敵の中の居場所
寄る辺をなくしたアレンは、気づけばエトワール隊の営舎の片隅に身を置いていた。
敵――かつてそう呼んでいたはずの彼らの中に、奇妙な安息を見出してしまったのだ。
整然と並ぶ兵舎、燃料の匂い、朝の号令、滑走路を震わせるジェット音。
どれもかつては恐怖と怒りの象徴だったはずなのに、今では静かな日常の輪郭を形作っている。
アレンが持つものといえば、名もない整備員の腕章と、過去を封じ込めた沈黙だけだった。
町には戻らなかった。
戻れなかった、というべきかもしれない。
帰れば皆の目が突き刺さる。
秘密警察に家族を奪われ、敵軍基地に出入りしている少年。
そんな存在を受け入れるほど、今のあの町は優しくなかった。
それに、私はもう、自分がどこへ属しているのかわからなくなっていた。
朝は早かった。
まだ空が薄暗いうちから基地は動き始める。
整備員たちの怒鳴り声、工具の金属音、遠くで始まるエンジンテスト。
冷え切った空気の中に、燃料とオイルの匂いが混じる。
最初の頃、私はただ邪魔にならないよう隅に立っていた。
だが、手が空いていると無理やり仕事を押し付けられる。
「坊主、そっち持て」
「レンチ」
「脚立押さえろ」
「こぼすなよ!」
気づけば私は、普通に働かされていた。
ある時、ヴェータが工具箱を片手に歩いてきた。
「隊長が君を拾ったんだが、戻らなくていいのかい」
穏やかな声だった。
「あのお嬢さんは心配してるだろ」
ローザのことだとすぐにわかった。
「別に大丈夫です……」
私はレンチを置きながら答えた。
「もう帰る場所もありませんし」
一瞬だけ、ヴェータの表情が曇る。
だが彼はそれ以上追及しなかった。
代わりに肩を竦める。
「そうか」
その時だった。
背後から大声が飛んできた。
「嬢ちゃん、変な男に連れてかれちまうぞ!」
振り返ると、ハルドが笑いながら近づいてきていた。
「ヴェータさん、またそのガキ口説いてるんです?」
「ハルド、止めろ」
ルドガーが呆れた顔で言う。
「坊主、ちゃんと飯は食っとけ」
私は思わず聞き返した。
「どうして僕なんかに構うんです」
ルドガーは数秒黙ってから言った。
「……ほっとけないと思ったからだ」
その言葉が、妙に胸に残った。
ここに来て大きな収穫といえば、エトワール隊のメンバーの顔と名前が一致したことだった。
ルトガー・ネルソン。
三番機を務めていてヴェータの親友で、常に行動を共にしている男。
無口だが面倒見がいい。
整備員からも妙に慕われていた。
カール・アーク。
四番機を務めている。
若く、どこか少年っぽさが抜けない。
アレクセイに強い憧れを抱いていて、よくその背中を追いかけていた。
ロアルド・シュローデル。
五番機。
ルドガーに誘われてパイロットになったらしい。
真面目で実直。
アレクセイとヴェータを心底尊敬していた。
レオン・ヴァスキン。
六番機。
ロアルドと似たタイプだが、こちらはより極端だった。
アレクセイの命令なら死地にも迷わず飛び込む。
そんな危うさがある。
ハルド・“ハル”・ベック。
七番機。
明るく馬鹿で脳筋。
だが誰より仲間思いで、憎めない男だった。
ヴェータにもアレクセイにも平気で軽口を叩く。
基地の空気を軽くしていたのは、間違いなく彼だった。
イリヤ・セルゲレンコ。
八番機。
ハルドと同期で友人。
ハルドとは対照的に静かな男だったが、ハルドの無茶には毎回付き合わされていた。
最初は全員が恐ろしかった。
敵兵、空の怪物、家族を奪った戦争の象徴。
だが、彼らは笑った。
怒鳴った、飯を奪い合った、くだらないことで喧嘩した、整備員と一緒に油まみれになった、誰かが帰還すれば笑い合い、誰かが戻らなければ静かになった。
あまりにも普通だった。
だからこそ、アレンは混乱した。
敵とは何なのか、味方とは何なのか、正義とは何なのか、しかし答えはどこにもなかった。
ある夕方。
整備区画で工具を片付けていた時だった。
遠くからエンジン音が響く。
滑走路の向こう。
夕焼けに染まる空。
その中を、一機の赤黒い機体が飛んでいた。
鋭く、美しく、空を裂くように。
誰より高く、誰より自由に。
