アレン:一つの転換点
朝の冷気が、町を締めつけるように澄んでいた。
雪がうっすらと積もり、石畳も屋根も白く覆われている。まだ夜明けの色を残した空は青灰色に沈み、海から吹く風だけが町を横切っていた。
その寒さの中で、アレンは一人、窓辺に座っていた。
叔父は帰ってこなかった。
一日や二日ではない。もう一週間になる。
最初のうちは「またどこかで酔い潰れてるんだろ」と自分に言い聞かせていた。酒場の裏路地で寝ていることなど珍しくなかったからだ。ガソリンの無くなったこの町で、元タクシー運転手だった叔父に残ったものは酒だけだった。
けれど、四日を過ぎた頃から胸の奥に黒い不安が沈み始めた。
七日目には、それがもう“予感”に変わっていた。
窓の外では、占領軍のトラックがゆっくり通り過ぎていく。タイヤが雪を踏み潰す音が、静かな朝に鈍く響いた。
アレンは目を閉じる。
嫌な夢ばかり見ていた。
燃える街、雨のように降る灰、妹の手。
そして、尾翼の八芒星。
眠るたび、あの日に引き戻される。
その時だった。
「アレン」
ローザが、裏口から顔を覗かせた。
白い息を吐きながら、心配そうにこちらを見る。
「今日も寝てないの?」
「……少しだけ」
「嘘」
彼女は呆れたように笑った。
だが、その笑顔もどこか弱かった。
この町に来てから、人は皆こういう顔をするようになった。笑っていても、目の奥だけが疲れている。
ローザは少し躊躇うようにしてから聞いた。
「アレン、おじさん帰ってきた?」
アレンは首を横に振った。
「まだ。もう一週間帰ってきてないよ」
その瞬間、ローザの表情が固まる。
彼女は何か言いかけたが、結局口を閉じた。
占領下では、“消える”ことは珍しくなかった。
夜のうちに連れていかれる者、朝には店が空になっている者。
昨日まで隣にいた人間が、翌日には痕跡ごと消えている。
人々はそれを口にしない。
口にした瞬間、自分まで消える気がするからだ。
「……明日、少し探してみる」
アレンがそう言うと、ローザは小さく頷いた。
「気をつけて」
その声だけが、やけに弱々しく耳に残った。
翌朝。
雪はさらに積もっていた。
町は白かった。
まるで血も炎も存在しない平和な世界みたいに。
アレンは路地を歩いていた。
寒さで指先の感覚が薄い、吐く息が白い。
朝の町は静かだった。
パン屋も市場も、まだ開いていない。
遠くで軍用車両のエンジン音だけが響いている。
そして、路地の角を曲がった瞬間。
アレンはそれを見つけた。
雪の中に、人が倒れていた。
一瞬、誰かわからなかった。
だが次の瞬間、胸が凍りつく。
「……おじさん?」
すぐに駆け寄り雪に膝をついた。
おじさんの服は乱れ、顔色は青白く、身体はほとんど動いていなかった。
そして、血。
服の端、袖、頬、雪に至るまで全部が赤かった。
「おじさん、ねぇおじさん……!」
肩を揺さぶるが反応はない。
指先が震える。
「ねぇ、目を開けてよ、ねぇってば……!」
ようやく、叔父の瞼がかすかに動いた。
薄く開いた目が、私を見る。
だが、その目にはもう焦点が合っていなかった。
「ア……レン……」
掠れた声。
喉の奥で血が鳴っているような音だった。
「ごめんな……」
「喋らないで、今誰か――」
「逃げ……ろ……」
私は凍りついた。
「アイツ……らが……」
叔父の唇から、血が零れる。
「秘密……警察……」
その言葉を最後に、叔父の身体から力が抜けた。
「……おじさん?」
返事はない。
アレンは何度も何度も肩を揺する。
「ねぇ、おじさん」
「……おじさん」
雪だけが静かに降っていた。
アレンはその場から動けなかった。
膝が雪に沈んでいる。
冷たい。
だが、それ以上に。
叔父の身体が冷たかった。
触れた手から、温度が消えている。
生きている人間の熱が、もうどこにも残っていない。
私はゆっくり周囲を見回した。
雪の上に跡がある。
複数の軍靴の跡、争った形跡、引きずられた跡。
