開戦前夜②
重厚な扉が、音を吸い込むように閉じられた。
皇宮中枢――玉座の間ではない。
それよりも奥、より機能的で、より静かな部屋、戦時にのみ使われる、報告の間。
空気は冷たい、だが、それは温度の問題ではなかった。
そこに立つ者すべてが、同じ違和を共有している。
息を吸うたびに、何かを侵しているような感覚。
声を出せば、それが許されない行為になるような圧迫。
原因は明白だった。
中央の高座に座る一人の男。
第1927代ノルヴァイン帝国皇帝、ヴィヘルム・フォン・ノルヴァイン。
彼は動かない。
だが、その“動かなさ”が、場を支配していた。
報告が始まる。
一人目の側近が前に出る。
声は整えられている。だが、わずかに硬い。
「第一報。東方海域に位置する帝国管轄島嶼において――」
侵入。
爆撃。
通信遮断。
上陸後の状況。
語られる内容は、すでに参謀本部で共有されたものと同じ。
だが、ここでは意味が違う。
一つ一つが、裁定の材料となる。
皇帝は聞いている。
表情は変わらない。
目も閉じていない。
ただ、すべてを受け取っている。
二人目、三人目と報告は続く。
「北方列島群においても同様の事案を確認――」
「西方群島でも被害が拡大――」
「現時点で確認されている範囲では――」
範囲。
その言葉が出るたびに、空気が重くなる。
範囲は、まだ広がる。
誰もが理解している。
やがて、ある報告が読み上げられる。
「……生存者、確認できず」
その一文だけが、異様に明確に響いたその瞬間に変化が起きた。
それは音ではない、動きでもない。
だが、部屋にいる全員が“それ”を感じ取る。
圧が変わる。
見えない何かが、形を持ったかのように、空間の密度が増す。
報告官の喉が、一瞬詰まる。
だが止まらない。止まれない。
数字、推定被害、通信ログ。
すべてが読み上げられる。
報告は終わっても誰も口を開かない。
その沈黙の中心にいるのは、皇帝だった。
ゆっくりと、彼の顔が持ち上がる。
その動きは、極めて小さい。
だが、それだけで十分だった。
側近たちは、初めて見るものを見ていた。
怒り。
それも、衝動ではない、爆発でもない。
凝縮された、極めて純度の高い怒り。
それは表情に現れている。だが同時に、表情を超えている。
皮膚の下で何かが燃えているような、視線そのものが刃のように研ぎ澄まされている。
誰も、その目を直視できない。
「これを行った者たちは」
「自らが何をしたのか、理解しているのか」
その問いは、ここにいる者へ向けられていない。
だが、誰もが答えを求められているように感じる。
皇帝の指が、肘掛けを軽く叩く。
一度、二度、それだけで、時間の流れが歪む。
「これらの島嶼は、軍事拠点ではないな」
側近の一人が前に出た。
「はい。民間居住区域が主体です。防衛施設は最小限――」
「十分だ」
言葉は最後まで届かない。
その一言で、すべてが切り捨てられる。
余計な説明は不要、事実だけで足りる。
皇帝の視線が、わずかに動く。
「連邦か」
側近が応じる。
「現時点の分析では、最も可能性が高いと――」
「わかった」
それ以上の言葉は、必要ない、必要なのは、決定だけだ。
皇帝が立ち上がる。
だが、その瞬間、部屋の全員が無意識に姿勢を正す。
空気が、さらに引き締まり圧力が、形を持つ。
「各行政省に伝えよ」
一語一語には迷いも、揺らぎもない。
「我が国はこれより戦争状態へ移行する」
「宣戦布告、及び開戦命令は早朝06:00に発令せよ」
「同胞たちの犠牲を無駄にするな」
その言葉に、温度はない。
だが、重さがある。
圧倒的な重さ。
そして、ほんの一瞬だけ、間が生まれる。
誰も呼吸をしない。
「連邦を――」
その一語が、空気を切り裂く。
「徹底的に踏み潰せ」
そこに含まれているものは、報復ではない。
命令は終わったが誰もすぐには動けない。
「……了解いたしました」
最初に声を出した側近の声は、わずかに震えていた。
他の者たちも続く。
「各省へ通達を開始します」
「参謀本部と連動、作戦準備へ移行」
「広報局、対外声明の草案を――」
命令が、流れ始める。
歯車が噛み合う音が、聞こえないはずなのに聞こえる。
皇帝は再び座る。
だが、その存在感は変わらない。
むしろ、先ほどよりも明確になっている。
怒りは消えていない。
消えることはない。
それは、形を変えただけだ。
統制された怒り。
国家そのものを動かす力へと変換された、純粋な意思。
部屋を出る者たちの足取りは速い。
誰も振り返らない、いや振り返る必要がない。
すでにすべては決まっている。
扉が開き、閉じる。
外の廊下に、光と音が流れ出る。
命令は、帝国全土へと拡散していく。
軍へ、行政へ、産業へ静かに、だが確実に。
この瞬間、ノルヴァイン帝国は、戦争へと踏み込んだ。
そしてその戦争は、もはや引き返すための道を、どこにも残していない。




