大きな濁流
「ここなら誰にも聞かれまい」
重厚な会議室の扉が閉まる。
それは分厚い防音扉だった。
窓には遮光板が下ろされ、室内には低い照明だけが残る。
完全な密室。
そこは帝国空軍上層部専用の特別会議室だった。
男は椅子にも座らず、机へ両手をついた。
「で?」
「俺に何を隠してやがる」
老人たちはすぐには答えなかった。
互いに顔を見合わせる。
その沈黙だけで、事態の重さが伝わってきた。
やがて一人がアレンへ視線を向ける。
「一つ確認したい」
老将の目が鋭く細められる。
「そこの若者は信用できるんだな」
男は即答した。
「あぁ」
その返答には一切迷いがない。
「あんたたちよりずっとな」
「貴様ぁ……」
一人が顔をしかめる。
だが誰も反論しなかった。
老人たちは小さく息を吐く。
「……ならいい」
「これが漏れれば、ワシらの命が危ういからな」
アレンの背筋に冷たいものが走る。
「どういうことだ」
男の声が低くなる。
老人はしばらく迷ったあと、ようやく口を開いた。
「ヤツを探しているのが、我々だけではないということだ」
「そんなんもうとっくの昔にわかってんだよ」
男は苛立ったように言う。
「ソイツらはどこのヤツなんだ」
老人の顔が険しくなる。
「世界各国の諜報員たちだ」
静かな声。
「傭兵団」
「軍需企業」
「非合法研究機関」
「……色々な組織がここ数ヶ月で活発に動き始めた」
会議室の空気がさらに重くなる。
「彼らはアイツの飛行データを欲している」
「飛行データ……?」
アレンが呟く。
「あぁ」
老人は頷いた。
「もしアレを完全再現できれば、人間を超越した無人機を作ることが可能になる」
アレンは言葉を失った。
「それに」
老人の目が細くなる。
「お前へ情報を流すのを止めたのは、情報局だ」
男の顔から表情が消えた。
「……やっぱりか」
「帝国国内にも既に諜報員が紛れ込み始めている」
「そんなことわかってるよ」
男は吐き捨てるように言う。
「俺は命張る覚悟なら、とっくにできてるんだ」
その声には迷いがなかった。
「それで」
男の視線が老人たちへ突き刺さる。
「カイはどこにいる」
短い沈黙。
老人の一人がゆっくり口を開いた。
「最後に目撃されたのは、西方方面だ」
「……西方?」
「グリム王国内の辺境の町で、彼らしき人物が確認されている」
アレンは反応した。
グリム王国。
あの戦争でヴェルテクス連邦側として参戦した国の一つ。
山岳地帯と古い石造りの町で有名な国だった。
アレン自身も、聞き取り調査で何度か訪れたことがある。
戦争の傷跡がまだ色濃く残る場所。
「どうしてそんなところに……」
男が小さく呟く。
老人は首を振った。
「正確な場所は不明だ」
「確認できたのは目撃証言のみ」
「だが」
老人は言葉を続ける。
「少なくとも、アイツは国内にはいない」
男は腕を組んだ。
「国外か……」
「だが妙なんだ」
「何がだ」
「ヤツが国外へ出た記録が無い」
部屋が静まり返る。
男の目が細くなる。
「……密入国か?」
「可能性はある」
「あるいは」
老人の声が低くなる。
「最初から、公式記録そのものが消されているかだ」
アレンは無意識に息を呑んだ。
黒翼という一人の男を巡って、巨大な何かが動いている。
男はゆっくり煙草へ火を点けた。
赤い火が暗い会議室を一瞬照らす。
「……面倒なことになってきやがったな」
「お前たちがアイツを追うなら好きにすればいい。」
「ただ、お前の飛行データも狙われている」
老人の低い声が会議室に沈んだ。
空軍省の奥深く。
防音壁に囲まれた部屋の空気は重く、誰一人として軽口を叩かなかった。
「……あぁ、そういうことか」
男は苦々しそうに舌打ちした。