そして血の跡。
赤い線が雪を裂くように伸びている。
胸の奥が軋んだ。
頭の中で、何度も同じ言葉が回る。
秘密警察。
どうして。
なぜおじさんが。
ただの元タクシー運転手だ。
酒を飲んで、愚痴をこぼして、時々怒鳴って、でも最後には私のために金を残してくれる、そんな普通の男だった。
なのに、どうしてこんな殺され方をしなければならない。
アレンは叔父の服を握り締めた。
血が手につく、温かくない、もう冷えている。
その冷たさが現実だった。
胸の奥で、何かが静かに崩れていく。
家族を失った時とは違う。
あの時は世界そのものが壊れた。
だが今は違う。
今度は、“誰か”がやった。
人が殺した。
意志を持って、目的を持って。
叔父を。
怒りが込み上げる。
喉の奥が焼ける。
叫びたかった。
けれど声は出なかった。
代わりに、静かな熱だけが胸に残った。
近所の窓が、わずかに開いていた
誰かがこちらを見ている。
だが、誰も出てこない。
皆知っているのだ。
秘密警察に関わった人間の末路を。
だから目を逸らし見なかったことにする。
それが今この島で生き残る方法だった。
やがて、老いた女が恐る恐る近づいてきた。
震える声で、小さく言う。
「昨日の夜……黒い車が来てたよ……」
「黒い車?」
「制服の連中が……」
女は周囲を気にするように視線を泳がせる。
「何か揉めてたみたいで……」
「何を?」
「聞こえなかったよ……でも」
女の顔が青ざめる。
「秘密警察が……って……」
その瞬間。
胸の奥で何かが弾けた。
秘密警察。
またその名前だ。
占領軍の憲兵とは違う。
もっと深い闇、誰も逆らわない存在。
噂だけで人が黙る。
夜に来て、人を消す。
その存在が、叔父を殺した。
アレンは叔父の身体を抱え上げた。
重かった。
生きていた時より、ずっと。
人は死ぬとこんなにも重くなるのかと、その時初めて知った。
雪が靴の下で軋む。
血が白を赤く染めていく。
アレンは歯を食いしばった。
涙は出なかった。
いや、出る場所を、怒りが塞いでいた。
その夜。
アレンは叔父の家で一人だった。
暖炉の火は小さい。
部屋は静かだった。
机の上に、拳銃がある。
敵兵から盗んだものだ。
そしてナイフ。
八芒星を殺すために磨き続けた刃。
アレンはそれを見つめていた。
手を伸ばし触れた。
冷たい鉄の感触。
その瞬間。
頭の中で声がする。
殺せ、復讐しろ、全部奪われたじゃないか。
家族も、叔父も、何もかも。
だが同時に、別の声もあった。
一人で何ができる、相手は秘密警察だ、軍だ。
子供一人で敵う相手じゃない。
わかっている、そんなこと、いやというほどわかっているのに。
それでも、胸の奥で燃える火だけが消えなかった。
窓の外では雪が降っていた。
静かな雪だ。
まるで世界を白く塗り潰すように。
は拳銃を握る。
その重みが、逆に現実を突きつけてくる。
本当に撃てるのか、本当に人を殺せるのか。
わからない。
けれど、叔父の血を見た瞬間から、もう後戻りはできない気がしていた。
家族を失ったあの日。
アレンは世界を憎んだ。
だが今、私は初めて、“敵”を憎んでいた。
名前を持つ誰かを、意思を持つ誰かを。
秘密警察、八芒星、占領軍、全部。
雪の向こうで、どこか遠くサイレンが鳴った。
私は静かに立ち上がる。
窓に映った自分の顔は、もう昔の少年のものではなかった。
そしてその時。
私はようやく理解した。
復讐とは、激情ではない。
静かに心を焼き続ける、終わりのない炎なのだと。
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それから私は、叔父の遺体を担いで酒場へ向かった。
町は異様なほど静かだった。
雪を踏む音だけが耳に残る。
早朝の薄い光が石畳を白く照らし、路地の奥にはまだ夜の影が沈んでいる。占領軍の巡回車両も、この時間だけは姿を見せなかった。
