海軍省にて
「……」
車内は無言に包まれていた。
高速道路を走る軍用車の窓の外では、灰色の海が遠くに見えている。
曇った冬空の下、巨大な港湾クレーンが並び、軍艦のシルエットが霞んでいた。
アレンはぼんやりと窓の外を見つめていた。
意識はまだ、あの雪の夜に残っている。
血に染まった叔父。
八芒星の基地。
煙草の匂いを纏ったアレクセイの外套。
そして――あの孤独そうな横顔。
「そのあと……」
アレンが小さく呟きかけた時だった。
「アレン、一旦ストップだ。着くぞ」
「えっ、もうですか」
「なんだ、見てなかったのか?」
「ええ……」
男は苦笑した。
「考え込みすぎだ」
車は巨大なゲートの前で停止した。
海軍省。
重厚な鉄門の向こうには、広大な敷地と巨大な庁舎が広がっている。
港には何隻もの軍艦が停泊し、灰色の艦体が冬の空の下で静かに並んでいた。
潮風が吹く。
遠くで汽笛が鳴った。
二人が車を降りると、一人の兵士が駆け寄ってきた。
「お待ちしていました」
「おう、すまねぇな」
「中将閣下は今、会議室でお二人を待ってます」
「わかった」
兵士に案内され、庁舎の内部へ入る。
長い廊下の磨き上げられた床。
壁には歴代艦隊司令長官たちの肖像画が並んでいた。
その中には、戦時中の写真もある。
炎上する海、砲煙、沈みゆく艦、勝利を掲げる若き士官たち。
男はそのどれも見ようとしなかった。
ただ前だけを見て歩いていく。
やがて、兵士が一枚の扉の前で立ち止まった。
「こちらです」
扉が開くと会議室には、一人の男がいた。
年齢は五十代後半ほどで海軍の制服を着ている。
胸には数え切れないほどの勲章が並び、その姿だけで長い軍歴を感じさせた。
男は席を立ち、こちらを見る。
「お久しぶりです、白翼の英雄殿」
「その呼び方はやめろ」
男は面倒そうに眉をひそめた。
「しかし、一端の水兵がここまで成り上がるとは驚いた」
海軍の男は静かに笑った。
「ええ、そうですね」
その目には、どこか懐かしさがあった。
「私も、あなたにまた会えるとは思ってもいませんでした」
少し間を置いて続ける。
「あなたたちは戦後、表舞台から消えた。まるで存在していなかったように」
「そっちの方が都合が良かったんだよ」
男は椅子を引きながら答えた。
「そちらの方が?」
「あぁ。コイツが俺の客だ」
海軍の男の視線がアレンへ向く。
値踏みするような視線ではない。
ただ、静かに観察するような目だった。
「君は物好きだね」
穏やかな口調だった。
「あんな戦争なんて調べようと思う人間は、今も昔もほとんどいない」
アレンは少しだけ視線を伏せた。
「……そうかもしれません」
「コイツは黒翼を追ってる」
その瞬間、海軍の男の表情が止まった。
「……黒翼を」
空気が変わる。
窓の外から聞こえていた港の音が、急に遠くなった気がした。
男はゆっくり椅子へ腰掛けそして、深く息を吐いた。
「私は、あなたたちにとって黒翼はどんな存在だったのかが知りたいんです」
会議室に沈黙が落ちる。
海軍の男はしばらく何も言わなかった。
まるで、遠い昔の海を見ているような目だった。
「当時……」
低い声が、静かに響いた。
「開戦初期の私は、一端の叩き上げの新米水兵として帝国海軍東部方面軍第三艦隊の駆逐艦に乗っていました」
彼は静かに語り始めた。
窓の外では灰色の海が揺れている。
遠くの埠頭では、整備中の艦載機がゆっくりと移動していた。
「駆逐艦とは忙しい艦でしてね。対潜、対空、対艦、救助……とにかくなんでもやる艦です」
少し苦笑する。
「私のような新米は特に忙しかった」
その声には、遠い青春を思い返すような響きがあった。
「弾薬運び、見張り、甲板掃除、負傷者の搬送、夜間警戒……眠れる時間なんてほとんどありませんでした」
男は机の上で手を組んだ。
「当時の帝国海軍は、開戦直後こそ勢いがありました。
しかし戦線はあまりにも広かった。補給線は延び切り、各地で消耗戦が始まっていた」
「私たちの任務は、補給物資を届ける輸送船団の護衛でした」
男の視線が少し落ちる。
「本土を出発してから、何度も連邦軍の奇襲を受けました」
低い声だった。
「夜の海というのは恐ろしいものです。どこから敵が来るかわからない。
暗闇の向こうから突然魚雷が飛んでくる」
アレンは黙って聞いていた。
「爆発音が響く。炎上する輸送船。海へ投げ出される人間。燃える油。助けを求める声」
海軍の男は淡々と語る。
