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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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43/47

西方への航路

男はアレンの話を黙って聞いていた。

船室にはエンジンの低い振動音だけが響いている。

薄暗い照明の下、海図と資料が机に散らばっていた。

アレンは話し終えても、しばらく俯いたままだった。

過去を口にするたび、胸の奥に沈めていたものが掘り返される。

静かな沈黙が流れた、そのときだった。

ぐぅ~~。

間抜けな音が船室に響く。

アレンがゆっくり顔を上げた。

男は腕を組んだまま視線を逸らしている。

「……」

「……ご飯にしましょうか」

「すまんな」

男は咳払いしながら立ち上がった。

「こんな時間なのにまだ夕飯を食べていなかったですもんね」

「忙しかったんだよ」

「追われて銃撃戦までしてましたしね」

「改めて聞くと酷ぇ一日だな」

二人は船室を出て狭い通路を歩く。

艦内灯が白く床を照らしていた。

特殊高速艦の内部は最低限の設備しかなく、どこも鉄と油の匂いがする。

途中ですれ違った水兵たちが敬礼した。

男は軽く手を上げるだけで通り過ぎる。

アレンは未だに、この男がどれほど大物なのか実感しきれていなかった。

食堂へ入ると、夜勤の乗員たちが静かに食事を取っていた。

皆疲れた顔をしている。

それでも、どこか張り詰めた空気があった。

この船が秘密裏に国外へ向かっていることを、彼らも理解しているのだろう。

「お二人とも、これを」

炊事係の水兵が差し出したのは簡素なサンドイッチだった。

干し肉とチーズを挟んだだけのもの。

だが温かかった。

アレンは小さく頭を下げて受け取る。

男は席へ座るなり一口で半分ほど食べた。

「早いですね……」

「軍隊じゃ食堂は戦場だからな。こうゆうところだとつい癖でな」

「なんか夢がないですね」

「現実だよ」

男はコーヒーを流し込みながら海図を眺める。

「あと二日でグリム王国だ」

その言葉に、アレンの手が止まった。

窓の外には真っ暗な海しか見えない。

その先に、本当にカイ・ラグナーがいるのか。

黒翼は存在しているのか。

ここまで来て、急に現実感が薄れていく。

「……いなかったらどうしましょう」

アレンの声は小さかった。

男はサンドイッチを咀嚼しながら肩を竦める。

「そのときはそんときだ」

あまりにも雑な答えだった。

アレンは思わず苦笑する。

「適当ですね」

「考え込んでどうにかなる問題じゃねぇだろ」

男は窓の外の海を見た。

夜の海は暗く、どこまでも果てがない。

「アイツは昔からそうだった」

「……え?」

「消えるときは煙みたいに消える。追う側からすりゃ最悪だ」

男は小さく笑った。

だが、その目にはわずかな不安が浮かんでいた。

長い旅路の果てに探し続けた男が、本当にいる保証はどこにもない。

それでも二人は進むしかなかった。

船は暗い海を西へ進み続ける。

波を裂く音だけが、静かに夜へ響いていた。

________________________________________________

翌朝

船室の扉が規則正しく叩かれた。

海の上の朝は早い。

まだ眠気の残る頭のまま、男が返事をすると、水兵が入ってきた。

制服は整っていたが、表情にはどこか緊張があった。

「失礼します。そろそろ第一艦隊の護衛が離れます」

男が時計を見る。

「もうそんなとこまで来たのか」

「はい。まもなく帝国領海を出ます」

窓の外を見る。

昨日まで遠くに見えていた護衛艦隊の艦影が、少しずつ針路を変えて離れていくところだった。

西部方面軍第一艦隊。

演習という名目でここまで同行していた護衛だ。

巨大な艦影が朝靄の中へ消えていく。

ここから先は、本当に自分たちだけだった。

水兵は続ける。

「当艦はあと三十分ほどで高速船速に入ります。揺れが想定されますのでお気をつけください」

男が眉を上げた。

「高速船速でどのくらいで着く」

「丸一日もあれば着くはずです」

アレンの表情が少し明るくなる。

だが、水兵は言葉を続ける前にわずかに言い淀んだ。