アレンは思わず見入っていた。
「あぁ、隊長機だ」
隣でハルドが呟く。
「今日も飛んでんなぁ」
赤い機体は夕陽を受けながら旋回する。
まるで燃える鳥みたいだった。
そして、その少し後方。
ぴたりと寄り添うように飛ぶ機体があった。
空の奥で、その二機だけが別世界の存在のように見えた。
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ある日の昼下がり
「ほら、飯だぞ」
銀色のトレーに入った軍隊飯。
冷えかけたスープに黒パン、油の浮いた肉の煮込み。味は決して良くなかったが、腹を空かせたアレンにとってはそんなことは関係なかった。
スプーンを掴む手は早かった。
「そんなに急いでも誰も取らないぞ」
ルドガーが呆れたように言う。
「ハルドさんに昨日取られました」
「お前なに三十手前のオッサンがガキの飯取ってるんだよ」
「うるせぇよ」
少し離れた場所からハルドが怒鳴り返した。
トンネル内に笑い声が響く。
薄暗い掩体壕。
頭上では裸電球が揺れ、遠くでは工具の音とエンジン音が混じっている。
燃料と金属の匂い、軍靴の音、怒鳴り声。
そんな場所が、いつの間にかアレンの日常になっていた。
基地に来てから約三週間。
アレンはほとんどルドガーと行動を共にしていた。
機体整備の手伝い、工具運び、食事当番。
気づけば自然と隣にいる。
いつの間にか、ルドガーがアレンの保護者のようになっていた。
鋭い目つきに大柄な体格。
初めて見た時は熊のような男だと思った。
だが実際には、驚くほど面倒見が良かった。
転びそうになれば無言で支え、飯を忘れていれば怒鳴り、夜更かきをしていれば寝かされる。
あの怖い顔からは想像できないほど、子供の扱いが上手かった。
「なぁ、坊主、今度俺たちあの酒場に行くんだがお前も行かないか?」
ルドガーが缶コーヒーを片手に聞いた。
「え?」
「いや、出ていけとかじゃなくてあの嬢ちゃん、心配してるだろ」
ローザの顔が脳裏をよぎる。
最後に別れた日のことを思い出し、アレンは少し視線を落とした。
「おい、ルドガー」
その時だった。
ヴェータがこちらへ歩いてくる。
整備員たちが自然と道を開ける。
相変わらず静かな男だった。
「どうした、ヴェータ」
「アレン君、借りてもいいか」
「なんかあったのか」
「隊長が呼んでる、例の件が片付いたらしい」
その言葉に、ルドガーの表情が少しだけ変わった。
「ようやく片付いたのか」
「そうらしい。」
「アレン君、ついてきてくれ」
アレンはヴェータについて、トンネルのさらに奥へと進んだ。
掩体壕として使われている旧トンネルは、外から見るよりも遥かに広かった。
むき出しの岩肌、天井に沿って這う配線。
等間隔に並ぶ裸電球が白く冷たい光を落としている。
奥へ進むにつれ、機械油と燃料の匂いが強くなっていった。
遠くでは整備兵たちの怒鳴り声や工具の音が反響している。
だがヴェータが向かう方向には、人の気配がほとんど無かった。
足音だけが響く。
軍靴の硬い音、アレンの靴底が擦れる音。
二人はしばらく無言で歩いた。
アレンは横目でヴェータを見る。
いつ見ても不思議な男だった。
アレクセイほど圧倒的な威圧感があるわけではない。
ルドガーのような荒っぽさもない。
ハルドのように騒がしくもなければ、ロアルドやレオンのような熱狂的な雰囲気もない。
静かな男だった。
だが、その静けさの奥には刃のような鋭さがある。
基地へ来た初日。
指揮所でアレンを最初に制圧しかけたのもヴェータだった。
地上にいてもなお、彼は常に警戒している。
隊長を守るために。
そんな印象があった。
アレンは少し迷ってから口を開いた。
「ヴェータさん」
「なんだい?」
振り返らずに返事が返る。
「おじさんはなんで僕を助けてくれるんですか」
ヴェータの歩みがわずかに遅くなった。
数秒の沈黙。
やがて彼は静かに答えた。
「それは私にはわからない」
短い答えだった。
だが、そこで言葉を切らなかった。
「ただ君が似てるんだよ」
「……?」
「隊長の息子さんと」
アレンは思わず足を止めかけた。
「息子さんがいたんですか」
「あぁ」
