現実
ある日の夕刻の帝国東部方面軍軍港。
鉛色の海には無数の輸送船と護衛艦が停泊し、埠頭では積み込み作業が絶え間なく続いていた。
砲弾、燃料、食料、医薬品。
戦争を支えるあらゆる物資が、クレーンによって艦内へ運び込まれていく。
その一角には、士官学校を卒業したばかりの新任小尉たち、そして全国から集まった志願兵たちが整列していた。
誰もが新品の軍服を身にまとっている。
だが、その表情には希望よりも緊張が浮かんでいた。
演壇へ一人の将官が歩み出る。
港を吹き抜ける冷たい風の中、その低く力強い声が響いた。
「諸君らは、これより東部戦線という激戦区へ向かう。」
「すでに知っていると思うが、前線では毎日数万人が敵味方を問わず命を落としている。」
「昨日まで隣にいた戦友が、朝には肉塊と化しているなど普通のことだ。」
誰一人として顔を上げない。
その現実を知らない者はいなかった。
新聞も、戦時放送も、その悲惨さだけは隠し切れていなかった。
「だが、我々は向かわなければならない。」
「すでに多くの同胞が、将兵が、我々を待っている。」
港の向こうでは、軍艦の汽笛が低く鳴り響いた。
「多くの者はこの祖国に、故郷に帰ることができないだろう。」
「だが、無慈悲に奪われた同胞たちの命を、故郷を、家族を、この手で取り戻さなければならない。」
将官は一人ひとりを見渡した。
「戦争とは英雄譚ではない。」
「飢え、寒さ、恐怖、泥、血、そして死が諸君らを待っている。」
「それでも帝国軍人として前へ進め。」
「諸君らの背後には、祖国がある。」
「父母がいる。」
「妻や子がいる。」
「そして、平穏な暮らしを願う十数億の民がいる。」
冷たい海風が国旗を大きくはためかせた。
「生きて帰れる保証はない。」
「それでも、我々には退くことは許されない。」
将官は静かに右手を掲げる。
「総員、乗艦開始。」
号令と同時に兵士たちは一斉に動き始めた。
重い軍靴が埠頭を鳴らし、それぞれ割り当てられた輸送船へ向かって歩き出す。
若い士官は帽子を握り締めながら。
志願兵は小さく家族写真を胸へしまいながら。
誰も振り返らなかった。
港には再び汽笛が鳴り響く。
巨大な輸送船は黒い煙を空へ吐き出し、ゆっくりと出港の準備を始めていた。
彼らを待つのは栄光ではない。
砲声が絶えることのない東部戦線。
生きる者と死ぬ者を、何の躊躇もなく選り分ける戦場だった。
数百隻もの輸送船からなる大船団は、ゆっくりと軍港を離れていった。
艦隊の煙突から立ち昇る黒煙が、冬空へ長くたなびく。
上空では数十機にも及ぶ大型輸送機編隊が規則正しい隊形を保ちながら東へ向かっていた。
護衛戦闘機が、その周囲を静かに旋回する。
岸壁には、数え切れないほどの人々が集まっていた。
それは家族、恋人、友人、老いた父母、幼い子ども。
誰もが帝国旗を高く掲げ、沖へ向かう船団へ力いっぱい振り続けている。
叫び声は汽笛と風にかき消されながらも、確かに兵士たちへ届いていた。
輸送船の甲板に立つ兵士たちは、その光景を黙って見つめる。
帽子を脱ぎ、深く敬礼する者、帝国旗を振り返す者、何も言わず、家族の姿を目に焼き付けようとする者。
それぞれの想いを胸に、故郷は少しずつ遠ざかっていく。
兵たちは自覚していた。
この国の命運が、自分たちの双肩にかかっていることを。
故郷で待つ人々の平穏も、家族の未来も。
すべては、自分たちが戦場で戦い抜けるかどうかに懸かっている。
ドクン――。
胸の奥で心臓が脈打つ。
ドクン――。
その鼓動は、静かな船内でもはっきりと聞こえるようだった。
それは恐怖だったのか、それとも緊張だったのか、あるいは、これから戦場へ向かう者だけが知る武者震いだったのか。
それは誰にも分からない。
ただ一つ確かなことは、彼らはもう引き返せないということだった。