だが、その静けさの奥に、消えない記憶が滲んでいた。
「流れ弾で何人も死にました。昨日まで隣で飯を食っていた戦友が、一瞬で肉片になる」
会議室の空気が重くなる。
「皆、疲弊していました」
「眠れない。食えない。いつ死ぬかわからない」
「それでも艦は進み続けなければならない。」
男は小さく息を吐いた。
「ある夜でした」
「夜番を終えて、私は甲板の隅に座り込んでいた」
海風の音を思い出すように目を細める。
「その時、ベテランの水兵の先輩から、一つの話を聞いたんです
それはあなたもすでに陸軍省で聞いたはずです」
男の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
『新米、覚えとけ』
しゃがれた声だった。
『空に黒い翼が来たら、生き残れると思え』
『助かりたいなら、空に黒い翼が来ることを願え』
アレンが静かに顔を上げる。
海軍の男は続けた。
「その頃にはもう、前線の兵士たちの間で噂になっていました」
「黒い戦闘機が現れた戦場は、最後には帝国軍が勝つと」
「敵艦隊を焼き払い、敵航空隊を叩き落とし、包囲された部隊を空から救い出す」
「まるで戦場そのものを塗り替えるように現れる、と」
彼はゆっくりと窓の外を見る。
「最初は誇張だと思っていました」
「戦争ではよくある話です。英雄譚というのは、兵士たちが恐怖を誤魔化すために作るものですから」
その時だった。
男の目が少しだけ鋭くなった。
「ですが――」
短く沈黙する。
「あの日、私はそれをこの身を持って実際に見ることになるなど思ってもいませんでした。」
「昼頃でした」
「私たちの艦隊は、連邦海軍の艦隊に包囲されたんです」
会議室の空気が少し張り詰める。
「海は荒れていました。空も暗かったし嫌な天気でしたよ」
男は遠い海原を見るように目を細めた。
「最初に飛んできたのは対艦ミサイルでした」
「警報が鳴り響き、艦内中に怒号が飛び交う」
『右舷! ミサイル接近!』
『対空戦闘用意!』
『撃ち落とせ!!』
男の声が少し低くなる。
「そこら中から対空砲火が放たれていました。砲炎と黒煙で海が見えなくなるほどに」
「ですが、数が違いすぎた」
「補給船は次々と沈められていきました」
机の上で、男の指がゆっくり握られる。
「炎上する船。海へ飛び込む兵士。沈没する艦の悲鳴のような軋み」
「私たち護衛艦隊も必死でしたが、押し切られるのは時間の問題だった」
アレンは黙って聞いていた。
「艦橋では司令官が援軍を求めていました」
「ですが、どこも崩壊寸前だった。まともな増援など期待できない」
海軍の男は少し笑った。
「そんな絶望的な状況の中、司令部から無線が入ったんです」
その瞬間、男の目にかすかな熱が戻る。
『近くにいた黒いのを向かわせた』
短い無線だった。
だが。
「その一言で、艦の空気が変わりました」
男ははっきりと言った。
「皆、“黒いの”が誰なのか理解していた」
「誰かが笑ったんです」
『助かったぞ』
それは、希望だった。
「次の瞬間でした」
男の声がわずかに強くなる。
「前方にいた敵艦が吹き飛んだ」
アレンの瞳がわずかに動く。
「爆発でした」
「巨大な火柱が海面から上がった」
「敵艦の中央を、何かが一直線に貫いていた」
海軍の男はゆっくりと言う。
「そして――」
「私の目の前を、真っ黒な何かが通り抜けた」
静かな声だった。
だが、その時の衝撃は今も消えていないのだとわかる。
「黒い戦闘機でした」
「海面スレスレを飛び、敵艦隊のど真ん中へ突っ込んでいった」
「普通の飛び方じゃない。まるで海そのものを滑っているみたいだった」
男の指先がわずかに震える。
「敵艦が次々と爆発していく」
「空では敵機が炎を引きながら落ちていく」
「対空砲火など気にも留めていなかった」
「まるで、戦場を支配していた」
部屋の中が静まり返る。
「不思議でしたよ」
男は小さく笑った。
「さっきまで死を覚悟していたはずなのに」
「その黒い翼を見た瞬間、我々の中に高揚感が生まれた」
『行けるぞ!!』
『押し返せ!!』
『黒翼がいる!!』
「我が艦隊は、そのまま敵艦隊へ突撃しました」
「もう誰も怯えていなかった」
「皆、前へ進んでいた」
男は静かに締めくくる。
「結果は圧勝でした」
「敵艦隊は壊滅」
「そして、その戦果のほとんどを――黒翼が沈めていったんです」
「生きて帰れるか定かではないのに――」
海軍の男は静かに言った。
「我々は、そのまま前へ進みました」