叔父の腕が、私の背中でだらりと垂れていた。
指先から、血がぽたり、ぽたりと落ちる。
雪の上に赤い点が続いていく。
その跡がまるで、もう戻れない道しるべみたいだった。
重かった。
身体の重さだけじゃない。
叔父が抱えていたもの全部を、自分まで背負っているような重さだった。
酒場へ続く裏路地に入った時、扉が勢いよく開いた。
「アレン君、どうしたんだ」
ローザの父親だった。
彼は私の背中を見た瞬間、顔色を変えた。
視線が叔父の身体へ落ちる。
赤黒く染まった服、垂れ下がった腕、閉じた瞼。
彼は一瞬だけ言葉を失っていた。
それでもすぐに周囲を確認し、低い声で言った。
「地下へ。さぁ、早く来なさい」
私は黙ったまま頷いた。
酒場の中はまだ営業前で、人の気配が薄い。
椅子は机の上に伏せられ、昨夜の酒の匂いがまだ残っていた。
ローザの父親は店の奥へ進んでいく。
樽や食料庫の並ぶ狭い通路。
さらにその先、壁際に積まれた棚を押し退けると、隠し扉のように暗い空間が現れた。
地下へ続く階段だった。
薄暗い、湿った木の匂いがする。
私は叔父を背負ったまま、一段ずつ降りていった。
階段が軋む、肩に食い込む重み。
呼吸が苦しい、血の匂いが鼻から離れない。
その途中で、ローザの父親が前を向いたまま聞いてきた。
「何があったんだい」
私は少しだけ沈黙した。
けれど、隠す意味はないと思った。
「……秘密警察の連中に、叔父さんが殺された」
階段を下りる音だけが続く。
ローザの父親は、すぐには何も言わなかった。
やがて低い声が返ってくる。
「途中、誰かにつけられたかい?」
「わかりません。でも、誰もいなかったと思います」
「……そうか」
地下室へ辿り着く。
そこは古い倉庫のような場所だった。
保存食の箱、酒樽、簡易ベッド。
薄暗いランプの光だけが揺れている。
「そこのベッドに寝かせなさい」
私は静かに叔父を横たえた。
毛布の白さが、血で汚れていく。
ローザの父親は叔父の顔を見つめ、小さく目を閉じた。
長い付き合いだったのだろう。
その沈黙だけでわかった。
だが彼は感情を押し殺し、私へ向き直る。
「私は上へ行ってくる」
「……」
「しばらく君はここにいた方がいい。わかったかい?」
私は返事をしなかった。
返事をした瞬間、自分が止められてしまう気がした。
ローザの父親はそれ以上何も言わず、静かに階段を上がっていった。
地下室に残されたのは、私と叔父だけだった。
ランプの火が揺れる、壁に映る影も揺れる。
私はベッドの脇に立ち尽くした。
叔父の顔を見る。
もう、何も言わない。
怒鳴ることも、酒臭い息で愚痴を吐くことも。
「アレン、働け」と文句を言うことも。
全部、終わった。
その時、階段を駆け下りる音がした。
「……ウソ……でしょ」
ローザだった。
地下へ降りてきた彼女は、叔父の姿を見た瞬間、その場で立ち止まった。
顔が青ざめていく。
「どうして……」
私は答えられなかった。
ローザはゆっくり叔父へ近づき、その血まみれの姿を見下ろす。
唇が震えていた。
私は拳を握った。
この町では、“普通”なんてものは簡単に壊される。
昨日まで笑っていた人間が、翌朝には雪の中で死んでいる。
それが占領下の日常だった。
「ねぇ、アレン」
ローザが振り返る。
「どこに行こうとしてるの」
私は視線を逸らした。
「……行かなきゃいけないところがあるんだ」
「それはどこなの」
少しの沈黙。
ランプの火が小さく揺れる。
「……叔父さんの死を無駄にはしたくないんだ」
声が低くなる。
「八芒星のところに、僕は行く」
ジャケットの裏ポケットに手を入れる。
拳銃の冷たい感触が指に触れた。
その瞬間、自分の中で何かが静かに決まる。
もう後戻りはできない。
叔父の死を無駄にしないために、叔父を殺した者たちへ裁きを下すために行かなければならない。
ローザはそんな私を見つめていた。
悲しみと恐怖と、何か別の感情を混ぜたような目だった。