ヴェータは静かに頷く。
「若くして亡くなったらしいけどね」
淡々とした声だった。
だが、そこには少しだけ重さがあった。
「この戦争が始まる前は、お孫さんと暮らしていたらしい」
アレンは驚いていた。
アレクセイ・イグナトフ。
空の英雄。
連邦最強のエース。
“天界の王”。
そんな男にも家族がいた。
笑い合う日常があり、孫と暮らす時間があった。
戦場で見せる横顔からは想像もできなかった。
「君にもわかるだろ」
ヴェータが少しだけ笑った。
「隊長は子供に甘いんだ」
その言葉に、アレンは思わず小さく笑ってしまった。
確かにそうだった。
初めて会った時からそうだ。
基地に侵入した怪しい子供を撃たなかった。
追い返さなかった。
敵国の人間であるはずの自分の、外套まで貸した。
普通ならありえない。
それどころか、今こうして基地の中で暮らしている。
敵の軍事基地の中で。
本来なら銃殺されていてもおかしくない。
「この隊は、君と同じように隊長に拾われた人間が多い」
ヴェータがぽつりと言った。
「私の祖国は、生まれる前にヴェルテクス連邦の手によって滅んでしまった」
アレンは顔を上げた。
ヴェータは前を向いたまま歩いている。
「私は祖国復活を夢見ていてね」
その声には、昔を思い出すような響きがあった。
「士官学校で燻っていたところを拾われた」
「おじさんに?」
「あぁ」
ヴェータは苦笑した。
「当時の私は酷かったよ。」
「喧嘩ばかりしていた。
「教官殴って営倉送りにもなった」
「えぇ……」
アレンは思わず声を漏らした。
今のヴェータからは想像できない。
「成績は悪くなかったんだ。」
「ただ、周囲が気に食わなかった」
彼の目が少しだけ細くなる。
「祖国を失った人間にとって、“平和”を語る連中の顔は時々眩しすぎる」
静かな言葉だった。
だが、その奥に積み重なったものの重さがあった。
「そんな時に隊長と出会った」
ヴェータは続ける。
「あの人は当時から変わっていたよ」
少しだけ懐かしそうに笑う。
「士官学校の教官連中が問題児扱いしていた私を見て、こう言った」
ヴェータはアレクセイの口調を真似るように少し低い声を出した。
「“その目はまだ死んでいないな”」
アレンは黙って聞いていた。
「普通なら見捨てる。」
「だが隊長は違った」
「なぜそんなに……」
「お人好しなんだよ」
即答だった。
「困っている人を捨てておけない」
トンネル内を冷たい風が吹き抜ける。
遠くでエンジン始動の音が響いた。
低い重低音。
戦闘機が目覚める音だった。
ヴェータは少しだけ足を止める。
「隊長は空を飛ぶ才能に恵まれていた」
「……」
「誰よりも速く、誰よりも強く、誰よりも高く飛べた」
その声に誇りが混じる。
「だが、それ以上に――人を見捨てられない男だった」
アレンは自然と耳を傾けていた。
「だから隊は皆、隊長についていった」
「ルドガーさんたちも?」
「あぁ」
ヴェータは頷いた。
「ルドガーは元々別部隊だった。
前線で壊滅しかけた部隊から隊長が引っ張ってきた」
「カールは田舎の士官学校出身だ。」
「才能はあったがコネが無かった」
「ロアルドはルドガーの後輩だね。」
「半ば無理矢理連れてこられた」
「レオンは元々別のエース部隊にいた」
「自分から移籍願いを出してきたよ」
「ハルドは……」
そこでヴェータが小さく笑った。
「ただの馬鹿だ」
アレンも吹き出しそうになる。
「イリヤはハルドを止める役だな。」
「まぁ止めきれてないが」
二人の間に少しだけ穏やかな空気が流れた。
しばらく歩くと、周囲の空気が変わった。
人の姿が消える。
警備兵の姿だけが増えていく。
奥に進むほど、基地の中枢に近づいているのがわかった。
厚い防爆扉、無線室、暗号通信室。
軍事機密の匂いがする場所だった。
その最奥の重厚な鉄扉の前でヴェータが立ち止まる。
扉の前には二人の兵士が立っていた。
敬礼。
ヴェータは軽く手を上げて返す。
そして扉を軽くノックした。
「隊長、アレン君を連れてきました」
少しの間。
部屋の向こうから低い声が返ってくる。
「入れ」
「アレン君、君の叔父を殺した連中は先刻、処刑された」