その声には、当時の熱がまだ残っていた。
「普通ならあり得ないんです」
「護衛艦隊が、あの状況で敵主力へ突っ込むなど」
「今になって冷静に考えれば無謀でした」
窓の外で、遠く汽笛が鳴る。
「ですが、あの時の我々は違った」
「”彼”が空にいる」
「それだけで、“勝てる”と思ってしまった」
男は苦笑する。
「おかしいでしょう?」
「たった一機の戦闘機ですよ」
「なのに、あの戦場にいた全員が、彼を、黒翼を見た瞬間に恐怖を忘れていた」
アレンは黙ったまま聞いていた。
「皆、口々にこう言っていました」
海軍の男の目が遠くを見つめる。
『黒翼の英雄殿だ』
『黒翼の英傑殿だ』
『卓越した戦闘機パイロット殿だ』
まるで、あの海の声が今も聞こえているようだった。
「誰もが、彼の名を叫んでいた」
「海軍も、陸軍も、空軍もなにも関係なかった」
「最前線にいる兵士たちにとって、黒翼は“生還”そのものだったんです」
男はゆっくりアレンを見る。
「敵を恐れないわけじゃない」
「死が怖くないわけでもない」
「ただ、“あの人がいるなら大丈夫だ”と思えてしまった」
その言葉には、崇拝に近い響きがあった。
「今でも思います」
「彼は、本当に凄まじいパイロットでした」
「空を飛ぶために生まれてきたような男だった」
少しだけ沈黙する。
「もちろん、敵から見れば悪魔だったでしょう」
「実際、連邦軍ではこう呼ばれていました」
『黒翼の悪魔』
会議室が静まり返る。
「彼を追っているなら知っているでしょう」
彼はアレンを見ながら微笑んだ。
「しかし、たとえそう呼べれようとも、少なくとも――」
男の声が穏やかになる。
「今日こうして、あなたたちの前に私がいるのは、彼のおかげなんです」
その言葉は重かった。
単なる憧れではない。
命を救われた人間だけが持つ、確かな実感だった。
「だからこそ、私は彼を悪く言えない」
「どれほど戦争が狂っていたとしても」
「どれほど多くの命が失われたとしても」
「前線で死にかけていた我々にとって、彼は“希望”だったんです」
「それに――あなたにも私は大恩がある、英雄殿」
海軍の男が静かにそう言った瞬間、隣の男が露骨に顔をしかめた。
「やめろ。気持ち悪い」
「はは……相変わらずですね」
海軍の男は苦笑した。
だが、その目は真剣だった。
「あなたたちが彼――黒翼を探すならば、我々海軍は全力をもってお手伝いしましょう」
会議室が静まり返る。
アレンは思わず男を見る。
「……いいのか?」
男の問いに、海軍の男は即座に頷いた。
「陸軍同様、我々海軍にも彼へ大恩がある者が多い」
その声音には迷いがなかった。
「戦場では、何度も彼に命を救われました」
「艦隊が全滅しかけた時も、撤退戦で追い詰められた時も、最後に空から現れるのはいつも黒い翼だった」
彼は少しだけ目を伏せた。
「戦後、私たちも総力を上げて彼を捜索しました」
「ですが、手掛かりすら掴めなかった」
低い声だった。
「まるで煙のように消えていたんです」
アレンは小さく息を呑む。
帝国海軍のような巨大な国家組織ですら見つけられなかった。
黒翼という男は、それほどまでに姿を消していた。
「ですが――」
海軍の男が続ける。
「風の噂ですが、空軍の方で何か手掛かりを掴んだという話を聞きました」
隣の男の眉が動いた。
「……アイツらがか」
苛立ったように煙草を取り出す。
「俺は何も知らないぞ。どういうことだ」
「詳細までは不明です。ただ、最近になって内部で少し動きがあったと」
男は舌打ち混じりに煙を吐いた。
「隠してやがったな、あのクソ野郎ども」
海軍の男は小さく笑う。
「次は、そちらへ向かうことをおすすめします」
短い沈黙。
やがて男は立ち上がった。
「行くぞ、アレン」
「あ……はい」
アレンも慌てて立ち上がる。
「すみません、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
海軍の男は静かに頷いた。
「もし彼を見つけたら――」
その目に、遠い海を見つめるような色が宿る。
「我々にもご連絡ください」
「感謝だけでも、彼に伝えたい」
それは、軍人としての言葉ではなかった。
一人の、生き残った人間としての願いだった。
「あなたたちの旅に幸があることを、願っています」
海風が窓を揺らす。
遠くで艦の汽笛が響いた。
「ありがとうございました」
その声を背に、アレンたちは静かに会議室を後にした。