そして。
「アレン、私も連れていって」
その言葉に、アレンは息を止めた。
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アレンたちは、麦畑の旧道を急いでいた。
冬の風が、枯れた麦をざわざわと揺らしている。
かつて町長が誇らしげに語っていた道路計画。その途中だったはずの場所は、今や完全に別の姿へ変わっていた。
占領軍の軍用車両に踏み固められた土に砕かれた雪、並ぶ有刺鉄線。
そして、山肌を穿つ巨大なトンネル。
工事用だったはずのその空間は、今では掩体壕として使われていた。
トンネルの内部には戦闘機が並んでいる。
そこはもう工事現場ではなく、完全な軍事基地だった。
アレンは無意識に拳を握る。
胸の奥が締め付けられる。
あの尾翼。
あの日、家族を奪った八芒星。
ずっと追い続けてきた場所が、今、目の前にある。
「……アレン」
隣を歩くローザが小さく声を漏らした。
その声には不安が滲んでいた。
当然だった。
見つかれば終わりだ。
ここは敵のど真ん中なのだから。
「大丈夫だよ」
アレンはそう答えた。
だが、自分でもその声が震えているのがわかった。
入口近くには守衛が立っていた。
煙草を咥え、気だるそうに辺りを見回している。
アレンたちは積まれた資材の陰を使いながら進んだ。
呼吸を殺す。
雪を踏む音すら大きく感じる。
守衛の視線が一度こちらを掠めた気がして、ローザの肩がびくりと震えた。
だが男は気づかなかった。
再び煙草へ視線を落とす。
アレンは静かに息を吐いた。
そして、そのまま基地内部へ侵入する。
トンネルの中は薄暗かった。
裸電球が並び、湿った岩肌を照らしている。
エンジン整備の音、遠くから響く怒鳴り声。
金属を叩く音。
空気には油と火薬の匂いが染み付いていた。
アレンは懐へ手を入れる。
冷たい鉄の感触が掌に伝わる。
それだけで心臓が大きく脈打った。
汗が滲み、喉が渇く。
怖かった。
今さらになって、自分がとんでもない場所に来てしまったことを理解する。
だが、もう戻れない。
叔父の死。
今までのこと全部が背中を押していた。
やがて二人は、基地の奥へ辿り着く。
他より警備が厳しい一角。
地図に通信機そして、忙しなく動く兵士たち。
指揮所だった。
アレンは壁際から中を覗く。
その瞬間、呼吸が止まった。
一人は、大柄な男、鋭い横顔、灰色がかった軍服、静かな威圧感。
部屋の中心に立ち、周囲へ指示を飛ばしている。
アレクセイ・イグナトフ。
そして、その隣、穏やかな表情の男。
だが、その目だけは異様に冷静だった。
常に周囲へ意識を巡らせている。
隊長へ危険を近づけないために存在しているような空気。
ヴェータ・リンクス。
アレンは懐から拳銃を抜いた。
金属音が小さく鳴る。
ローザが息を呑んだ。
今なら撃てる、引き金を引けば終わる、妹の仇が目の前にいる、家族を奪った男たちが、数十歩先にいる。
心臓が暴れ視界が狭くなる、指に力が入る。
だが同時に、別の声が頭の中で響いた。
叔父の仇の秘密警察。
それを知っているのは、おそらくこの二人だけだ。
もしここで撃てば、全部終わる。
真実も、叔父が命を賭けて残そうとしたものも。
何もわからなくなる。
拳銃が重かった。
まるで、自分の憎しみそのものを握っているみたいだった。
アレンは歯を食いしばる。
震える手、荒い呼吸。
撃て。
いや、まだだ。
二つの感情が胸の中でぶつかり合う。
長い数秒だった。
やがて、アレンはゆっくり拳銃を下ろした。
そして懐へ戻す。
ローザが驚いたようにアレンを見る。
だがアレンは何も言わなかった。
ただ静かに、決意した目で前を見据える。
復讐だけでは終われない。
叔父は最後に、“逃げろ”と言った。
それはきっと、生き残れという意味だった。
けれど、アレンは一歩前へ出た。
そして、そのまま指揮所の中へ足を踏み入れた。