アレクセイは机の向こうで静かに言った。
部屋の中には地図と大量の書類が並んでいる。
壁際では無線機が低いノイズを響かせ、裸電球の明かりが薄暗く部屋を照らしていた。
「調べたところ、余罪が大量に出てきてね」
淡々とした声だった。
だが、その言葉の重さはアレンにも伝わった。
「本来なら本国で軍法会議に出すところだった」
アレクセイは一枚の書類を閉じる。
「だが、現場の判断で処理した」
ヴェータは何も言わなかった。
ただ静かに壁際に立っている。
アレンは返事ができなかった。
頭の中が混乱していた。
叔父を殺した連中、憎むべき敵。
そう思っていた。
いや、今でもそう思っている。
なのに――。
目の前にいる男たちは、自分の想像していた“敵”とはあまりにも違っていた。
ただの子供の話を信じた。
調査までした。
そして実際に秘密警察を摘発し、この島から追い出した。
普通ならありえない。
軍人だ。
しかも敵国の。
もっと冷酷で、もっと傲慢で、もっと血に飢えた存在だと思っていた。
だが現実は違った。
ルドガーは飯をくれた。
ハルドはうるさいく笑っていた。
ヴェータは静かに気遣ってくれた。
そしてアレクセイは――。
アレンにはわからなくなっていた。
本当にこの人たちが、自分からすべてを奪った側の人間なのか。
本当に悪なのか。
それとも、戦争そのものが、すべてを狂わせているのか。
アレンは拳を握る。
爪が掌に食い込む。
だが、以前のような激しい怒りだけではなかった。
混乱していた。
怒るべきなのに、憎み切れない。
目の前の男たちが、自分の知る“敵”と結びつかなかった。
アレクセイが静かに口を開く。
「アレン」
低い声。
だが、不思議と威圧感は無かった。
「君に帰るところがないのなら、ここにいつまでもいてくれて構わない」
その言葉に、アレンは顔を上げた。
「……え」
思わず間の抜けた声が漏れる。
アレクセイは椅子に深く腰掛けたまま続けた。
「整備員は常に足りていない」
「いや、そういう話じゃ……」
「飯も寝床もある」
「隊長」
ヴェータが少し呆れたように声を挟む。
「また勝手に決めて...」
「何か問題でも?」
「今さら一人増えた程度で変わらん」
さらりと言う。
アレンは二人を交互に見た。
冗談を言っているようには見えなかった。
本気だ。
本気で、自分をここへ置こうとしている。
敵国の子供を。
アレンの喉がわずかに震えた。
「……どうして」
小さな声だった。
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
アレクセイは少しだけ黙った。
それから窓のない部屋の天井を見上げる。
遠くで戦闘機のエンジン音が響いていた。
「戦争はな」
ぽつりと彼は言った。
「子供から家を奪う」
静かな声だった。
「国も、家族も、名前も、生き方も」
アレンは息を呑む。
「私はそういうものを、嫌というほど見てきた」
アレクセイの目はどこか遠くを見ていた。
まるで、別の誰かを思い出しているようだった。
「だからせめて、目の前で行き場を失った子供くらいは見捨てたくない」
部屋の中が静まり返る。
無線機のノイズだけが小さく響いていた。
アレンは言葉を失っていた。
怒ればいい、拒絶すればいい、敵だと叫べばいい。
なのに――。
胸の奥が、少しだけ温かかった。
それが悔しかった。
自分でも理解できなかった。
アレクセイは立ち上がる。
大柄な影がゆっくりと近づいてくる。
そしてアレンの前で立ち止まった。
「もちろん、無理にとは言わない」
「ここを出ていく自由もある」
その目は真っ直ぐだった。
偽りも、打算も見えない。
だからこそ、アレンは困惑した。
こんな人間がいるのか、と。
こんな軍人が、本当に存在するのか、と。
アレンは俯いたまま、小さく拳を握った。
帰る場所。
そんなもの、もう無い。
町には戻れない。
残っているのは、怒りと空虚だけだった。
なのにこの敵の基地の中だけが、奇妙なほど静かだった。
燃料の匂い、エンジン音、兵士たちの笑い声。
その全部が、少しだけ――。
暖かく感じてしまった。