船団は一路、東部戦線へ向けて進み続ける。
水平線の彼方では、絶え間なく響く砲声が、彼らを待っていた。
輸送船の船内では、慌ただしく行き交う兵士たちの間を縫うように、従軍記者たちが取材を続けていた。
彼らは戦場へ向かう兵士たちの姿を記録し、その声を祖国へ届けることを任務としている。
一人の若い記者が、整った制服を着た新任小尉へ歩み寄った。
「少しお話を伺ってもよろしいでしょうか。」
まだ少年らしさを残す若い将校は、小さく頷く。
「構いません。」
「ありがとうございます。失礼ですが、おいくつですか。」
「二十歳です。」
「新任小尉とお見受けしますが、ご出身は。」
「帝国陸軍士官学校第四百七十五連隊第三〇九期生です。」
記者は手帳へ素早く書き留める。
「今回が初の実戦になりますが、怖くはありませんか。」
小尉は少しだけ海へ視線を向けた。
故郷は、もう水平線の彼方に消えていた。
「怖くないと言えば嘘になります。」
「ですが、私は共に学び、競い合った同期たちと戦場へ向かえることを光栄にも思っています。」
「士官学校では、いつか祖国のために戦う日が来ると教えられてきました。」
「その日が来ただけです。」
記者は黙って耳を傾ける。
「それに、前線では多くの諸先輩方が祖国の命運を賭けて戦っています。」
「毎日、多くの将兵が命を落としている。」
「私には、それを後方から傍観することはできません。」
「それに私はここにいる戦友たちと共にあの戦列に並ぶのだと誓ったんです。」
拳が静かに握られる。
「無惨に同胞を殺した連邦軍を、一人でも多く殺したい。」
「それが戦場へ向かう軍人としての私の務めだと思っています。」
記者はゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。」
「どうか、ご武運を。」
小尉は敬礼で応えた。
その表情には若さが残っていた。
だが、その瞳だけは、これから向かう戦場をまっすぐ見据えていた。
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上陸し、それぞれの部隊へ配置されてからの数週間は、あまりにも早く過ぎ去った。
時間の感覚など、とっくに失われていた。
夜が明ければ砲撃が始まり、塹壕を修復し、敵陣へ前進し、日が沈めば警戒任務に就く。
眠れるのは僅かな時間だけ。
気が付けば、また朝が来る。
そんな毎日だった。
ある日、泥だらけの塹壕で装備を点検していた若い小尉へ、一人の先輩軍曹が声を掛けた。
「少尉殿、まずは自分が生き残ることだけを考えろ。」
歴戦の軍曹の顔には幾筋もの傷跡が刻まれていた。
「部下を守るのも任務だ。」
「だが、指揮官が死ねば部隊はもっと多く死ぬ。」
「だから、まずは生き残れ。」
「……はい。」
その時は、その言葉の重さをまだ理解していなかった。
だが、それから数日もしないうちに思い知ることになる。
輸送船へ乗る前、軍港で将官が口にした言葉。
『前線では毎日数万人が敵味方問わず死んでいる。』
『昨日まで隣にいた戦友が、朝には肉塊と化しているなど普通のことだ。』
あれは決して兵士を脅かすための演説ではなかった。
現実だった。
朝まで笑っていた兵が、昼には砲撃で吹き飛ぶ、名前を覚えたばかりの部下が、狙撃弾一発で息絶える、塹壕を一歩出た兵士が、地雷で跡形もなく消える。
運良く生き延びても、夜には別の誰かが帰ってこない。
死はあまりにも近く、あまりにも当たり前だった。
戦場では誰も特別ではない。
英雄も、新兵も、歴戦の古参兵も。
誰もが等しく死と隣り合わせだった。
若い小尉は、泥と血で汚れた手を静かに見つめる。
士官学校で思い描いていた戦争など、ここにはなかった。
ここにあるのは、命を削り合う終わりの見えない現実だけだった。