「ですが、一つ懸念事項が……」

男の目つきが変わる。

「どうした。なんかあったのか」

水兵は海図を広げた。

指先が進路上の一点を示す。

「途中、赤星東方労働者社会主義共和国の領海を通るので……」

船室の空気が少し固まった。

アレンもその国は知っていた。

戦争の途中で、二つの国家が統合して成立した巨大国家。

西方大陸を二分の一程を占める巨大な国土。

厳格な管理体制と巨大な軍備。

国外からの船舶監視も厳しいことで有名だった。

男はしばらく無言になった。

それから額を押さえた。

「あぁ……他の問題が大きすぎて完全に忘れてたわ」

アレンが海図を見る。

進路上に別ルートはほぼない。

「どうするかなぁ……迂回はできないよなぁ」

水兵が首を振る。

「そうですね。この艦の燃料の都合上、現実的ではありません」

男が椅子にもたれた。

「臨検なんてされたら一発アウトだよな」

誰も否定しなかった。

船籍、偽装書類、積載物。

全部説明がつかない。

最悪、外交問題どころでは済まない。

男はしばらく考えたあと、諦めたように言った。

「この艦のステルス性と速度と運に任せて祈るしかないな」

「すごく軍人っぽくない結論ですね……」

「軍人は最後、運に頼る仕事だ」

水兵が苦笑した。

「艦長も似たようなこと言ってました」

そのとき、艦内放送が鳴った。

『総員注意。まもなく高速航行へ移行する』

低い警告音。

船体が微かに震える。

窓の外を見ると、最後尾を航行していた護衛艦が短く汽笛を鳴らした。

別れの挨拶だった。

男が小さく敬礼する。

離れていく艦隊。

前方には国境も、監視も、未知の海もある。

アレンは窓越しに水平線を見た。

もう後戻りはできなかった。

数秒後。

船体が低く唸った。

海面を滑るように加速が始まる。

船首が白い波を切り裂き、西へ向かった。

海面を切り裂くように高速艦は西へ進み続けていた。

波頭が白く砕け、艦首から吹き上がる潮風が甲板を叩く。

男のコートの裾が激しくはためいている。

「速いなぁ」

感心したように男が呟いた。

「えぇ、こんなに速いんですね」

アレンも手すりに手を置きながら答えた。

帝国海軍の特殊高速艦。

見た目こそ小型だったが、その速度は常識外れだった。

水平線は揺れながら流れ、背後には白い航跡が長く伸びている。

アレンは海を見つめながら、そっとコートの内側に手を入れた。

分厚く膨らんだ手帳。

旅に出てから書き続けた記録。

最初はただ一人の男を探すだけだった。

それなのに気がつけば国家規模の話になっている。

ポケットの中で手帳の角を指先でなぞる。

その重みは紙の重さではなかった。

積み上がった人々の記憶そのものだった。

「カイさんを見つけたらどうするんですか」

アレンが聞いた。

男はしばらく答えなかった。

潮風の音だけが二人の間を流れる。

やがて男は鼻で笑った。

「……ぶん殴ってやるよ」

「え?」

「俺の前から消えたことを後悔させるぐらいな」

アレンは思わず苦笑した。

「ほどほどにした方がいいですよ」

「俺だけじゃない」

男は海の向こうを見たまま言った。

「色々なヤツに殴られた方がいい」

「そんなにですか」

「あぁ」

即答だった。

「海軍のジジイどももそうだ」

「陸軍の連中もそうだ」

「空軍なんてもっとだな」

男は肩を竦める。

「アイツにはいい薬になるだろ」

アレンは少しだけ想像した。

もし本当にカイ・ラグナーが見つかったら。

各軍の将校たち、昔の仲間たち、世話になった人々。

その全員が順番待ちをしている光景を。

「それ、かなり危ない気がします」

「自業自得だ」

男は即座に切り捨てた。

「十年以上も姿を消したんだぞ」

「まぁ、それはそうですね」

「だろ?」

男は妙に満足そうだった。

その様子を見ていたアレンは小さくため息を吐いた。

すると男が突然思い出したように言った。

「それよりアレン」

「なんですか」

「車の修理代はいつ請求すればいい?」

アレンの表情が固まった。

「……私のせいじゃないでしょ。あれは」

「お前が運転した」

「あなたが代われって言ったんですよ」

「でも擦った」

「ガードレールが悪いんです」

「車は悪くない」

「理不尽すぎません?」

男はニヤニヤしていた。

嫌な予感しかしない。

「お前の家に請求書を送った方がいいか」