「正確には、お前とヤツの二人のデータが欲しいということだろう」
「クソったれが……」
男は椅子へ深く腰を預け、額を押さえた。
カイ・ラグナー。
そして、その隣を飛び続けた白翼。
世界中が欲しがるには十分すぎる存在だった。
人間離れした機動、極限状況での判断能力、常識外れの生還率。
それらを解析できれば、“人を超えた空”を作れる。
無人機、自律兵器、戦場そのものを書き換える怪物。
老人は静かに続ける。
「各国とも必死だ。」
「戦争は終わったが次の戦争の準備は、もう始まっている」
誰も否定しなかった。
窓の外では夕日が沈みかけていた。
赤い光が机を染める。
まるで血の色だった。
「アレン、どうする」
男が横目で見る。
「お前は国外に出る用意なんてしてないだろ」
「パスポートは持っていますよ」
「……本当にお前も行くのか」
確認するような声だった。
脅しではない。
引き返すなら、今しかないという最後の確認。
アレンは静かに頷いた。
「えぇ」
短い返事だった。
だが、その声に迷いは無かった。
「あの日から、私はもう止まれないんです」
「ただ、行く前に妻に連絡だけさせてください」
「……そうか」
男は小さく息を吐いた。
「なら私たちから、お前たちに渡す物がある」
老人の一人が立ち上がる。
古い机の引き出しを開き、中から数枚の写真を取り出した。
机の上へ並べられる。
男は思わず息を呑んだ。
「……カイ……」
そこに写っていたのは黒いコート姿の男だった。
雪の降る街角の粗末な酒場、国境地帯らしき荒野。
どれも遠目から撮られていたが、間違いない。
黒翼だった。
以前より少し痩せて見える。
だが、その背中には変わらぬものがあった。
空を知る者だけが持つ孤独。
「グリム王国西部の辺境地域で撮られたものだ」
「いつだ」
「三か月前」
「随分最近じゃねぇか……」
男の目が鋭くなる。
「情報局が隠すわけだ」
老人は封筒を取り出した。
厚みのある、古びた茶封筒だった。
「中には偽装身分証、通行許可証、国外用コード。
必要最低限の支援だ。
それ以上は我々も動けん」
男は封筒を受け取った。
その瞬間だけ、部屋に沈黙が落ちる。
老人たちの目には、どこか諦めにも似た色があった。
彼らも理解している。
これはもう、ただの人探しではない。国家規模の思惑が絡み始めている。
老人がぽつりと呟いた。
「アイツは昔から、誰かのために飛び続けた」
静かな声だった。
「帝国のため。
仲間のため。
守れなかった者たちのため」
窓の外で夕焼けが燃えている。
まるで終わらない戦火のように。
「そして最後には、自分自身を壊しながら飛んでいた」
男はしばらく黙っていた。
写真を見つめる。
黒い背中を。
203期生最後の生き残りを。
誰より空を愛し、誰より空に呪われた親友を。
やがて男は立ち上がった。
ゆっくりとコートを羽織る。
その顔には、かつて空を駆けていた頃と同じ鋭さが戻っていた。
「今度は俺の番だ」
低い声だった。
だが、その言葉には確かな覚悟があった。
老人たちは何も言わない。
ただ静かに頷いた。
アレンはその横顔を見ていた。
この男もまた、空に人生を奪われた一人なのだと。
失った仲間、守れなかった者たち、置き去りにした後悔、それでもなお飛び続けようとする者。
部屋を出る直前、老人の一人が背中越しに言った。
「死ぬなよ」
男は振り返らなかった。
「あぁ」
短く返しただけだった。
だがその声は、不思議なほど穏やかだった。
夕焼けに染まる空軍省の廊下を、二人は歩き出す。
目的地はグリム王国。
黒翼が最後に目撃された場所。
長い旅になる。
平和には終わらない。
それでも。
黒翼を追うその足だけは、止まらなかった。




