髪から雫を落としながら、カイは裸足のまま写真の前へ歩いた。
帝国空軍第119士官学校。
第203期生。
"黄金の世代"。
数多くの天才が集い、歴代最高とまで呼ばれた卒業生たち。
写真は卒業の一週間前に撮影されたものだった。
全員が笑っていた。
誰もが未来を疑っていなかった。
中央にはカイが立っている。
今では想像もできないほど穏やかな笑みを浮かべて。
その右隣には、金髪に鮮やかなブラッドレッドの瞳を持つ青年
左隣には、白銀の長い髪を風になびかせた少女。
写真に写る三十人余りの若者たち。
その多くは、もうこの世にはいない。
卒業を目前にしたあの日。
彼らは空で命を落とした。
静かな部屋で、カイは濡れたまま写真を見つめ続ける。
視界がぼやける。
いや。
ぼやけているのは目ではない。
記憶だった。
頭の奥へ、濃い霧が流れ込む。
思い出そうとするほど、記憶は遠ざかっていく。
胸の奥に穿たれた大きな空洞へ、冷たい風だけが吹き続けていた。
誰かが笑っていた。
誰かが肩を叩いていた。
誰かが名前を呼んでいた。
その顔だけが思い出せない。
声だけが遠く響く。
そして、カイは小さく唇を動かした。
「……レオ……エリス……」
その名だけは、消えなかった。
記憶が失われても。
心が壊れても。
その二人の名だけは、魂の奥底に刻まれている。
「……大切な……」
そこまで口にして、言葉は途切れた。
何が大切だったのか。
どうして胸が痛むのか。
どうしてその名前を呼ぶたびに息が詰まるのか。
もう思い出せない。
それでも。
写真の中の三人だけは笑っていた。
空の下で。
何も失っていなかった、あの日のまま。
飛行服に着替えたカイは、そのままベッドへ倒れ込んだ。
薄いマットレスが僅かに軋む。
天井を見つめるダークブルーの瞳には、何の感情も浮かんでいない。
体は鉛のように重かった。
だが、それは激しい空中戦や連日の出撃による疲労ではない。
肉体はすでに、人間の限界を遥かに超えていた。
極限の高G機動にも耐え、常人なら意識を失う状況でも操縦桿を握り続ける。
反応速度も、動体視力も、身体能力も。
すべてが人の域を逸脱しつつあった。
それが何によるものなのか。
誰にも分からない。
帝国情報局にも、医師にも、開発者にも。
蒼穹の女神アステリアの加護なのか。
それとも、彼の心に巣食う深い闇が生み出した代償なのか。
答えを知る者はいない。
ただ一つだけ確かなものがあった。
胸の奥に空いた、決して埋まることのない大きな穴。
何を成し遂げても。
どれほど敵を撃ち墜としても。
どれだけ味方を救っても。
その空洞だけは満たされない。
静かな部屋に時計の秒針だけが時を刻む。
カイはゆっくりと瞼を閉じた。
呼吸は次第に穏やかになり、意識は深い闇へ沈んでいく。
まるで命の灯が消えたかのように。
微動だにせず。
死者のような静けさの中で。
黒翼は、束の間の眠りへと堕ちていった。
夢へ落ちたカイが目を開く。
そこは、現実ではあり得ない世界だった。
鉄が錆びたような血の匂いが辺り一面を満たしている。
足元を覆うのは、水ではない。
果ての見えない血の海だった。
空には星も月もなく、ただ真っ黒な闇だけが広がっている。
風は吹かない。
音もない。
世界そのものが死んでいるような静寂だけが支配していた。
カイは動こうとする。
しかし、できなかった。
両手首には黒ずんだ鎖。
その鎖は地面の奥深くへと伸び、大地そのものと繋がっている。
引いても。
振り払おうとしても。
微かに金属音を響かせるだけで、一歩たりとも動くことはできない。
周囲へ視線を向ける。
そこには焼け焦げた戦車が横たわり、砲塔は吹き飛び、履帯は千切れ果てていた。
巨大な軍艦は船体を裂かれ、大地へ沈み込むように朽ち果てている。
撃墜された戦闘機、古いレシプロ機、ジェット戦闘機、見たこともない異国の機体。
時代も国も違う無数の翼が、墓標のように散乱していた。
さらにその先。
数え切れない銃剣が地面へ突き刺さっている。
その一本一本には、持ち主を失ったヘルメットが静かに掛けられていた。
まるで墓標だった。
そして、その向こう。
屍だけで築かれた巨大な山。
積み重なった無数の亡骸は、どこまでも続いている。
軍服も階級章も入り混じり、敵味方の区別すら意味を失っていた。
足元にもまた、誰かの亡骸が横たわっている。
踏み場さえないほどに。
その時だった。
耳元で、誰かが囁く。
『どうして、お前が生きている』
一人ではない。
『俺は帰れなかった』
『妻が待っていた』
『息子に会いたかった』
『まだ死にたくなかった』
『助けてくれると信じていた』
『なぜ、お前だけが』
『どうして、お前が生きている』
幾千幾万もの声が重なり合い、恨みが木霊する。
逃げ場はない。
耳を塞ぐこともできない。
鎖に繋がれたまま、カイはその声を聞き続けるしかなかった。
黒い空の下。
血の海の中央で。
無数の亡霊たちの憎しみの込もった冷たい視線だけが、静かに彼へ注がれていた。
何十もの手が、闇の中から静かに伸びてきた。
冷たく、重く。
まるで底のない深淵へ引き込もうとするように、カイの腕や肩を掴んでいく。
振り払おうとしても動けない。
鎖はなお彼を縛り続けていた。
その手の一つ一つに、見覚えがあった。
戦場で交差した人々、救えなかった者たち、自らの選択の先で失われた命。
彼らは何も語らない。
ただ静かに、カイへ手を伸ばしていた。
押し寄せる無数の腕に包まれながら、カイは必死に前を見つめる。
その時だった。
闇の彼方に、一人の人影が現れる。
白銀の髪。
淡く揺れるその姿は...