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それからアレンは、ルドガーたちに連れられてローザのいる酒場へ向かった。
夕暮れの空は灰色に濁り、冷たい風が町を吹き抜けている。
遠くでは工場の煙が空へ伸び、占領下の町特有の重苦しい空気が漂っていた。
アレンの手には、父の形見のギターがあった。
擦り切れた革の古びたケース。
だが、その重みだけは今でも確かだった。
「坊主、またギター弾くのか」
ルドガーが隣を歩きながら聞く。
「えぇ」
アレンは小さく頷いた。
「あそこで僕ができるのはこれぐらいなんで」
それを聞いたハルドが鼻を鳴らす。
「立派じゃねぇか」
「お前は静かに酒飲むだけだろ」
ヴェータが呆れたように言う。
「違ぇよ、俺は空気を盛り上げてるんだ」
「騒音の間違いだ」
「なんだとこの野郎」
そのやり取りを聞きながら、アレンは少しだけ肩の力を抜いていた。
だが、町へ入った瞬間だった。
周囲の視線が変わる。
通行人たちの目。
敵意、警戒、憎悪。
エトワール隊の軍服を見た瞬間、人々の顔が固くなる。
子供は母親に引き寄せられ、老人たちは視線を逸らす。
酒場の並ぶ通りを歩く軍人たちに向けられる目は、明らかに冷たかった。
アレンの胸が少し締めつけられる。
その時、ハルドがぼそりと言った。
「いつまで経ってもこの目線だけは慣れねぇな」
その声には、いつもの軽さが少し無かった。
「あぁ、そうだな……」
ルドガーも静かに返す。
「しょうがない」
ヴェータが前を向いたまま言った。
「私たちは、ここの人たちにとって敵なんだから」
その言葉に誰も反論しなかった。
アレンも、敵。
そのはずだった。
なのに今、自分はその“敵”と一緒に歩いている。
わからなくなる。
何が正しくて、何が間違っているのか。
酒場の前へ辿り着く。
暖かな灯りが窓から漏れていた。
扉を開けた瞬間、酒と煙草の匂いが流れ込んでくる。
ざわついていた店内が、一瞬だけ静まり返った。
エトワール隊の面々を見て、客たちの空気が固くなる。
だが、その空気を切り裂くように、一人の少女が立ち上がった。
「アレン!」
ローザだった。
彼女は椅子を倒しそうな勢いで駆け寄ってくる。
「よかった、ようやく戻ってきた」
その声には本気の安堵が滲んでいた。
アレンは少し目を伏せる。
「……ゴメン」
ローザはアレンの胸を軽く叩いた。
「バカ」
涙を堪えているような声だった。
その一言が胸に刺さる。
アレンは何も言えなかった。
ローザが少しだけ俯いてから、小さく聞いた。
「叔父さんは」
アレンの表情が止まる。
ローザは静かに首を振った。
「ごめんなさい、先に埋葬したわ」
酒場の喧騒が遠く感じた。
「あなたの家族の近くに埋葬したから、後でいいから行ってあげて」
アレンはゆっくり頷く。
「……わかった」
ローザは少しだけ微笑んだ。
無理に作った笑顔だった。
「遺品だけ、あとで下に取りに来て」
「うん」
「私はパパを呼んでくる」
そう言って彼女は奥へ駆けていった。
その背中を見送りながら、アレンは静かにギターケースを握り直す。
その時だった。
「坊主、弾くなら早くしろ」
ハルドの大声が店内に響く。
周囲の客が少し顔をしかめた。
「うるさい」
ルドガーが即座に頭を叩く。
「いってぇ!」
少しだけ店内の空気が緩む。
その横で、アレクセイが静かにアレンを見た。
「私もハーモニカでよければ、また吹くが」
低い穏やかな声。
「アレン、君とまた合奏してもいいかな?」
アレンは少し驚いたように顔を上げた。
アレンは少しだけ笑う。
「……はい」
その返事を聞いたアレクセイも、わずかに口元を緩めた。
アレクセイが吹いたのは、また帝国の曲だった。
静かな旋律だった。
どこか古く、どこか懐かしい。
幼いころ、父がよく口笛で吹いていた旋律に似ていた。
アレンはギターを爪弾きながら、ぼんやりと昔を思い出していた。
戦争が始まる前。
まだ家族がいて、叔父が酒場で笑っていて、妹が走り回っていたころ。
雪の日。
夕焼け
暖炉の火。
失われた日々が、旋律の奥から静かに浮かび上がってくる。
酒場の喧騒も、その時だけは少し遠かった。