「止めてもらっていいですか」

即答だった。

「職場の方がいいか?」

アレンの背筋が凍った。

「そもそも知らないでしょ。あなた」

「最初に名刺をくれただろ」

「……」

「そこに書いてあった」

終わった。

アレンの顔にそう書いてあった。

男の口元がさらに吊り上がる。

「自営業なんですけど……」

「奥さんにバレるな、ハハハ」

「笑い事じゃないんですよ!」

アレンは頭を抱えた。

「私の小遣い、本当に消し飛びますからね」

「大丈夫だ」

「何がですか」

「俺が適正価格で請求してやる」

「それ安心できないんですけど」

男は楽しそうに笑っている。

空軍省で将官たちを正座させた人物と同じとは思えない顔だった。

アレンは盛大にため息を吐いた。

すると男はふと真顔になった。

「まぁ安心しろ」

「?」

「カイを見つけたら全部アイツに請求する」

「それはもっと理不尽ですよ」

「元凶だからな」

男は当然だと言わんばかりだった。

アレンはもう反論する気力もなかった。

遠くで海鳥が一羽、船を追い越していく。

その先にはまだ見えない異国の海岸線。

グリム王国。

十年以上姿を消した男。

追いかける者たち。

そして彼らを追う正体不明の勢力。

旅はもう引き返せないところまで来ていた。

だが今だけは――

二人とも束の間の平穏を味わっていた。

________________________________________________

夜の海は静かだった。

特殊高速艦は闇を切り裂くように進み続ける。

船体を叩く波の音だけが規則正しく響き、甲板の照明が黒い海面を淡く照らしていた。

遠くには赤星東方労働者社会主義共和国の沿岸部らしき灯が点々と見える。

その光もやがて後方へ流れていった。

「明日にはグリム王国ですか」

アレンが海を眺めながら言った。

「そうだな、順調に行けばな」

男は手すりにもたれた。

「どうしたんだ、怖じ気づいたのか」

「いや、そうではなくて」

アレンは首を振る。

「ここまで来たのかと思って」

男は呆れたような顔をした。

「今さらかよ」

「今さらですね」

アレンは苦笑した。

数日前まで帝都で聞き取り調査をしていた。

それが今では国外へ向かう軍艦の上にいる。

人生とは本当にわからないものだと思う。

「最初はあなたに聞いて家に帰る予定だったんです」

「そうだったな」

「いつの間にか命を賭けることになって」

「俺もだ」

男は即答した。

「え?」

「ここまで面倒になるとは思ってなかった」

「それを言うんですか」

「言う」

男はため息を吐いた。

「もっとこう、聞き込みして終わりだと思ってた」

「私もです」

「なのに傭兵は出るわ諜報員は出るわ」

「空軍省では乱闘騒ぎでしたしね」

「アレは向こうが悪い」

「そういうことにしておきます」

男は鼻を鳴らした。

潮風が二人の間を吹き抜けていく。

「この数日で黒翼がどれだけ大物かよくわかりました」

アレンがぽつりと呟いた。

「私がこれまで聞いてきた人たちも英雄、英傑と同じことを言っていた」

男は黙って聞いている。

「敵からは悪魔と死神と恐れられていた」

しばらく沈黙が続いた。

やがて男が低い声で言った。

「力を持つ者は大体同じようなことを言われる」

「……」

「俺もそうだ」

男は夜の海を見つめる。

「英雄、英傑と祭り上げられる」

その声には僅かな疲れがあった。

「カイの父親たちはそれで戻れなくなったんだろう」

アレンは男を見る。

「かつてのラグナーたちは...」

男はそこで言葉を切った。

まるで遠い昔を見ているようだった。

海風が吹く。

その横顔にはどこか寂しさがあった。

アレンは初めて気付いた。

この男もまた、多くを失ってきたのだと。

仲間を、家族を、戦友を。

「なぁアレン」

男が不意に口を開いた。

「気になっていたんだがお前はどこでカイを知ったんだ」

アレンの表情が少し変わった。

夜の海へ視線を向ける。

黒い海面に月明かりが揺れていた。

ポケットの中の手帳を握る。

叔父。

ローザ。

エトワール隊。

あの日々。

様々な記憶が頭をよぎる。

「私は……」

アレンは静かに口を開いた。

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