カイの瞳がわずかに揺れる。
「待って……」
かすれた声が漏れる。
彼は精一杯腕を伸ばそうとした。
あと少し。
ほんの少し届けば、その姿に触れられる気がした。
しかし、無数の手が彼を押さえ込む。
腕は伸びない、体は前へ進まない。
白銀の髪の人影は、ただ静かに立ち尽くしている。
表情は見えない、声も届かない。
闇だけが、二人の間を隔てていた。
「待って……」
もう一度、その言葉だけが零れる。
しかし距離は縮まらない。
やがて足元の闇が静かに広がり、カイの姿をゆっくりと飲み込んでいく。
白銀の髪だけが、最後まで彼の視界に残っていた。
そしてその光景さえ、深い闇の中へ静かに溶けていった。
闇に包まれた世界を落ちていく。
どれほど沈んだのか、時間の感覚はもうなかった。
やがて闇は静かに晴れ、その先に一つの巨大な影が姿を現す。
それは、途方もなく大きな鳥籠だった。
黒い鉄で造られた格子は天井も果ても見えず、まるで世界そのものを閉じ込める檻のようにそびえ立っている。
格子には無数の傷が刻まれ、長い年月をそこに在り続けたことだけが伝わってきた。
その鳥籠の中央に一羽の巨大な鴉が静かに佇んでいた。
黒曜石を思わせる、光さえ吸い込む漆黒の翼。
羽をわずかに動かすたび、闇そのものが揺らめいているように見える。
そして、その瞳。
深く澄んだダークブルー。
カイとまったく同じ色だった。
鴉は何も鳴かない。
何も語らない。
ただ静かに、格子の向こうからカイを見つめている。
その視線には敵意も慈悲もなく、ただ底知れない静けさだけがあった。
カイは一歩踏み出そうとする。
その瞬間、視線が鴉の足元へ向いた。
太い黒い鎖。
冷たく鈍い光を放つ鉄の鎖が、鴉の両足を固く繋いでいた。
鎖は鳥籠の床を貫き、そのさらに深い闇へと伸びている。
まるで決して逃がさないと言わんばかりに。
その姿は、どこか自分自身と重なって見えた。
鎖に繋がれた鴉、鎖に縛られた自分。
黒い翼と、ダークブルーの瞳。
互いに言葉を交わすことはない。
それでも二つの存在は、静かな闇の中でただ見つめ合っていた。
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カイは息を呑むように目を覚ました。
「ハァ……ハァ……」
荒い呼吸だけが静かな部屋に響く。
全身は冷たい汗で濡れ、飛行服が肌に張り付いていた。
心臓は激しく鼓動を打ち続けている。
まるで夢の中から、まだ帰り切れていないようだった。
「っ……」
次の瞬間、鋭い痛みが頭を貫く。
思わず額を押さえ、身体を丸める。
激しい頭痛。
視界が揺れ、呼吸が乱れる。
頭の奥で、何かが砕け散るような感覚が走った。
断片的な記憶が次々と浮かび上がる。
ダークブルーの瞳。
自分と同じ色の瞳を持つ人々。
優しく笑っていた黒い髪の女性。
幼い頃の自分。
遠くから聞こえる誰かの笑い声。
温かな手。
眩しい陽光。
どれも一瞬だけ現れては、霧のように消えていく。
「……誰だ」
無意識に言葉が漏れる。
胸の奥が締め付けられる。
何か、とても大切なものだった。
失いたくなかったもの。
それだけは分かる。
しかし、思い出そうとするたびに頭痛はさらに激しくなる。
「っ……!」
痛みに耐えきれず、カイは目を閉じた。
呼吸を整えようとしても、鼓動は収まらない。
しばらくそのまま動かずにいると、やがて痛みは少しずつ遠のいていった。
カイはゆっくりと立ち上がる。
窓の外では、夜明け前の空が静かに広がっていた。
誰もいない部屋。
時計の針だけが、変わらず時を刻んでいる。
(何もない……)
そう言い聞かせる。
(何も問題はない)
その言葉を繰り返すたび、胸の奥に浮かびかけた記憶は静かに沈んでいく。
揺れていたダークブルーの瞳から、わずかな光が消える。
再び、その瞳は深い闇に覆われた。
そしてカイは何事もなかったかのように部屋を後にした。
夢も、痛みも、思い出しかけた記憶も、すべてを心の奥底へ閉じ込めたまま。