客たちも静かだった。
敵兵も町の人間も関係なく、ただ音だけが店の中を流れていく。
演奏が終わる頃には、誰も言葉を発さなかった。
やがて、小さな拍手が起こる。
ハルドが一番大きく叩いていた。
「いいじゃねぇか坊主!」
「うるさい」
ルドガーがまた頭を叩く。
「だからなんで毎回殴るんですか!」
そのやり取りに、酒場の空気が少しだけ和らいだ。
帰り際。
ローザが小走りでやって来た。
その手には、以前アレクセイから借りた外套が抱えられている。
「あの、これありがとうございました」
彼女は丁寧に頭を下げた。
アレクセイは静かに受け取る。
「役に立ったならいい」
それだけ言う。
ローザは少しだけ不思議そうな顔をしていた。
きっと、こんな風に穏やかに話す軍人を知らないのだろう。
アレクセイは外套を肩に掛け直す。
微かに煙草と冷気の匂いがした。
店を出ると夜風が頬を刺した。
町の灯りは少なく、遠くで見張り塔のサーチライトが空を撫でている。
アレンは少し迷ったあと、足を止めた。
「すみません、ちょっと僕、行かないといけないところがあるので先に帰っててください」
すると、すでにかなり酔っていたハルドが真っ赤な顔のまま振り返る。
「早く帰ってこいよぉ……」
呂律が怪しかった。
「できるだけ早く戻ります」
「おう……坊主ぉ……」
そのままルドガーに引きずられていく。
「歩け馬鹿」
「うぇぇぇ……」
ヴェータが頭を押さえていた。
アレクセイだけが振り返り、小さく頷く。
それを確認してから、アレンは酒場の裏口へ回った。
冷たい鉄扉を開け、地下へ続く階段を降りていく。
薄暗く湿った土と木材の匂いがする。
かすかなランプの灯り。
地下室にはローザの父がいた。
机の上には地図や紙束が散らばり、無線機が小さくノイズを鳴らしている。
彼はアレンの顔を見るなり立ち上がった。
「よかった、無事か」
深く息を吐く。
「なんて無茶なことをするんだ」
アレンは少し黙ってから答えた。
「秘密警察はこの島からいなくなりました」
ローザの父の目がわずかに細くなる。
「……そうか」
その声には安堵と警戒が混じっていた。
「詳しいことは……」
彼はそこで言葉を切る。
「言ってはくれなそうだね」
アレンは小さく視線を逸らした。
言えなかった。
敵軍のエース部隊に頼んだなど、誰が信じるだろう。
いや、それ以上に――。
自分でもまだ整理できていなかった。
ローザの父。
彼は町では裏切り者と呼ばれていた。
敵兵に酒を売る男。
占領軍に笑顔を向ける男。
酔った兵士たちの相手をし、時には軍人を地下へ匿うことすらあった。
町の人間は陰で彼を軽蔑した。
だが真実は違った。
彼も、ローザも、その母も。
皆、抵抗運動の一員だった。
夜ごと地下へ人が集まる。
地図を広げ、暗号を回し、捕虜の逃亡経路を確認する。
敵軍に酒を出しながら、その裏で情報を抜き取る。
笑顔は演技。
酒場は偽装。
すべては生き残るためだった。
彼らは「協力者」を装っていたのではない。
あれは盾だった。
命を守るための仮面。
町の誰も知らない。
誰も信じない。
そして彼らは、死ぬまで本当のことを語らない。
アレンは思う。
英雄とは、歓声を浴びる者だけではないのだと。
時に唾を吐かれながら立ち続ける者。
誰にも理解されず、それでも誰かを守るために嘘を抱え込む者。
それに比べて、自分はどうだろう。
憎むべき敵の基地で眠り。
敵の飯を食い。
敵の笑い声に安心している。
彼らは誰もアレンを詮索しなかった。
何を抱えているかも聞かない。
ただ、空を飛ぶために生きていた。
戦場では異常なほど純粋な存在。
誰より危険な空へ向かいながら、仲間を守ることだけを考えている。
そんな人間たちの中にいるうち、アレンはわからなくなっていた。
正義とは、悪とは何か。
味方とは、敵とは誰か。
憎しみとは、どこへ向けるものなのか。
静かな地下室で、アレンはゆっくり口を開いた。
「叔父さんの遺品を取りにきました」
「あぁ、そうだった」
「これだ」
ローザの父が、静かに机の引き出しから布包みを取り出した。
薄暗い地下室の灯りの下で、それはやけに重く見えた。
