出港
船は西へ向かい、暗い海を切り裂くように進んでいた。
夜の海は静かだった。
だが、その静けさはどこか不気味でもある。
甲板の上では冷たい風が吹きつけ、遠く後方に帝国本土の灯りが小さく滲んでいた。
「アレン、装備の確認だけしておけ」
「はい……」
アレンはケースを開きながら苦笑する。
「馴れないですね、こんなこと」
「一般人が馴れてたら怖いわ」
「……あの戦争のときは当たり前だったんですけどねぇ」
「……」
一瞬だけ男が黙る。
アレンはそれ以上何も言わず、手帳を取り出した。
ページをめくる音が夜風に混じる。
「何してるんだ」
「ここ数日の分をまとめようと思いまして」
「律儀だなぁ」
「忘れたくないんです。」
「ここまで来た理由も」
男は何も返さなかった。
代わりに煙草を咥えようとして、船内禁煙の張り紙を見て舌打ちした。
「なぁ、俺、金そんな持ってきてないんだが」
「え?」
アレンが顔を上げる。
「あなたが私の旅費を持つって言ってたんで、私、あの酒場の時の額しかないですよ」
「いくらある」
「十数万程度しか」
「元々、帝都の安宿で六泊七日で帰る予定だったので」
「俺はそんなにないぞ。」
「大体、カードで支払ってたから」
男が遠い目をした。
「なぁ、カードって使っていいと思うか」
「バカなんですか」
「だよなぁ~」
「今から金借りるしかないよなぁ」
「どこでですか」
「行った先の金融機関」
「無理ですよ」
「銀行口座から引き出すか」
「足がつきますよ」
「だよなぁ……」
二人そろって頭を抱える。
そこへ、後方から海軍士官がやって来た。
「あの、失礼します。」
「出港前に上官たちがこれを」
差し出された金属ケース。
開けた瞬間、アレンが固まった。
「……」
中には複数国の紙幣、金貨、国際通貨、認証チップ。
それらがぎっしり詰め込まれていた。
「すごい大金ですよ」
「はした金だと、聞いてます」
「……」
アレンの顔が引きつる。
男はケースを閉じた。
「ずいぶんとジジイども、太っ腹じゃないか。」
「ありがたく使わせてもらおう」
「あと、お車の方は燃料を満タンにし、追加の燃料を荷台に積んであります」
「完璧だな」
「なお、積載重量がだいぶ危険域です」
「知らん」
「あと武器弾薬も追加で積載されています」
「誰の判断だ」
「陸軍です」
「アイツら楽しんでるだろ絶対」
男は頭を押さえた。
アレンはぼそりと呟く。
「なんかもう、小規模軍隊みたいになってきましたね……」
「今さら気づいたのか」
海軍士官が小さく咳払いする。
「それと……これは上層部からです」
小さな封筒が差し出された。
男が中を見る。
そこには短い文だけが書かれていた。
『生きて帰ってこい』
男は数秒だけ黙り込み、封筒を胸ポケットへしまった。
「……寝るぞ」
「え、急ですね」
「考えること増えすぎて頭痛くなってきた」
そう言って男は船内へ歩いていく。
アレンはしばらく海を見ていた。
暗い水平線、西へ向かう航路。
その先にいるかもしれない、一人の男。
黒翼。
船は静かに夜の海を進み続けていた。
艦のエンジン音だけが一定の振動となって足元から伝わってくる。夜風は冷たく、甲板に立っていると体温がゆっくり奪われていくのがわかった。
それでも二人はしばらく船内へ戻らなかった。
帝国本土の灯は、もう遠い。
振り返れば見えるはずの故郷は、夜の海に溶けて消えていた。
アレンは欄干に寄りかかりながら、小さく息を吐く。
「よかったですね、お金貸してもらえて」
「あぁ」
男はケースの中身を思い出すように鼻を鳴らした。
「これで路上で寝ることはないな」
「そこですか、問題は」
「大事だろ。」
「人間、寝床がないと頭がおかしくなる」
「実感こもってますね……」
「何度も野宿したからな」
「色々と英雄のイメージが崩れるんですが」
「勝手に幻想抱くな」
男は缶コーヒーを開けた。
潮風に混じって、微かに苦い香りが流れる。
「それに宿なら情報があるかもしれないだろ」
「あぁ、そうですね」
港町、酒場、宿屋。
人が集まる場所には噂が集まる。
黒翼を追うなら、そういう場所を地道に潰していくしかない。
男は海を見たまま、不意に口を開いた。
「お前は後悔してないのか」
アレンは少しだけ目を伏せた。
「後悔なんてしませんよ」
静かな声だった。
「それに後悔は、もう嫌というほどしました」
夜風が髪を揺らす。
「もっと両親と話しておけばよかった。」
「妹と遊べばよかった。」
「叔父さんと話せばよかった」
声は穏やかだった。
だが、その奥には積み重なった痛みが滲んでいる。
「後悔してもしきれないほどです」
男は何も言わなかった。
ただ静かに聞いていた。
アレンは視線を海へ向ける。
暗い海面は、まるで底なしの闇のようだった。
「戦争が始まる前、私は普通だったんです」
ぽつりと零す。
「本当に、どこにでもいるような子供でした」
麦畑があった、市場があった、酒場があった、夕焼けがあった、笑い声があった。
「妹はうるさかったですよ。」
「毎日毎日騒いで」
「叔父さんは酔っ払って帰ってきて。」
アレンは少しだけ笑った。
「今思えば、あれが幸せだったんでしょうね」
男が低く呟く。
「失ってからしか気づけねぇんだよな」
「えぇ」
海風が強く吹いた。
艦が波を切る音が響く。
「私はずっと考えてたんです」
「何をだ」
「もし、もっと早く気づいてたらって」
アレンは拳を握った。
「戦争が来るってわかってたら。」
「誰かが死ぬってわかってたら。」
「もっと色んなことをしておけばよかった」
後悔は消えない。
どれだけ時間が経っても、どれだけ前へ進んでも、死者は戻らない。
「叔父さんが死んだ時、思ったんです」
アレンの声が少し掠れる。
「また間に合わなかったって」
あの日、雪の中、赤く染まった路地、冷たくなっていく身体。
『逃げろ』
その言葉だけが、今でも耳に残っている。
「助けられなかった」
ぽつりと呟いた。
「両親も、妹も、叔父さんも」
男は缶コーヒーを握ったまま、ゆっくり息を吐く。
「……カイと同じ顔してんな」
「え?」
「自分を責める時の顔だ」
アレンは少しだけ驚いたように男を見た。
「アイツもそうだった」
男の視線は遠い。
まるで過去を見ているみたいだった。
「守れなかったヤツを、ずっと引きずってた」
「……」
「戦争が終わっても。」
「何年経っても。」
「ずっとな」
海の向こうの西方。
今その男は、どこにいるのか、生きているのか、何を思っているのか、誰にもわからない。
「なぁ、アレン」
男が静かに口を開いた。
「こんな時だが、こないだの続きを話してくれないか」
「……」
「お前の叔父さんが死んだあと、お前はどうしてたんだ」
アレンは少し黙り込んだ。
夜風が吹く。
遠くで波が砕ける。
「あの後……」