アレンは黙って受け取る。
包みの中には、叔父が着ていた上着。
使い込まれた銀色のライター。
そして、止まったままの腕時計が入っていた。
血は拭き取られていた。
だが、袖口の擦り切れや煙草の匂いが、まだ叔父の存在を残していた。
アレンの指が、腕時計に触れる。
針は、叔父が倒れた時間で止まっていた。
まるで、あの日だけが世界から切り離されたように。
「すみません、ありがとうございました」
小さく頭を下げ、アレンは地下室をあとにしようとした。
その背中へ、ローザの父が声をかける。
「アレン君、君がよければこの酒場に住まないかい。
あんな基地にいるよりいいだろ」
アレンの足が止まる。
地下室の空気は暖かかった。
上では酒場のざわめきが微かに響いている。
料理の匂い。
誰かの笑い声。
人のいる場所の音だった。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ、帰りたいと思ってしまった。
昔みたいに。
叔父が酔っ払って帰ってきて。
ローザが呆れた顔で笑って。
自分がギターを抱えて。
そんな、もう戻らない夜へ。
だが――。
「……お断りします」
その声は、自分でも驚くほど冷たかった。
ローザの父が息を呑む。
「なんで……」
アレンは答えなかった。
答えれば、戻りたくなってしまう気がした。
ここに残れば、きっとまた普通の生活を夢見てしまう。
だが、自分にはもう無かった。
家族を失ったあの日から。
雪の中で叔父の血を見た瞬間から。
もう、自分は元には戻れない。
「ローザによろしく伝えといてください。」
それだけ言い残し、アレンは階段を駆け上がった。
地下の暖気を振り切るように。
外へ出ると、夜風が頬を打った。
遠くで波の音が聞こえる。
基地の滑走路では、赤い機体が静かにライトを灯していた。
エンジン音が低く響く。
空へ向かう者たちの音だった。
アレンは胸元に抱えた叔父の上着を強く握る。
そのまま、町外れの墓地へ向かった。
夜の墓地は静まり返っていた。
雪が薄く積もり、墓石の輪郭を白く染めている。
アレンは迷うことなく、一つの墓の前で足を止めた。
そこには、両親と妹、そして新しく埋葬された叔父の名が並んでいた。
冷たい風が吹く。
アレンはゆっくり膝をついた。
何を言えばいいのかわからなかった。
謝ればいいのか、泣けばいいのか、復讐を誓えばいいのか。
全部もう遅い気がした。
ただ、止まった腕時計だけが静かに掌にあった
「……ごめん」
掠れた声が漏れる。
それが誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
守れなかった家族へか、戻れなくなった自分へか。
それとも――。
空を見上げる。
雲の切れ間から、わずかに星が見えた。
戦争はまだ終わっていない。
誰も救われていない。
それでも空だけは、何事もなかったように広がっていた。
アレンは立ち上がる。
その瞳には、もう迷いは残っていなかった。
帰ってきた基地の整備場の片隅で、燃料灯の橙色の火が静かに揺れていた。
夜の掩体壕には、工具の触れ合う金属音と、遠くで回る発電機の低い唸りだけが響いている。
アレクセイは滑走路の先に広がる夜空を見上げていた。
煙草の火が暗闇の中で赤く灯る。
その横顔は、帝国軍ですら恐れた“天空の王”とは思えないほど静かだった。
誰にも届かない声で、何かを呟いている。
その内容までは聞こえない。
ただ、そこに立つ姿だけが妙に寂しく見えた。
少し離れた場所では、ヴェータが黙々と機体の翼を磨いている。
赤い塗装に布が滑るたび、灯火が鈍く反射した。
整備兵たちは皆眠っていた。
起きているのは、空を飛ぶ者たちだけだった。
アレンはその光景を、整備場の隅から黙って見つめていた。
胸の奥底で、声がする。
――お前は敵の中で、生きる道を選んだ裏切り者だ。
その囁きは消えない。
家族を失った日の雪景色。
血に染まった叔父の姿。
燃える怒り。
それらは今も胸の中に残っている。
なのに、自分はここで飯を食い、眠り、笑い声を聞いている。
敵だったはずの人間たちの中で。
アレンの視線が、滑走路の向こうへ向く。
そこには、静かに駐機された赤い機体があった。
灯火を浴びた機首は、まるで獣の眼のように鈍く光っている。
自分の家族を奪った戦争。
その象徴のような翼だった。
胸の奥で、また声がする。
裏切り者。
忘れるな、と。
アレンはゆっくり目を閉じた。
その声を振り払うことはできなかった。
消そうとすればするほど、深く胸に沈んでいく。
やがて、整備場の明かりが一つ、また一つと落ちていく。
夜風がトンネルの中を抜けた。
アレンは無言のまま簡易ベッドへ潜り込む。
薄い毛布を頭まで被る。
だが、眠気は来なかった。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、雪の赤。
叔父の最後の声。
そして、夜空を飛ぶ赤い翼だった。
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ある日の昼下がり、アレンはローザと共に海岸へ来ていた。
冬の海は鉛色だった。
波は重く、空には低い雲が垂れ込めている。
海風が頬を刺し、岸壁に打ち寄せる波が白い飛沫を上げていた。
港には沈んだ船の残骸がいくつも浮かび、戦争がこの島から何一つ奪いきっていないことを物語っている。
ローザは古びた防寒コートの襟を握りながら、沖を見つめていた。
その横顔には、どこか落ち着かない期待が浮かんでいる。
「もうすぐよ、もうすぐ始まるから」
ローザはアレンの耳元で小さく囁いた。
吐く息が白く揺れる。
その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
彼女はレジスタンスの一員だった。
この島を支配するヴェルテクス連邦軍を追い出すため、地下で情報を運び、人を匿い、命を懸けてきた。
だからこそ、帝国軍の反攻作戦を誰より待っている――。
少なくとも、アレンにはそう見えていた。
アレンはポケットの中へ手を入れる。
冷えた指先が、一枚の写真へ触れた。
擦り切れた家族写真。
父と母。
叔父。
妹。
そして、まだ幼かった自分。
皆、笑っていた。
戦争が来る前の顔だった。
アレンはその写真の端を指でなぞりながら、小さく尋ねた。
「助けが来たら、あの人たちはどうなるの?」
ローザの表情が、一瞬だけ曇る。
海を見ていた目が揺れた。
だが、すぐに言葉を作るように前を向いた。
「もちろん、追い出してやるわ。私たちの町から」
その声は強かった。
だがアレンにはわかった。
ローザ自身、その言葉を完全には信じきれていない。
彼女は敵を憎んでいる。
家族も、故郷も、自由も奪われた。
それは事実だ。
だが同時に、ローザは知ってしまった。
この島にいる全ての連邦兵が怪物ではないことを。
ヴェータを見るときの彼女の目が、それを物語っていた。
ローザは、いつの間にかヴェータへ心を寄せていた。
戦う者への敬意。
守られたいという想い。
そして、この終わりの見えない戦争の中で見つけてしまった、ささやかな安らぎ。
それらが混ざり合った複雑な感情。
ヴェータは敵にも分け隔てなく接した。
子供には笑い、老人には荷物を持ち、整備兵と同じ床に座って飯を食う。
そんな姿を見続ければ、憎み続けることの方が難しくなる。
アレン自身も、同じだった。
本当なら憎まなければならない。
家族を奪った連中のはずだった。
なのに、ルドガーたちは飯をくれた。
ハルドは騒がしく笑った。
アレクセイは何も聞かなかった。
敵の中で、人間らしい温度を感じてしまった。
それが何より苦しかった。
海風が強く吹く。
ローザの髪が揺れた。
遠くの水平線を見つめながら、彼女がぽつりと言う。
「……全部終わったら、どうなるんだろうね」
アレンは答えられなかった。
戦争が終わった先の世界を、想像できなかったからだ。
そのときだった。
港の方から、複数の男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
漁師たちが何かを話している。
不安げな声。
ざわめき。
ローザが振り返る。
「また噂……?」
最近、街ではある噂が流れていた。




